《あの時ボクは若かった》
 蒼ざめる花



             1996.3  菊地 友則


 陽の光に満ちた校庭から戻ったばかりのせいで、教室の中は薄暗く、ぼんやりと沈んで見えた。
「ねえ、…のことなんだけど」
 席につくのを待ち構えていたように、前の席の麗子が振り向いてぼくに話しかけてくる。会話の内容は、例によってとるに足らないことだった。ぼくは何も具体的な返答はせず、適当に彼女をあしらった。
 このところ、いつもこんな調子だった。中学生になり、クラスの仲間が新しくなって、気分も一新されるはずだったのに、ぼくの気は晴れなかった。すべては前の席の麗子のせいなのだ。
 麗子は目鼻立ちの整った、すっきりとした顔だちをしていた。色白の肌は教室の中でも際立って見えた。新しいクラスで、そんな子と身近な席になれたことを、ぼくは単純に喜ぶべきだったのかも知れない。実際、少なくとも最初の一週間はそうだった。
 ぼくが麗子を疎ましく感じ始めたのは、彼女が必要以上にぼくに接近し始めてからのことである。休み時間は言うに及ばず、授業中さえ、先生の目を盗んでは、たわいもないことを話しかけてくるのだった。
 どうやらそれが、麗子のぼくに対する、単なる同級生以上の関心からくるものらしい、と気づいてからは、ぼくの憂鬱は深まる一方だった。
 ぼくは飛び抜けた優等生ではなかったし、決して雑談がきらいなわけではなかった。まして、女の子アレルギーだったわけでもない。前の席に可愛い女の子が座り、しかもその子は自分に関心があるらしい。本来なら、楽しい中学生活になっていいはずだった。では、なぜぼくは麗子を疎んじたのか。
 麗子は頭の回転があまり良くなかった。当時のぼくにとって、それは彼女を遠ざけるだけの、重大な理由になり得た。
 ぼくと麗子とは違う小学校だった。彼女の成績のことは詳しくは知らない。通知表をのぞいたことも、もちろんない。学校の成績はそれなりに良かったのかも知れない。ぼくが感じたのは、彼女の中にある、閃きの鈍さのようなものだった。
 ぼくの意向を無視して話される、嵐のような麗子の会話のほとんどは記憶にないが、たったひとつだけ三十年以上の月日を経てもなお、鮮明に記憶に残っていることがある。
 ある時、後ろの席にいた男子がぼくと麗子に、とんでもない話題をもちこんできた。
「おい、子供がどこから生まれてくるか知ってか?」
 中学生の会話としては、いささか稚拙と思われるかも知れない。だが性教育という言葉さえない、三十数年前のことである。
 会話はぼくにではなく、明らかに麗子に向けられていた。こうした一種卑猥な話題に、麗子がどんな反応を見せるのか、クラスの男子の誰もが確かめてみたいのだ。麗子はそういうタイプの女の子だった。
「ああ、知ってるさ」
 ぼくは平然とそう答えて麗子の様子を伺った。
「ええ?私、知らないわ」
 ちょっと困ったな、といった感じで麗子は答えた。カマトトぶっているわけではないことは、その表情で分かった。
「考えてみろよ」
 ぼくは挑戦的にそう言った。
(それくらい、疑問に思ったことなかったのかよ…)
 ぼくは十歳くらいで、すでにそのことを本で知っていた。もうすぐ十三歳にもなろうとしている女の子が、自分の体のことであるそうしたことに何の疑念も持たず、知識もないことがぼくには信じ難かった。
「うーん、どこかしら…」
 彼女は必死に乏しい想像力を巡らせている。当時のぼくは、彼女をそんなふうに意地悪な目で見る習慣が、すでに身についてしまっていた。
「もしかして…、でもまさかね」
「言ってみろよ」
 ぼくは彼女をさらに挑発するようにそう言った。
 やがて彼女が恐る恐る口にした答えは、ぼくたちの失笑をさそうものでしかなかった。
「まさか、お尻じゃないでしょ?違うわよね」
 性教育はともかく、女子だけの初潮教育だけはすでに行われていた時代である。こいつは自分の体の構造すら知らないんだ。ぼくは呆れ返ると同時に、麗子を哀れにさえ思った。

