コバルトに染まる空



             1993.9  菊地 友則


 九月の上旬にしては強い日ざしが放課後の音楽教室に照り付けていた。教室の窓はすべて開け放たれていたが、そこから吹き込む風は、もう夏の熱気を帯びてはいない。
 風が吹き込むたび、閉ざされた白いカーテンが女の長いドレスの裾のように膨らみ、風の動きにあわせて、踊るように形を変えていた。
 ブラスバンド部員の練習には熱がこもっていた。市の主催する秋の音楽祭の日が近づいていた。
 教壇の上でうっとりと酔いしれたような表情で、顧問の太田先生が両手を振っている。タクトを使わずに手を使う時の先生は、熱中している証拠だ。ラディッキー行進曲は後半にさしかかっていた。先生の手の揺れがいっそう激しくなる。
 まるで別の生き物みたいに動く手だ。ドラムのスティックをリズムに合わせて弾ませながら木田誠司は考えていた。誠司のすぐ前にいるトランペットの三隅の首すじに、汗が光っていた。さらにその前にはクラリネットとサックスの女子の列、その右側最前列にはトロンボーンの一団がある。
 こうしてバンドの最後尾でドラムを叩くのも悪くない。そんなふうに考えられるようになってから、まだそれほどの月日はたっていない。誠司は長い間、いま彼の前で三隅が吹いているトランペットにこだわっていた。
 曲はもうすぐ乱打の部分に差し掛かる。誠司はスティックを握る手に力を込めた。

 トランペットを吹いてみたい。誠司がそう思い始めたのは、幼い頃の小さな出来事がきっかけだった。
 確か十歳くらいの頃である。誠司たち家族は、郊外に完成したばかりの大きなショッピングセンターに来ていた。そこでは開店を記念したイベントが催されており、にぎやかなブラスバンドの音が、ガラス張りの吹き抜けのあるホールから響いていた。その演奏は地元の大手製紙工場のブラスバンド部のものだった。
 演奏される曲は行進曲ばかりでなく、ポップ系の歌やらテレビドラマの主題曲などをうまく取り混ぜ、飽きさせない構成だった。それまでブラスバンドなど、たいして興味のない世界だったのに、いつしか誠司は人込みの中に入りこみ、演奏に聞き入っていた。
 曲目が進んで行進曲のメドレーになった時、バンドの中央部にいたメンバーの一人が突然立ち上がり、トランペットを高くかかげて吹き始めた。
 わずか二小節程のトランペットソロだった。だがそれは完成したばかりの吹き抜けのホールに高く、リズミカルに響き渡った。ソロが終わると、クラリネット、そしてトロンボーンがそれに従うように続く。
 誠司はグリーンのベレー帽をかぶったそのトランペッターから目が離せなくなっていた。男が頬を引き締めるたび、金色のトランペットは斜めに差し込む太陽光線を受けて輝く。
 誠司は電撃を受けたようにその場に立ち尽くした。男の身体全体からたちのぼる、凛とした空気が彼を捕えて放さない。それはたちまち彼の中で、トランペットそのものへの、強い憧れへと変化していった。
 それ以来、町に出かける機会があるたび、楽器店のウィンドウを覗くことが習慣になった。そこにはエンジ色のケースに入れられたトランペットが黄金色に光っていた。誠司にはそれが自分だけの大切な宝物のように思えた。
 彼は一度それを手にしてみたいと願ったが、買うあてもない子供にそんなことが許されるはずもなく、動物園の豹のように、ただ楽器店の前を徘徊するだけだった。
 そうするうち、トランペットに対するあこがれは増幅していった。いつかトランペットソロであの時の曲を吹く、それは固い思い込みとなり、彼を熱く征服してゆくのだった。

