第10話
  夫在宅症候群



妻との透き間風



 嵐のような開業二年目の1983年が暮れようとしていた。この年の総収入は奮闘努力の甲斐あって、一気にサラリーマン時代の最高年収を越えていた。収入が増えれば家計は安定する。経済的な不安がなくなれば、夫婦円満万事丸く収まるはずだった。だが、この頃から妻の私に対する態度に、微妙な変化が表れはじめていた。
 妻は確かに何かに苛立っていた。その苛立ちの種がなんであるのか、当の妻自身にも分かっていないように思われた。そのせいで、些細なことでの夫婦間のつまらない諍いも、目だって増えていた。

 世のほとんどの夫婦がそうであるように、軽い夫婦喧嘩のたぐいはそれまでもたびたびあった。サラリーマン時代なら朝会社に出かけてしまい、帰りに居酒屋で一杯飲んで憂さを晴らすことも出来た。妻のほうも私のいない間に親しい友人と会うなり、実家に遊びに行くなど、ストレスを上手に解消する手段には事欠かなかった。だが、ここは実家から遠く離れた北海道である。
 自宅が仕事場である私は、本屋に行くか散歩に出かけるくらいしか逃げ場がなく、妻は妻で愚痴をこぼせるほどの友人や親戚が近くにいるわけでもなく、いったん諍いが起きると、狭い家の中で互いが不機嫌に押し黙る陰険な冷戦状態が、際限なく続いた。

 すべては私が四六時中家にいることから始まっていた。もともと私には非常にデリケートな部分、言い方を換えれば、万事にこうるさい部分がある。そんな私がいつも家にいることで、妻はそれまで経験のない息詰まりを感じていたに違いない。
 私には事業を営む根城としての確固たる居場所が自宅にあったが、妻には自分のペースで物事を進められる本来の居場所が、おそらくどこにもなかったのだろう。たとえばマンガ家同志の夫婦のように、互いが自立しながら自宅で仕事を進めているような場合とはわけが違う。妻は自分自身の生き方、居場所のようなものにこだわる質だった。
 結婚前に、いずれは故郷に戻ると宣言してはいたが、自宅を拠点に事業を繰り広げるとまでは言っていない。私もそんなつもりはなかったが、結果的に家族にさまざまな苦痛を強いる形で事業は展開されていた。

(妻なんだから夫の仕事を手伝うのは当たり前じゃないか)

 暗黙のうちにそうした強迫めいた価値観を押しつけていた部分が、私の中にもあったかもしれない。妻は妻で、「内助の功」といったことを美徳ととらえる古い部分があり、夫の事業の手伝いに否応なしに巻き込まれつつも、一方ではどこかで自分本来の生き方を模索していて、(良き妻でありたい、良き母でありたい)というジレンマと懸命に戦っていた節がある。



夫在宅症候群



 妻の「夫在宅症候群」は長い間私を、いや私たち夫婦を苦しめた。定年を迎えた夫がいつも家にいるようになってから、妻の側が精神に変調をきたすことがあるとはよく聞く話だが、私たちの場合は定年が三十年早くやってきたようなものである。
 妻は気晴らしに子供を連れてしばしば実家に帰省したが、遠く離れているので、そう年に何度もというわけにはいかない。妻の親戚や友人も気を遣ってよく遊びにきてはくれたが、そうした気晴らしも一時的なものに過ぎず、すぐに長い日常がたちまち私たちを倦怠へと巻き込んだ。
 仕事で知り合った人の中で、私が自宅の一室で仕事を続けていることを知ると、
「へえ〜、よくやってられますね」と感心されることがしばしばだった。

「実は私も自宅で始めたんですが、一、二年で頓挫しちゃいました。女房とどうにもうまくいかなくなっちゃって…」

 そう開けっぴろげに打ち明けてくれる知人も一人ではなかった。どうやら自宅を拠点に事業を始めようとする場合、この妻との関係はやはり共通の重大事らしい。

 たとえどんなに小さくとも、外に事務所を構えて私が毎日そこに通う形をとったなら、事態は一気に好転しただろう。だが、始めて一年そこそこでは、とてもそこまで踏み切る決心がつかない。
 何より私には、まだ幼かった三人の子供たちと長い時間を共有したい、という強い思いがあった。子育てには父親の関わりが必要だ。そう頑なに思い続けていた。
 せっかく脱サラしたというのに、外に事務所を構えてしまえば、形態は少しもサラリーマン時代と変わらない。自宅での仕事なら、それは充分可能だ。いまは創成期で事業を軌道に乗せるのに必死で、子育てに深く関わるほどの余裕はとてもないが、もうすぐそれは可能になるはずだ。
 妻との間に定期便のようにぎくしゃくしたものが流れ始めると、決まって私はそう言い聞かせ、無理に自分を納得させようとした。



