一九九八・春乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
今どきマック/'98.3
3年振りにパソコンを買い替えた。いろいろ悩んだが、結局またまたマックを選んでしまった。以前のマックは3年前に購入したもので、初心者むけのPerformaという機種だったが、小粒ながらも実にキビキビとよく働いてくれた。多くの仕事用管理ファイルもこれで動かしたし、このホームページを世界に向けて発信したのもこのPerformaだ。このマックで作ったプレゼンで「札幌国際デザインコンペ」という賞の佳作に入り、賞金10万円を稼ぎ出したりもした。
だが、残念ながら68Kというレトロなプロセッサで、しかも浮動小数点演算ユニットがついていない。それでも多少の速度の遅ささえ我慢すれば、不自由はなかった。ところがこの機種では逆立ちしても達成できない問題がにわかに起こったのである。話は昨年秋にさかのぼる。
ふたつの広告プロダクションから、立て続けに同じ種類の仕事の引き合いがきた。「おたくではCGの建築パース、やってる?」
CGの建築パース、言わずと知れた「3D-CG」のことである。もちろん私は手掛けていない。それまで3D-CGで描く建築パースとはどんなものであるか、おおよその知識だけはあった。だが、正直言って札幌での需要はまだまだとたかをくくっていた。
電話のむこうの声は、もし出来るのならすぐにでも発注したいような口振りである。ちょうどその時期、経済破たんの大波が北海道を襲っていて、仕事の電話はまるで鳴らない状態だった。久々に鳴った電話の内容がこれである。私は少々あせった。
(私は時代に取り残されかけているのではないか…?)あわててインターネットを検索した。CGで建築パースを描いている人がホームページを開いているのではないか、と考えたのだ。ほどなくいくつかのホームページを見つけ、かなりのことを把握出来た。細かいことは省略するが、まとめると以下のようになる。
■3D-CGを描くにはいろいろなソフトがあるが、建築パースに限定すると使えるものは限られる。
■マックの場合、適応機種はパワーマックで、メモリは200M程度、HD容量は2G程度が必要。
■当然のように、浮動小数点演算ユニットも必須である。とまあこんな具合である。要するに、いまの機種では逆立ちしても無理なのである。さらに調査をすすめると、これらの装備を備えたマックを買うとなると、30万は覚悟しなくてはならないことも分かった。その後何人かの方々に相談したところ、(親切に教えてくれる方々が身の回りにいろということは幸せなことです)「この際、Windowsに代えてはいかが?」と言う人がいたり、「いやいや、いままでマックならば、やはり使い慣れたマックさ」と言う人など、さまざまである。
同時に私は、業界でCGによる建築パースがどの程度評価されているのか、実際にクライアントを探訪して現場の方々の意見を集めてみた。すると意外にも、40代以上の担当者はニュアンスの違いこそあれ、全員が否定的な意見である。「CGのパース?ありゃダメだよ、つるっとした感じがどうもいやだね。クライアントの指定だからいやいや使ってるけど、人間の住む家って感じがしない。まあ、ロボットの住むマンションの広告ならばぴったりなのだろうが…」
とその評価は手厳しい。わずかに20代の担当者ひとりだけが、「いいんじゃないんですか。データがすべてデジタルでやりとり出来るってところがいかにも現代的ですよ。いますぐにはともかく、将来はあれが主流になるはずです」と肯定的な意見。
私は悩みに悩んだ。30万近い金額は私にとって大金なのだ。結局、かなりの投資をして上記のマックを買った。やはり時代の流れとして、デジタル化の波は避けて通れないと考えたのだ。
「この不景気に設備投資ですか?!」とたいていの人は驚く。だが、私の日頃の持論として、「不景気だからこそ自分に投資しろ」「金は寝かせておいてもたいして増えないが、使えば不思議に利子がついて戻ってくる」というのがある。景気がよくなって誰もがやり始めたときに、あわてて真似をしてみてもすでに手後れのことが多いものだ。不景気で暇ないまこそ、先を読んだ投資が必要なのではあるまいか?ところで、今どきのマックユーザーはどうにも肩身が狭い。パソコンショップでも売り場は日陰の片隅に追いやられているし、PhotoshopのようにWindows版とマック版の両方があるソフトの場合、マックの方が必ず2割がた高い。両者の市場シェアはおおよそ7:2くらいであろうから、数の売れるソフトが安くなるのは当然の市場原理だ。