 機会は意外に早くやってきた。中二になった直後、誠司たち一家は郊外に建売住宅を購入し、引っ越すことになった。引っ越し先の校区の中学校にブラスバンド部があったのだ。
 それを知った誠司は、踊り出したいような気持ちだった。ついに念願のトランペットが吹ける。そう思うだけで胸は高鳴った。
 転校して数日後のある日の昼休み、誠司は部の顧問をしている太田先生のところに出向き、逸る気持ちで入部を願い出た。
「何かやりたいパートはあるのかな」
 机の上に広げられたプリントを集めながら先生が尋ねた。
「トランペットがやりたいです」
 きっぱりと言った。そういう言い方で、自分の決心の強さを分かってもらおうと思った。
「トランペットか。吹いたことはあるの?」
 そう言って先生は誠司の顔を伺う。丸い銀縁メガネの奥にある目は優しい。
「ないです。でも…」
 でもやりたいんです。そうつなぐつもりだったのに、言葉が途切れた。二年からでは遅いのではないか、という不安が胸をかすめる。
「いまね、ペットのパートはとりあえず足りてるんだよ。それに」
 先生はそう言ったあと、一息入れて机の上にあるお茶をすすった。胸の中で不安がアメーバのように広がった。
「それに見たところ、君の唇はトランペットを吹くには、ちょっと厚すぎるような気がするんだ」
 そう言って先生は集めたプリントの束を、スタンと机の上でそろえた。先生の口調はさりげなかったが、予想もしていなかったその言葉は、誠司に重い打撃を与えた。
「どうだ、ドラムをやってみる気はないか?あれならいまちょうど空きがあるんだ」
 誠司は言葉を失った。唇の厚さでトランペットに向き不向きがあるなどとは、聞いたことがない。そのことが、あれ程固かったはずの決心を簡単にぐらつかせる。
 トランペットじゃないと駄目なんです。大声でそう叫びたいほどなのに、先生を納得させるだけの言葉が見つからない。誠司は思わず自分の唇をきつく噛んだ。
「特に出来る楽器がないのなら、とりあえずドラムってことでどうかな。先生も学生時代にバンドで叩いたことあるけど、結構おもしろいもんだよ。リズムの原点だしね。それにペットの方はまた吹く機会があるかも知れないし」
 慰めるように先生が言う。なんでもいいです。少し考えてから、結局そう答えた。何も出来る楽器がないことで、すっかり弱気になっていた。だが、ではドラムをやります、と簡単に気持ちを切り替えることも出来ない。
 先生の言うように、あとで吹く機会が本当にやってくるかどうかは分からなかったが、その場ではとりあえず入部する以外に道がないように思えた。誠司は自分の厚い唇が恨めしかった。

