一九九七・春乃章

   つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
   なにせ『徒然雑記』なのだから。


息子の旅立ち/'97.3

 上の息子が家を出た。センター試験に失敗し、第一志望校の合格確率が絶望的な数字だったため、さっさと自分で「新聞奨学生」の資料など取り寄せ、二次試験すら受けずに三月早々に首都圏に向けて旅立ってしまったのだ。
 実は私にも一年間、同じように新聞配達をしながら自宅で浪人生活を送った経験がある。(いわゆる「宅浪」)息子がそんな私を見習ったかどうかは分からない。去年の秋ごろから受験に自信のなくなったらしい息子は、家を出てひとりでやってみたい、と言いだし始めていた。
 それ以来、「働きながらの受験勉強は辛いぞ」「一年浪人したからって、来年入れる保証はどこにもないぞ」「浪人なんて、好き好んでやるもんじゃない」等など、息子をおどすような言葉をさんざ並べたててみたが、息子の決心が揺らぐことはなかった。
 こう書くと、まるで私が息子に家を出て行かれるのを恐れているように見えるが、決してそうではない。事実は正反対で、「子供は早く家を出よ!」「青年は荒野をめざせ!」「書を捨てよ!親を捨てよ!街へ出よ!」などと、PTAのおばさまがたが小耳にはさむと目をむきそうなことを、常日頃から焚き付けてきたのだった。
 ではなぜそんなおどしをかけたかというと、こうして悪い材料をわざと並べることにより、息子の決意のほどを試してみたのだ。

 ともかく、息子は卒業式もそこそこに、まるで風のように姿を消した。かなり親しい友人にも連絡してなかったらしく、いなくなったあとも数人の友人から連絡があり、その旨を告げると皆一様に驚く始末。
 18年間いっしょに暮らした家族の一人がいなくなると、いったいどんな感慨に陥るものなのか、実は私は自分自身の感情の流れに、非常に興味があった。
 息子が3歳のときに私は脱サラし、以来ずっと家で働いている。普通の父と息子に比べ、ずっと濃密な関係なのだ。もしかして、心にぽっかりと空洞が出来てしまうのではあるまいか…。

 ところが、いざ実際にいなくなってみて、これが意外にそうでもない。息子の座っていた食卓の空間や、息子がまるで何かのメッセージのように机の上に残していった愛用のマフラーを見たときは、さすがに寂しいものが胸にこみあげたが、それもひとときのこと。テレビのチャンネル争いや、風呂の入る順番でもめる相手が一人少なくなり、私は息子抜きの生活にすぐに慣れてしまったのである。
 息子も息子で、行ってから一週間はナシのつぶて。ようやくかかってきた電話が「住民票の移動がどうの…」と得体の知れないもので、私のようにドライに割り切ることが出来ず、日々やきもきしていたウェットな妻を嘆かせた。

 こんなふうに私が割り切れるのにはわけがある。息子との関係が極めて濃密であったことは先に書いたが、常日頃から私は子供たちに、そのときの年齢に応じて、自分が同じころに何を考え、何を感じ、どう行動してきたかを話してきた。いわゆる「口うるさいオヤジ」であったわけだが、私は決して若き日の自分をただ正当化し、美化して語ったのではなく、自分の情けない部分、醜い部分をも包み隠さず語ってきたつもりである。
 これはいつか子供たちは私のもとを去っていくだろう、いや、巣立って欲しいという願いがあったからで、ときにはうるさく感じたかもしれないオヤジの戯言も、それが本音でぶつけたものであれば、いつかはなにかしらの糧になる、と信じているからである。
(これはあくまで「語り手」としての私の問題であり、仮に子供たちに何も残らなくても、それはそれでいい)

 息子が去ってやがて一ケ月が過ぎようとしているが、先日妻にかかってきた電話がふるっていた。
「母さん、天ぷら油って、何回まで使えるのさ?」
 どうやら寮のメシがあまりにもひどく、先輩にもらった調理用具一式で、自炊を始めたらしい。部屋は個室で冷暖房完備というし、卒業する先輩にすっかり気にいられ、電気製品一式までちゃっかりタダで譲り受けたという。この分だと、もう家には二度と戻ってこないかも…。