以前はマックにしか使えないソフトがあり、それがマックユーザーのよりどころであり、誇りでもあったのが、ソフトメーカーの戦略転換でそれもあまり意味がなくなってきた。だがそれでもなお私がマックにこだわったわけは、「使い慣れているから」「これまでファイルの蓄積があるから」という単純な理由だけではなく、おそらく「使っている人が少ない」ことと、マック全般に漂う「遊び心」にあるのではないか、と自分で思う。最近の政治や経済の世情にも見られるように、世の中「多いことがいいことだ」には必ずしもならないのである。
かくして、私の仕事部屋中央に鎮座したマック殿(未だ名前なし。「とむぞう」とでも名づけるか?)に仕込んだ最新OS8.1と3D-CGソフトの体験版を前に、暇をみては研摩に励む日々なのである。
両性具有/'98.3
で、そのマックなのだが、プロセッサがPower-PCに変わったため、いろいろと不都合が起こってきた。いままでのプロセッサとはなぜか互換性がないので、使うソフトの組み合わせによっては、コンフリクト(衝突)を起こしてしまい、全く作動しないのだ。たとえば今まで重宝して使っていた、FAXをパソコン画面から直接送信するソフトがどうやら68K専用らしく、新しいPower-PC対応のクラリスワークスとは相性が悪くて、使うたびにフリーズして全く役に立たない。やむを得ず、古いバージョンのクラリスワークスを引っぱりだし、FAXのときだけはこれを使って文章を打ち込んでいる。
本で調べると、68K専用ソフトでも単独でならPower-PCで使っても特に問題はないらしい。だが、組み合わせて使うと駄目なのである。いろいろなソフトとセットで使う「プラグイン」や各種ドライバーなども、これらの相性が悪いと確実にコンフリクトを起こす。やっかいなことだ。ところが、この古いタイプの68KとPower-PCとの両方に使えるという、たいそう便利で融通のきくソフトが世の中はあるのだ。「FAT」と添え書きのあるソフトがそうで、マシンがなんであるか自分で勝手に判断し、問題が出ないようにちゃんと対応してくれる。とてもかしこいのだ。
巷に出回っているCDソフトにも、「ハイブリット方式」というのがあり、これはWindowsマシンとMacintoshマシンの両方に使えるという、これまたふところの深いCD-ROMなのである。また、状況に応じて電気モーターとガソリンエンジンを上手に使い分けるという、最近注目の地球環境に優しい「ハイブリッドカー」なる車もこの部類に属する。こういった「相手に応じて自分を上手に合わせてしまう」という現象はパソコンのみならず、自然界にも数多く見られる。たとえばカタツムリが2匹だけいたとする。繁殖期になり、この2匹が雌雄だった場合は問題ないが、問題は雄だけ、あるいは雌だけだった場合である。 彼等はとても足がのろいので、行動範囲が狭い。従って繁殖期のうちに、伴りょを捜す時間がないかもしれない。そこで彼等は考えた。片方のどちらかが「性転換」してしまうのである。すなわち彼等は雌雄両方の生殖器を持つ「両性具有」なのだ。こうして彼等は首尾良く子孫を残す。やるじゃないか。
以前にビンの中でカタツムリを冬越しさせたことがあり、春の繁殖期に試しに適当に2匹ずつグループを作って隔離してみたところ、どの組も例外なく大量の卵を生んだ。本で読んだ話は本当だったのだ。
(余談だが、カタツムリの交尾はネチネチと身体をからみあわせた濃厚かつ淫猥なもので、しかもとてつもなく長い。はたで見ていて、思わず嫉妬するほどだ。一見の価値あり)
人間世界でも俗に「両刀使い」と言って、男女を問わない性欲の持ち主がいると聞いたことがあるが、さすがにこちらは確かめたことはない。実はこの私にもこの「両性具有」的な資質があるようで、大学進学のときには専攻を理系にするか文系にするか、随分悩んだ。どう考えても両方の嗜好があったのだ。
結局選んだ工学部でも、最もつぶしのきく機械工学を専攻したために、こと工学系に関する知識や応用に関しては、機械はもちろん、電機、電子、土木、建築と極めて広い。私の仕事の履歴にもそれは顕著に現れていて、入った会社が機械+土木の複合知識の要求される会社だったのはまだしも、それからの仕事の分野は、土木→建築→デザインと流れてきて、もしかするとこれからも転職をしかねない極めて流動的な状況である。
趣味の分野にしても似たようなもので、このホームページをひとつのテーマに絞りきれなかったことにもそれは現れており、要するに私はなんでも屋のマルチ人間、裏を返せば器用貧乏の多情者なのだ、と自ら認めざるを得ない。