こぐま座事件



 当時の妻との関係を象徴する、ひとつの事件がある。
 ある吹雪の週末だった。妻と子供たちはその日、「こぐま座」という子供人形劇を見に行く手筈になっていた。妻も私も教育には熱心なところがあり、幼少時に良質な美術、芸術に触れさせることには充分な価値と意味があると考えていた。何やかやいっても、私たち夫婦はそうした根っこの部分では一致していたのである。

 会場に行くには地下鉄を乗り換え、十五分ほど歩かなくてはならない。普通の天候なら子供の手を引き、だましだまし歩かせながら向かっただろう。だが、あいにくその日は年に一度あるかないかのブリザードが北の街を襲っていた。子供連れで出歩くのは、とても無理である。
 例によって私は仕事に追われている。だが、この悪天候の中、妻と小さな子供たちだけで放り出すのは忍びない。かといって楽しみにしていた人形劇をあきらめさせるのも切ない。
 困り果てた様子の妻に、

「この仕事がもうすぐ終わるから、届けるついででよかったら、車で送っていくよ」

 と声をかけた。仕事の段取りを工夫すれば、なんとかなりそうだった。無理をしたわけでない。駐車場でしばらく待つ我慢さえしてくれればいい。妻と子供たちは喜んで私の申し出を受けた。

「本当にいいの?」
「いいさ、もうちょっとで片がつく」

 大急ぎで仕事を終わらせ、皆を車に乗せて出発した。まずは作品をクライアントに届け、その足で劇場へ向かうつもりだった。

 外はひどい嵐だった。作品を無事に届けて取引先近くの駐車場に戻ると、通路脇に出来た吹きだまりの中に小さな車は埋もれかけている。昼間だったが、ライトをつけて車を慎重に発進させた。するとそのとき、妻が不思議な言葉をつぶやいた。

「あなた、私に後ろめたさがあるから、こうして送ってくれるのね」
「えっ?」

 私には妻の言葉が咄嗟に理解出来なかった。後ろめたさってなんだ?私は妻を問い詰めた。すると妻は、私たちに苦労かけて申し訳ない、って常々思ってるからこうして無理して送ってくれるのよ、と表情を固くする。
 思わず絶句した。図星だったからではない。妻の言葉があまりにも意外だったからだ。そんなことを考えていたのか…。
 私は単純に家族の一員として、少しばかり自分の時間をやり繰りしただけだった。もちろんそこに後ろめたさの感情などみじんもなく、何かの感情が働いたとすれば、単純な思いやり、善意、愛情のたぐいに他ならない。それを妻は「後ろめたさ」だと決めつける。
 私はその言葉に驚くと同時に、そんなふうにしか夫の行動を捕らえられない妻に、危ういものを感じた。妻の心はすっかりねじれてしまっている。だがまて、そんなふうに彼女を追い込んだのは、他ならぬこの私ではないのか…。

 その日はそれ以上何も追及せず、しばらく時間を置いて妻の気が落ち着いた頃を見計らって、そのときの妻の言葉をさり気なく持ち出した。

「あれってさ、要するに君自身の中にそんなふうに計算づくで行動する面が潜んでいる証しだと思うよ。損得や打算で家族の送り迎えをする父親がいると思うのか?少なくとも、俺はそんな男じゃないよ」
「えっ」
 今度は妻が驚く番である。

「つまり、人間の他人に対する発想ってのは、しょせん自分の価値観の中から出てくると思うんだ。だから…」
「………」
 妻はそれですべてを悟ったようだった。

「私にもそんな邪悪な面があることを、あの日初めて知らされた」

 あとになって、妻は懐かしむような顔でしばしばそのことを口にする。自分は善意に満ちた人間だとそれまで固く信じて疑わなかった。あなたは私の心の奥に潜む小さな悪魔を、白日の下にさらしてくれた。あの日以来、私は自分の視界が大きく広がったような気がする…。
 以来妻と私とは、その日のことを「こぐま座事件」と呼び、記念碑のように長く記憶に留めている。ときに頭をもたげる互いのわがままに対する、ある種の戒めとして…。



