一九九九・春乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
修 理/'99.3
まさか2カ月続けてモニタの故障ネタを書くはめになるとは、思ってもみなかった。だが、それは紛れもない事実なのである。以下、この1カ月の悲惨な経緯を記す。保証切れ寸前になってモニタが故障し、修理に出したことは前回書いた。あわてて修理を依頼したのが2/28。
「1週間から10日くらいは待ってください」という店員の言葉を信じ、10日待った。だが、音沙汰はない。元来がせっかちな私は、店に電話を入れた。すると店は、「そうですね、あと1週間くらいはかかります」と、軽く言う。私は苛立つ気持ちを押えつつも、仕方なく待つことにした。
(いま思い返せば、メーカーに確認を入れずにその場しのぎの返答で逃げるこうした店側の態度に、このとき気づくべきだった)さらに1週間が過ぎた。じっと待てばいいものだが、ホームページの管理はおろか、大事な仕事にまで支障が出はじめていた。なにせ、3D-CGはもちろん、設計台帳、請求伝票、名刺、封筒など、パソコンなしではもう私の仕事は成り立たないのだ。
じりじりとただ待つだけの日々は辛い。3/18に再度の電話を入れた。すると店の対応はまたしても「あと1週間くらいは…」と、ナントカのひとつ覚え。さすがの沈着冷静な私も(←どこが?)(^=^;ここでキレた。
「いったい何日待たせる気ですか。いますぐメーカーに電話を入れて、納得出来る返事をください」
強い言葉の調子に、さすがに店側もあわてたのか、その場でメーカーと掛け合ってくれた。いわく、
「焼けつきというめったにない故障なんで、充分チェックしてるそうです。最低あと1週間、最悪でも今月いっぱいには間違いなくお届けします…」ここまで詰めておけば、もはや裏切ることはあるまい。それが世間一般の常識というものである。あと1週間待とう。店とメーカーの言い分を信じ、私は怒りの矛先を収めた。
だが、問題は山積みになっている仕事の処理だった。手作業で出来るものはその都度片づけてきたが、それも限界である。私はワラをもすがる思いで、親しい友人に電話を入れた。すると持つべきものは友。たまたまノートブックパソコンを買ったばかりというその友人は、快くモニタを貸してくれたのだった。さらに1週間が過ぎた。3/27に再々度、店に電話を入れた。私も相当しつこいが、店もなかなかしたたかだった。
「おかしいですねぇ、もう直ってなくてはいけない時期なんですが…」ととぼける。
だが週末なので、確認は出来ない、週明けにメーカーに問い合わせ、責任を持って解答しますと、相も変わらずのその場しのぎの無責任対応。約束の週明けになってもメーカーからも店からも何の音沙汰もないことで、それは立証されている。
そうこうするうち、月は変わってはや4月。修理を依頼して、足かけ3カ月である。以上がこの1カ月の腹立たしい経緯である。ちなみに、メーカーはどちらかと言えばモニタよりはMOのほうが有名なL社、店は全国展開の量販店A店である。
ここまでコケにされると、もう腹を立てる気力もなくなり、私は修理の上がってくるのをあきらめ、自宅近くにある小さいが良心的な店から、中古の13インチモニタを購入した。購入価格は、なんと余っていたCPUドーターボードを下取りに出した関係で、税込み2500円という破格値。画面サイズは1年前に戻ってしまったが、これで無責任な連中をあてにしないで済む、という解放感からか、気分はすっきりしている。以前、やはり同じように保証期間ぎりぎりで壊れたプリンタのときは、メーカーのアルプス電気と販売店のツクモ電機の対応が素晴らしく、わずか1週間で新品と交換してくれて大変ありがたかった。こういうメーカーと店は応援したくなるし、友人知人にも「あの店はいいよ」「あのメーカーは誠意があるよ」とつい勧めてしまう。
それにくらべて今回のメーカーと店の不誠実さはどうだ?私は決して無理難題を要求してはいないと思う。モノを大量生産し、大量消費する生き方はすでに限界にきていることは、もはや世界の常識である。使えるものは捨てずに、なるべく長く使いたい。直せるものは出来るだけ早く直し、無駄な出費とエネルギー消費を防ぐ。そんな初歩的なことも分からず、ただ新製品だけを売ればいいと思い込んでいる時代錯誤な連中は、ほどなく世間から葬られてしまうであろう。
●教訓:パソコンは目先の価格より、相手の誠実さで選ぶべし
免 許/'99.3
長男が免許を取った。去年の11月あたりから自動車学校に通い始めたわけだから、結構な時間がかかった。それでも記録的な豪雪に見舞われた悪条件の中、路上を1回落ちただけであとはすべて一発で取ったから、まあほめてやりたい。
