一九九六・秋乃章

   つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
   なにせ『徒然雑記』なのだから。


家族でカラオケ/'96.9

 カラオケの秋である。(そんなことはないって!)子供たちの成長につれ、家族親睦のありかたも徐々に変わってきた。数年前までは家族キャンプに代表されるアウトドアライフがその場であったはずなのに、最近ではキャンプに行こうにも、皆のスケジュールがまるで合わない。
 簡単に言ってしまえば、家族よりも友人とのつきあいが中心になってきているためであり、これは我が子が大人に近づいている証拠でもあるわけだから、無理に首根っこつかまえて連れて行く気はさらさらない。
 しかし、たまには自然に触れたい。何たって、私の神は「NATURE」なのだから。('96.7の項参照)そこで困った私は、まだつきあいに無理のきく妻の腕をとり、春の花見、夏の滝見、秋の紅葉狩り、冬の雪見、と夫婦での風流をもっぱら楽しんでいる昨今なのだ。

 では、家族のおつきあい(平たく言えば「だんらん」ですね)が全くとだえてしまったのか?といえば、これがそうでもない。そう、ここでカラオケの登場となるのである。
 都合のいいことに、わが家の目と鼻の先にカラオケ屋さんがある。キャンプなら足掛け二日はつぶれるが、カラオケなら長くても2時間で済む。しかも、わが家のガキどもは、全員カラオケ好きときている。「今夜はカラオケ大会でも?」と水をむけると、なんやかやと理由をつけて毎夜帰りが遅い娘さえ、割りとホイホイと帰ってくる。カラオケの吸引効果たるや、絶大なのである。
(余談だが、アメリカにもカラオケ屋はたくさんあるが、むこうでは「カリオケ」と呼ぶらしい)
 まあ、そういうわけで、歌に多少の時代感覚のずれはあるが、行けば最低2時間はめいめいのパフォーマンスをたっぷり楽しめる。ちなみに、半年に一度は、これに近所の居酒屋でのコンパがからみ、一大イベントが繰り広げられるのだ。
 こんな騒ぎも、来年の春には二人が家を出る予定なので、もうすぐおしまいとなる。年とともに家族の在り方も変わってゆく。最後に残るのは、結局夫婦だけってことか。しみじみ。




日本人の責任/'96.9



 巷では選挙をやるらしい。はっきり言って、ここ数回の選挙は積極的にパス(つまり棄権ね)してきた。政治家の節操のなさ、精神の貧しさにほとほと嫌気がさしていたから。誰を選んだとしても、いったん権力の座についてしまえば、人間そんなに変わりようがないことを知ってしまったから。
 でも、それを全部政治家のせいにするつもりは毛頭ない。その政治家を選んだのは私たち。この社会を作ったのも私たち。政治家は私たちが望む方向にあわせて指揮棒を振るだけの、ただのからくり人形。だから、乳幼児は別にして、大半の日本人には、いまの病んだ社会(まさか今の日本社会を病んでいない、と言い切る人はあまりいないと思う)を作り上げてきた責任がある。
 だから、「いまの日本を何とかしよう、何とかしなくては…」と少しでも考えている奇特な方がいるのなら、まず自分の身の回りのことから始めよう。とりあえず、自分の一番身近な人、一番愛する人(または愛していると思っている人)との関係を、もう一度見直してみよう。すべてはそこから始まるはず。




二人一組/'96.9



 サッカーを教えている。地域の子供たちに。集団でやる練習のほかに、パスやトラップなど、どうしても二人一組でやらなくてはならない練習がある。さあ、ここで問題発生だ。
 練習にくる子供たちの数が偶数の場合は問題ない。あらかじめ学校で「今日の二人一組は一緒にやろうね!」などとしっかり「予約」を入れてくる要領のいい子、いきあたりばったりの子など、いろいろいるけど、まああぶれる子はいない。問題は、その日の子供の数が奇数だったときなのである。
 当り前だが、奇数の場合、必ずひとり余る。この余った子(なぜかいつも決まった子である)がどうなるのか?私はいつもぎりぎりまで手を貸さず、子供たちがどう解決するのか、グランドの隅でじっと見守っているのである。