 あれからもう一年がたつ。結局、誠司はそのままドラムの指導を受け、唯一人いた先輩が卒業してからは、いつの間にかドラムのリーダー格となっていた。今ではこの春入学してきた二人の一年生の指導までまかされ、部内では「ドラムの木田」という名がすっかり定着してしまっている。
 どうやら誠司にはドラムの資質があったらしい。太田先生の振るタクトにあわせてスティックを叩いていると、練習が進むにつれて先生のタクトと誠司のスティックとが、まるであやつり糸のように結ばれ、その糸の間に他のパートがぴったりとからみつくような錯覚に陥る瞬間がある。誠司はそんなとき、言いようのない充実した気分に浸るのだったが、それはまさに演奏が思い通りにいった瞬間なのだった。
 トランペットを吹く機会が全くなかったわけではない。実際、入部の時、先生が言ったようにチャンスはあったのだ。
 去年の市の音楽祭のあと、三年生が抜けた時がそうだった。ペットのパートの二人が抜け、一年と二年の女子が一人ずつになった時、
「誰かペットをやってみたい奴はいるか」
 と先生が皆に尋ねたことが一度だけある。先生はそう言いながら誠司の方を見たが、その時彼はちょうどドラムのおもしろさが分かり始めていた時期だった。
 何も言い出さぬ誠司を先生は少しいぶかし気な表情で見たが、そんな気持ちの変化に一番戸惑っていたのは、当の誠司自身だった。
 誠司はその後もドラムを続け、三年になってから入部してきた三隅がいきなりトランペットをやることになったのだった。
 三隅は転校生ではなかったから、入部しようと思えば一年から入部出来たはずだ。しかし、彼が三年になって入部してきたのには訳がある。
 三隅はいわゆる不良だった。
 深く剃りこみの入ったリーゼントの髪の間から覗く目は細く、鋭かった。がっちりとした上背のある身体を覆う長い丈の学生服姿は、とても同学年には見えず、廊下ですれ違うたび、誠司は三隅と視線を合わせぬよう気を配っていた。
 三隅は一人でいることが多かった。その体格や風貌からして、学内の不良グループが放っておくはずはないのに、徒党を組んで問題を起こした、という噂はなぜか聞いたことがなかった。
 そんな三隅を部活動にさそったのは、どうやら太田先生らしい。太田先生は生活指導の担当ではなかったが、面倒見のいいことでは定評があった。なかなか引き受け手のいない部活の顧問を、単に学生時代にバンドを組んでいたから、という理由だけで引き受けている理由もそこにある。
「お前の唇はトランペットに向いている」
 そう言って先生は三隅を誘ったらしい。先生には別の思惑があったに違いないが、その言葉に三隅は心を動かされたようだ。
 三隅が音楽室に入り、しばらく誰も使っていなかったガラスケースの中のトランペットを手にしたのは、それから間もなくのことだった。
 先生の狙い通り、三隅の上達は早かった。小学校時代は水泳をやっていたという三隅は肺活量も豊かで、他の誰もが出せぬ音を軽々と出してみせ、皆を驚かせた。
 そうした三隅の才能には一目置きながらも、部員の中で彼に近づくものはなく、三隅が他の部員と言葉を交すことは少なかった。だが、なぜか三隅は誠司にだけはよく話しかけてきた。
 楽器の手入れの方法やら、難しい楽譜記号の意味など、何やかやと尋ねてくる。内心では迷惑だな、と思いつつも、いつも怒っているような三隅の目が近づくと、適当にあしらうことなど到底出来ず、やむなく誠司はその都度相手をしてやっていた。
 部の中で特に目立つ存在でもなく、さほど馬が合うとも思えぬ誠司などに、なぜ三隅が興味を示したのかは分からない。誠司にとっては三隅のような相手は苦手であり、あまり付き合いたくないタイプの人間だった。入部してからもほとんど言葉をかわす機会はなかったが、そんな関係が劇的に変化したのは、春の連休を利用した強化合宿の時からだった。
合宿と言っても、隣町の公民館に出向き、丸一日練習をして帰ってくるだけの簡単なものである。
到着した夜のことだった。大部屋で布団を並べて寝る段になり、誰がどこで寝るかがちょっとした騒ぎになった。入口に近い場所は皆がいやがり、大方の者はいち早く自分の場所を確保していたが、こんな時に要領の悪い誠司にはそれが出来ない。
 その時、三隅は黙って枕を取り、入口に一番近い場所に悠然と腰を下ろしたが、そうなると問題は三隅の隣の場所に誰が行くかが問題だった。
「木田の寝る場所はそこしかないようだぜ」
 と冷やかす声の中、ぐずぐずとためらう誠司を一喝したのは、他ならぬ三隅だった。
「何やってるんだ、木田。寝る場所なんてどこだっていいじゃねぇか。ツマらんことにこだわるなよ。だからお前は…」
 三隅の細い目が射るように光った。それでいてその光は、決して悪意に満ちたものではなかった。あの時、三隅はどんな言葉を継ぐつもりだったのか。
 ともかく、その夜誠司は素直に三隅の隣の場所で眠ることにしたのだった。誠司が三隅のことを身近に感じ、言葉をかわすようになったのはその時からである。

