第8話
  鳴らない電話



DMの確率は3%



 初めての仕事を何とかやり終えたあとも、仕事の引き合いの電話は散発的に鳴り響いた。二百通のDMを一度に発送して以降、二週間程の間に舞い込んだ引き合いの電話は、合わせて六件である。内訳は建築関係が一件で、残りはすべて広告関係からだった。出した比率は約半々だったから、DMに関する限り、反応は広告ルートのほうがはるかにいい。
 また、発送後約二週間を過ぎたあとの新規の引き合いは全くなくなった。この傾向はその後何度かDMを送ったときでも同じだったので、DMの勝負はこの期間内と考えていいと思う。

 電話が結果的に受注まで結びついたものは、広告ルートは100%である。対して建築ルートは一度の訪問ではなかなか受注には結びつかなかった。すなわち、広告ルートは引き合い=依頼、と考えてよく、建築ルートは引き合いはあくまで引き合いであり、それを受注に結びつけるまでにはかなりの営業努力が必要だった。
 単純にDMの引き合い確率を計算してみると、おおそそ3%だが、これが効率的にいいのか悪いのか私には分からない。配布対象の絞り込みなど、もっとやり方を変えれば結果はまた違っていた可能性もある。
 だが、私にとっては、準備段階での行き当たりばったりの飛び込み営業より、このDM配布方式のほうがやりやすかった。なにしろ、相手がこちらに対して何らかの興味があるのははっきりしているのだから、あとは自分の作品見本の出来と、価格次第で受注に結びつく。飛び込み営業の恐怖にさらされることもなく、電話ノイローゼの問題さえ解決出来れば、職人気質で営業センスに乏しい私むきの方法だった。

 もちろんこのDM攻勢にも欠点はある。おそらくどの業種にも当てはまるはずだが、ことDMに関すれば、大手企業の反応はすこぶる悪い、というより、皆無である。これは対象の業種が広告であろうが建築であろうが同じだった。
 反応が良かったのは、いずれも社員数が五十人以下の企業である。大企業の場合、おそらく組織が大きすぎるため、DMそのものが担当者の手元に行き着く前に書類の山に埋もれてしまうのだろう。こうした大企業に出す場合、ある程度無駄を承知で出す覚悟が必要だ。
 とはいいながら、やはり大手は支払い条件や信用面で魅力がある。金融機関から貸し付けなどを受けるとした場合、取引先に大手が含まれていると有利に働くこともあるようだ。実はこんな私にも大手の取引先がいくつかある。だが、きっかけはすべてDM以外だった。もしあくまで大手を相手にしたいなら、やはり何らかの形でアポイントをとって、直接訪問する営業努力が必要なのだと思う。



自分の作品が新聞に



 こうして一ケ月が瞬く間に過ぎた。無我夢中でこなした仕事の数々は、気合いをこめて描いたこともあり、クライアントの評判は悪くなかった。
 作品見本を持ち込んだとき、強い興味を示したのは圧倒的に広告関係の企業だった。最初の目算通り、エアブラシを使った斬新なタッチが、時代感覚に鋭敏な広告マンの気を惹いたのは間違いない。開業にあたり、タッチをエアブラシ一本に絞った大きな賭けが吉と出たようだ。名刺の片隅に小さく擦り込んだ「一級建築士」の肩書きも、相手の信頼を得るに充分な働きをしてくれた。

 開業して二ケ月が過ぎた頃、ある大手ハウスメーカーの北海道地区新モデルの住宅発表にあたり、私のパースが使われることになった。メーカーからの直接受注ではなく、地元の小さな広告プロダクション経由の仕事だったが、これもこまめにDMを配った成果である。
 これは広告に限ったことではないと思うが、仕事とは不思議なもので、人と人との縁によって細い枝葉が思いがけない場所につながっているものだ。会社の構えだけで安易に相手を判断してはいけない。そんな単純な教訓を最初に得たのがこの仕事だった。
 九月下旬、苦労して描いた私のパースが、そのハウスメーカーの五段広告として地元新聞に掲載された。北欧風の外観がエアブラシのタッチによく似合っている、と我ながら思った。作者の名前はもちろん掲載されていないが、自分の作品が新聞の広告欄を飾るという喜びは、創作に携わる人間にとって何物にも代え難いものだ。