外から見たTomtomBox/'97.3



 先日、街に出てぶらり立ち寄ったパソコンショップで「無料インターネット体験コーナー」なるのものを発見した。「どうぞご自由にご覧ください。ただし一人10分以内。システムはいじらないでください」とある。
 かねてから他のマシンやブラウザで見たTomtomBox(このページ)はどんな風に見えるのだろうか?という疑念があり、幸いそこに展示してあったマシンがWin95でブラウザがEX3.0とう条件にぴったり(つまり、私とはまるで正反対の環境)であったため、平日であたりにひとけのないのを幸いに、我がページをこっそり覗いてみることにした。

 まず、ブックマークを開いてみると、Yahoo!があったので、ここから「TomtomBox」を入力。このキーは今のところ、世界にひとつだけなので、当然私のページだけが表示される。自分のページのURLなど覚えてないので、すぐに自分のページにたどり着くにはこれが一番てっとり早いのだ。
 さて、ほどなく目の前にぱっと広がった画面を見て私は驚いた。

メインページが小さい

 のだ。つまり、いつも私が作っているマシンは14インチ(表示は13インチ)という今では超ミニ画面の部類のものであり、比べて目の前にあるのは15〜16インチはあろうかという堂々としたもの。苦心して自分の画面ぴったりにはまるように作った私のメインページは、あわれ画面の上部に張り付いていて、下はぽっかりとした空間が空しく広がるばかりではないか!
 サブメニューを見ても様子は同じ。私は思い知らされた。自分ではいくらいいレイアウトと満足していても、私と同じ環境の方にはともかく、違う環境の方にとっては必ずしも快適とは言い切れないのだ、ということを。
 ネットサーフなどしていても、私と同じ様な錯覚(もしかすると承知の上かもしれないが)に陥っている方がいて、何の注意書きもなく、特殊な環境でしか見られない(聞けない)作品がアップされているサイトが結構ある。
 世の中にはテキスト環境だけでインターネットしている人もいるらしいので、いったいどこらへんの環境を基準にページを作っていけばよいのか分からなくなってくる。
 すべての人々に同じ画面で見てもらうことは所詮無理なので、違う環境の友人に自分のページを見てもらうなり、特殊な条件でしか閲覧出来ないのなら、せめて注意書きのひとつも書き加えて欲しいもの。
 この日以来、それまでNetscape2.0だけに頼っていたページチェックをNetscape3.0でもやるように、また画面を横幅いっぱいに広げた場合のレイアウトチェックを自分に課すことにしたのだった。




次男との合宿/'97.4



 長男がとっとと家を出た。と思っていたらその一ケ月後、続いて今度は長女が家を出た。こちらは就職で家を出るわけなので、長男とは違って、とりあえず3年は家に帰ってこない。(なにせ「石の上にも三年」と言い聞かせてある)
 時を同じくして、千葉に住む妻の母親が倒れた。ふだん、不義理を重ねているわけなので、ここはいい機会と妻に一週間の休みをとってもらい、長女と二人で上京してもらうことになった。
 さて、見回せば家の中は高二の次男と二人きり。その日の夕食はとりあえずカレーが用意してあったが、それ以降は二人で作らねばならぬ。もちろん、風呂やら洗濯、その他家事全般も。
 折しも仕事は超多忙状態。次男が余程の活躍をしてくれないと、この合宿はとても乗り切れぬ…。

 ところが、普段は縦のものを横にもしないズボラを絵に描いたような次男が、この「緊急事態」を察してか、八面六臂の活躍ぶり。夕方5時になればいそいそと米をとぎ、炊飯器にセットして食事の準備。7時になれば風呂を沸かし、チチよ、さあお先にお風呂をどうぞ。夕食が終ればシャカシャカ食器洗いと、まるで妻よりもキメ細かなサービス。
 妻が買い置きしていた食料とメニューのメモは三日で底をつき、四日目からはスーパーに買いだしに行き、かごを片手に新メニューの知恵しぼり。(さすがにこれは私が担当)
「肉と魚を交互に」「野菜を欠かさないように」「なるべく品数を多く」等など、気分はまるでどこかの若奥様。洗濯や分別ゴミ出しもしっかりチェックして、出発前はいったいどうなることかと思われた合宿も、五日目あたりからは完全にペースに乗って怖いものなし。

