第2話
十年だけ辛抱しよう…
会社辞めたら何をする?
入社して二年目の秋に、私は退社を決意した。だが、仮に辞めたとしても、別の会社に移る気などさらさらなかった。自分がこれ以上条件がよく、しかも社会的な意味で働きがいのある会社に移れる見込みもなかったし、何より、どんな会社に入っても、宮仕えである限りは本質的なものは何も変わらない、と本能的に悟っていた。
辞めるなら独立だ。しかも、わずらわしさが少なく、人間関係にも縛られない自由業がいい。自分にはそんな道こそが似合っている…。
学生時代にはまるで分かってなかった、そんな自分の本質的な嗜好がはっきり見えてきたのもこの頃。だが、自由業などと気取ってみても、ただ鼻っ柱が強いだけで、社会で生き抜く知恵すら満足に持ち合わせていない私が出来る仕事など、何ひとつない。やみくもに組織を飛び出してみたところで、どこかでのたれ死にするのは目に見えていた。そこで私は考えた。(十年だけ辛抱しよう。その間に独りでやっていけるだけの力と資金を蓄えるのだ…)
ちょうど私が二十五歳になったばかりの冬だった。十年たったら辞めよう、あと八年の辛抱だ…。私はそう自分に言い聞かせ、ひたすら仕事に励んだ。
この時点で独立して何をやるのか、具体的なことはまだ何も決めていない。決まっているのは辞めることだけという、まるで雲をつかむような話なのだ。
当時、ぼんやりと考えていたことは、(あいつを辞めさせるんじゃなかった…)と会社にほぞをかませるような人間をめざすことだった。つまり、それくらいまでに自分を高めることが出来れば、たとえ辞めて何をやるにしても、何とかやっていけるのではないか…。
その頃の私を支えていたのは、そんな漠然としたイメージだけだった。
割れ鍋にとじぶた
これまでの文章からもお分かりのように、私には非常にネガティブでラジカルな一面がある。ときには自分でもそれを持て余すほどで、会社に限らず、組織というものにはどうにも融合出来ないものを身の内に抱え込んでいるようだ。
だが、そんな私にも目をとめてくれる女性がちゃんといて、入社三年目の春に私はめでたく結婚することになった。相手は先に書いたように、かって私を窮地から救ってくれた先輩OLである。婚約の時点で、私はすでに将来の退社を決意しており、そのことは当然彼女にも伝えなくてはいけない。
「俺、いずれはこの会社辞めるよ。故郷の北海道に帰って独立するつもりだから、そのつもりでいて欲しい」
恐る恐る切り出した私の話を、はたして彼女がどの程度本気で聞いていたのか。そんな無謀とも言える申し出に、彼女は困惑のかけらも見せず、
「あらそうなの。いいわよ、私もこの会社はあまり好きじゃないし」
などとあっさり言ってのけ、けろりとしている。よく考えてみれば、例のスケベ部長との大喧嘩の噂に陰で拍手を送ってくれていたのも、他ならぬ彼女である。彼女と私は同じ価値観で結ばれた同志だった。まさに、「割れ鍋にとじぶた」というやつである。私は彼女の中にある私以上のたくましさ加減に深く感謝し、そんな二人の巡り合わせを素直に喜んだ。
街には「シクラメンのかほり」の柔らかなメロディーが静かに流れていた。私はこの歌がとても好きだ。いまでもギターで楽譜なしに、そらで歌えるほどだ。そして歌うたび、出会った頃の妻のことを懐かしく思い出すのだ。
資格は身を助けるか?