「これは私の描いたものなんです」

 道行く人々にそう言って新聞を見せびらかして歩きたい。そんな馬鹿げた思いまでが沸き上がった。いま眺めてみるとどうということもなく、ただ仕上がりの粗さが目立つばかりだが、このとき掲載された新聞の切り抜きは、スクラップブックの奥深くに大切にしまってある。

 その後も同じような経験を数多く味わったが、印刷物の中に自分の作品を見いだすたび、まるで自分の分身がそこに息づいているような不思議な感慨に包まれる。もちろんそれは不快な感覚ではない。うだうだ言いながらも、この仕事を延々と続けていられる理由のひとつが、案外こんなところにあるのかもしれない。



途絶えた仕事



 十月に入り、ふと気がつけば街には秋風が吹き初めていた。このころ、仕事の依頼がぱたりと途絶えた。わずか数社ではあったが、一、二度注文がきたクライアントからの電話もなぜか鳴らない。
 開業以来一ケ月余、当初の不安を吹き飛ばすような順調な出足に、(独立なんて案外簡単じゃないか…)とたかをくくり始めていた私も、電話の鳴らない日々が一週間、十日と続くうち、さすがに放ってはおけなくなってきた。

(結局、最初のもの珍しさだけだったのか…)

 ひょっとすると、もう二度と電話は鳴らないのではないのか?そんな否定的な考えばかりが押し寄せて、胸が押しつぶされそうになる。電話ノイローゼの再発である。なぜ突然仕事がこなくなったのか、はっきりした理由がつかめなかった。

 いまだからこそ言えることだが、仕事には必ず波があるものだ。好不況などの経済の波、季節の移り変わりや気象変動による物理的な波、企業決算や金融公庫の融資時期などによる社会情勢による波…。これらいろいろな条件が複合的に混ざり合って、仕事がある時期に集中したり、ぴたりと途絶えたりする。仕事がないときに、一個人の自由業者がじたばたしても仕方がない場合が多いものだ。十月の北の建築業界は、おしなべて暇であるらしいことが分かったのは、その後数年たってからである。
 だが、独立したての私にそんなことが分かるはずもない。あわてた私がとった行動は、再度のDM配布を試みようという攻撃的なものだった。街にはあみんの「待つわ」の美しいハーモニーが流れていたが、歌の主人公のように、鳴らない電話を「いつまでも待つ」悠長な気分には、とてもなれなかった。
 もう一度チェックリストを広げ、最初の配布対象から外しておいた都心部以外の広告業者、そして都心部の建築関連業者、合計百五十社をリストアップした。妻の助けを借りての深夜の宛名書きが、またまた繰り広げられた。

 だが、勇んで投函した二度目のDMの反応は、一度目に比べて芳しくなかった。都心以外の企業を対称にした広告業界の反応の鈍さは、ある程度予想していた。だが期待していた都心の建築業界は全滅である。
 おそらくこれは広告と建築それぞれの業界の体質のようなものなのだろう。広告というものは本来、新聞やテレビ、各種印刷物を介して一般大衆に訴えかけるものである。DMという媒介に対しても抵抗が少ない。何しろ、自分たちがいつも手がけている手段のひとつなのだ。
 対して建築業界はどうか。自分たちが仕事を受注するにあたり、DMという手段を使うことは稀である。テレビや新聞、チラシを使った広告活動をしているハウスメーカーやマンション業者あたりはまだしも、大手のゼネコン、設計事務所あたりは、あくまで紹介や入札、そして接待や足を使った営業が主体であろう。当然、下請け業者にも同じ価値観で対応してくる。

「DM一枚で仕事をもらおうなんて、考えが甘い」

 そんなふうに考えるのは当然とも言える。「相手のやり方にあわせる」という観点では、建築業界に対する営業は直接訪問が欠かせないのだろう。
 どんな商売でも営業対象をどのあたりに絞り、どう攻めるかは至難の技だと思うが、一歩選択を間違えば商売の先行きにも関わる重要な課題であることは間違いない。



タッチが暗い?