凍る水



 こうしてそれぞれの胸の内に複雑な思いを抱えながらも、1984年の年が明けた。その年はことさら寒さが厳しく、安普請の木造アパートは連日の寒波で冷凍庫のように凍りついた。
 一月の下旬。その日も氷点下10度を越える寒い日で、日中になっても気温は一向に上がらない。夜は水道管の凍結を防ぐため、水の元栓を抜いて就寝につく毎日だったが、この日は日中にいきなり水道の水の勢いがなくなり、そして止まってしまった。南の国の方々には信じられないことだろうが、なんと使用中の水道が寒さで凍りついてしまったのである。

 凍結箇所は察しがついていた。地下の物置を貫通している吹きさらしの水道管に違いなかった。専門業者を呼べば比較的簡単に解凍処理をしてくれるが、こんな日は業者もてんてこまいで、半日以上待たされるのは目に見えていた。
 もちろん「後ろめたさ」からではなく、家長としての使命感で、私はドライヤーを抱えて自分で解凍処理を施した。一番怪しいのは基礎床コンクリートの貫通部分である。ここは外部の寒気がもろに伝わってくる箇所なのだ。
 刺すような寒さに耐えながら、ドライヤーをあてた。30分ほどたってようやく、「水が出たわよ!」と妻が教えにきた。ほっとしたのも束の間、あくる日も同じような日中の凍結騒ぎ。いくら仕事が忙しくとも、こればかりは放っておけず、またまたドライヤーを抱えての解凍作業が繰り広げられる。

 この冬、いったい何度こんな馬鹿げた作業を繰り返しただろう。ようやく寒気が和らいだころには、寒さの中で繰り返し作業をしたせいで、今度は私がたちの悪い風邪にやられ、数日間寝込む始末。
 すべては安普請のアパートのせいだった。水道管の貫通部分に断熱材を巻いていない完全な手抜き工事である。引越しの準備で余裕がなく、わずか一日であわただしくアパートを決めてしまったことを私は悔いたが、すでに手後れだった。

(このアパートにはもういられないな…)

 どこへ引っ越すあてがあるというわけでもないのに、久々の病の床で、そんなことをぼんやり考えた。五人の家族のリーダーとして、私には最低限の生活を確保する義務と責任があった。



不意に襲った疼痛



 どんなに厳しい冬でも、必ず春は訪れる。長かった冬もようやく終わりを告げ、北国に待ちかねた春がやってきた。
 五月に入り、北の木々が一斉に芽を出し始めるころ、相変わらずの徹夜仕事を続けていた私を、突然の激痛が襲った。脂汗の流れるような激しい脇腹の痛みに、最初は盲腸かといぶかったが、痛みは次第に脇から背中へと移動していく。

(これは普通じゃない…)

 夕食のトンカツが胃にあたったんじゃないの、と妻は呑気に構えているが、私は自分で事の重大さを察知した。

「病院に行ってくる」

 そう言い残し、痛む腹を押さえながら一人家を出た。夜の七時ころで普通の病院ならば当然閉まっているが、急患は二十四時間いつでも来院可、という有り難い病院が近所に開いたばかりだった。
 痛みのせいでとても車は運転出来ない。タクシーで行くには近すぎて、救急車を呼ぶのは大げさ過ぎる…。そんなつもりで歩き始めたのに、激しい痛みで歩くことさえままならない。はうようにしてようやくたどりつた病院でのさまざまな検査の結果、医者がおもむろに示したレントゲン写真には、小指の先ほどの白い固まりが写っていた。

「これは腎臓結石ですね、盲腸ではない」

 体質もあるが、いままで一度も発病したことがないのなら、急激な生活様式の変化が関係あるかもしれない、と医者は言った。
 今回は大きくなっていた石の一部が欠け落ちただけで、その痛みに過ぎない。石のかけらが膀胱に落ちれば痛みは和らぐはずだが、いずれおおもとが動き出したら、こんなものじゃない、と追い打ちをかける。確かにその説明を受けている頃、痛みは徐々に薄れ始めていた。

「治す方法はありますか?」すがる思いで問う私に、
「自然排出するには石がちょっと大きすぎるので、場合によっては手術ですね」」

 保険の効く普通の手術なら、背中を開いて最低一ケ月は入院。高周波を使ったドイツ製の最新器械が地元に一台だけあって、これなら一日の入院で済むが、まだ保険対象外で治療費は150万ほどかかる、と医者は矢継ぎ早に言ってのけた。
 一ケ月の入院、背中を開く、150万、そんな言葉がランダムに頭を駆け巡る。それから私が自分の腹に抱え込んだやっかいな石との、壮絶な闘いが始まった。