この長男の運転がやたらうまく、どうみても私の取り立ての頃より遥かに上。車庫入れの腕はすでにいまの私よりうまい。やはり運転は運動神経に比例するものなのか?と妙に感心させられている。
遠出したときでも、家族の中に代わりに運転してくれる人がいれば、私も安心して酒が飲める。家族での行動範囲が、がぜん広がった感じである。費用の25万はすべてバイトで稼ぎだした。これを人に話すと、「偉いねぇ〜」と感嘆されたりするが、このことに関して私も妻も息子たちも、特別偉いという感覚は持っていない。20歳を過ぎたんだし、時間は充分あるんだから、まあそれくらいは自分の力でやれよ、といった具合である。
3人の子供の中で、長男が一番先に免許を取ったわけだが、最初がこうだと、他も当然同じ道を選択することになる。最初が肝心なのである。
そんな長男に感化されたのか、横浜に住む娘から先日「ゴールデンウィークに3週間休暇をとって免許を取ります」とEメールがあった。もう社会人だから、もちろん自前である。女性は運転免許の有無でかなり生活、引いては人生が変わると思う。免許があるだけで、人(男)に頼らずに済むことが結構多いのである。
私の妻も新婚のときに一度だけ免許を取るチャンス(金と時間と場所)があったが、先見の明がなく、むざむざ機会を逃してしまっていまだに免許なし。大雨や吹雪の折など、恨めしげに空を見上げ、「買い物に行きたいんだけど、車を出してくれないかな…」などとなぞをかける。
仕事が暇なときはもちろんつきあうが、多忙のときは断る。こんなとき、当然車は駐車場で遊んでいるわけなので、免許さえあれば何も私におもねる必要はない。免許は花嫁道具でも何でもなく、女性の真の自立への一里塚なのだと私は思う。
ヒカル/'99.3
ヒカルにはまっている。といっても西田ひかるでも光源氏でもなく、年がいもなく宇多田ヒカルなのだ。
テレビのベストテン番組で、ある日急に個性的な歌声が流れてきた。息子たちに尋ねると、最近人気急上昇の若い歌手だという。「よく知らないけど、藤ナントカという昔売れた人の娘なんだってよ」
そりゃ藤純子か?と突っ込むと、どうやら違うらしい。それでは、藤圭子か?と重ねて問うと、おうオヤジそれだ、と息子。
言われてテレビ画面に流れるプロモーションビデオなどよく見れば、奇妙に身体をくねらせるその容姿とハスキーな歌声、そしてつぶらな瞳とぽってりした唇は、学生時代にちょっとしたファンだった、かの圭子さんに、確かに似てなくもない。しかし演歌のスターだった圭子さんの娘が、なんでこんなバタ臭い歌なんぞ歌ってるの…?息子たちも詳しいことは知らなかった。マスコミもタケシの娘がデビューしたときのように、特別大騒ぎしているふうでもない。藤圭子の娘なら、「藤ヒカル」で売り出したほう得じゃないのか?ともいぶかったが、幾度か彼女の歌を聴くうち、どうも彼女はそんな七光なんぞ必要のない、すごいタマなんじゃないか?と思えてきた。
芸能人なら誰もが利用したがる「親の七光」をあえて使わず、素の自分だけで果敢に勝負を挑んでくるっていうなら、いっちょう応援してやろうじゃないか。私はそう考えた。彼女の中の潔さのようなものに惚れたのである。2曲出たCDがすべてベストテン入りしたあたりで、ようやくマスコミも騒ぎ出した。
「アルバムを買ってきてくれよ」
私はそう息子に頼んだ。かって仕事部屋にはいつもFMラジオが流れていたが、インターネットにはまってからは、このところ真面目に歌は聴いていない。CDに至っては、10年近く前に出た「NO-SELECTION」という井上揚水のベスト全集以来、一度も買っていない。だが、そんな49歳の私を動かすほどの強い何かが、彼女の歌声には秘められていた。
しかし、アルバムはまだ発売されてないと息子は言う。それどころか、彼女はまだ16歳の高校生で、テレビ出演もままならないらしい。私はかって「新宿の女」や、「圭子の夢は夜開く」でドスの利いた声を響かせていたころの母親の姿に、ヒカルの姿を重ねあわせた。私はますます彼女のアルバムが欲しくなった。珍しく私が大騒ぎするものだから、気をきかせた長男がアルバム発売日にCDショップに走り、「First LOVE」をいち早く買ってきてくれた。
そしていま私は、毎晩そのアルバムをBGM代わりに仕事に励んでいる。私見だが、彼女の歌声には独特のソウル(魂、精神)が込められていると思う。あの年齢でポップとバラードの両方をこなせる歌手は、そうザラにはいない。彼女の祖父母(藤圭子の両親)から受け継がれた浪花節の精神がそうさせるのか。それとも、幼いころに生まれ育ったというニューヨークの街の光と風が映し出されているのか?