●パターン1/「一緒にやる人がいません」と私に言ってくる子
 もっとも多いパターン。この場合、グランドに他にあぶれている子がいないか、まず捜し、いなければ三人一組の変則パターンでやらせるか、私自身が相手になる。

●パターン2/あぶれているのに、ただグランドの隅でポツンとたたずむ子
 本当は何とかしたいのに、コーチに言いに来る勇気のない子、全くのマイペースで、「相手がいなけりゃ別に練習やらなくてもいいや」と開き直っている子に大別される。
前者には声をかけるが、後者にはあまり声をかけずに、放っておく。

●パターン3/「ひとり余ってるから、三人一組でやっていい?」と聞きにくる子
 非常に少ないが、年に一人はこういう子が出てくる。回りに気を配ること、人の痛みを理解することを、本能的に分かっているのかな、と私は関心する。こういう子に限って、試合で素晴しいプレーを見せてくれ、さらに私を喜ばせる。
 サッカーは「人の良いプレーを見て覚える」という一面があるので、回りに気配りのきく子は、自然にうまくなるものなのだ。
 それにしても、こうした子がまだひっそりと都会の片隅に残っている限り、何やかや言いながらも、まだまだこの日本、捨てたものじゃないのだな、と思ってみたりもする。




冬の足音/'96.10



 晩秋である。雪虫が飛び交い、10月下旬には早くも初雪がふった。初雪がいつもより早い年は暖冬とかいうが、今年は少し雪が少なくあって欲しい。
 北の街の冬支度は忙しい。衣替えは言うに及ばず、こたつのセットとストーブの試運転。カーテンも厚物に変えなくてはいけないし、その前に網戸の撤去と窓の断熱材封印である。
 家の仕事が終わったら外に出て、車のタイヤをスタッドレスに変え、ワイパーも冬用に交換。バッテリー液を補充して、ウィンドウォッシャーも不凍液に交換する。もう一度家に戻り、冬に食べる漬物の材料(大根か白菜)を洗って干し、ついでに庭の樹木の冬囲い。
 これらの雑用を寒さに追われながら、だいたい2週間くらいのうちに終わらせねばならないのだから、まるで戦争のような忙しさだ。見れば分かるように、ほとんどが体力のいる仕事。元来がまめなたちだから、これらの仕事の大半は私がやる。
 漬物にしても、車の手入れにしても、外注に頼ればそれで済むのだが、結局は暇とお金の問題。「手作り派」にかこつけ、最後は全部自分でやらなきゃ気の済まない、ケチでヒマな私である。




観楓会と炊事遠足/'96.10



 上の漢字、読めます?前が「かんぷうかい」で、あとが「すいじえんそく」。どちらも晩秋の北の国には欠かせない、年中行事なのである。
 子供のころ、この「カンプウカイ」ってのが分からなかった。そのころちょうど野球に夢中で、「やっぱ、野球で『完封』してめでたいから会を開いて祝うんかな…」と子供心に思ってた。ところが、うれしそうな顔で出かける父親が、どうみても社内野球などやっている気配はない。コリャ違うゾ…。
 そのことが「楓」(つまり、紅葉)を「観る会」のことだと分かったのは、随分たってからのことだ。字に書けばエラく風流だが、何のことはない、紅葉を酒の肴に、ただドンチャン騒ぎをして日頃の憂さを晴らすだけのこと。平たく言えば、「秋の社員旅行」なのである。

 さて、あとのほうの「炊事遠足」。これは高校生くらいまでは、学校行事としてなぜか授業の一貫として催されるのが慣例だった。
 で、何をやるかといえば、河原かなんかに鍋釜タキギなど持ち込んで、持ちよった肉、魚、野菜などを思い思いに調理する。要するに「日帰りキャンプ」のようなもの。何せ授業なのだから、ちゃんと出席もとる。いつからこんなことが始まったか皆目分からないが、秋がくるといまだにどんな受験校でも律儀にやっているのがなんとも摩訶不思議。
 担任の先生が巡回に来て、作った料理の採点をされた覚えもある。炊事遠足の男女のグループわけのもめ事とか、クラスの中で意外な奴がお料理上手であることを発見したりして、いま振り返ってみると結構刺激に満ちたエキセントリックな行事だった。
 それもこれも、よく働いた春と夏の慰労、そしてこれから冬に備えて体力を蓄える、というありがた〜い開拓の先人の知恵が産んだ年中行事なのだろう。