じゃないですか/'98.4
近頃こんな言葉がやたら耳につく。会話文の語尾に、「〜じゃないですか」といちいちくっつけるそれである。
本来、この言葉は「そんなことしたら壊れるじゃないですか」という具合に、遠回しに相手をたしなめる意味に使われていたはずだった。ところがいま盛んに使われているのは、どうも違うニュアンスである。
「ほら、最近のカラオケでよく採点機能とかあるじゃないですか」のように、相手に軽い同意を求めるニュアンスで爆発的に使われだしている。気になってテレビ番組などチェックしてみたら、出るわ出るわ。
最も使っているのは、20代、30代の女性あたり。だが、男性でも年令にあまり関係なく使っていて、60代あたりのタレントも使っていた。NHKのアナウンサーさえトーク番組の中でしっかり使っていたから驚きだ。いまのところ例外は中学生以下の子供と、一般のお年寄り(70代以上)あたりか?しかし、それだって時間の問題のような気がする。この言葉、いったい誰がいつどういう状況で使い始めたか全く分からない。だがいま、日本中をすさまじい勢いで席巻していることだけは確かである。
なぜいま「じゃないですか」なのかと考えてみるに、おそらく携帯電話の普及などにも象徴されるように、心のどこかで孤立を恐れる現代人が生身の人間と相対するとき、少しでも相手、ひいては自分を傷つけまいとするために、耳障りのいいこの言葉を語尾にくっつけ、「私とあなたはお友達なのよ、仲間なのよ」と確認を強いる心理的防衛本能が背後に潜んでいるからではないだろうか。
「〜ですよね」と断定的に言うより、「〜じゃないですか」と自信なげに問いかけるほうが、はるかに柔らかく相手の耳に響く。ところで、こんな能書きをたれているこの私も見事にこの「じゃないですか言葉」に汚染されていて、無意識のうちに使っている自分にふと気づき、思わずたじろぐ。
先日もそれ程親しくない3人の仕事仲間と5〜6時間車に缶詰めになって移動する機会があり、いかにも乱用しそうなシチュエーションだったので、この際、どれくらい使わずに辛抱出来るか自分をテストしてみることにした。
すると予想通り、皆さまこの言葉を乱発。私以外は30代後半から40代前半の流行に敏感なクリエーター(全員男性)ばかりということもあり、1時間ほどの会話の中で10分に一度はこの「〜じゃないですか」が飛び出す始末。つまらぬ意地を張ってその日一日は使わずに済まそうとした私は、「〜ですよね」「〜なんです」などと言葉を選び、使い分けるのに四苦八苦。道中冷や汗のかき通しで、この言葉の威力と有り難みをまざまざと思い知らされたのだった。
学習機能/'98.4
先月書いたように、パソコンを買い替えたのでOSも大幅にパワーアップした。いままで使っていたマック付属の「ことえり」という漢字変換機能もバージョンアップし、以前のものより数段使いやすさが向上した。
マックに標準付属だけあってこの「ことえり」は、マックとはすこぶる相性がいいらしく、「フリーズを起こしやすいシステムは漢字変換にことえりを使ったほうがよい」などとその種の解説本に書いてあったりもする。そこで多少の不便さを我慢しながらも使っているのだが、不満なのは学習機能の貧弱さだった。
たとえば「きくち」と入力して漢字変換すると、たいていの辞書はまず最初に「菊池」と変換候補が示される。私の名字は「菊地」だからこちらで変換し、確定したとする。
次に再び「きくち」と入力して漢字変換した場合、普通の変換辞書ならばいわゆる「学習機能」が働き、第一候補として登録された「菊地」が無条件に出てくるはずである。ところが「ことえり」の場合、しばらくはこの第一候補を覚えているのだが、時と共にいつのまにか忘れてしまい、第一候補が元の「菊池」に戻ってしまっている。とても忘れっぽいのだ。私と同じくマック使いの娘などは「ことえりはアホじゃ」などと辛辣にこき下ろしていたが、気持ちは分かる。「ことえり」がなぜこんなに忘れっぽいのかはっきりしない。おそらく変換した第一候補をきちんと記録するように出来ていなかったのだと思う。メモリかハードディスクかなんかに入れておくだけだと、時とともに消えてしまっても仕方がない。
ちなみに同種の変換辞書「ATOK」などは、使っている人の弁によると大変賢いらしく、この種の問題には無縁とか。だが、わざわざ購入しなくてはならないし、先の相性の問題がある。