結婚を機に私はひとつの決意をし、妻にもすぐにそれを打ち明けた。「実は建築士の資格を取ろうと思っている」
結婚前に脱サラを決意したときもそうだったが、私が何か事を企てたときはすぐに妻に告げている。自分が選んだ人生における最大の理解者なのだから、他の誰をさておいても相談しなくてはならないのは当然である。好き勝手にやりたいのなら最初から結婚などせず、独りで生きていくべきだ。漠然とだが、いつもそんなふうに考えていた。
突然私がそんなことを決めた直接のきっかけは、結婚直前まで担当していた現場で、二級建築士の資格が必要とされたからである。私の父親は若い頃に大工をしており、独学で二級建築士の資格をとった経歴を持つ。私が大学で建築を専攻せず、意地を張るように機械を専攻したのは、父親に対する若き日の反発心からだった。
ところが、入った会社で必要に迫られて土木、建築の勉強を進めるうち、私は自分が建築に向いた資質を持っていることに気づいた。特に興味を惹かれたのは、建築の中にある創造性、芸術性のようなものだった。(将来独りで何かやるなら、建築関係かな…)
私は次第にそんなふうに考えるようになっていたが、その矢先の現場での資格要求である。当時会社には建築士の資格を持つ者は一人もおらず、現場でそれが要求されるたび、親会社の有資格者を臨時の現場代人に立て、急場をしのいでいた。
(よし、この際二級建築士を取ってやろう)
私がそう決意するのにそれほどの時間はかからない。社会に出て三年目に差し掛かり、建築に生涯をかけた父親の心情も少しは理解出来るようになっていた。
取っただけで簡単に食えるような資格はそうあるものではない。二級建築士もしかりである。だが、その資格はいまの仕事に確実に活きるだろうし、何より、自分の気概や実力を試すには絶好だと考えた。将来独立するときに、何かの役に立ってくれるかもしれない。そう決めると、すぐに本屋に走って参考書を買い集めた。調べてみると、学科試験は四ケ月後の八月である。それからの四ケ月は私にとって非常に充実したものとなった。新婚気分にはそこそこ浸りつつも、もう一方では、それまでほとんど知識のない分野に集中しなくてはならない。
巷には専門の予備校のようなものもあったが、金と時間が惜しく、ここでも独学を通した。時間を有効に活かすべく、行き帰りの通勤電車の中や会社の昼休みにも参考書を広げた。昼食を外でとるとやはり金と時間が無駄になるので、毎日愛妻弁当持参である。試験が迫ると、弁当を食べながら勉学に励んだ。夜は妻が眠ったあとも一人机に向かった。充実した時間だった。
四ケ月後、私は四科目の学科試験をすべて通過し、学科試験合格者だけに許される製図試験にも一発で合格を決めた。この成果を、妻の協力抜きで語ることは出来ない。独立してどんな事業を始めるのか、ただ単に建築関係というぼんやりしたイメージがあるだけで、この時期になってもまだ具体的には何も決めてなかった。いずれ会社を辞めることは結婚前に妻も承諾していたが、この頃になると些事にこだわらない妻もさすがに不安になったようで、「辞めるのは構わないけど、辞めていったい何をするつもりよ」と私を詰問し始める始末である。さすがに私も窮地に追い込まれた気分だった。
そんなとき、私は自分の将来を決定づける、一冊の本に偶然出会うことになる。
建築パースって何?
その日は土曜日で、私は会社帰りにときどき立ち寄る書店にいた。ぶらぶらと本棚を眺めながら歩いていたとき、ふと一冊の本の背表紙が目についた。タイトルには「10万円独立商法」とある。最初は単なるノウハウ物かと思ってやり過ごしたが、どうにも気になる。たくさんの本の中で、なぜかその文字だけが妙に光って見えたのだ。
引き返して棚から抜き取り、開いてみると、「あすから開業できる40業種」と名打って、具体的な脱サラ方法がこと細かに書いてある。パラパラとページを繰るうち、私の目はその内の一業種に釘付けになっていた。「ブームに乗る建築パース」
(建築パースって何だ?)
