二〇〇六・夏秋冬乃章

   つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
   なにせ『徒然雑記』なのだから。


2002年問題/'06.7

 およそ半年ぶりに雑記帳を記す。もともとが「徒然雑記」を自負しているのだから、毎月書こうが一年ぶりに書こうが構わない気もするが、それにしても間隔があいた。
 その主たる理由は、サイトのトップに掲載の「日記風コラム」に自ら課していた字数400字制限を、これまた自ら撤廃したためである。そのせいで、最近は毎日のように結構な量の駄文を書き連ねている。「書く」という行為によるガス抜きの目的は日々達成されているわけで、いちおうは月に一度何かを書くつもりでいたこのコーナーも、自然と開店休業状態に陥ったわけである。
 で、突然その雑記帳を記す気になったわけは、しょせんはキエモノである「日記風コラム」ではなく、記録としてきちんと残しておきたいことが、身辺で起こったからだ。

 時は4年前にさかのぼる。時期は春先だったと記憶しているが、じわじわと仕事量が落ち始めた。家を建てて3年目で、娘はすでに独立していたが、二人の息子は大学生でまだ家にいた。
 仕事量減少の第一の要因は不況である。身の回りでもバタバタと会社が倒産していて、厳しい時世だった。当時はまだほとんど住宅設計関係の仕事は手がけていず、下請けとしての建築パースの仕事が主体だった。
 この建築パースのタッチが手描きからCGに移行しつつある過渡期で、私自身は割に早くからCGへの移行体制を整えていた。だが当時の作品を見ると、写真との合成技術を駆使しているいまと比べ、質ではかなり見劣りがする。業績落ち込みのもうひとつの要因が、この出遅れた表現力にあった。
 仕事の落ち込みとほぼ同時進行で、身内にも多くの困難な事態が持ち上がった。その全てを記すことはとても出来ないが、悪い事は不思議に続けざまに起こる。それらの困難は2001年後半から2003年始めまで、嵐のように我が家を吹き抜けた。このときの抜き差しならぬ事態を仮に「2002年問題」と呼ぶ。

 黙って座していても、仕事はこない。こんなとき、じっとしていられないのが私の性分だ。意を決し、数年ぶりか十数年ぶりかの飛び込み営業に出歩いた。ダイレクトメールも出してみた。だが、結果はかんばしくない。
 このときいろいろと画策して得た新規の顧客は、結局ゼロである。タッチに抜きん出たものがないまま、不況下でむやみに手を広げようとしても、効果はなかったのである。

 次に私のとった行動が、いま思い返すと大きく的を外したものだった。本業である建築関係ではなく、しょせんは趣味道楽の域を出ない、「文章」「インターネット」に手を広げようとしたのである。
 ホームページでの人気連載が出版社の目にとまり、企画出版で本を出した直後だった。自分の中で、(書くことやネット事業はカネになる)という、奢りと甘い見通しがあったかもしれない。実際、この二つの新事業にはいくつかの引合いがあり、具体的にいくつかの仕事が舞込んだ。本業が暇なこともあり、私はそれらの「副業」に心血を注いだが、またしても結果は出なかった。
 このとき、金額まで決めて進めたはずの大きな仕事が、元請けのクレーム等の諸事情で、最終的にお金は入らなかった。記録を調べると、私のタダ働き額はおよそ40万円ということになっている。
 90%まで仕上がっていた仕事を最終クリア出来なかったのは、おそらく私の力不足だったろう。しかし、問題の本質は、慣れぬ本業以外の仕事に手を出した私の判断ミスにある。焦りは判断ミスを招き、悪い負のスパイラルにズルズルとはまってゆくものらしい。