「今日の練習はこれくらいで切り上げるが、実はそろそろ秋の音楽祭の残りの曲目を決めなくてはいかない。何か意見のある者はいるかな」
 教壇の上でタクトをもて遊びながら太田先生が言う。夕暮れが迫り、窓から吹きこむ風も冷たさを増していた。
「先生、新しいグループの曲でもいいですか」
 活発なクラリネットの女子の一人が尋ねた。
「もちろん構わないが、新し過ぎて、まるで先生が知らない曲ってのも困るな」
 教室がどっと湧く。いろいろなグループや曲の名が飛び交う。クラリネットの女子が立ち上がり、ある曲の名を言った。それは先生が知らない曲のようだった。
「ちょっと待て。何だ、そのティー何とかって言うのは?」
 タクトを上下に振って尋ねる先生の声に、先生古ーい、という声と、そのグループが主題曲を歌う最近終了したばかりの人気連続ドラマの名を口にする声とが入り混じる。
「ああ、あの歌か。うん、あれは確かにいい曲だな。みんなが知ってる曲だし、音楽祭向きかも知れない。しかし、お前らにあんな難しいメロディーが演奏出来るかな」
 先生は少し心配そうな顔をする。問題なし、簡単だもん、との声があちこちから上がる。どうやら二曲目は決まりのようだった。
 問題は三曲目である。市の音楽祭では三曲演奏することになっており、一曲目はラディッキー行進曲をやることが夏休み前から決まっていた。
 あの曲をやってみたい。誠司はずっとそのことを考えていた。しかし、トランペットソロで始まるあの時の曲の題名を誠司は知らない。
「木田、何かあるのか?」
 何か言いたげな誠司の視線を察して先生が声をかける。
「実は、前からやってみたい曲があるんですけど‥‥」
「けど、何だ?」
「題名が分からないんです」
 笑い声が起こった。出だしをやってみろ、と誰かが叫ぶ。誠司はスティックを握り、あの時のメロディーを口ずさみながらドラムを弾ませた。
 コバルトの空じゃないかな、と誰かがつぶやいた。私知ってるわ、と先程のクラリネットの女子が言い、ピルピルとメロディーを奏でて見せた。でも、ここのところ、本当はトランペットでやるのよ、と吹き終えたその女子が言う。
「そうなんです。イントロに難しいペットのソロがあるんです」
 誠司は初めてその曲の名を知った。今まであの曲のことを誰にも話せなかったのは、おそらく自分の中にトランペットへの未練が微かに残っていたせいなのだ。
「その曲なら先生も知ってるが、イントロが難しいんだよな。リズムも細かいし、問題は二小節目の高いソの音がきれいに出せるかだ」  三隅なら出せるかも知れない、と誠司は考えていた。他の団員も皆同じ考えだったのか、一様に三隅に視線が集まった。
「どうだ、やれそうか三隅」
 先生が尋ねる。長い前髪をかき上げた三隅はそれには応えず、ただ黙ってマウスピースをくわえた。細い頬の筋肉が締まると、三隅のトランペットからあの時のイントロが高らかに流れた。
 おお、というどよめきが上がった。三隅の音感は鋭く、一度聞いたメロディなら、たいていの音は楽譜もなしで、やすやすと奏でることが出来た。
「どうやら問題なさそうだな。それなら先生も依存はないぞ。よしよし、これで三曲決まりだ。楽譜をそろえておくからな」
 ついにあの曲が演奏出来るのだ。それは自分のトランペットでではない。だが無念さは少しもなかった。

 学校の周囲にあるナナカマドの葉が、鮮やかな赤と黄のグラディーションで彩どられていた。たわわな赤い実も、今年はいつもより一層色が濃い。
 音楽祭を数日後にひかえた音楽室は、最後の調整に励む生徒達で活気に溢れていた。新しい曲の楽譜が手渡されてからしばらくは各パート毎の練習が続き、全体のレベルが整ってから全員での音あわせに入るのがいつもの練習のやり方である。
 パート練習が早く終わるのはいつも三隅と誠司だった。誠司は家にもスティックを持ち帰って練習する程であったから当然としても、三隅の場合は、たいして練習をした気配すらないのに、あっという間に覚えてしまっている。誠司は今さらながらに三隅の才能に舌を巻いた。
 パート練習が終わり、合同練習までの間に暇が出来ると、三隅はよく誠司のところにやってきては、まだ楽譜の出ていない曲を奏で、「アドリブでドラムをつけて見ろ」と注文を出した。誠司が適当にリズムをつけてやると、三隅は細い目を一層細くし、満足気に演奏を続けるのだった。
 親しくなったあと、三隅は一度だけ誠司に腹を立てたことがある。日本で有名なトランペッターの話題になった時、「お前は好きか」と三隅が尋ねるので、それまでの仲間に対するのと同じ調子で何気なく、「別に」と返事をすると、三隅は急に顔色を変え、「俺はその言葉が大嫌いだ」と不機嫌そうに押し黙ってしまった。
 誠司には三隅の怒る理由が分からず、ただどぎまぎするだけだったが、三隅の目の中に合宿の時と同じ光を感じた時、その訳が分かったような気がした。
 別にどうだというのだ、いったい好きなのか嫌いなのか?三隅が憎んだのは、その言葉の中に潜む、あいまいさではなかったか。
 不用意な自分の一言で、三隅との関係がこじれてしまうことを誠司は怖れたが、それは思い過ごしだった。なぜなら、そんなことがあった翌日も、三隅は何事もなかったように近づいてきたからである。
 いつだったか、先生が来ないと分かっていた日に、三隅に誘われて音楽室を抜けだし、学校の裏手にある貯水池に楽器を持ち出して練習に出かけたことがあった。
 そこは池の回りがコンクリートの堤防で囲まれており、突端に立つと製紙工場や、その原料を積み下ろす港が一望出来た。
「お前、女のアソコ見たことあるか?」
堤防のふちの一段高い部分に腰を降ろすなり、不意に三隅が尋ねた。あまりのだしぬけな質問に誠司が答えに窮していると、
「まあ、お前みたいな真面目なヤツには、聞くだけヤボだったな」
 と表情を変えずに三隅は言い、トランペットの唾抜きバルブを開いてピストンを素早く上下させた。すると、三隅の唾が透明な糸となって落ち、乾いたコンクリートの上に黒い斑点をいくつも造った。
 誠司も女に興味がないわけではなかった。しかし、部の中でそれを話題にしたことは一度もない。出来なかったのだ。誠司は三隅の心を計りかねていたが、三隅はそんな彼にはかまわずにさらりと話題を変え、
「お前は高校どこに行くんだ。K高か?」
 と訊いてきた。K高校は市でも指折りの難関であり、全国大会に何度も出場したことのある名門ブラスバンド部があることでも有名だった。
 もし入れたら、と誠司が答えると、頭いい奴はいいなあ、と珍しく溜息をついた三隅は、堤防の下に続くなだらかな芝生の上に仰向けに寝転ぶなり、俺は高校に行かないかも知れないな、とつぶやくように言った。
 三隅が少しだけ自分から遠ざかった気がし、お前ならトランペットで食って行けるんじゃないのか、慰めるつもりで言うと、世の中そんなに甘いかね、と目を上げた三隅は、大人びたものを頬の隅に浮かべ、いつものようにニヤリと笑うのだった。

