一九九八・夏乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
た め/'98.6
この春、一浪のすえ大学に進学した長男が小さな悩みを抱えている。学友間の言葉遣いがそれだ。
長男は四月生まれなのですでに20歳である。ところがサークル仲間などには、上級生でありながら現役で合格したために、息子よりも年が下の連中がわんさかといる。相手が女子の場合はすべて「〜さん」で逃げてしまえるが、男子の場合はどう呼んだらいいのか…。
一浪などは当たり前、二浪、三浪だって珍しくもない。そんなふうに大学内で浪人が幅をきかせていた一昔前ならいざ知らず、いまや浪人と現役の比率は1:2にまで減少。浪人が大手を振って歩ける時代ではない。どうにも肩身が狭いのだ。人間関係にも気を配らねばならない。その中核をなす言葉遣いは、息子にとって極めて重要な問題なのである。他ならぬこの私も一浪で大学に入り、同じような悩みに出会った。入った学生寮は8人部屋だったが、2年生の先輩に同じ年の人がいたし、入ったサークルの2年生は6人中5人までもが私と同じ年だった。やっかいなことに、その中のひとりに、高校時代の理数クラスで同じだった奴がいた。これは困った…。
最近、敬語を使わないことを「ため口」というらしい。転じて、「あいつと俺はタメだ」などという具合に、「同学年で気が置けない仲だ」という意味にも使われるようだ。(ちなみに、この「ため口」の語源は不明であるが、あのNHKドラマ「天うらら」でもちゃんと使っていたので、方言ではあるまい)
さて、私の場合はこうした同じ年の相手にも、決して「ため口」は使わなかった。もちろん、高校時代の顔見知りの相手にもである。すべて他の3〜4年生と同じように、「〜さん」で呼び、言葉遣いもそれにふさわしいものを使った。
あいつは上級生でも同じ年だからため口で、あいつは同学年でも二浪で年上だから敬語で…、などといちいち使い分けるのが面倒だったこともある。しかし、学生寮の部屋やサークルをひとつの組織としてとらえた場合、入学年度という単純かつ明瞭な線引きで人間関係にけじめをつけないと、収拾がつかなくなる。私はそう考えた。
社会人になってからは、高卒で入った先輩社員と大卒で入った私との間に、年齢差によるさらに大きなギャップが生じたが、ここでも私は頑なにこのやり方で通した。いま振り返ってみると、ある種の自己保身の意識が働いていた節もある。一見偏屈そうに見えて、これで私もなかなか生き上手だったのか。ところで、時代が一巡した息子の場合はどうなのだろう?私はおおいに興味を引かれたが、結論からいえば、「人によって使い分ける」という意外なものだった。それも男女によって微妙に差があり、ある者は〜さんづけで、ある者はニックネームで、ある者はため口で、という具合に、同じサークル内で幾通りものパターンを使い分ける器用さなのだ。
「俺はためでいいからね」などと互いに事前に了解しあうケースも多々あるとか。なんとまあ面倒なことを…、とつくづく感心してしまうが、よく考えてみればこのやり方自体、互いに傷つくことを極度に恐れる、 いかにも現代的手法といえるのかもしれない。
狩猟民族/'98.6
世間でサッカーがやかましい。Jリーグ人気は下降気味だというのに、いったいこの騒ぎはどうしたというのか?「話題に乗り遅れたくない」「みんなが騒いでいるから」「〜がカッコいいから」「よく分からないけど、とにかくワールドカップだ!」
理由は人それぞれだが、日本が3連敗したとたん、現金なものでマスコミも急におとなしくなり、ブームもいちどきに冷えた感がする。やはり一連の騒動は本当のサッカーフィーバーではなく、オリンピックやたまごっち騒動などにもよく見られた、急性の集団熱病に過ぎなかったのか。サッカーを見て、応援して、教えて、そしてプレイしてみてつくづく思うけれど、このスポーツは根本的に狩猟民族のスポーツなのだな、ということだ。敵と味方が同じ猟場(フィールド)で激しく獲物(ボール)を奪いあう。獲物にとどめを刺す(ゴールする)までには、集団の結集と個人の瞬間的な判断が欠かせない。こうして得た獲物(勝利)は働きに応じて平等に分配される。これはまさに狩りそのものではないか。
