第7話
  狂喜乱舞の初仕事



いよいよ開業



 予定通り、九月上旬に事務所の名前の入った看板をアパートのドアに貼った。前の会社で使っていた工事用の白いプラスチック看板の裏を再利用した手作りである。文字書きに自信がないので、こすればいいだけの市販のデザイン文字を使った。「アート」の「A」の文字をデザイン化した事務所ロゴだけは自分でていねいに描いた。なかなかの出来映えに、一人で悦に入る。
 すっかり仲良しになっていた階上に住む奥さんから、「ついに看板を出したのね」と声をかけられ、思わず頬がゆるむ。いよいよ開業だ。これから本当の正念場がやってくる。

 組織は当面法人化せず、個人経営でやることにこれも早くから決めていた。いまは有限会社を作るにも300万の資本金が必要だが、当時は確か50万あればよかったはずである。
(2003年二月から2008年三月まで、条件つきで株式会社と有限会社の最低資本金を一円に緩和する時限措置が発効中)
 多少の金がかかっても法人化すれば社会的信用が増すことは分かっていたが、なんとなく自由な活動が疎外されそうな予感がして、どうしても踏み切れなかった。仕事の内容が限りなく職人の域に近いのだから、会社も社長もなく、ただの一匹狼でいいじゃないか、という開き直りもあった。

 八月の末からダイレクトメール書きにとりかかった。職業別電話帳を広げ、まず近場の建築設計事務所、工務店、そして都心部の広告代理店と広告プロダクションをリストアップする。これだけで二百社近くもあった。この職業別電話帳を使った顧客のリストアップ方法は、癌で急逝した義兄から生前に教わっていた方法である。私と同様に何のコネもなしに建築施行会社を始めた義兄は、そうやって一から仕事を得たらしい。私もそれにあやかりたかった。
 子供を寝かしつけたあと、妻と二人でせっせと宛名書きをする。開業の文章と見本パースはすでに一枚のパンフレットに印刷済みだったから、これを三つ折にして宛名を書いた封筒に入れ、糊づけする。単純な作業だが、二百通もあれば一仕事である。こんな内職のような仕事を三、四日かけてやり終えた。
 こうして出来上がったダイレクトメールの山を勇んで郵便局に持ち込んだ。切手代は当時封書は50円で、これだけで一万円である。同じ区内で五十通以上あると「市内特別郵便」として一通あたり五円安くなると聞き、広告関係のほとんどをこちらで出すことにする。残った百通近くには、一枚ずつ気持ちをこめて切手を貼った。
 郵便局を出て初めて、(サイは投げられたんだな)という気持ちがどっと押し寄せた。ここまできたらもう後には引けない。突っ走るしかないのだ。

 私の開業した1982年には、時を同じくして三つのものが始まっている。ひとつは札幌地下鉄東西線の開通 、ひとつはFM北海道の開局、あとひとつはフジテレビの「笑っていいとも」の開始である。地下鉄開通は四月だったが、あとのふたつは八、九月で、まさに私の開業時期とぴたり同じだった。「笑っていいとも」 のほうはいまだに続いている長寿番組で、見るといまでも開業のころを懐かしく思い出させてくれる。



開業までの収支決算



 退職からここまで八ヶ月間のおおよその収支決算を書いてみる。収入は失業保険だけだが、これは生活費で消えているので除外する。生活費の支出も相殺されているので考えない。したがって、あとは事業準備のためにいくら持ち出したか?ということになる。
(金額は1982年当時)

●引越し経費:運送費用、旅費、アパート敷金、ストーブなどの備品 /約30万
●事務所備品:机、椅子、デザイン用具、文房具、事務用品等/約15万
●開業経費:DM、名刺、封筒、郵送費等/約5万