石との戦い



 痛みどめの注射などの措置をしてもらい、とりあえずの発作は治まった。だが、いつなんどきまた石が動き出し、悪さをするかは誰にも分からないと医者は言う。もし大石が動き出して尿管に詰まってしまった場合、生死の問題になるので、どちらの手術にするのか覚悟を決めておくように、そう引導を渡された。
 妻とも話し合い、万一のときは預金を取り崩してでも高周波治療を受けよう、と決めた。150万は途方もない出費だったが、メスを入れずに高周波だけで石を砕き、自然排出させるやり方が身体にもいいはずだった。
 たとえ一ケ月入院しても、それなりに補てんしてくれる生命保険に加入してはいたが、私が最も怖れたのは、せっかく軌道に乗り始めた事業が入院によって頓挫しはしまいか、という強い懸念である。開業してまだ一年半余、まさにここが正念場だった。

 いつ爆発するか分からない爆弾を身の内に抱えながらも、医者に聞いたり、本で調べたりした腎臓結石の予防方法を、懸命に試した。
 長時間椅子に座ってばかりいてはいけない、と医者からきつく諭されていたので、平日の真っ昼間でも臆せずに子供と公園で遊ぶように努めた。うまい具合に、ちょうどこの時期に長男の幼稚園でサッカー学習が始まり、「運動は激しいほどいい」という医者の言葉を信じて、毎日のようにサッカーに興じた。結果的にこのサッカー遊びが、子供との時間をより長く共有する絶好の場となった。
「ビールには石を溶かす薬のような働きがある」と聞き、晩酌はビールと決めた。石の元になりやすい成分を取り過ぎぬよう、食事にも気を配った。
 石が割れて動き出すと痛みが走るが、このとき昔の軍隊では縄跳びを長時間させて自然排出させたと聞き、夜中に痛みの発作がくると真似をした。といっても、実際に外へ出て縄跳びをしたわけではなく、板敷の固い床の上にレンガを二個積み、反動をつけながら踵で昇り降りを延々とくり返すのである。痛みをこらえての深夜の単調な動作のくり返しは、時に数時間にも及んだ。

「可能性は低いが、もし石が小さく割れて少しずつ自然排出されたら、手術は避けられますよ」

 そう医者が言った1%のかすかな望みに、すがる思いだった。



自由業は身体が資本



 こうして三ケ月が過ぎた。暑い夏が過ぎ去ろうとしていたころ、かってない激痛が背部を襲った。それまで痛みは断続的に訪れ、懸命な努力の甲斐あって、石は少しずつ砕けて排出されていた。だが、レントゲン写真を見ると、まだ小指の爪ほどの大石が腎臓の真ん中に居座っている。

「この石が一度に動き出したときが勝負です」

 最初よりは随分小さくなったが、それでも尿管をくぐり抜けるには、ぎりぎりの大きさだ、と医者は腕を組んだ。どうやらその大石が、ついに動き始めたらしい。
 歯をくいしばって激痛に耐えた。もし我慢出来なければ、即刻高周波治療器のある病院にかけ込む手筈になっている。数時間が過ぎた。あまりの痛みで気を失いそうになりつつ、懸命に耐えた。ふと気づくと、痛みが徐々に薄らぎ始めている。
(石が落ちたな…)私はそう直感した。

 病院に出向き、レントゲンで検査すると、案の定、きれいに石が消えている。

「レントゲンでははっきりしませんが、たぶんいま膀胱あたりでしょう。ここまでくればあとは簡単ですよ」

 よくがんばりましたね。あれだけの石を出す痛みは、女性のお産以上だ、っていいますからね。すっかり顔なじみになった医者は、そのとき初めて笑顔を見せた。
 その二日後に、長い間私を苦しめた石は、「カチン」という金属的な音をたて、あっけなく排出された。その石は「1984.8.24」と書き込まれた小さなガラス瓶に入れられ、いまでも大切に保存してある。
 そんなものを後生大事にとってあるのは、ともすれば日々の忙しさに流され、事業を営むうえで最も大切なはずの健康管理をなおざりにしないための、自分への戒めのためである。自由業はなんといっても身体が資本なのだから。