おそらくそうした祖先から脈々と受け継がれたものと、恵まれた環境から彼女自身が吸収したものとの両方がミックスされて結晶したのが新時代の歌手、宇多田ヒカルそのものなのだろう。
その若さと才能からして、彼女は21世紀に君臨する、もしかすると世界レベルのシンガーになるかもしれない。彼女の歌声に感化され、私もここしばらく弾いていないギターを引っ張りだし、歌いだしたい気分になっている。
掃除好き/'99.4
私はとても掃除、片づけのたぐいが好きだ。大仕事を終えてクライアントに納めたあと、散らかった机の上をてきぱきと片づけ、汚れた机をすっきり磨きあげると、(一仕事終えたな…)という、えも言われぬ感慨がひたひたと押し寄せてくる。そんなささやかなひとときが好きなのだ。
おそらくこの満足感が、私を次の仕事へと駆り立てる。だとすれば、私にとって掃除は大いなる明日への活力の源ということになる。仕事が1週間単位くらいで流れているときはいい。ところが嵐のような仕事の波が延々続いたりすると、数週間も机が散らかったまま、という事態も珍しくはない。そんなときはひたすら仕事部屋以外の部屋を片づけたり、磨いたりして気分転換とストレス解消を計るのである。よく考えれば、これほど安上がりで重宝なストレスも、めったにあるものではない。
そんな気分になるのは、たいてい仕事の一段落した深夜の夜食タイムあたりが多い。うまくしたもので、我が妻は掃除、片づけが大の苦手であり、これらの時間帯はたいていどの部屋も散らかっている。で、私の手当たり次第の掃除、片づけが始まるのである。夜食作りに台所に立つと、夕食の洗い物はさすがに片づいているが、たいていの場合レンジ回りやシンク周辺は汚れが目につく。妻が無頓着なせいもあるが、あえて彼女を弁護すれば妻はとても目が悪い。しかも鳥目気味なので、汚れが目につかないのかもしれぬ。
そんなわけで大掃除に限らず、この辺りの掃除担当は比較的目のいい私ということになっている。基本的に私は掃除にはクレンザーを多用する。キャンプ場などでもクレンザーだけは使用が認められているところが多いということでも分かるように、環境に優しい洗剤なのだ。このクレンザーをスポンジかタワシに少量振りかけ、油汚れをキュッツキュッとこすりおとす。これが快感なのだ。
むかし弓道をやっていたせいか、私は結構握力が強いので、汚れは非常によく落ちる。多大な体力が要求される掃除は、案外男向きの家事と言えるのかもしれない。興に乗ると棚に並んでいる鍋釜はもとより、食器棚にあるカップ類の糸底、戸棚のガラス、冷蔵庫の天板に至るまで、徹底的に磨きあげる。
こうして夜食のラーメン作りはどこへやら、深夜の台所にはりついた中年男の異様な掃除格闘劇が、時には30分以上も延々繰り広げられるのだ。
(ちなみに、すべてクレンザーだけで仕上げる)●教訓:クレンザーは地球に優しく、男は掃除に励む
山の彼方/'99.4
11歳の夏まで、周囲を低い山々に囲まれた辺地で私は育った。いまは廃線になってしまった鉄道が通学路の途中を横切っており、時間に急かされない学校の帰り道、私はよく踏み切りの真ん中に立ちつくして、遠い線路の先を見つめて思ったものだった。
(この路をどこまでも歩いていくと、いったいどんな世界にたどり着くのだろう…?)あるいは家の手伝いを早めに終えた夏の夕暮れ、畑仕事から戻る母を迎えに家の外に出た私の上に、血を滲ませたような真っ赤な夕焼け空が広がり、その空を数百羽のカラスが山の向こうを目指して群れながら飛んでゆく。そんな獏とした風景を前にしたときも、同じような思いが過った。
(この空のはるか向こうには、いったいどんな世界が広がっているのだろう…?)中学校か高校か正確なことは忘れたが、「山の彼方(あなた)の空遠く、幸い住むと人の言う…」という詩を習ったことがあって、(確かカール・ブッセの作だったと思う)先生の顔や名前は全く思い出せないのに、その詩に触れたときの感動だけは、えらく鮮明に記憶に残っている。