恥ずかしながら、そのときまで私は建築パースの何たるかを全く知らなかった。読み進むうち、それが図法にしたがって建築物の完成予想図を描く、新しい仕事だと分かった。
「建築とデザインのセンスがあれば技術の習得は容易」「まだ技術者が少なく、将来有望」などと、私の気を惹く言葉が並んでいる。私はその本を握りしめ、即座にレジへと向かった。『10万円独立商法』三宅竹松著/広済堂出版
購入年月日は1976.11.27、書店は港区虎ノ門書房、とメモ書きがある。帰宅してから、むさぼるようにその項を読んだ。特に興味を惹かれたのは、「元手は5万円程度」「自宅の四畳半で開業可」の箇所だった。
資本を投入し、大きく構えて開業するやり方は自分には合っていない。万が一失敗してもリスクの少ないやり方。当時、独立に関しては漠然とそんなイメージを持っていたので、まさに自分にぴったりの業種に思えた。もともと図面を書くのは好きだったので、技術の習得に対する不安はない。
よし、これだ、これをやろう。結婚に至る男女の最初の出会いにも似た、ある種の閃きが鋭く身体を走った。唯一気掛かりだったのは、絵心のことだった。建築パースには単純な建物の線だけではなく、樹木、車、人物その他の点景を加えなくてはならない。機械科出身で、固い線一本やりだった自分にはたして出来るか…?
だが、すべてが最初から思い通りになるはずがない。苦手な部分は努力でカバーすべし!私はそう前向きに考え直した。
通信教育で技術習得
こうしてついに目標は定まった。事に当たっての私はいつも性急である。ただちに建築パースの技術習得についての資料を集めた。都内にもわずかながら専門学校があり、夜間六ケ月コースなどというものが用意されている。だが、二級建築士のときと同じく、時間と金がとられるこうした手段には、どうしても食指が動かなかった。
結局私が選択したのは、安上がりで時間の制約はないが、厳しい自己管理能力が要求される通信教育による学習法である。資料によると、建築パースの基礎からカラー着色までを合計六ケ月コースで習得、もしこの期間での卒業が無理だった場合、もう六ケ月だけ追加料金なしで延長可能、とある。まるで自分のために用意されたようなこの通信教育に、私は飛びついた。だが、実際に勉強を始めてみると、思っていたより道は険しかった。いくら私が製図学の専門教育を受けていたとはいえ、しょせんそれは二次元での表現の話である。そもそも建築パースとは、平らな紙の上に三次元で正確に対象の形を描く図法だったのだ。
勤めが終わったあと、誰も教えてくれる人も相談する人もいない夜更けの部屋で、教則本だけを頼りにコツコツと課題を仕上げる孤独な作業が続いた。ともすれば投げ出しそうになる気持ちをかろうじて支えていたのは、「独立」とか「脱サラ」とかいう言葉の中にある耳障りのいい響きなどでは決してなく、結局は、(絶対辞めてやる、そしてあの会社に鼻を明かしてやる…)という意地と反骨心だけだった。何とか八枚の基本課題コースをやり終えたときには、すでに五ケ月近くが過ぎていた。苦労のかいあって、図法に基づくこの基本コースでの私の得点はすべて百点満点。だが、課題が着色コースへと移った段階で、私は再び大きな壁にぶつかった。案じていた通り、人物や樹木などのデッサンや絵の具と筆による表現力の部分で、やはり行き詰まってしまったのだ。
戻ってくる課題には赤が俄然多くなり始め、それに伴って得点も六十点前後に激減。何より、それまで一ケ月弱で仕上げていた課題のペースが、極端に悪くなってしまったのだ。
やむなく通信過程をもう六ケ月延長。残された半年でもし卒業出来なければ、将来の開業はおぼつかなくなる。それからの半年間といえば、家にいれば筆を握っての練習、外に出れば参考になりそうな建物や樹木、人、車の観察と、まさに建築パース一色の日々だった。
(外出するとこうして辺りを観察する癖は、いまだに抜けていない)そして半年後、残りの六枚の着色コースをどうにかやり進め、正月休みを返上して仕上げた最後の課題がついに完成する。当時の自分としては会心の出来で、添削されて戻ってきた作品の点数はそれまでの着色作品の中では最高の九十点。先生の赤字で「良く出来ています。卒業おめでとう!」とあり、ようやくひとつの山を乗り越えた思いだった。
他の十三枚の課題はすべて捨ててしまったのに、この最終課題だけはどうしても捨てられず、いまだに私の資料ファイルの奥深くにしまいこんである。いま広げてみるとまるで稚拙な作品で、とてもここで公表する気にはなれないが、自分の切り開いた道の原点を見る気がし、感慨深いものがある。