 ここで男二人の作るメニューがどんなものなのか、参考のために書いてみよう。

1日目/カレーライス(妻の作りおき)サラダ
2日目/はくさいと豚肉の土手鍋(簡単でおいしいよ!)
3日目/サンマの蒲焼き丼(缶詰料理)おひたし
4日目/スパゲティーミートソース(缶詰をベースに、手を加える)
5日目/鶏そぼろといり卵とほうれん草の三食丼
6日目/焼き塩鮭、肉じゃが、味噌汁

 ちなみに、お弁当屋さんへは、「僕のプライドが許さない!」とのたまう次男の強い要望により、一度も行かずに済ませた。

 明日はいよいよ妻が帰ってくるぞという前の夜、今が盛りというヘールポップ彗星を見ようと、双眼鏡を持って次男と私は外に出た。まだ夜風の冷たい戸外に、人影は見当たらなかった。
 ピント合わせに手間取る私を尻目に、いちはやく肉眼で彗星を先に見つけたのは次男のほうだった。

「どこだ?」
「ほら、あの木の枝の上のほう」
「あった、あった。大きいな」
「うん」

 私たちは双眼鏡をやり取りしながら、北の夜空に七色に輝く巨大な彗星をしばしの間、堪能したのだった。




デジカメとスキャナ/'97.4



 デジカメとスキャナーをほぼ同時に買った。「消費税アップ前に」という気分が働いたせいもあるが、やはり必要だったからだ。
 と言っても予算は限られているので、買える機種には限度がある。カタログや店頭、そしてインターネットなどで充分に情報を集め、結局デジカメはフラッシュつきの27万画素のものを、スキャナーは300dpiのものを買った。
 両方ともほぼ予算通り、3万強で済んだ。スキャナーは付属ソフトやらケーブル、ドライバーなどを入れると4万を超えてしまうはずだったが、ドライバーがインターネットで無料で提供されていることを知り、渋る店員を強引に押し切って本体のみ購入。結果的に安くあげた。

 で、使い心地の報告である。結論から言ってしまえば、

同じ予算なら、スキャナーが買いだ!

「画像が瞬時に見られる」という点以外は(実はこれがデジカメの最大の利点なのだが)同じ予算の場合、デジカメに勝ち目はない。
 私が上の器材で全く同じ場所、同じ被写体で試してみたところでは、フラッシュを使ってデジカメで撮った画像より、普通のカメラで撮った写真をスキャナーで取り込んだ方が画質、色の再現性とも数段上である。
 以前、ビデオカメラからパソコンに画像を取り込む方法をこのページで書いたが、27万画素くらいのデジカメだと、このやり方で得られる画像とほぼ同程度の画質である。
 つまりどうせデジカメを買うなら、半端なものを買うより、思いきり高性能のものを買ったほうがあとあと後悔せずに済むはずである。

 といいつつも、手軽に使えるせいもあり、現場調査のポラロイドカメラ代わりに、デジカメは結構役だっている。スキャナーのほうは、これはもう仕事にホームページにフル稼働。いまや私の大切な電脳秘書になりつつある。




三色の運動会/'97.5



 北国の運動会は、なぜか秋ではなく、ほとんど5月〜6月に行われる。これはおそらく、秋は迫り来る冬の準備に忙しいせいで、必然的にこうなったのではないかと思われる。
 おそらく他の地方と同じように、北国の運動会は学校を紅白の2組に真っ二つに分け、対決方式で催されるのが通例だった。私の生まれ育ったところは、一学年一クラスしかなく、紅白の組み分けはいつもクジ引きで行っていた。だから、この時期になるとクラスの中は「紅組」と「白組」との両派閥に真っ二つ。すべての面で激しい競り合い、罵りあい、果ては罵詈雑言(ばりぞうごん)までが飛び交って、それはそれはすごいものだった。

 さて、時代は流れて今はどうか。実は今どきの小学校の情報は、指導しているサッカークラブの子供たちから、逐一流れてくる。聞けば今の運動会は紅白の他に「青組」があるのだという。
 理由は簡単で、ほとんどの学年が3クラスであり、クラスの中を分けてしまって対決姿勢を強く打ち出すよりも、一致団結して事(つまり運動会ですね)に当たらせたい。そんな主旨で三色の組にするのだそうだ。
 クラスの団結だ、まとまりだ、という論理は私にはただの過保護にしか思えなかったのだが、反面その考えかたはいかにも今風であり、私はそれなりに納得していた。だが、聞いているうちにふとひとつの疑問がふつふつと沸き上がってきた。昨今の少子化の影響で、学年によっては2クラスのところもあるはずだ。その学年、クラスはいったいどうするのだ?