10代の後半から20代前半の多感な時期、幸せはいつも山の向こう側で待っているものと固く信じていた。地元の大学を卒業後、エンジニアを目指して上京したのも、たぶんこうした心理的背景があったからだと思う。詳しい経緯はこのページにある連載でも触れているので省略するが、結論から言えば私の場合、「山の向こうには幸せはなかった」のである。幸せは自分の足元に転がっていたのだ。ただそれに気づかなかった、掘り出せなかっただけの話である。
人生の夢にしても、男女関係にしても、本当に探しているものはたいていの場合、足元にいくらでも転がっているんじゃないかな、とこの年になって思う。それに気づかないのは、若さだったり、愚かさだったりする。
我が家の子供たちも、長男は一度山を越えて幸いを探しに行ったが、見つけられずに戻ってきた。だが、まだ納得していない様子なので、そのうちまたいつか出かけるかもしれない。長女は山を越えて移り住み、「幸い探し」の真っ最中。末の息子は、毎日小さな「丘」を越え、幸い探しのトレーニング中だ。
まあ、若いうちは納得ゆくまでとことんやってみなさい、と言いたい。私だって「山を越えて」みて初めて、何もなかったことに気づいたのだ。ただじっと動かずにいては、何も見えてはこないだろうし、足元を探してみる気にもなれないに違いない。ましてや、幸いを見つけ出せるはずもないのだから。どれ、ここいらで私たち夫婦も、もうひと掘り足元を探ってみるとしようか…。
コンプレックス/'99.5
二男が髪を染めた。といっても2カ月程前の話だから、かなり色はさめてきたが、まだまだ痕跡は残っている。高校卒業から大学入学までという中途半端に開放された束の間の休暇の折、中学時代からの腐れ縁の友人宅で、密かに毛染めの儀式は執り行われたらしい。
帰宅するなり、咎めようとする親の機先を制するように、彼ののたまった言い訳がふるっている。「ボクはいまの自分の姿がイヤだ。性格や目鼻立ちは仕方ないけど、髪型とかの変えられるものは、気に入ったようにしたいんだ」
髪に色をつけることがお前のお気に入りなのか、と問い詰めると、思っていたより色が強すぎたかもしれない、と自嘲気味にうつむく。だが、翌日になって今度は、日頃から気にしている私ゆずりの縮れた髪を、なんとストレートパーマにしてきた。妻に問いただすと、普通のカット代は出してあげたが、パーマ代は自分で出したという。
今は家を出ている長女と並んで、日頃から二男は要注意人物である。真ん中の長男は、品行方正人格潔白的なところがあり、ある意味で常識的でツマラナイ面もあるが、親に心配をかけることは少ない。親の結婚記念日をちゃんと覚えていて、バイトの金でワインなどプレゼントしてくれたりするのも長男だ。
それに比べ、上と下は何をやらかすか分からない破天荒なところがある。親の記念日など我関せず、なのである。それにしても、髪型くらいでそれほど大騒ぎするほどのものなのかと、妻と二人で若かりし頃の自分たちを振り返ってみた。
私は極めて奥手のほうらしく、高1になっても身長が160センチに届かず、声変わりもせず、髭も生えてこなかった。それが多大なコンプレックスで、そのせいでもともと偏屈だった性格に、より拍車がかかったような気がする。母親譲りの出っ歯もイヤでたまらなかった。
妻のほうはと言えば、大根足が長年のコンプレックスだったと言う。やはりこのせいで、すべてに控え目にふるまってしまうよう、変に性格がねじれたかもしれない、と自己分析する。
だが、悪い面ばかりではなく、コンプレックスを抱えていることで、人の痛みを理解出来るプラスの面もあったように思う。何もせずとも回りからチヤホヤされてしまう美男美女よりは、それなりに欠点のあるほうが、自分を成長させやすいということだ。こうしてみると、かっての私たちといまの二男とに、たいして意識の差はなかったのだ。要するに、青春期あるいは老年期のコンプレックスは誰でもそこそこに抱えているものであり、あとはそれとどうつきあってゆくかにかかっているのだろう。