試練の日々/'06.7



 時はゆるゆると流れ去った。その後私は良き仕事仲間と巡り会い、建築パースのタッチを180度変えた。写真合成を加味した新しいタッチである。時には単価の低い仕事も甘んじて受けた。景況も次第によくなり、業績は徐々に回復していった。良い流れは互いに呼応して運気を呼び込むものらしく、2003年秋にはホームページでの家作り連載を見たという遠方の方から、予期せぬ住宅の設計依頼まで舞込んだ。
 ネット経由の住宅設計依頼はその後も順調で、建築パースとの両輪として立派に確立されていった。家族の理解もあり、2002年問題はすでに過去のものとして払拭され、事業形態と家庭は安定したかのように思われた。

 順調そうに見えた流れに、わずかな陰りを感じ始めたのは2005年の秋あたりからである。この種の私の予感は、妙に的中する。進行中の住宅現場は佳境で、私は日々の仕事に追われていたが、ネット経由での相談メールの類いに、一時の勢いがない感じがした。
 これまでなら、ひとつの現場が進行中に、次の具体的な話が必ず舞込んできた。その動きがない。(これはまずいかもしれない…)そんな漠然とした予感に捕らわれ始めていた。
 同じ時期の年末から年始にかけ、実家の父の様子がおかしくなった。そして年明け早々に倒れ、病院に担ぎこまれた。先の見えない長期入院の始まりである。長男である私は、様々な雑事に謀殺されることになる。実家に独り残された高齢の母も大きな気掛かりだったが、これといった有効な手立てがない。

 2005年暮れから2006年初頭にかけ、いわゆる「構造偽造問題」が次々と起こった。建築業界全体の被ったダメージは計り知れないが、中でも2006年2月に起きた構造偽造問題には、地元札幌の建築士がからんでいた。私のてがける建築パースにしても、住宅設計にしても、すべて建築に関連した業務である。これらの一連の騒動は消費者心理の冷え込みや様子見といった形で大きな影響を及ぼし、事業の悪化に拍車をかけた。
 事業回復の先が一向に見えない私は、ついまたやってはいけない事に手をだした。それまでの2年間で多少の備蓄のあった資金をもとに、投資関係の事業に手を出したのだ。
 だが、しょせんは素人である。付け焼き刃の知識で資金を増やそうなどとは、大それた甘い考えだった。最初こそ少しは資金が増えたが、時とともに次第に目減りし始めた。元金はそう大きなものではなかったが、己の力不足を思い知り、数ヶ月ですっぱり止めた。

「仕事量減少」「慣れぬ異業種に手を出す」「身内をめぐるトラブル」
 まるで4年前をそっくりなぞるような、「2006年問題」の序章の始まりである。

 2006年6月末、さらなる激震が襲った。10年近いつきあいがあった取引先が突然倒産し、数十万円の焦げ付き金が出てしまったのだ。取引額の多い相手だったが、支払いの大半が手形であることに、いつも一抹の不安を抱えていた。その不安がまさか現実のものとなろうとは。
 負債者として多少の配当金が戻ってくる可能性はあったが、ほとんど期待出来ない。24年も自営業を続けていると、この種のことには時々巡り会うが、過去最大の損害額である。正直いって辛かった。まさに「泣き面にハチ」で、天はどこまで自分に過酷なのかと、つい我が運命をうらみたくなった。

 これを書いているいまも、2006年問題の出口は見えない。4年前の経験から推測すると、懸命に打開策を講じたとしても、少なくとも今年いっぱいは厳しい状況が続くと考えている。
 今年になって、趣味でやっている弾き語りライブの紹介の場で、決まったように「いま何かと話題の一級建築士の仕事を普段はされているそうです」と紹介される。黙って言われるままにしているが、正直いって愉快ではない。こんな枕詞がついて回るうちは、業界の冷え込みは回復しないだろう。

 すべてが悲観的のようだが、4年前と違っている状況があるとすれば、3人の子供達が自立してそれぞれ順調であること。ひとまず私と妻が健康であること。そして以前のように、建築パースの技術面に大きな不安があるわけではないことだろうか。家族の入院などは過去に幾度かあったが、不思議なことにいつも経済状態が比較的よいときだった。天はいまのところ、ここだけは配慮してくれている。
 今回のトラブルには、社会的要因や自分自身の見通しの甘さ、身内の問題など、自分だけではどうにもならなかったことと、冷静に対処すればどうにか出来たかもしれないことが、複雑にからみあっている。
 過去の失敗から経験的にいま考えていることは、「原点に返ること」である。24年前の開業当時に戻り、自分の一番得意な建築パースの仕事に、しばらく集中しようと思っている。住宅の設計は大好きだし、引合いがあれば喜んでやるつもりだが、いつ依頼がくるか全く予測出来ないものを、ただ待ち続けることはさすがに出来ない。

