真駒内養護学校・おやじの会夏祭り /2008.7.5
3年前の夏に歌わせていただいた、真駒内養護学校おやじの会主催の夏祭りに、再び招かれた。当時のセルフレポにも記してあるが、まだギター弾き語り活動を始めたばかりの頃で、正直いって出来はあまりよくなかったと自分では思っていた。
歌ったこと自体すっかり忘れていたが、数カ月前に担当のAさんから3年ぶりに電話があった。今年の出し物についてメンバー間で話し合ったところ、私の名前が出て、ぜひまた歌っていただきたいということになったが、まだ活動を続けられていますか?といった内容である。
しばらくは半信半疑で、「本当にまた私でいいんですか?」と何度も確かめたほど。ライブの自己評価などあてにならないものだと、妙なところで感心してしまった。出来が良かった悪かったと一人であれこれ落ち込まず、ただヒタムキに歌いなさい、ということなのだろう。
先方の注文がひとつだけあり、前回臨時ユニットを組んで数曲を歌ったMさんと、また一緒に歌って欲しいということだった。前回、Mさんとのユニットが好評だったので、今回は私のソロとユニットを半々くらいの比重まで増やすことをその場で提案。細かいことはMさんと私とで、直接打ち合わせることになった。
問題はこの春、Mさんが札幌から道北の旭川に転勤してしまったことだ。学校関係者として多忙なMさんと、前回のように自宅で事前に音合わせをすることは、事実上難しい。
そこで、以前から暖めていた「ネットを利用した遠距離ユニット」の構想を、初めて試してみることにした。本当は道南に住む息子とやるつもりの案だったが、具体的なライブの予定が決まっている以上、こちらを優先すべきだった。
さっそくMさんにその旨をメールで連絡。まず、二人で歌う予定曲を前回の経験を元に7〜8曲リストアップし、Mさんの意見をうかがった。
Mさんは私と同年代だが、長いギター弾き語りの経験があり、教育にもそれを十二分に活かしている。ステージも学校関係を中心におよそ月に一度のペースと本格的だ。そんなMさんの意見も参考にし、数曲を追加修正する。
仮決定した候補曲の中で、互いに知らない曲が1曲ずつあったが、この際練習してレパートリーに加えましょうという、前向きの結論に至った。
候補曲が割に早く決まったので構想通り、まずは全曲を私が録音する必要があった。あれこれ多忙な時期だったが、頃合いをみて「自宅スタジオ」にて、全曲を一発録音。MDコンポとパソコンをケーブルでつなぎ、ソフトでネット用のMP3音源に変換処理した。音はこれでひとまずOKである。
楽譜は私のパソコンソフトに入っている分を「スクリーンショット」という技でそのまま汎用のjpg画像変換。そこに私の考えた互いのパートを注釈として直接文字で打ち込み、音源とセットにして、私の持つネット上のフリーエリア(2G所有)に送信した。
このあと、全部で8セットのファイルが入っているアドレスの「閲覧許可」というものを、Mさんにメール送信。カバー曲ばかりなので、他の誰かに聞かれるかもしれない手法は著作権上、まずいのである。また、某大な容量となる音源ファイルを、メール添付で送信するのは先方に負荷がかかり過ぎ、現実的でない。
これにより、ネット環境さえあればいつでもどこでも機種やOSを問わず、Mさんだけが楽譜を見ながら私の声に合わせて一緒に歌えるという仕組みだ。「遠距離ユニット」の完成である。
ほどなくしてMさんから連絡がきた。
「うまく閲覧できました。いい方法ですね!」
幸いなことに、Mさんと私はキーがほぼ同じ。声質も非常に似ている。ギターはMさんがやや上か?いずれにしても、これだけ準備をすれば、互いのパートやキーは当日早めに集合して微調整すれば、大きな問題はないと思われた。
音源と楽譜を手配したのが5月末だったが、本番の日はあっという間にやってきた。前回、会場設置のPAの調整がうまくいかず、持参のPAを使った経緯があるので、念のため今回も自前のPAを持ってゆくことにする。マイクスタンドやマイクセット、譜面台や楽譜もすべて2セット準備。移動用の荷造りは手慣れているが、早朝に出発する必要があったので、準備はすべて前夜に整えた。
ギターを含め、荷物は全部で4つ。コンパクトにまとめたつもりでも、それなりにかさばる。この日は久しぶりに妻に休暇をとってもらい、荷物係&撮影係として「引率」してもらうことにした。
朝起きると晴天だったが、なんだかやけに暑い。雨よりいいやと荷物を積み込んで午前9時過ぎに家を出たが、クーラーのない車の中はどんどん暑くなる。気象の急変に備え、Tシャツの上に長袖シャツをはおっていたが、すぐに車内でシャツを脱ぐ。
心配していた警察の「サミット検問」にも遭遇せず、すいすいと10時に先方に着いた。機材を運び込んで、すでに旭川から到着していたMさんと、ただちに音あわせを行った。