細い眼が嫌で整形してみたり、黒い髪が嫌で赤く染めてみたり、薄くなってきた頭にカツラをかぶせてみたりと、いろいろあがいてみるのもいい。だが、一番精神にいいのは、たとえデブでも出っ歯でもつんつるてんでも、自分に備わったものと仲よくつきあうことではないか。仮面をかぶり続けるのは疲れるし、自分を認められないのは、もっと悲しい。妻は若い頃と変わらぬ大根足とめっきり増えてきた白髪と、私は薄くなった頭と出っ歯との永遠のお付きあいを決め込んだ。そして、大学に入って新しい友人関係を構築しつつある二男が、再び髪をいじる気配はいまのところない。
間違い電話/'99.5
このところ、間違い電話に悩まされ続けている。かかってくるのには、ふたつのタイプがある。「学校型」と「ニイハオ型」がそれである。
たいていの場合、間違い電話なんぞはただの時間泥棒、迷惑千万とばかりに、つっけんどんに切ってしまうのが普通だろうが、私の場合は常日頃時間に追われていないこともあって、それなりに楽しむ術を心得ている。まずは「学校型」。これは比較的朝早い時間帯に多い。(といっても、9時過ぎ)
「モシモシ、A中学校ですか?」あるいはいきなり「〜先生お願いします」とくる。
どちらも隣の区にあるA中学校あてのもので、下4桁が全く同じ、上3桁の局番が我が家は「865」相手が「856」であるという悲劇からくるものなのだ。実際、「はちご〜ろく」「はちろくご〜」と声に出して読んでみると、なるほど確かに紛らわしい。これでは、ある確率でかけ間違えたとしても無理からぬ。
以前は「A中学校なら865…でなく、856…ですよ」などと懇切丁寧に教えてあげたものだが、いくらたっても減る気配がないので次第に面倒になり、あきれ果ててやめてしまった。
かってはPTAとおぼしき人々からも結構舞い込んだが、短縮ダイヤル電話の普及のせいか、近ごろでは皆無に近い。相変わらずなのは、もっぱら先生からのもの。どうやら職員室でのOA化は、まだまだのようだ。「ニイハオ型」はその名の通り、時を選ばずいきなり「ニイハオ!」などと呼びかけてきて、私たち家族を困惑させるものだ。「シャー先生おられますか?」などと、あきらかに中国相手と思われる内容も少なくない。この間違い電話の事情は、かなり複雑である。
あるとき、「いったいどこにかけているんですか?」と、暇にまかせて相手に尋ねてみた。すると、「そちらは北京の〜先生のお宅ではないですか?」と、まだ相手は疑っている様子。
こちらは札幌ですよ。いったい何番におかけですか?と重ねて問うと、北京の65……と相手は言う。ううむ、確かに65から先の番号は、我が家とピタリ同じだが、頭の8が抜けている。これはきっと何かあるぞ…。「国際電話の最初の番号を教えていただけますか?」
ふと思いついて私は相手にきいた。すると相手は、KDDの呼び出しが「011」、中国の国際認識番号が「8」、相手の番号が「65……」と何の疑問もなしに続ける。ここにきてようやく私は事態を理解した。
「確かに後ろのほうの番号はいっしょですけど、最初のほうでKDDは『011』じゃなく、『001』じゃないですかねぇ。ホラ、その昔デブなオッサンが『001番KDD〜』って、CMで歌ってたじゃないデスカ。(→誰もしらん)(^=^;『011』なら、札幌にかかって当たり前ですよ(だって、札幌の市外局番なんだから)(^=^;」
疑り深い相手もこれでようやく納得。どうやら相手の中国人はかなりの親日家で、日本人留学生の面倒など見てくださっている、奇特なお方らしい。
結局、いくつかの偶然が重なってこうなっているのだが、この分だと相当な数の中国あての間違い電話が、今日も札幌のどこかに舞い込んでいるに違いない。●教訓:かける前、も一度見よう裏表