新しくなった「ことえり」(Ver2.1)では、「自動学習辞書」という機能拡張が追加され、これらの問題が一挙に解決されてようやく辞書らしくなった。毎度おなじみのこじつけで恐縮だが、この「学習機能」は人間にも同じように当てはまることに気づく。たとえば何かのことで手ひどい失敗をしたとする。直後の心理は「どうして自分だけがこんな目にあうのか」と嘆いてみたり、「みんなあいつのせいだ」と責任転嫁してみたり、逆に「すべては自分のせいなのだ」と自虐的になってみたり、人それぞれさまざまである。
やがて時とともに痛みは薄らぎ、悩みはゆるやかに解消してゆく。「すべては時が解決する」というやつである。ところが人間という者は実にやっかいなもので、恋にしてもバクチにしても仕事にしても、一度こりたはずの局面に、何度でも遭遇するものなのだ。向こうから勝手にやって来るものは拒めないとしても、ときに自分から同じような局面を求めてみたりする。
で、そんなときにワープロの辞書変換のような「学習機能」が首尾良く働けば、事態は以前のような血を見ずに済む。少なくとも前とは違う対応で問題に立ち向かうことは出来るはずだ。ところがマックの「ことえり」旧バージョンのように、必ずしもそうはうまく進まないのが人間なのである。ふと気がつくと、以前と同じように問題を抱え込み、以前と同じように悩み、そして以前と同じように傷ついて、やがて時とともに忘れ去っていく。そして時が過ぎ去ると、再び同じ問題が…。
こうして「学習機能」などどこへやら、過ちを重ねながら時を重ねていく不条理な存在が、おそらく人間の本質なのだろう。もちろん、これを書いている私とてその例外ではないのだが。
車 検/'98.5
私にとって春は車検のシーズンでもある。私はいろいろな理由で長年ライトバンを愛用している。ライトバンの車検は2年おきではなく、毎年あるのだ。
20年前くらい前に車を取得してから、車検はすべてディーラー、つまり販売店まかせだった。細かい明細書を読んでもよく理解出来ず、いつも請求されるままに金を支払っていた。ずいぶん高いな、と感じたこともあったが、車検とはそんなものだとあきらめていた。ところがである。
「ユーザー車検」という、いかにも手作り派の私をくすぐるような耳障りのいい言葉が、近ごろ街に溢れ始めた。毎年車検の時期になると、安い価格を売り物にした「ユーザー車検代行」なるさまざまなチラシが、車のドアの隙間やワイパーを賑わす。
昨今の金融破綻で、一円でも経費を安くあげたい懐事情。去年は長年車検を任せていたディーラーの担当者が退社したのを機会に、初めてこうしたユーザー車検代行業者に任せてみた。
で、その結果なのだが、価格はとにかく安い。なぜ安いのか?それは特にこちらから頼まない限り、ディーラーの車検のように整備士が車のどこかを分解したり、点検したりはしないからである。つまり、車を洗浄して車検場に持って行き、税金その他を支払って所定の検査を受けるだけのこと。オイル交換やバッテリーのチェックなどの定期点検を一緒にやってくれるディーラーの車検とは全く別物なのだった。これじゃ安いはずだ。可能性から言えば、車検を通った直後に故障するってこともありうる。法律が変わって、車の整備はすべて持ち主の責任になってしまったらしい。これでは「安かろう、悪かろう」である。
そこで普段は車のダッシュボードにしまいっぱなしだった整備手帳を引っ張りだし、いったい車の点検とはどんなものなのか自分なりに勉強してみることにした。そして可能なものは出来るだけ自分でやってみようと試みた。以下、そのチェック項目である。■オイル:
走行距離にかかわらず、半年に一度の交換が望ましい。 よく走る人は、もっと頻繁になるかも?DIYの店に行くと、自分でも交換可能なキットが用意されているが、技術的な難度と廃油の処理などを考えると、ガソリンスタンドなどに頼むのが無難。
■オイルエレメント:
オイル関連の消耗品。1年に一回の交換。オイルと一緒に頼めばよい。
■ブレーキオイル:
本には2年に一度の交換が望ましいと書いてあるが、普通に使っていれば4年はもつとある業者に言われた。ディーラーまかせのときは毎年交換させられていた。交換はガソリンスタンドなどでやってくれる。
■エアクリーナーエレメント:
2年に一度の交換。ディーラーまかせのときは毎年交換させられていた。取扱説明書を見ながら自分で簡単に交換出来る。カーショップでメーカー、型式別に適合するものが売られている。
■冷却水(クーラント):
減っている場合の補給は別にして、2年に一度は全量交換。取扱説明書を見れば自分で出来る。冷却水はDIYの店で売っている。
■バッテリー:
3カ月に一回くらいの割で補充液をこまめに入れてやれば、かなりもつ。私はこのやり方で8年もたせた。補充は自分で簡単に出来る。補充液はDIYの店で売っている。まるごと交換の場合も、もちろん自分で出来る。
■空気圧:
ガソリンスタンドが暇そうなときを見計らい、半年に一回くらいは給油ついでにみてもらう。
(この表の中の「ディーラー」とは、あくまで私が頼んでいた業者の場合です)こうやって近場のガソリンスタンドを利用したり、出来ることはなるべく自分でやるようにすれば、点検費は格段に安くなることうけあいである。
だが、車とはやっかいなもので、上にあげた項目のほかにも、素人では手に負えないチェック項目がいくつかある。ファンベルトの傷とか、燃料ホースの亀裂、点火プラグの異常、ブレーキパッドの摩耗などがそれである。このあたりだと素人ではなかなか見つけにくいし、仮に気づいたとしても、ガソリンスタンドでの部品交換はまず無理である。
ではやはりある程度の出費を覚悟で、ディーラーに頼むしかないのか?いや、そんなことはない。街にはメーカーを問わず、車の点検整備だけを手がけている工場が必ずある。そこにオイル交換などを頼むついでに、いっしょに見てもらえばいいのだ。今年の車検は、このやり方で近くに見つけた整備工場に点検を依頼した。車検の代行もやってくれるというので一緒に頼んだ。ユーザー車検代行だった去年と比べて価格は1万ほどあがったが、それでも以前のディーラー車検よりは遥かに安くついた。プロの整備士に分解点検してもらって、なおかつ車検費用を安くあげるという一挙両得の方法なのである。
うらら/'98.5
久しぶりにNHKの朝の連ドラにはまっている。「天うらら」である。仕事やらインターネットやらのあおりで夜が遅く、放っておくと午後まで眠りこけている私が、この「うらら」のおかげで、ぴっちり午前中には起きるようになった。お昼の再放送を見るためだ。
筋書きを一言でいうと、「うらら」という変わった名前の若い女性が大工になる話である。このページのあちこちに書いているように、私の父は大工である。私にも大工の血が脈々と受け継がれているらしく、大工のドラマと聞いただけで血がさわぐ。おまけに主人公がうら若き乙女だ。見ないわけにはいかない。
「あんな金づちの持ち方はしねぇよ」「あの場所を釘うちで仕上げるのはオカシ〜」などとテレビ桟敷でかまびすしいのである。ドラマはうららの祖母の介護問題などもからめて、いかにも今風の味付けになっているのだが、私の関心はもっぱら「男だらけの職場に勇猛果敢に飛び込んでいく女性」の一点である。
私は特別のフェミニストではないが、かといって男女差別主義者でもない。男でも女でも色々なことを考え、さまざまな能力があり、多様な嗜好があるのだと信じている。「男だからああだ、女だからこうだ」という役割分担を押しつけられたり押しつけたりするのは趣味じゃない。少しおこがましいが、女子のサッカー指導にかかわっている理由のひとつもその辺にある。
時代がいくら急速に変化していっても、人々の内なる意識は一向に進化しないものらしく、いつまでたっても「男の子は泣いちゃいけない」し、「女の子はか弱くてしとやか」だ。ルーズソックスにミニスカートの典型的今風女子高生の将来の夢が「可愛いお嫁さん」だったり、大黒柱のお父さんが、「子供や家のことはすべてお前に任せている」のも、これらの性的役割分担のもたらすものである。そこでうららである。こうしたドラマが全国の茶の間に届けられたからといって、すぐに映画館の「女性優待日」がなくなったり、大相撲の土俵がただちに女子解禁になったりするとは思えない。だがきっと、これを見た誰かが「女だって大工さんになっていいんだ!」と気づくはずだ。その小さな種は、少しずつ根をおろし、芽を出し、きっとどこかで小さな花を咲かせる。その花からは、また小さな種が…。
ところで、私の関わる広告業界は男女の性格差の極めて少ない業界である。女性担当者や女性責任者はもちろん、女性社長だって少しも珍しくない。もしかして女性の柔軟な頭のほうがデザインの分野に向いているのかもしれない。男であることだけにあぐらをかいていると、あっさり足元をすくわれる。
こんなわけで、「女じゃわからんから男を出せ〜」と電話口でわめく輩は、この業界には存在しない。もちろん、「女であること」を売り物にする輩も存在しない…、と言い切りたいところだが、どういうわけかこればかりは密かにしぶとく生息している気配である。もちろんこれは男の側からの「需要」があるからで、やはり女の道はまだまだ険しいのである。