朝 型/'96.11



 このところ不摂生がたたってか、いまひとつ体調がすぐれない。そこで一念発起、インターネットやら仕事やらですっかり夜型にはまっていた心と身体を、一ケ月かけて朝型に改造してみることにした。
 とはいえ、なにせそれまでの生活がひどいものだった。

1)テレホーダイの開始時間にあわせ、11時になるのを待ちかねてパソコンのスイッチを入れる。
2)ホームページ探訪やらメールの送受信などで、かれこれ1〜2時間費やす。
3)夜食など食べ、ダウンロードした画像、ファイルなどでしばし楽しむ。
4)ワイン、焼酎など手頃な酒をちびちびやりながら、ホームページリメイクなどでさらに数時間過ごす。
5)ふと気付けば、朝7時になっており、やおら妻が起きてくる。(何も言わない)
6)ある種の罪悪感に苛まれながら、すれ違いに布団にもぐりこむ。
7)当然、起き出すのは昼過ぎである。家族はすでに出払い、誰もいない。
(ちなみに、私の仕事は取引先も含めて午前中は全員死んでいる)
8)したがって夜は眠れない。(1に戻る(^^;;;)

 こんな馬鹿な生活をしていれば、身体もこわします。そこで、しばらくは夕食後、一時的に眠くなる9時ころにそのまま布団に入り、強引に朝まで眠ってしまう、という荒療治をこころみた。
 さすがに身体のリズムは簡単に元には戻らず、夜中に何度も目覚めてしまう、という状態が幾晩も続いたものの、数日で何とか7時に起きるリズムが回復。インターネットは8時までのリミットいっぱいまでやる、という軽業でこなし、おかげで体調も回復基調にある。
 しかし、あまり朝が速いと一日が長いこと長いこと。夜にはすっかり疲れきってしまい、10時以降のテレビなどは一切見られない。「ふたりっ子」というとてもおもしろい朝の連続TVドラマが確実に見られるようになったのはよかったが…。
 でまあ、最近は少しまたリズムをずらして、2時〜3時には眠り、9時〜10時に起きるというペースに戻しつつある。これでも結構ヤクザな生活リズムだけどね。




肩書き/'96.11



 ときどき「先生」と呼ばれることがある。ひとつはサッカーのコーチをやっているとき。もうひとつは特に建築関係の業者がカタログその他をもって事務所(といっても自宅の一室だが)に現われるときだ。
 田中真紀子議員が初めて当選したとき、「当選おめでとうインタビュー」で、あるレポーターがいきなり「先生」と呼び、彼女は即座に「先生なんて呼ばないでください。そんな風に呼ばれると、つい思い違いをしてしまいますから」ときっぱり言ったことをエラく鮮明に覚えている。
(その後、彼女が「先生」と呼ばれることを受け入れているのか、拒否し続けているのか定かではない。初志貫徹していればよろしいですがね)

 ところで私の場合は、サッカーの自分のチームの子供が「先生」と呼んできた場合、「コーチって呼んでね」とやさしく教える。同じチームの父母の場合も同じ。別のチームの父母などが「先生」と呼んできたときや、建築の業者なんかの場合は、これはもう野放しである。
 あまり愉快な気分ではないことだけは確かだが、単に自分のくすぐったさだけで「その呼び方はやめてくれ」といちいち言うのも面倒だし、そう呼ばれたからといって思い違いするほど浮ついてもいないし、それに肩書きをつけて呼ぶのは、そもそも呼び手側の問題であることに気づいたからである。
 しかし、私のように月に一度くらいしか呼ばれない人間と、自分の意思には無関係に毎日何十、何百回も「センセ、センセ」と呼ばれ続けてしまう人間、そして一度も「先生」とは呼ばれない人とでは、自分の気持ちの在り方や性格などが、やはりどこか少し違ってくるのでは?とつい疑ってしまうのである。




