一九九七・夏乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
整理整頓/'97.6
この春、社会人となった娘の二か月に渡る研修が終わり、横浜のアパートに引っ越す準備のために、一時札幌の我が家に戻ってきた。
実は娘は幼き頃より、片付けとか整理整頓が大の苦手である。それでも小学校までは親が口うるさく言うせいか、机のまわりは何とか片付いていた。ところが中学生になって長い反抗期に入って以来、娘は徐々に部屋の片付けをしなくなった。途中、親はスラム化してゆく娘の部屋とそれに流されていく娘を案じ、幾度か修正を試みたが、そのつど娘の激しい抵抗に出会って試みは失敗に終わっていた。
中学校を卒業してからは親もついに根負けしてしまい、ごみ溜めのように変貌してゆくカビ臭い娘の部屋を見るたびに閉口し、腹立たしい思いに捕われつつも、結局は親までもがあきらめの渦に巻き込まれ、流されてしまっていた。さて、そんなわけで娘の部屋には5年来の塵、ゴミ、芥のたぐいが床はもちろん、ベット、壁までをも完全に征服し、埋め尽くしている。見えているのは、天井だけという有様なのだ。
それをわずか4日間の休暇のうちに、片付けて梱包しなくてはいけない。はたして首尾よく事は終わるのか?片付けには一切手を出さないで、と念を押されている私たち夫婦は、ただやきもきしながらも、じっと成り行きを見守るしかなかった。一日、二日とたつにつれ、部屋から次第に床と壁が現われてくる。同時に部屋からは、ゴミの詰まった黒いビニール袋が次々と。なるほど、やるときにはやるものだ。これまで娘には、ただ「そのとき」が訪れなかっただけのことか…。
すべてが終わったあと、梱包された段ボール箱(つまり、引っ越しに必要なものが詰まった箱)はわずかに7個。代わりに出てきたゴミ袋は、不用になった本の束3つを合わせるとなんと17個にも及び、一時待避所と化したベランダを、文字通り山のように埋め尽くした。
運のよいことに、その週の日曜は月に一度の古紙回収日で、ここでゴミは3個減。翌月曜は燃えるゴミの回収日で10個減。さらに翌火曜は月に2度しかこない燃えないゴミの回収日で、残った4個減で、「立つ鳥おおいにあとを濁した」娘の偉大なゴミの山は、見事3日で跡形もなく消え去ったのだった。●教訓:整理整頓とは、要するに捨てることである
マックがクラッシュ!/'97.6
6月中旬、我が愛するマックが突然爆発した。しかも、何の予告すらなしに…。悪夢はインターネットでホームページを閲覧している真っ最中に起きた。あるページに入ったとたん、ブラウザであるNetscapeが落ちてしまったのだ。このソフトが落ちること自体はそれほど珍しいことではない。またまた何かメモリの食う動画か何か張り付いていたのだろう、と最初は軽く考えた。これがいけなかった。
何気なくもう一度Netscapeを起動させようと、アイコンをクリックしたとたん、プツンという音がしたかしなかったかはよく覚えてはいないが、いきなり「99番のエラーが起きた」とか何とかのメッセージとともに、我がマックはカチカチにフリーズし、うんともスンともいわなくなってしまったのだ。あわてて再起動させてみても、画面はただ空しく「?」マークが点滅するばかり。すわ、お家の一大事。コイツはただごとじゃねえ!
マニュアルをひっくり返して調べてみれば、「システムファイルが壊れているんじゃね〜の〜」などとのん気なお言葉。システムファイルってなんだっけ?
なんとか気を取り直して付属のCDから直接起動。このCDにはハードディスクの修理ツールが入っている。コイツを使えば、なんとかマック殿のご機嫌が直るんじゃないか…。
ところが、ここでも私の期待は見事に裏切られたのだ。なんと、修復ツールを起動させて内蔵ハードディスクを選択したところ、「このハードディスクは認識出来ません」というマック殿からのクールなお言葉。私はここにきて初めて事の重大さを知ったのだ。要するに、ハードディスクが爆発しちゃったのね!