 事件が起きたのは、音楽祭の二日前のことだった。その日、三隅は音楽室に姿を見せなかった。三隅が出席停止処分をくらったらしい、と同じクラスの者が噂していたが、真相を知る者は誰もいなかった。
 先生はいつも通りやってきたが、難しい顔をして誠司の方を見るなり、今日からイントロはお前がドラムでやれ、と命じた。
 三隅はどうしたんですか。そう誠司は尋ねようとした。三隅の代役は誰にも勤まらない。だが、普段とは違う険しい先生の表情は、すべての質問を拒んでいた。
 三隅のいない練習は音に今ひとつの張りがなく、物足りぬものだった。練習が終わった後、誠司は職員室に出向いた。真実を確かめたかった。
 職員室には部長であるトロンボーンのリーダーも来ていた。
「木田も来たのか。今も話してたとこだが、三隅は音楽祭には出られないぞ」
 なぜですか、と誠司が問うと。あまり詳しいことは言えないが、ちょっと指導上の問題があってしばらく学校には来ない、と先生は言い、三隅のいない分は三年が力を合わせてカバーするように、と付け加えた。
「先生、ぼくたち、音楽祭には出られるんですよね」
 念を押すように部長が言う。先生は彼の言わんとすることをすぐに理解したようだった。
「大丈夫だ。お前らはそんな心配しなくていい。そのことは俺が責任を持つ」
 と先生は答え、残念だ、と何度も膝を叩いては擦りあげた。
   翌日、噂はさらに広まっていた。隣町の女子高の生徒が関係しているらしい、と話す者がいた。三隅がその女子高の生徒数人と夜の町をうろついていたところを補導された、と言う者もいた。女のアソコを見たことがあるか、と訊いたいつかの三隅の顔が、誠司の頭の中をぐるぐると駆け巡った。