 さて、「都心部にある広告業者」という最大の切り札を最初の配布で一気に使い切ってしまった私だったが、それでもわずかな引き合いの電話を頼りに、営業回りに励んだ。
 ある小さな広告プロダクションでの出来事は、それまでの私のやり方に強烈な打撃を与える忘れられないものとなった。

「タッチが新しいことは確かに認めるんだけど、なんていうかこう、作品全体がちょっと沈んだ感じがするんだよね」

 おそらく私よりは若そうな担当者は、作品集を見るなり、歯に衣着せぬ口調でそう言い切った。具体的な発注仕事があったわけではなく、単に私のDMに興味を惹かれて電話をくれただけの相手である。気に入って貰わなければまた次の相手を探せばいい、と割り切ってしまえばよさそうなものだったが、そう簡単にやり過ごせない強い説得力が彼の言葉にはあった。
 実は自分の作品が初めて新聞広告になったときにも、「タッチはこれでいいのだが、なるべく明るい感じに仕上げて欲しい」と注文がついていたのである。そう言われるだけの心当たりが私の中にあった。

 話は専門的になるが、エアブラシで建物を描く場合、最初に窓内部を仕上げ、次に窓枠、屋根、壁の順に仕上げていく。壁の側面は正面に対して当然暗くなるので、黒系のインクを軽く吹いて仕上げる。こうしないと建物全体に立体感がでない。このとき、私は当然のように窓内部や窓枠をも同時に暗く吹いていた。この過程がどうやらまずかったらしい。
 実際の建物ではそうなっていても、いざ表現として正直に同じように表現するかどうかは、全く別問題なのだ。現実はそうでも、イメージとしては窓内部や白い窓枠は陰影をつけず、明るいままにしておいたほうがはるかにメリハリのついた表現になる場合も多い。いまは当然のように思えるそんな理屈も、駆け出しの私にはまるで分かっていなかった。



作品見本の作り直し



 率直な広告デザイナーの一言で我にかえった私は、より明るい仕上がりになるよう、作品見本をすべて書き直すことを決意した。「暗い」と「重厚」はイメージとしては紙一重かもしれない。回った相手が建築業界中心であれば、また反応は違っていただろう。だが、当面のクライアントが広告業界であり、そのニーズがより明るいものである以上、タッチもそれに合わせる必要があった。時代を先取りしたはずのエアブラシが「暗い印象」では、お話にならない。

 制作工程を一から見直し、窓の内部表現や壁の明暗部とのバランスなど、それまでのような誰かの物真似ではなく、自分なりに納得いくものが出来るまで試行錯誤を繰り返した。二、三種類の色しか使ってなかった窓内部の表現も、五、六種類のインクを何回かに分けて吹きつけ、微妙な色合いを作り出すことに成功した。もともと仕事が途絶えていて暇なこともあり、時間はたっぷりあった。鳴らない電話の前でイライラと気をもんでいるより、少しでも手を動かして、新しい見本作りに励んだほうが精神衛生上もはるかにいい。
 DMを繰り返しばらまいたり、飛び込み営業に精を出すのが「攻め」の姿勢とすれば、この一見地味な見本の作り直しは、いわば「守り」の姿勢である。だが、商売では攻めばかりでなく、ときには守りも必要だった。鳴らない電話のストレスに耐えつつ、明るい未来を信じて、私は新たなる見本作りに精を出した。
 最終的に七、八点の作品見本をこの時期に描き直したが、このときに生み出した多くのテクニックは、その後長期に渡って私の創作における原点となった。