今回のワールドカップで、くしくも農耕民族を祖とする日本や韓国が合計6試合で1勝もあげられなかったのも、単にスポーツの歴史や体格の差だけではないだろう。その証拠に、スポーツとしての日本での歴史がサッカーと大差ないバレーボールでは、サッカーほど世界との差がないし、かっては男女とも世界一に輝いたことさえあるのだから。本来、農業とはある地域に定住し、数カ月単位、場合によっては数年単位の長いサイクルで構築してゆくものである。狩猟のように短期間で答えの出るものではない。地味だが粘り強い、そうした作業に適した人々だけが生き残り、我々の祖先となってきたはずだ。
情報の伝達や人々の交流が激しくなってきた昨今でも、祖先が培ってきたそうした価値観は、我々の中に脈々と引き継がれているのは間違いない。そんな我々に適したスポーツがもしあるとすれば、それはテリトリのはっきりしたもの、(田んぼはあぜ道ではっきりと区分けされている)ある種の管理体制下で行われるもの、(田植えや稲刈りは村長の管理下で整然と行われた)動的であるよりは静的なもの、(農業ほど静的な産業が他にあるだろうか?)おそらくそんなあたりだろう。
こうして考えると、先攻、後攻がきっちり交互に入れ代わり、管理者からのブロックサインがめまぐるしく飛び交い、プレーとプレーの間に独特の間がある野球が深く日本に根差しているのもうなずける。日本人むきなのだ。どこが自分の陣地なのかよく分からず、誰が敵か味方かなのかさえはっきりせず、瞬間的な自分の判断だけでゲームを組み立てるのが運命のサッカーでは、いささか分が悪い。身の回りに張り巡らしたテリトリを取り払い、誰かの管理下ではなく、自発的な自分の判断力で行動する意識面での狩猟民族的改革。そこらあたりから手をつけないと、農耕民族を祖とするアジア人の道は険しくなるばかりかもしれない。サッカーばかりでなく、政治や経済、地球環境保護活動などでも同じことが言えるのではないか。
不景気風/'98.7
夏の盛りというのに、日本列島には冷たい不況の嵐が吹き荒れている。そんな世相を象徴するかのような話が、私の身の回りに立て続けに3つも舞い込んだ。まず、私と妻が以前に勤めていた会社の共通の友人、Kさんの話である。Kさんは私たちが辞めてしまったあとも辛抱強くその会社に留まり、トレーサーとして30年近くも働き続けてきた、いわゆる技術職の人である。そのKさんが、この不況のあおりをくらい、あえなく人員整理の対象にされてしまったのだ。
「50歳以上の社員の希望退職募集」という寝耳に水の社告から始まり、「もし期限中に希望数に達しない場合は、指名解雇」というほとんど脅しに近い話だった。Kさんは50代前半の女性で、いろいろな事情で縁遠い人だった。会社側からすれば、格好のリストラの餌食である。
(ここで様子を見たとしても、いずれ指名解雇されるのは目に見えている。ならばすっぱり潔く…)
そう考えたKさんは、躊躇せず希望退職届けを出した。予定よりも10年早い退社である。
「言おうかどうか迷ったのだけれど…」
Kさんからの手紙の文字には元気がない。どうやら手に職があったとしても、うかうか出来ないご時世らしい。Kさんのケースはまだ救われる。大きな借金もあるでなく、なんといっても独り身の気楽さだ。だが、次の話はかなり悲惨である。
連日のワールドカップ観戦で疲れ果て、不況で仕事がないのをいいことに、朝寝を決め込んでいた私を、一本の電話がたたき起こした。5年来のつきあいのある、サッカーショップの主人からの電話だった。
「実は急に店を閉めることになったもので、ちょっとご挨拶に…」
突然な話にいぶかったが、やがてやってきた彼の話を聞いてふに落ちた。銀行の貸し渋りで運転資金に行き詰まり、悪徳金融業者に手を出したのが運の尽き。連帯保証がらみで、会社もろとも自己破産を余儀なくされたのだという。抵当に入っていた父親名義の土地と家も差し押さえられ、40代半ばにして文字通り裸一貫。
「借金はどうにか清算出来たんですけどね、私と女房と親父と会社の破産手続きで、結局200万もかかっちゃって、こればっかりは清算不可能なんです」