 ここまで、合計支出約50万で乗り切っている。いまの相場に換算すれば、80〜100万といったところか?開業前に立てた計画では、開業用の事業資金は100万だったから、約半分で済んだことになる。
 机や本棚は手作りですませたから、これらを全部買っていればもっとかかっただろう。もし引越しがなければ、その分は割安だった。十二月には一級建築士事務所登録をしたので、最終的にはこの登録費用も開業経費として加えなくてはいけない。

 妻子を抱えた上でいざ事業となれば、どんなに切り詰めてもこれくらいはかかるものなのだが、店鋪を外に構えず、自宅アパートの一室でSOHO形式で事業を始めれば、これくらいの元手でも何とか格好がつく、という見方も出来る。もしも事業が首尾よく軌道に乗れば、大変安上がりな事業展開だったと言えるだろうし、万が一失敗しても経済的なリスクは大変少なく、ダメージは少ない。



悩みに悩んだパースの価格



 さて、商売を始めると公に宣言するからには、当然売る品物、すなわち私の場合は建築パースの値段を決めておかなくてはいけない。仕事が舞い込んでからあわてても遅いのだ。実はこの価格ぎめが大問題だったのである。
 たとえばラーメンとか自転車のパンク修理のように、世間のおおよその相場が決まっている物ならば事は簡単である。ところが建築パースのように形がはっきりせず、相場もあってないような曖昧な品物の価格を決めるのは至難の技だった。
 通信教育で技術を習得中からこの価格ぎめに対する危機感はすでに抱いており、卒業時に先生への質問事項として、住宅のカラーとモノクロのおおよその価格は教えてもらっていた。だが、その先生の解答でさえ、「経験やグレード、地域によって価格は大きく変わります」と注釈があり、開業地が北海道という特殊事情もあって、価格は一から検討し直さなくてはいけない状況にあった。

 実は開業半年くらい前に、わらにもすがる思いで建築パースの本を出版していた方に、「近々建築パースの仕事をやるので、世間一般の相場を教えて欲しい」と、不躾な手紙を送りつけてみたことがある。返信用封筒と切手を同封し、礼をつくしたつもりだったが、待てど暮らせど返事はこない。私の甘い期待は見事に裏切られたわけだ。
 無理もない。どこの誰とも分からない輩に、大事な価格情報など誰が教えるだろう。いまの私が仮に同じ主旨の手紙を受け取ったとしても、おそらく無視するに違いない。いや、私ならば案外あけっぴろげに教えてしまうだろうか…?
 ともかく、何も情報は入ってこない。仕方なく、当時父が勤めていた工務店が一度だけ外注したことがあるというデザイン事務所に、父を通して価格を聞いてもらうことにした。住宅だけだったが、ここで「鉛筆15,000円、モノクロ20,000円、カラー30,000円」という貴重なデータを入手する。

 結果的に、このデータは通信教育の先生から入手したものと大きな違いはなかった。だがそれでもまだ私は納得出来なかった。建築パースは住宅ばかりではない。マンションもあれば、室内もある。公園や機械のたぐいだってあるかもしれない。こうした住宅以外の依頼が舞い込んだら、いったいどうしたらいいんだ?
 悩みは増すばかりである。そのとき、開業前に相談に行ったトレース業の先輩の言葉がふと頭によみがえった。

「こういう手仕事には、『時間単価』っていうものがあるんですよね…」

 そうだ、時間単価だ。時間単価なら要した時間さえ記録しておけば、どんな依頼がきても対応できる。さっそく私は入手した札幌のパース単価から逆算し、おおよその自分の時間単価を出してみた。
 当時、見本レベルでモノクロの住宅はおおよそ12時間前後で描けた。すると時間単価は、20,000円÷12時間=1,700円となる。トレース業の先輩が言っていた「パースなら時間3,000円くらいかな…」の数値よりもかなり低い。カラーはおおよそ18時間で描けたので、同様に計算すると、30,000円÷18時間=1,700円となって数字だけは一致する。



最低限食べて行ける価格



 さらに私は別の観点で計算を試みた。自分の最低限必要な金額から、最低時間単価を逆算しようとしたのだ。具体的に書くと以下のようになる。

●必要最低収入:300万円(当時の北海道世帯の標準収入)
●一日平均作業時間:3時間(仕事の危険率50%とし、営業回り時間などを除いたもの)
●年間労働日数:290日(週休二日の定着したいまなら、250日くらいだろうか?)