そうなのです。理由ははっきりしないが、どうやら我がマックのハードディスクは完全におだぶつ。あとは恐ろしい「初期化」の道しか私には残されていなかったのだ…。
ここで私は困った。こんなこともあろうかと、この2年間、自分で積み上げてきた数々の「資産」は、すべて3月に買ったばかりのMOディスクに保存してある。そして、新しい作品はそのつどバックアップを更新してきた。ところが、ここ2〜3週間は、忙しさのあまりそれを怠っていたのだ…。冷や汗をかきながらも、とにかくハードディスクは初期化。システムフォルダもそのままバックアップをとってあるので、コピーすればすべての環境は元どおりになる。あとは失われたファイルをどう復元するかだった。
結論からいえば、ホームページの新作品は、自分のページに接続してソースデータを丸ごとダウンロードして対処。書き終えたばかりの小説は、まるでこのことがあるのを予期していたかのように、フロッピーディスクにバックアップがあり、ことなきを得た。しかし、いくつかの仕事の作品の画像と、作業時間データは結局、復元不可能となった。
最近知ったことだが、内蔵であろうが、外づけであろうが、ハードディスクの寿命は3〜5年だそうで、使用頻度によっては、もっと短いこともあるとか。こんなふうにクラッシュし始めると、そろそろ危ないのかもしれない。みなさまも、バックアップとクラッシュにはくれぐれもご注意、用心怠りなく!●教訓:クラッシュはバックアップを忘れた頃にやってくる
生者の祭/'97.7
義母(妻の母)が死んだ。5/31の明け方のことだった。享年79歳で、平均寿命には少し足りなかったのだが、まずは大往生といったところか。
葬儀のために、15年振りに東京の土を踏んだ。故郷で仕事を始めるため、この大都会を去って以来、私は一度もこの地を訪れていない。
東京は思っていたほど変ってなく、羽田からモノレールで浜松町、浜松町からJR山手線に乗り継いで松戸へと、かって暮らしていた街並が窓の外を流れてゆくのを、感慨深い思いで眺めていた。着いた日が通夜、翌日が告別式というあわただしい日程の中で、久しぶりに集まった妻側の親戚が総勢40人以上。
お久しぶりです、元気でしたか、ご無沙汰してます、ちっとも変ってないですね、などの挨拶が飛び交い、見違えるほどに成長した甥、姪たちの姿に戸惑いながらも、焼香客の去ったあとの通夜の席はやがて、かって正月に親戚一同が集まって延々と繰り広げられたものと少しも変らない、にぎやかな酒宴の席へと変っていった。おれたち、こんなに大騒ぎしていいのかな。いいさ、久しぶりだもの、さあもっと飲もう。そうよそうよ、おばあちゃんだってにぎやかなのが大好きだったから、きっと喜んでるわ…。
酒は尽きることなく、話は尽きることなく、通夜の夜はふけてゆく。
そうなのだ。「葬儀」とはそもそも、死者の名を借りた「生者の祭」なのだ。生きている者がいま確かに生きている証を得るために、そして死者のエネルギーを生きている者たちの「癒しの糧」に変えるために、死者を弔う儀式は、全国津々浦々で今日も繰り広げられる。
生きるために死ぬ/'97.7
死に関する話が続く。
40歳を越えてからいろいろ世の中を見る目が変わってきた。かいつまんで書けば、40までは「どうやって生きるか?」を常に考えながらやってきた気がするけれど、40越えてからは、逆に「どうやって死ぬか?」をどこか心の隅に置きながら生き始めた気がする。
といっても、別に墓だとか、遺言だとか、葬式だとか、そんな直接的なことじゃなく(そういうことも大切だが…)どこに目を向けて生きてゆくか、ってことなのだ。
40歳でサッカーのコーチを始めたことも、43歳で小説を書いてみようと思い立ったのも、46歳でこんなホームページを開設したのも、みんな同じような考えから。このあたりは、あまりくどくど書くと格好が良すぎるかも知れないので、どうか適当に推測して欲しい。「死は天からいきなり降ってくる大きな岩だ」
確かそんなようなことが、吉田兼好の「徒然草」に書いてあったと思う。ひょっとして記憶違いだったら、ごめんなさい。
要するに、ずっと先のことだ、と思っているうちに、「ドッカ〜ン」といきなり目の前に落ちてくるのだ、ということらしいが、だからどうすればいいのか、まで書いてあったかどうかは忘れた。
どんなに若い人でも、明日も生きているかどうかなんて、誰も保証してはくれない世の中である。だからといって、厭世的に無気力な人生を送ることは私には出来ない。
最近の若い人達の考えには、やたら終末論が席巻していて、それは私の子供達も例外ではないのだが、我が子の口から、「終末」や「死」の話が出るたび、「君達はまず生きることを考えろ」と叱り飛ばす、頑固な親父なのでありました。
子供に財産を残す気は毛頭なく、ただかたくなな生き様を見せつけるのみだが、その代わり老後の面倒も、子供に期待していない。「死んだら墓はいらないから、出来れば骨は空から北の大地に振りまいて欲しい」
とだけ、子供達にすでに伝えてある。本当にそうしてくれるかどうか、そんなことは知らない。遺言なんて、所詮は生きているうちの精神安定剤のようなものだ。でも、財産がいっぱいある人は、きっと困るのだろうな…。
なんだかよく分からぬまま、今回はこれにておしまい。ナンマイダブ、ナンマイダブ…。
文系と理系/'97.8
テレビでおもしろい番組をやっていた。腕や指の無意識の組み方で、その人が文系か理系かが分かるという。以下、その要約。■まず、準備段階として腕と指を組ませる。腕は単純な腕組み。指はキリストのお祈りのように、両指をすべて組ませる。
■このとき、どちらの腕(または指)が上になっているかを見る。たいていは両方が同じのはず。
(ここでもしバラバラの方がいても、とりあえず読み進んでください)右が上だった人は左脳タイプで、論理的思考の得意な人。すなわち理系タイプ。逆に左が上の人は右脳タイプで、物事を直感で捕える人。いわば文系タイプ。とまあ、簡単に書けばこんな感じである。
さて、好奇心の強い私のこと。説明が終わる前に、はやばやと自分のタイプをテストしてみた。すると、とても困ったことが起きた。腕と指がバラバラじゃないか!