近ごろよく耳にする自己破産だが、どうやら破産するのにも大金が必要らしい。サッカーという共通の話題を介して、時には励ましあいながら互いに独立自営でやってきた、いわば仲間ともいうべき人の思いがけない脱落に、私にはかける言葉が何も思い浮かばなかった。
「一匹狼で保険の外交でもやるつもりですよ」
そう別れ際に言った彼の妙にふっきっれたような笑顔だけが、唯一の救いだった。最後は学生時代に同じサークル(弓道部)だったMという男の話である。
何かにつけてライバルだった彼とは、主将選挙でも争い、(一票差で私が敗れた)就職した会社も私は300人足らずの中小企業、対してMは大阪に本拠を置く日本でも有数の超一流電機メーカー、という具合で、要するにMにとって私は常に敗者の立場にいたのだが、なぜか卒業後も交流が続いている、妙な関係なのである。
(そんな彼と、なぜ延々と友人関係を構築し続けられたのか、実は私にもよく分からない。このことについては、機会があればぜひ小説にでもしたいと思っている)
さて、そんなMからの葉書の内容は、なんと「○×部品」という名の子会社に配置換えとなり、しかも「福島県…郡…町大字ナントカ字ナニヤラ」という舌のかみそうな辺地に単身赴任になったという挨拶状だった。要するにあのMまでもが、「リストラ」という網に、容赦なく捕らまえられてしまったらしい。
大阪には数年前に購入したばかりの一戸建て住宅があるはずだが、48歳という年齢から考え、もし転任を拒否すれば、おそらく解雇は免れなかったのだろう。「仕事があるだけいいじゃないの」
傍らの妻がポツリとそうつぶやいた。そうだよな、と私もうなずいた。不況の荒波を被っているのは、この私とて例外ではない。このひと月というもの、机の上の電話は鳴りを潜めたままだ。
子会社だろうが、単身赴任だろうが、仕事さえあれば我慢出来る。かってはエリートとしてもてはやされ、仲間内からは羨望の目でみられていたMでさえ、そんな境遇を甘んじて受けなくてはいけない世の中なのだ。
(敗者も勝者もあるものか…)
ここ数週間カバーがかけられたままの製図器械に、私はむなしく視線をなげかける。
電脳罠/'98.7
むかし、一度だけ罠をしかけたことがある。こう書くと、策略に長けた陰険な男と思われそうだが、(事実、そうかもしれないが)実はある事情でやむを得ずしかけたものである。パソコンのプログラムを使った難解なもので、いわば「電脳罠」とでも呼べばいいのだろうか。これはある意味での私の懺悔の記である。話は5年前にさかのぼる。このホームページのルーツとなった投稿形式の電脳同人ディスクマガジンを主宰し、3カ月に一度のペースで配布していたころのことだった。創刊何号目かで、目玉として私の作ったゴルフゲームを入れることになった。このゲームで遊んでもらい、スコアを競って次号で発表しようと企てた。
この種の同人ディスクマガジンによくある傾向として、主宰者と読者(ユーザー)の相互交流がある。主宰者がいろいろ知恵を絞った企画に対し、多くの読者からの反応があり、次第に同人全体がひとつの仲間として盛り上がってゆく。熱さだけをとれば、ホームページとはまるで比較にならないだろう。終了して4年近くにもなるのに、いまだにかなりの数の当時の読者から連絡がくるほどなのだ。さて、電脳マガジンであるからには、当然遊んだスコアもデジタル化し、フロッピーにセーブしたものでなくてはいけない。だが、ここで大きな問題が起きた。フロッピーに入れたゲームは、ごく普通のBasicプログラム。ちょっとした知識さえあれば、改造して偽のスコアを作り出すことくらい簡単なのである。
私は悩みに悩んだ。遊びとはいえ、優勝者を次号で発表し、オリジナルシールなどの賞品を出したりもする。公平を期するため、プログラムにトラップ(罠)を仕込んで、改造スコアを瞬時に選別可能にすべきか、それとも、良識ある読者を信じ、そのままの形で掲載するべきか…。結局、私はプログラムにトラップを仕組むことにした。当時、一回の配布数は100を越えていたし、同人とはいえ、読者は雑誌で知り合った見ず知らずの人達。2〜3度の交流で、すべての人々と強い信頼関係を築くのは無理というものである。プログラム破りの「愉快犯」が、どこに潜んでいるやも知れぬ…。