「そういう学年は、クラスを赤白青の3つに分けるの」

 子供たちはすらりとそう答えた。ちょっと待て。そりゃおかしいゾ。団結やチームワークの論理ってえのは、多数派だけのものなのかい?無理やり3つに分けられた子供たちの心の痛手はいったいどうなるんだい?
 そんな「オジサン論理」をぶつけてみても、「だってそうなっているんだもの」と、子供たちから返ってくる返事は、屈託のないものばかりだった。

 いまの運動会は、徒競走などでも「能力別グループ分け」などという方式でやり、足の遅い子でも一番になれる方策をとっているという。私自身、子供時代を思い返せば、記憶に強く残っているのは「団結」よりも「対決」、「勝ち」よりも、「負け」のほうだ。
(ちなみに、私はいつも徒競走ではビリだった)
 団結や公平の論理をたてに、対決や負けでしか得ることの出来ない大切なものを、いまの教育は失ってはいないのだろうか。




それでも小説/'97.5



 去年も今年も5月はホームページそっちのけで小説を書いていた。なぜかといえば、5月末日はとりあえず力を入れている「札幌市民文芸」の締切日だからである。
 私はいわゆる文芸同人に入っていないし、入ったこともない。いわゆる一匹狼とでもいうのか、ただ黙々とひとりで書いている。それでも自分の書いた作品の客観的評価はやはり欲しく、同人に入ろうかと思ったことは一度だけではなかった。そんな私を押しとどめてきたのは、人間関係のわずらわしさと「お金を払えば、必ず活字にしてくれる」という甘さだった。

 結局私が選んだ道は、投稿とインターネットを使って発表するというふたつの道だった。
 インターネットのほうは、書いたものを即、アップしてしまうと、それこそ同人よりももっと甘いことになってしまう。なにせ、自分しかチェックする人間がいないのだ。そこで私はこの「甘え」をみずから排除するため、ホームページにアップする作品は、原則としてどこかの文学賞、文芸誌などで何らかの評価を得たものしかアップしないようにしている。
 ということで、順序からいえば投稿のほうが先になるので、いまの私にとって、投稿が重要な自己表現の窓口になっているのである。

 ところが、この投稿が曲者なのだ。芥川賞にもっとも近いといわれている「文学界新人賞」は、年2回公募され、応募総数が1500前後。これが第一次選考で一気に60前後に絞られる。確率約4%。これは正直きつい。
 小説を書き始めて4年近くなるけれど、いろいろ投稿してみて自分の力を試してみた結果、だいたい応募総数の1割までにはなんとか食い込めることが分かった。逆に言えば、文学界新人賞のように、第一次選考が1割以下に絞られる賞だと、ちらっとでも名前とタイトルが雑誌に掲載される可能性は、極めて低いことになる。
(この自分の名前とタイトルを見つけたときの喜びは、おそらく書いたものにしか分からないもので、たとえ一次止りでも、骨身を削って書いた努力が、一気に報われる思いである)
 もっとも、これなどまだマシなほうで、賞の種類によっては、最終選考の数編だけ、もっとすごいものでは、受賞作以外は一切公表しない、というものさえある。
 要は一発で賞を取ってしまえば、確率もくそもないのだが、実力のない悲しさ、事はそう簡単には運ばない。自分の書いたものがいったいどのへんのレベルにあるのかは、同人に属していない人間にとっては重大事であり、その意味で選考過程をこと細かに発表してくれる文学賞はまことに有難く、たとえ規模は小さくとも、そうした暖かみのある文学賞に向けて、今夜もキーを叩くのだ。