そうなのだ。なんと腕は右が上でしっかり理系タイプ。指は逆らうように左上で文系タイプ。いったいどっちなんだい!
その答えだが、落ち着いて最後まで番組を見終えたところ、食い違う人はたまにいて、そうした人の場合、情報の入力(理解)が指で、出力(表現)が腕と考えればいいらしい。
つまり、私の場合、直感で物事を理解し、論理的に表現するということです。私と正反対の人がもしいたら、その逆ということになりますね。こういうひねた人は、それに見合った道を選べば、きっと人生がうまくいくのだろう。そういえば私の今の仕事「建築パース」という奴は、これにピタリとあてはまっている。つまり、設計図面を見た瞬間のひらめきで「こう描く!」と決め込み(たまに外れるが…)そのあとは何時間、時には何十時間もかかって、図法にしたがってコツコツと描きあげて完成させてゆく…。
ううむ、私はまさに天職を仕事に選んだのか…。(^_^;;
物質文明/'97.8
悲惨な事件が続いている。マスコミでは、ここぞとばかり、病める現代の謎を説き明かそうとさまざまな特集を組んでいるが、その道の専門家を始めとするいわゆる文化人は、いろいろと現代社会の病巣を解析するばかりで、「だからこうしてゆけばいい」という具体策は、何一つ示さない。
新聞などの一般投稿特集も似たようなもので、大半はそんなマスコミの受け売り。ひとつだけ「わが家では事件以来、男の子の個室をやめた」とうのがあり、事件の本質を捕えるものとして、また建築屋としても興味をひかれたが、これとてしょせんは対症療法の感は否めない。ここからは私の独善的な仮定である。だが、大筋は外れていないはずである。
「私たちは物を求め過ぎた」
「物」の部分は「金」と置き換えてもいいが、「金」は「物」を得るための媒体に過ぎないと考えられ、ここはやはり「物」と書くべきだろう。
物が欲しい。まだ古いのが映るけれど、もっと大きなテレビが欲しいね。2台目の車があったら便利だよ。いつまでもマンション住まいはいやよ。やっぱり一戸建に限るわ。去年の水着で海なんか行けないわ。プレステ買ったけど、64でしか出来ないゲームがあるんだよな…。物を買うには金が要る。金を得るには、よい仕事(会社)が必要。よい会社に入るには、高学歴が必要。高学歴を得るには…。
こうした「論理」が、多くの大人たちを席巻していて、我が子が生まれるやいなや、この「生き残りレース」から落ちこぼれないよう、血眼になる。そうして、決して取り戻せない多くの物を失ってゆく…。
殺伐とした世の中や、危機に瀕している地球環境は、際限なく物質文明を追及し続けた、私たち自身が作り出したもの。責任は私たちみんなにある。もうほどほどにしなくてはなりません。
途中で「レース」から降りたとはいえ、私自身にもこうした世の中を作ってきた責任の一部は当然ある。私ひとりが責任逃れする気はさらさらない。「団塊の世代」などという言葉に乗じ、人と争い、蹴落としてのし上がってゆくのが当り前のような価値観を作り上げてきた現在の中年世代の責任は、非常に重いと考えるべきでしょう。終わりのない悪循環は、いつかどこかで断ち切らねばなりません。いますぐには無理でも、この際限ない「生き残りレース」からみんなが少しずつ降りてしまえば、世の中は格段と暮らしやすくなるに違いない。物はあまりなかったけれど、適度な文明の恩恵を受け、まだあたりが柔らかな光に満ちていた私たちの幼少年期のように…。
文化人の多くはこのことに気づいているはずなのに、いざとなると急に歯切れが悪くなってしまうのは、彼等自身の多くが、おそらくこの「レース」から完全に降りてはいないからなのか。
毛皮のコートを着て、動物愛護を声高に話してはならないし、電子レンジやホットプレートを「愛用」しながら、原発反対運動に加わってはいけないことを、私たちはすでに知っている。ちょっと便利なだけで、たいして必要もない物を買うのは考えもの。浮いた時間と労力で、あなたはいったい何をしますか?「ちょっと不便」くらいで、ちょうどいいのではないですか?耐久消費財はなるべく長く使い、消耗品はすすんでリサイクル品を買おう。そんな小さなことがまず第一歩です。
高学歴、高収入の妄想はもう捨てよう。時代は激変していまず。そんなものは役にたたなくなる時代が、すぐそこまできています。無駄な時間と金を、もっと健康や知恵のために蓄えませんか?もっと自由に、そして幸せになりませんか?