いろいろそれらしき理由は並べてみたが、結局のところ、私の中に「人間の裏側に潜むものを、こっそり覗き見してみたい」という暗い好奇心がうごめいていたのは否定出来ない。やっぱり私は悪趣味な人間なのだ。さて、ともかくもこうして「罠」が仕組まれたフロッピーは全国にバラまかれた。「罠」の仕組みはパソコンの中にある乱数を二重にからめた複雑なもので、解読は難しい。いまでいうなら、ソフトを最初に買ったときに入力しないと動かない「シリアル番号」のようなものである。
ゴルフゲーム自体はなかなか面白いものだったので、やがて多くのスコアがフロッピーに収められて送られてきた。データをチェックプログラムにかけ、ひとつずつ画面に表示させる。そのたびに胸が異様に高鳴った。もしデータが改ざんされていたら、ブザーと共にエラー表示が点滅するしかけである。
(最後までブザーが鳴らないで欲しい…)
正直言って、そう願った。 自分で罠をしかけておきながら、いざとなれば勝手なものである。やはり私は人間の中にある真実を信じたかったのか、それとも、ただ単に自分の悪趣味に辟易していただけなのか…。結論を急ごう。やはりブザーは鳴った。エントリー者のうち、数名のデータが改ざんされていたのである。投稿は何もせず、ただ機械のように申し込みだけをしてくる読者からのデータが大半だったが、ショックだったのは、いつも熱心な投稿をしてくれていたアクティブな読者からのデータにも、改ざんの跡が見られたことだ。
裏切られた気持ちだった。ふらちな好奇心と引き換えに、私は人間不信という大きな代償を支払ってしまったのかもしれない。
「エラーが出て読み込めないデータがありました」と短い添え書きをし、私は結果を次号に発表したが、なぜか心は晴れなかった。死んだふりをしてどの子が一番悲しむかを棺桶の蓋の隙間から覗き見る、という王様の話をどこかで読んだことがあるが、結局その王は不幸に終わったはずだ。人の裏側の暗部など、知らぬふりをして生きていたほうが、余程幸せなのかもしれない。
一緒にいただきます/'98.8
ちょっとばかり仕事で世話になったA氏と、お礼かたがた、たまには景気付けにススキノ(いわずと知れた札幌の歓楽街)で一杯やりましょうや、という話になった。
ちなみに、私は酒に飲まれるのは嫌いだが、酒が醸し出す雰囲気を楽しむのは好きである。いまでこそビール一本の晩酌か、たまに家族で行く近所の居酒屋程度だが、かってはススキノはもちろん、東京にいたころは銀座から六本木と誘われるままに鳴らしたものだ。さて、自宅を仕事場にしてからというもの、すっかり歓楽街から遠ざかってしまったこの身。この前ススキノに行ったのはさて、いつだったろう…、と指を折って記憶の糸をたどらねばならない。つまりはそれほどススキノからは縁遠くなってしまったということらしい。
まずは軽く居酒屋で下地を作り、インターネットやら広告やら小説やらマンガ、はては人生や宇宙まで、壮大なネタを肴に話はどんどん盛り上がって留まるところを知らない。空ジョッキの数が10を越えたころ、A氏がいきなり立ち上がってこう言った。「とむさん、俺、歌いたくなった」
おお、そうですか、そいつは私も同じ気分です。それでは場所を変えましょう。歌が決して嫌いではない私が、断る理由などなにもない。
ここでの支払いは当然私。まあ、このご時世に、家族が3カ月は食べていける仕事を世話してくれたのだから、これくらいは当たり前である。2軒目はA氏いきつけのカラオケスナック。電車通りに面する広い窓があり、夜の街を行き交う人々を3階から覗き見ながらグラスを傾けるという、これまた私好みの店だった。
Aさん、さっそく歌い出すかと思いきや、なかなかマイクを取らない。よく回りを見ると、この不景気にもかかわらず、店は結構混雑している。「夏祭りと花火大会がぶつかっちゃって、もうてんてこまい。ゆっくりしていってね」
若くて美人のママさんは、あわただしげにそう言いながらも、まんざらでもなさそうだ。やがて別の若い女の子が私たちの前にやってきて、突然不思議なセリフを吐いた。「ルミで〜す。いっしょにごちそうになっていいかしら?」