 夏が来ても、なぜかクラスの席換えは行われなかった。ある日、転校生が多くなり過ぎたために、クラスが交代で理科教室を使う、という方針が学校から呈示された。ぼくたちのクラスは一組だったために、真っ先にその番に当てられることになった。
(席換えがあるかも知れない…)
 理科教室の机は普通教室と違い、六人がけの大机である。普通教室と同じ並び方は出来ないはずなのだ。だが、担任の先生の口から出た言葉は、ぼくの期待を見事に裏切るものだった。
「たった一ケ月だから、教壇に向かって前と同じ並び方をするように」
 麗子の列は一番前、ぼくは二列目である。そのまま大机に並んでみると…、なんと、ぼくと麗子とは隣り合せになってしまうではないか。
 その日から、麗子のおしゃべりは一層ひどくなった。ぼくは次第に無口になっていった。休み時間はなるべく席にいないようにした。だが、席に戻ったとたん、すぐに麗子の攻勢が始まる。だんまりを決め込んでいると、ぼくのシャツの袖を引っぱる始末だった。
「うるせえよ!」
 ある日、ぼくの留め金がついに外れた。気がついたら、ぼくは麗子の白い頬を、平手で強く打っていた。ぼくはその時、初めて女の子を殴った。
 麗子のすすり泣く声が隣で聞こえる。ぼくは自分のした行為の重大さに戦きながらも、麗子に謝る勇気もなく、震えながらただこぶしを握りしめていた。
「ちょっと、ひどすぎるんじゃない?」
 麗子と仲の良い女子が、そう言ってぼくをとがめた。分の悪さを打ち消すために、ぼくはさらに虚勢を張った。
「うるせぇ、俺はバカはきらいなんだよぉ」
「そんな言い方ひどいわ、麗子に謝りなさいよ」
 もちろんぼくが謝れるはずはなかった。その時、麗子の意外に冷静な、しっかりとした声が響いた。
「いいのよ、私って、本当に馬鹿なんだから。いいのよ…」
 麗子の声はぼくにではなく、彼女の内部に向けられているようだった。滑らかなその頬は、打たれた左半分だけが赤く染まっていたが、残った皮膚はまるで病人のように蒼く、透明に澄みわたっていた。
 ぼくは刺すような胸の痛みを覚えながらも、自分の気持ちをただ持て余しているだけだった。

 夏が過ぎ、二学期になった。待望の席換えが行われ、ぼくと麗子とは遠く離れた席になった。麗子がぼくに話しかけることはなくなり、ぼくはそのことに安堵しながらも、彼女を殴ったことには、依然として後ろめたいものを感じ続けていた。
 ある秋の日の午後、ぼくは母の手伝いで、一キロほど離れたスーパーに買い物の荷物運びに行くことになった。当時、ぼくの家は大勢の大工が集まる飯場をしており、買い出しの重い荷物を運ぶのは、ぼくの大切な仕事のひとつだった。
 重い荷物を引きずってある住宅街にさしかかった時、遠くで数人の女の子がゴム飛びをしているのが見えた。たいして珍しくもないそんな風景に、なぜか引きつけられるものを感じて目をこらした時、その中のひとりの女の子がふと動きを止め、じっとぼくを見つめている。麗子だった。
 ぼくの両手には、魚や野菜のびっしりつまった大きな買い物篭がぶら下がっている。自分のそんな姿を、クラスの女の子に見られたくはない…。
 家の手伝いが嫌なのではなかった。中学生の男の子が、母親の買い物の手伝いをしている。これはあまり格好のいいものじゃない。そんな古い概念に、ぼくはがんじがらめに縛られていた。
(麗子たちがぼくを笑いものにするかも知れない…)
 そんな卑屈な思いが僕をとらえた。だが、麗子にどんな仕打ちをされても、ぼくに反論する資格などないのだ。ぼくは麗子を恐れていた。
 麗子は少しの間ぼくを見つめていた。その表情に、なぜかふっと柔らかな色が宿った。そして麗子は、何事もなかったように、再びゴム飛びに熱中し始めた。ぼくはうつむきながら、足早に麗子の前を通りすぎた。
 麗子の視線の奥に流れていたものは、いったい何だったのだろう。だが、確かに麗子はぼくを許していた。その奥に潜む暖かいものを感じ取ることは出来ても、それが何であるのか理解することは、その頃のぼくには、まだ出来なかった。

 街に初雪がちらつき始めた。麗子が突然、盲腸で入院した。診断が遅かったせいで、普通より長い入院になりそうだ、と見舞に行った担任の先生がクラスの皆に報告した。
 麗子に詫びを入れるチャンスだ、とぼくは考えた。ひとりだけでこっそり見舞に行こうか、それとも、仲間の見舞に相乗りしようか…。だが、せっかく沈静化したクラス内での麗子との噂が再燃するのを、ぼくは恐れた。ぼくはどうしようもない意気地なしだった。
 ぐずぐずするうちに麗子は退院してしまい、ぼくは神が与えたのかも知れない最後のチャンスを、自らの手であっさり逃してしまったのだった。
「麗子に彼氏が出来た」という噂がクラスに流れた。同じ病院に盲腸で入院していた上級生が相手だ、と聞きもしないのにわざわざ知らせてくれる者がいた。ぼくは平静を装いながらも、内心穏やかならぬものを感じていた 。
 冬のある日、通りかかった階段ホールがなぜか騒がしかった。階段の下で誰かの嬌声が聞こえる。麗子を殴ったあの時、ぼくを激しく攻めた、あの女子生徒だった。視線をたどると、踊り場に麗子と見知らぬ男子生徒が親しげに話している。どうやら二人の睦まじさを、茶化しているらしかった。
(これが噂の彼氏か…)
 ぼくはそう直感した。麗子の頬は耳まで健康的な色に染まっていて、あの蒼ざめた透明な影はどこにも見当たらない。それはいま、麗子が幸せな場所にいることを物語っていた。
 ぼくは静かに二人の前を通り過ぎた。
(これで良かったのだ)
 ぼくはそう自分に言い聞かせようとしていた。丸く、切れ長の麗子の瞳の中に、もうぼくの姿はどこにもありはしない。
 窓の外を静かに雪が舞っていた。ぼくはそれをじっと目で追いながら、麗子を殴った時の鋭い胸の痛みが、消えることのない白い傷跡となって、胸の奥深くにきざまれたことに、その時気づいていた。
                               (了)