 ここから時間単価を割り出すと、300万÷290日÷3時間/日=3,500円、となった。このやり方のいいところは、世間の相場ではなく、あくまで自分の都合だけで価格を決められることで、いかにもストイックな自分むきのやり方である。
 こうして出してみた単価は、一般相場から逆算した単価よりもはるかに高く、約二倍である。この差をどうすべきかと悩んだが、いくらタッチが斬新だからといって、何の実績もない駆け出しのパース屋が倍の相場をふっかけられるはずがない。要するに私は、1,700円÷3500円=0.5の半人前なのだ…。
 私は自分の力のなさを思い知り、しばらくはこの「0.5」を自分の経験指数として計算値に掛けて処理することに決め、年期を重ねるごとに指数を徐々にあげていく方式をとることにした。 (この手法が正しいかったことをのちに知る)

 手探りで始めた方式だったが、独立して二十数年を経たいまもこの計算方式は基本的に変えていない。純粋な作業時間を記録しておかないと意味のないやり方だから、仕事中の私の机の脇には、いつも大形のストップウォッチがくるくると時を刻んでいる。
 ただ、この計算方法には材料費や営業経費などの直接経費がどこにも加味されていない。このままでは食べるだけで経費分が赤字になりかねない。そこで仕事のグレードに応じ、おおよそ2,000円〜10,000円の範囲で物件ごとに直接経費を計算値に別途加算することにした。
 年を重ねるたびに物価は上昇し、必要最低収入は徐々に増えていったが、それに比例するように経験指数も上がって行った。パースの単価はたいして変わってないが、一枚のパースを仕上げる時間は大幅に減ったので、結果的に時間単価は開業当初よりも遥かに上がったことになる。

 こうやって割り切ったつもりでも、いまだに価格は悩みの種だ。業者によっては、やれおたくは高いとか、逆にずいぶん安いですね、とか言われたりする。同業者から、「あまり相場を崩さないで」とやんわりと釘をさされたこともある。でも、価格なんてのは結局、その人が決めて納得出来ればそれでいいんじゃないか、といまは思う。
 街のラーメン屋だって値段の割にえらくまずかったり、逆に店の構えのぱっとしない安い店に、とんでもなく旨いラーメンが置いてあったりある。パースだって人によって高かったり安かったり、値段の割に下手だったり上手かったりでいいのだ。



案内状の文面



 脱線ついでに、いきなり二百枚もばらまいたダイレクトメールの文面も紹介しておこう。いまならおそらくパソコンを使って自由にレイアウトし、カラーで印刷することも出来ただろうが、当時はすべて外注に頼るしかない。押しつけがましくなく、大げさすぎず、それでいて貰い手の興味をそそりそうな文面に知恵を絞った。以下、その全文である。



ごあいさつ

 拝啓、時下ますますご清栄のこととお喜び申しあげます。
 さて、私ことこのたび白石区……に「建築パース」専門の事務所として「アート建築工房」を開業いたしました。
 ペン・エアブラシ描法をはじめ、透明水彩描法、不透明水彩描法など、多彩なテクニックと豊富な資料をそろえ、お客様のご用命に的確に、かつ迅速にお答えできるよう諸般の準備を整えました。
 特に主力としております「ペン・エアブラシ描法」では、表現のち密さ、正確さにおいてきっとご満足いただけると思います。お電話いただければ各種の見本をもって参上いたしますので、どうぞお気軽にお電話ください。
 イメージ伝達の強力な手段として、また沈黙のセールスマンとして、当事務所の建築パースをご利用いただければ幸いでございます。
 略儀ながら書面にてごあいさつかたがたお願い申しあげます 。