本当は言葉の最後に、ハートマークがつくと思ってください。つまりはそういう口調だったということです。一瞬言葉の意味が理解出来ず、私はうろたえた。かみ砕いて言えば、「おめ〜らの支払いで、一杯あっちにも飲ませてくれよ〜」ということらしいが、長いブランクのせいで、古い頭脳がしばしの解読不能に陥ったのだ。
話の流れから言って、当然ここでのイニシアチブはA氏にある。私はゲタをあずける顔でA氏を見た。しや〜ね〜な〜、と言いたげな顔で、渋々うなずくA氏。しばらくすると別の女の子がやってきて、またぞろ名刺など差し出し、同じような顔と同じような口調で、「サヤカで〜す。いっしょにごちそうになっていいかしら?」などと言いつつ、いそいそとウーロン茶のリングなど抜きにかかっている。
言うまでもなく、これは客の支払う金を少しでも増やそうとする、みえすいた店側の魂胆なのだが、男のスケベ心に乗じて酒をねだろうという商魂が、どうにも好きになれなかった。
「バカヤロー、飲みたきゃ自分の金で飲め」などとこの状況できっぱり断れる男は、まずいないだろう。もちろんこの私とても例外ではない。
よく考えてみたが、数十年前にはこんなさもしい「おねだり」の習慣はなかったように思う。
「ママさん、まあ一杯飲んでよ」と客からビールを差し出されてはじめて、
「まあ、それではごちそうになります」と恐縮しつつもおしいただくという、あうんの呼吸というか、節度のようなものがススキノにはあった。しばらく通わぬうちに、どうやら飲み屋の人情までもがせちがらくなってしまったらしい。
お喋りの値段/'98.8
ススキノの話が続く。店が忙しく、接客してくれる女性にも落ち着きがないことに嫌気がさしたのか、くだんのA氏、「店を変えましょうや」と水をむけてきた。「えっ、もう一軒ですか?」
話し疲れ、飲み疲れであまり気はすすまない。だが、A氏はもう立ち上がって勘定を支払う気配だ。こうなれば仕方がない、とことんつきあうか。
今夜の支払いは全部もつつもりでいた私の申し出を、A氏は頑強に断る。支払いの場面で誰が払うかれが払うといった儀礼的な押し問答を、元来私は好まない。A氏はどうやら酒席での貸し借りのたぐいを好まない質とみてとった私は、彼の申し出をありがたく受け入れることにした。3軒目もA氏の知っているスナック。繁華街のはずれで時間も11時を回っていたせいか、それほど混んではいない。
ここもご多分にもれず、客ごとに接客女性がつき、話の相手をしてくれる。そして、ご多分にもれず、「いっしょにいただきます」となるのだが、私たちについたうら若き女性は雰囲気がどことなく素人っぽく、接客態度もぎこちない。「いっしょにいただいてもいいでしょうか」などと、まるで研修中の見習い社員が、マニュアル本を棒読みするような調子である。
話をするうち、合点がいった。髪も地毛のまま、顔もすっぴんに近いこの彼女、それまで水商売の経験などまるでなく、まだ始めて2カ月足らず。昼間は某社でOLとして働き、週2回だけアルバイトに来ているのだという。
ここから先の話の詳細は、書けばあまりにも野暮になる。ひとつ言えることは、彼女が非常に聞き上手で、細やかな気配りに長けた女性だったということだ。しかも、とにかく古いことを良く知っている。オジサン対策にとマスターが教育でもしたのか、はたまた身のまわりに年配の人でもいるのか、その辺りはあいにく聞きそびれた。それを意識してか、源氏名(ひょっとすると本名かもしれない)までも、「シノブ」とエラく時代がかっていて奥ゆかしい。深夜放送からパソコンまで話は弾んで、ふと気づけば深夜2時。ほめ上手のシノブちゃん相手にA氏のカラオケも大いに盛り上がり、酒宴はめでたくお開きとなった。
ここでの支払いは私が半ば強引に押しつける形で折半。二人で1万を少し切るその額を、私は少しも高いとは感じなかった。かの聞き上手のシノブちゃんとのおしゃべりの値段は、確かにそれに見合うものだったからだ。家の中で妻や子供にかまってもらえない男どもが、ネオンの街をさすらうわけが少しだけ分かった気がした、そんなススキノの一夜であった。