 仕事が切れたときに何をして過ごすのかは、どんな業種でも共通の悩みであろう。季節変動などのように、理由がはっきりしている場合、暇にまかせてパチンコに通うなり、趣味の本を読むなり、束の間の息抜きにいそしむのも悪くはない。それこそが時間がある程度自由になる仕事を選んだ者の特権だ、という考えもある。だが、ちょっと待てよ、と私は言いたい。
 組織に属さない気楽さはいいが、裏を返せば、何かが起きても誰も助けてはくれないのが自由業の辛さ、厳しさである。暇なときに何をやろうと自由なのだが、せめて何らかの形で将来の自分への投資となることをやるべきではないか、といまの私は思う。



新たなる攻め



 作品見本の作り直しをしつつも、新たなる「攻め」の準備も怠らなかった。そのひとつは一級建築士事務所の登録である。
 一級建築士はただ資格を持っているだけでは仕事は出来ない。所定の書類をそろえ、しかるべき手順で都道府県知事に届ける必要がある。もちろん建築パースの仕事自体に建築士の資格は必要ないし、建築士事務所の届け出も不要だった。だが、逆に建築士の有資格者がその立場を利用して建築パースの仕事をする場合、どうやら正式に届け出を出しておいたほうが無難であることが分かった。建築士の描いたパースは、設計図書の一部とみなされるらしいのだ。

 建築士事務所の新規登録には、結構なお金がかかる。当時で確か七、八万かかったはずだ。だが、一度届け出を出しさえすれば、五年は更新せずに済む。いろいろ考え、結局私は届け出を出すことにした。しばらくは建築パース一筋でやる覚悟ではいたが、不測の事態が起こって、いつなんどき建築設計の仕事に携わるようになるかもしれない。そんなときのためにも取り合えず登録だけはしておこうと思った。
(このときの決断が、のちに思いがけない場面で私を救うことになる)

 あわせて私は、新規開拓の情報収集にも努めた。既存の主な企業へはすでにDMを発送してしまっているので、次なるターゲットは新規顧客である。すなわち新規開業したり、業務拡張のために新しく札幌に支店を開設しようとしている企業に的を絞った。
 やり方は単純で、毎日の新聞の求人欄にくまなく目を通すだけである。何らかの形で業務を拡大しようとする場合、まずは新規求人という形で行動を起こすのではないか、と考えた。いまならアルバイトニュースなどにも目を通す必要があるかもしれないが、当時の求人はまだ新聞広告が主体だった。
 この時点では、対象を広告関係一本に絞った。現実に需要が多かったこと、そして、自分の建築士という立場が、建築の専門的知識にやや疎い広告業界で、ある種のアドバイザーとして最も活きると判断したからである。

 こうしてめぼしい広告を見つけるたび、こまめにDMを発送した。もちろん、そのすべてに反応があるわけではなく、何もないほうが圧倒的に多い。それでも私は発送をやめなかった。

「いつか芽を出せ柿の種、下手な鉄砲も打たなきゃ当たらない」

 まさにそんな境地である。
 十一月に入ると、最初のDMで反応のあったクライアントから、ポツポツと二度目の依頼が舞い込み始めた。内容は次年度の新住宅プランが主である。季節はまだ冬の入口だったが、仕事はすでにはるか遠くの春を先取りしていた。そんな仕事のサイクルを知ったのもこの頃だ。
 手探りととまどいと不安の中で、開業一年目の年がやがて暮れようとしていた。年末には年明けに納めるという条件で、かなりまとまった量の仕事が入った。厳しい冬の時代にまいた種が、少しずつ小さな芽を出そうとしている。そんな微かな予感が、駆け出しの私をゆるやかに包んでいた。