「ああ、あんな厳しい時代もあったよね」と、妻と笑って懐かしく語り合える日がいつか必ずくると信じ、今日も地道な努力をひたすら続けている。




メール破綻/'06.10



 知人で最近、メールを一切やめた人がいる。詳しくは聞いてないが、「受信箱を開けると、毎日わけのわかないメールの山でウンザリさせられる」と、以前からこぼしていた。私の送ったメールに返事がなく、催促のメールを再度送ったら、最初のメールを気づかずに捨ててしまったらしいこともあった。
 この事実から推測するに、おそらく日々の迷惑メールの山に辟易したのだろう。プライベートな連絡手段が電話か郵便だけになってしまったが、気持ちは分かる。
 5年ほど前だったろうか、昨今の「迷惑メール襲来」時代の到来を予知していた人がいる。「日々のメールの90%以上が迷惑メールとなり、ネット上のメールは事実上破綻するであろう」と、その人は予言していた。まさかそんなことがと半信半疑でいたが、その通りの時代がやってきた。

 個人としての防衛策は少ない。迷惑メールの多くは、アドレスに必ず含まれる「@(アットマーク)」を基準にして巡回ロボットがネット上から自動的にアドレスを拾い、無作為に送りつけてくる仕組みらしい。「あなたのアドレスは、ネット上から拾いました」と、わざわざご丁寧に書き添えてくる迷惑メールさえある。
 従って、個人で出来る最善の防衛策は、ネット上に自分のアドレスの痕跡を一切残さないことだ。掲示板にはアドレスを付記しない。ホームページに連絡先アドレスを掲載する場合は、画像に変換して送信者にそのつどアドレスを打込んでもらうか、私のサイトのように完全に暗号化することだ。
(暗号化の手法は解析される可能性があるので、公開しません。各自でお調べください)
 ちなみに、巡回ロボットは裏にあるソースからでもアドレスを拾うので、表面上の文章から消しても全く意味がない。また、半角でなく全角の「@」でも、ちゃんと拾うそうだ。ヘビのようにしつこく、手強いのである。

 私の場合、一日あたりの迷惑メールの数はおよそ50〜60。種々の対策をしたので、これでも一時期よりはかなり減った。しかし、訪問ライブの紹介などで、他のサイトでもアドレスが公開されている。自分のサイトでいくら暗号化しても、そちらで拾われてしまうと効果は薄い。
 お願いできるサイトには消去してもらい、サイトのURLを代りに掲載していただいているが、まだひとつだけネット上に残っている。こちらは役所がからんでいるので、消去は難しいかもしれない。あと1年で権利が消えるので、もう少しの我慢だ。

 この巡回ロボットの「@拾い」から逃れるため、あちこちのサイトで様々な工夫が見られる。アドレスの画像変換は代表的なものだが、あるサイトで、「メールはabcdアットマークco.jpヘお願いします」などというのがあった。
「アットマーク→@」と変換してアドレス指定すれば送信できる仕組みで、なるほどこれなら巡回ロボットの攻撃からは逃れられる。しかし、初心者にはちょっと難しすぎて理解不可能かもしれない。
 プロバイダ側でもいろいろ工夫していて、私の使うヤフーはかなり強力な迷惑メール対策をしている。フィルターを設定してやれば、大半の迷惑メールは区分されて別の箱に封じ込められ、正式な受信箱には入ってこない。おかげで、迷惑メールの山から「本物」を見分ける不毛の作業からは解放された。
 ただ、システムそのものがまだ発展途上のせいか、ときどき「本物メール」が迷惑メール箱に紛れていたり、網をくぐり抜けた迷惑メールが、ちゃっかり受信箱に入り込んでいたりする。だから迷惑メール箱といえど、見出しだけにはざっと目を通してから消去する必要がある。