敬 具

昭和57年○月

事務所名/住所/電話番号



 さすがに力を入れただけあって、いまこうして読み返してみてもなかなかの名文じゃないか、と我ながら感心してしまう。参考にしたのは通信教育のときに使った教材のパンフレットくらいのものだったから、おそらく暇にまかせて文章を練りに練ったのだろう。文章が固くならないよう、要所にひらかなを使っているあたりに苦心のあとがうかがえる。
 この案内文の下に住宅パースの見本を一点入れ、千枚刷った。予算の関係でカラーは無理だったので、その分グレーのインクと上質のアート紙を使って少しばかりおしゃれな雰囲気にまとめた。なんといっても、デザインで勝負をするのだから。
 結果的にこのDMは大量に余ってしまったが、メモ用紙などに使ってしまい、いま手元に残っているのはわずか数枚である。



狂喜乱舞の初仕事



 こうして苦労のすえに出したダイレクトメールの反応を、電話の前でただひたすらじっと待った。市内だから早ければ次の日には反応があるかもしれない。いや、そう「待ってました」と仕事の依頼が飛び込んでくるほど甘くはないだろう。最低一週間は待たなくては…。いやまて、まずは軽い引き合いの電話がきて、本格的な依頼はそのあとか…。
 自分がいないうちにもし電話がなったら、などと考えると、外出やトイレもままらない。まさにこれがのちに私をしばしば悩ますことになる「急性電話ノイローゼ」だった。もし実際に一週間も電話が鳴らなければ、私は本当に気がおかしくなっていたかもしれない。だが、反応は思っていたよりも早かった。

 DMを出して二日目だった。発注依頼にせよ単なる引き合いにせよ、もし電話が鳴るとすれば、この日が一番確立が高い。そして待ち受ける私の前の電話が高らかに鳴った。間髪を入れず受話器を取り、慣れぬ口調で事務所の名を口走る。経費節減のため、電話は自宅と兼用だったので、相手は親戚か友人か、あるいは単なるセールスの可能性だってある。だが、大量にDMをばらまいた以上、日中はすべて仕事の電話と思って応対するしかない。
 だが、電話の女性の声には聞き覚えがなく、「おたくでパースを描いてくれるんですか?」と確かに尋ねている。仕事の電話だ!高鳴る胸を押さえつつ、「はい、描いてます」と即座に応じた。すると電話の声は、「実は急ぎでやって欲しい仕事があるんですが」といきなり突っ込んできた。
 予期せぬ言葉に私はうろたえた。夢にまでみた電話、そして夢にまでみた仕事の依頼である。喜びのあまり、次の瞬間、とんでもない言葉を私は口走っていた。

「いったいどこで私の事務所のことをお知りになったんですか?」

 だって、DMが来ましたもの、と困惑したような電話の声。そうだよな、当たり前だよ、決まってるじゃないか。いったい何てバカなことを聞いてるんだ、俺は…。さんざんDMをばらまき、夜も眠れぬほど電話を待ちわびていながらこの体たらく。なんてこった…。
 背中を冷や汗が流れる。分かりました、すぐに伺います。内心の動揺を押さえつつ、相手の住所と連絡先だけはしっかり聞いて、電話を切る。ともかくも初仕事らしい。バンザイだ。まだ相手の話もろくに聞いていないのに、私はすっかり舞い上がって有頂天になっていた。



図面ナシ時間ナシ予算ナシ



 指定された場所は、マンションの二階にある小さな広告プロダクションだった。開業前の飛び込み営業での忠告通り、初仕事はやはり広告ルートだったというわけである。
 口髭をたくわえたいかにも広告関係者という風貌の社長は、あいさつもそこそこにいきなりこう切り出した。