 三隅抜きの音楽祭の日がやってきた。繁華街にある歩行者天国に設けられた特設ステージの裏側で、誠司たちは出番を待った。あこがれのK高や、S製紙のブラスバンド部も参加する晴れの舞台であり、三年生にとっては最後の舞台でもある。
 出番が近づくにつれ、誠司の不安は次第に膨らんでいった。やはり三隅のいないことが気になった。三隅がどこかで見ているような気がしてならず、誠司は人込みの中に彼の姿を探ったが、開演までに見つけ出すことはついに出来なかった。
 出だしは好調だった。誠司のスティックは軽やかにリズムを切ったし、部長のトロンボーンは力強かった。クラリネットもさざ波のようなメロディーを奏でる。
 これならうまくゆく、誰もがそう思い始めた矢先、曲が二曲目に入った直後のことだった。強い風が突然、誠司たちを襲った。
 吹きさらしのステージをその風が吹き抜ける。演奏中の部員の譜面台から、楽譜がパラパラと鳩のように舞い上がった。必死でそれを押さえる者。立ち上がってそれを追う者。演奏はちりじりに乱れ、崩れた。
 屋外の演奏ということがひとつの不運だった。誠司はステッィクを懸命に叩き、演奏をたて直そうとしたが、一度こわれたリズムを元に戻すのはもはや不可能だった。
 みじめな結果だった。もし三隅がいたならなんとか立て直せたのではないか。繰り返しても仕方のない問答に、まだ誠司はこだわっていた。しかし、すべては終わったことだった。誠司の中にやり場のない虚しさだけが残った。

 音楽祭が終わって一週間が過ぎた。三隅はあれから学校に姿を見せない。誠司には、もう三隅が永遠に学校に来ないような気がしてならなかった。
 土曜の午後、何かふっきれぬ気持ちのまま、誠司はすぐに下校する気にもなれずに音楽室に立ち寄った。三年生の姿はもう見えず、音楽室の人影はまばらだった。
 誠司はガラスケースに目をやった。主のいないトランペットが淡い午後の陽を浴び、鈍く光っている。誠司はガラス戸を開け、三隅の使っていたトランペットを手にした。
 手入れの行き届いたトランペットは、彼の手の中で一層光を増した。
(堤防へ行こう…)
 不意に誠司は考えた。外で思い切りこれを吹いてみたい気がした。
 雲ひとつ見えない透き通った空は、青のスペクトルで満たされていた。池の周囲の紅葉は色を増し、さざ波さえ見えないガラスのような水面に、水平なシンメトリーを造っている。
 誠司は堤防の突端に立った。眼下に製紙工場から上る白い煙が微かに見えた。空の青が水平線の彼方でうっすらとぼやけていた。
 三隅が不意に現れたのは、誠司がトランペットと格闘している時だった。いくら息を詰まらせても満足に音が出せぬ自分に嫌気がさし、もう帰ろう、と思い始めた時、背中を叩く者がいた。細いジーパンをはき、ジャンパーを肘までたくし上げた三隅だった。
(あの時、やはり三隅はどこかで見ていたのだ…)
 言葉には出さなかったが、三隅の姿をそこで見た時、誠司はそれを確信していた。
 やってるな、そう三隅は言い、貸してみろよ、と手を差し出す。細い指が女のようにしなやかだった。誠司がマウスピースを外して拭とろうとすると、いいさ、と三隅は言い、構わずそのままトランペットをくわえ、水平に構えた。
 堤防のコンクリートの上に座り、誠司はそんな三隅の姿を見上げた。均整のとれた三隅の逆三角形の体が青い空の台紙にふち取られ、くっきりと浮かび上がった。そしてそれが乾いたコンクリートの上に黒く濃い影を落とす。
 三隅の薄い唇が、いつかの時のようにきゅっと締まる。首筋から喉仏にかけて血管が太く浮かんだ。
 三隅が目を閉じる。頬に力がこもった。三隅がピストンをすばやく上下させるたび、それが太陽に反射して十字形に輝く。空が目に染みる色の青で染まっていた。
 誠司はポケットからスティックを取り出し、堤防のコンクリートに強く叩きつけてリズムを切った。固いコンクリートから跳ね返ってくる振動が、肩の筋肉を心地好くゆすった。
 三隅の奏でるメロディーに合わせ、誠司はスティックを振り続けた。胸の奥で激しくシンバルの鳴る音がした。
                               (了)


(この作品は、第28回北日本文学賞第二次選考を通過しました)



あとがき

 少年、それも不良を主人公にした小説を一度は書いてみたくて出来た作品がこれです。私自身にはどちらかといえば優等生嗜好があったのに、どういうわけか小さい頃から不良には好かれるというか、一目置かれるようなところがありました。特別に避けるわけでもなく、かといって変に媚びたりするわけでもない中道的なところがあったからでしょうか。
 いわゆる「不良」には、人生の真実が見えるような気がします。いつかまた扱ってみたい素材ですね。