読み手と書き手/'96.11



 小説の表彰式があった。「先生」と呼ばれるのはあまり好きではないが、何かの賞をもらいに表彰式に出るのは好きである。なぜなら、表彰式は確実に自分の力で勝ちえた実感がするからだ。
(よく考えれば、「先生」と呼ばれるのもそうかもしれないが…。ううむ、分からぬ…)
 表彰式は通り一遍のものだったが、そのあと場所を移して行われた「合評会」なるものがすごかった。
 出席者は私を含めてフリー参加の市民など5名、講師側は札幌在住の作家2名である。以降、差し障りがあるかもしれないので、この作家の方々をA氏、B氏とする。

 2時間弱に渡る合評の内容は、私の小説「流れる夏」(このページ内で読めます)に集中した。どうやら、今回の私の小説の構成が新しすぎ、選考時点でも委員(3人)によってかなり意見が分かれたという。結局3名の意見がまとまらず、「優秀賞」という形でお茶を濁したらしいのだ。
 B氏は「会話がうまい」「表現力がある」「出だしの感覚が鋭い」「生活に疲れた中年夫婦像をうまく描いている」とおおむね好意的。
 ところが、芥川賞と直木賞の候補にそれぞれノミネートされたことのあるA氏は「良い部分は認めるが、部分的に大きな傷がある」と厳しい評価。特に猫を捨てるシーンで「鎮魂歌を歌う…」がよくないと決めつける。これにはB氏も同意し、私もすぐに誤りを認めた。要するに叙情に流されてしまって、肝心なテーマを見失い、全体の雰囲気を壊しているというのだ。
 目を閉じながらA氏はさらに続ける。私は耳をそばだてる。実は、私はこの人の評価を聞くために(読むために)この文芸賞に応募しているようなものだった。
「ラストの『何気なく車が流れる』ってのは残念でしたね、実に残念だ…」
 しかし、なぜ残念なのかに関しては、固く口をつぐんで語らない。(なぜだ!)私は心の中で叫ぶが、A氏はそれ以上何も答えない。要するに「自分で考えろ」ということらしい。
 これは私の予想だが、「命の流れ」をテーマにして書いたのなら、ラストで車が「何気なく」流れてしまってはいけない、と言いたかったのではないか?しかし、これについては私はまだ納得していない。私が伝えたかったのは別のことだった。何かうまい解決方法が見つかれば、また書き直すかもしれないが…。

 さて、問題は最後の議論だ。ここからは実際の会話文で書く。

B氏「人称が激しく変っていますが、こうまで変える必然性はあったのですか?」
私「……」(言い出そうかどうか迷う)
B氏「必然性がないのなら、読者をただ混乱させるだけでしょう」
私「実は、混乱させることが目的だったのです」
B氏「……」(絶句。コイツはいったい何を考えいるんだ、という顔)
A氏(毅然とした調子で)「それは読者に対して失礼だ」
私「……」(相手をじっとみつめたまま、ただ黙り込む)
A氏(腕組みをしたまま、不機嫌な顔)
B氏(うつむいて何かを考えこんでいる)

 ただの思いつきでそんなことをやるはずもなく、奇をてらったわけでもなく、もちろん読者にいじわるするつもりで書いたわけでもない。人称を変えることで私は読者にあるメッセージを託したのだが、どうやらそれは私の独り合点だったようだ。プロの作家でも読み取れなかったものを、一介のアマチュアがやってはいけなかったのかもしれない。
 しかし、私のしたことが「読者に対して失礼だ」という論理だけはいまひとつ合点がいかない。たとえ無名であろうも、書き手と読み手は本来対等のものであり、書き手が真剣に託したものは、読み手も真剣に読み取るべき、と私は考えているからである。