「遠距離ユニット」などと気取ってみても、直に面会しての練習と比べると、その内容は雲泥の差。幸いに音程やリズムに大きなズレはなかったが、互いのパート分けや間奏の入れ方、終わり方などで微調整を繰り返した。
一通り終わると11時。外に出て会場設営のチェックと、マイクテストをやる。舞台と客席が近すぎ、スピーカーの位置が後ろ過ぎる。しかも舞台が畳1枚分の台を横に二つ並べた形だったので、位置と向きの大幅な修正をやっていただいた。
舞台の位置を5メートルほど後ろに下げ、台を客席にむけて縦に二つ並べて配置する。こうすると、マイクスタンドと譜面台を台の上に置いても、支障なく歌えるのだ。3年前に感じた不都合の修正である。
マイクテストは会場のPAが以前とは格段の差で、持参したミキサーもPAも全く不要だった。ただ、リバーブ(エフェクター)だけは持参のものを使ってもらった。接続に不安があったが、ちゃんとつながなった。
開始は12時15分ということで、12時少し前からマイクテストを開始。Mさんも私もギターはアンプ内蔵のいわゆるエレアコで、マイクを含めて全部で4 本のケーブルが地面をころがったが、すぐにいい音にたどり着く。リバーブも問題なく作動した。音響専門のスタッフをつけていただき、大変ありがたかった。
マイクテストでは本番では歌わない「どうしてこんなに悲しいんだろう」と「カントリーロード」を歌ったが、全く練習していないのに、Mさんもなぜか途中から参入。最後はアドリブでハモリまで入れていただき、まだ本番前というのに、歌を聴きつけてあちこちから人が集まってきだした。
特に、ほんの思いつきで歌った「カントリーロード」は非常にうけた。マイクテストではもったいなかったが、いわゆる本番前の「後の祭り」というヤツか。
予定通り、12時15分からライブ開始。最初は私のソロで7曲歌う予定だったが、リハの段階で「涙そうそう」が「祭りとしてはイメージが暗すぎるかも?」というMさんの意見で中止。ソロのラストで予定していたオリジナル「ありがとうagain」をライブ中に中止した。
会場は早くユニットでの歌を聞きたがっていると、歌っている本人(私)が判断したからだ。しかし、あとで妻に確かめたら、この判断は少し外れていたかもしれない。
イベント系ライブの常だが、会場には純粋に歌を聴きにくる人のほか、屋台でのゲームを楽しんだり、食事を楽しんだりする人も混在している。舞台の上で見た感じでは、真剣に聴いてくれている人は、15〜20人といったところで、舞台から遠い人は、ほとんど歌を聴いていない印象がした。
3年前も同じ感じだったから、特にお祭り系のライブというものは、このようなものか。会場の全ての人々を注視させる力は、もちろんいまの私にはない。
練りに練った当日のプログラムは、以下の通り。
〜マイクテスト
「どうしてこんなに悲しいんだろう」
「カントリー・ロード」
〜最初はソロで
「上を向いて歩こう」
「さくら」(直太朗)
「北の旅人」
「空も飛べるはず」
「帰りたくなったよ」
〜ここからMさんとのユニット「AGAIN」で
「アビーロードの街」
「切手のないおくりもの」
「手のひらを太陽に」
「春の風が吹いていたら」
「うちのお父さん」
「あの素晴らしい愛をもう一度」
〜アンコール
「翼をください」
「またあえる日まで」
歌いながら、暑い太陽がじりじり真上から照りつけた。冷たい水を補給し、タオルで汗をぬぐいつつ歌う。トレードマークのバンダナは絶好の汗止めになった。
あとで調べたら、この日の札幌はこの夏初めて30度を突破したそうで、どうりで暑いはず。Tシャツを準備していって、良かった。
6曲目からMさんとのジョイントとなる。MCも含めて、ニギヤカ系ハゲマシ系の曲を無難にこなす。リハーサルで問題のあった部分は修正されていて、一部アドリブで別構成に変わっていたりしたが、全体としての出来は良かった。よく声が出ていたし、声にも絶好調時のツヤがあったと自分でも思う。
アンコールは2曲。ラストはMさんの提案で、ゆずの「またあえる日まで」を選んだ。私の全然知らないアニメソングだったが、必死で覚えたかいあって、ラストに相応しい盛り上りだった。
13曲歌ってほぼ予定通り、1時10分に合計55分の炎天下ライブが無事終了。全てを見届けた妻が、「すごく良かった」と涙ぐんでいる。泣くほどのものではなかった気もするが、評価の厳しい妻の感想を、素直に受け取っておこう。
「オリンピックじゃないですが、4年後にまたぜひおいでください」とスタッフの方からもねぎらわれた。
「もし次の機会があったら、『AGAIN』というユニット名でやりませんか?」と、本番のMCの中でMさんと会場に伝えた。『AGAIN』すなわち、『もう一度』ということで、Mさんや会場の方々と再びこの場で出会い、そしてまたいつか会いましょうという想いがこもっている。いい名だとMさんも了解して下さった。
4年経ったら、62歳。生きていれば、たぶんまだ歌っていることだろう。生きてさえいればね。