「図面も時間も、ついでに予算もない仕事なんだけど、出来る?」

 さて困った。初めての仕事に無理難題である。これではナイナイづくしの三重苦ではないか。何のコネも実績もない新規開業の私に、見本を確認もせずにいきなり依頼がきたわけは、どうやらこれだったらしい。思わず私はたじろいだが、ここで引き下がってはせっかくの初仕事がふいになる。ともかくも仕事の概要を聞いてみることにした。

 仕事はススキノのど真ん中に近日開店するスナックの店舗内装パースだった。開業案内のパンフレットに使うのだという。もちろんそれまで内装パースの修練は積んでいたので、仕事は何とかやれそうだった。だが問題は、古いビルの内装と設備を入れ替えるだけの工事のため、図面が一切ないという悪条件だった。図面がないからといってイメージパースでは駄目で、店舗内はある程度忠実に再現して欲しい、と社長は言う。
 普通のパース屋ならこの段階で尻込みし、たいていは仕事を断るだろう。写真すらない状態でパースは描けない。まして予算も納期もない仕事である。だがそのとき私の頭に、とっさに閃くものがあった。

「現地調査をさせていただけませんか?」

 以前の会社で、同じように全く資料のない現場での改修工事の設計図を、現地に直接おもむいて足と目だけの「目測調査」でスケッチをおこし、なんとか設計図にしたてあげた記憶がよみがえる。同じ方法でたぶん何とかなるはずだ…。
 社長がその場でスナックのママさんにかけあってくれ、了解をもらう。その足ですぐにそのスナックへと向かった。何しろ時間がない。



いきなりの徹夜



 開店直前の店は職人があわただしく動き回っていたが、店鋪はあらかた仕上がっていた。これなら目測調査にも支障がない。だが、店舗の奥に目をむけたとき、思わずめまいがしそうになった。想像していた以上に内装が複雑なのだ。
 全体がロココ調でまとめられ、壁や柱の形状が半端ではない。家具や什器のデザインも複雑極まりない。天井や壁にはキャンドル風の照明がさんぜんと輝き、これらを忠実に再現するのはベテランでも至難の技と思われた。だが、ここで泣き言を並べても始まらない。気を取り直してすぐに調査に取りかかった。
 歩幅を使って測るのが資料が何もないときの私のやり方である。一歩が約80センチだから、五歩あるけば四メートルになる。誤差はほとんどない。こうして店内のおおよその寸法を出した。同じやり方で家具の位置と寸法を出し、カウンターや柱、キャンドルなどの複雑なものの形状は別にスケッチを描く。天井やじゅうたんの模様も細かくメモした。

 家に戻ると、こうして調べた資料をもとにすぐに仕事にかかった。予算がないので、タッチはモノクロのエアブラシ仕上げでやることになっていたが、とにかく資料が少なく、慣れないこともあって作業は全くはかどらない。下図が出来た段階で疲れ果て、その日はとりあえず寝てしまう。
 次の日にはもうインクの枠取りに取りかからなくてはならない。約束の納期はその翌日だった。つまり、仕事を受けてから二日後にはもう納めるという、無茶苦茶な依頼である。FAXがまだ十分に普及していない時代だったから、下図をチェックする時間すらない。ぶっつけ本番の一発仕上げでやるしかなかった。
 壁の複雑な形状の表現に手間取り、時間だけがどんどん過ぎて行く。陰影をつけ、豹柄のじゅうたんと椅子をエアブラシのフリーハンドでそれらしく仕上げて、すべての作業が終わったのは結局明け方近くだった。

 眠い目をこすって届けると、プロダクションの社長は予想以上の出来映えだったのか、非常に満足した様子だった。延べ十二時間近くかかった作業時間から計算し、少し控え目に切ったつもりの二万円ちょうどの納品伝票を恐る恐る差し出すと、社長は「分かりました」と意外にあっさりと受け取り、拍子抜けする。
 こうして緊張と冷や汗と興奮と意地でやり抜いた記念すべき私の初仕事は、初徹夜という忘れられないおまけつきで、何とか無事に終えることが出来たのだった。