 このような時代になってくると、メールの見出しのつけ方が非常に重要だ。私の3人の子の場合、「…です」と見出しに実名をつけてくれるので、間違って捨ててしまうことはまずない。迷惑メールにも同様に「…です」と、知人を装ったものが見受けられるが、名前がいかにもアヤシゲでバレバレ。開ける必要もない。
 困ってしまうのは、迷惑メールと区別のつかない見出しをつけてくる「本物メール」が結構あることだ。代表的なものをいくつか挙げる。
「お久しぶりです」「ごぶさたしてます」「よろしくお願いします」「こんにちわ」「こんばんわ」「お詫び」等々。これらは受け手に、(誰だっけ?)(何だろう?)と思わず開けさせるための迷惑メールの常套文句である。本物メールを出そうとする方には、ぜひともやめていただきたい。
 望ましいのは、「札幌のTOMすけです」「住宅相談の件です」など、具体的で迷惑メールでは不可能な見出しのつけ方だろうか。
 当然だが、私の妻のようにメールの痕跡はどこにも残さず、サイトもブログ持っていない身には、一切の迷惑メールがこない。「特定の知人にしかアドレスを教えない」というのも究極の防御策だが、私のようにサイト上で不特定多数の相手から仕事のメールを受ける立場の場合、それも難しい。

 あれこれあるが、それでも私はメールをやめる気はない。企画出版で本を出せたのも、ネット上で住宅の設計を受注できたのも、一瞬にして仕事を納品できるのも、すべてメールをやっていたからだ。多くの見知らぬ人々と懇意にもなれた。
 会員制のようなネット上のシステムが注目されているが、私にはあまり興味がない。ネットとは元来、広く開かれたものであり、不特定多数が自由に閲覧出来るからこそ妙味があると確信しているからで、閉じられた世界には自ずと限界がある。
 個人の創意工夫で、破綻からは何とか免れたいと考えている。




三つの贅沢/'06.10



「縄文暮し」を自負し、日々節約を努め、質素な生活を心掛けている我が家にも、ちょっとした贅沢がある。

●晩 酌
 毎晩飲むようになったのは、結婚2年目くらいからだった。サラリーマンだった当時は給料が安く、もっぱらサントリーホワイトの水割り。ビールは高価で、たまにしか飲めなかった。
 給料が上がると共に、水割りはブラックニッカに代わったが、ビールをたまにしか飲まないのは相変わらず。当時、(10年たったら独立する)という強い決意があり、日々の節約でなるべく独立資金を増やしたかった事情がある。

 ビールを毎晩飲めるようになったのは、脱サラ独立後、2年目くらいからだ。事業が安定したことと、生活形態の急変で腎臓結石を発病したことが重なった。「腎臓結石にはビールは薬のようなものだ」という医者の言葉に乗じたふしもある。
 以降、事業は浮いたり沈んだりで月日が流れたが、ビールはいつしか安価な発泡酒に代わり、飲み足りないときはワインか日本酒を軽く飲む。

 パート勤務を始めて以来、妻も私と共に晩酌を嗜むようになった。妻は薄めの水割りで、ブラックニッカのクリアブレンドだ。体質的にアルコールには弱いのだが、日々の職場でのストレスを解消するには、一杯の酒が絶好らしい。
 最近の健康診断で肝臓とすい臓に軽い異常がみつかり、目下週に一度の休肝日(晩酌をしない日)を設けている。
 実はこの私もストレスの増大と日頃の運動不足がたたってか、血糖値が上がっていると健康診断で指摘された。運動を心掛けると同時に、「糖尿病予防には赤ワインがよい」との都合のよい情報を得て、晩酌の新たなる免罪符を得た気分でいる。

 晩酌を交しながら、夫婦で日々のウサや、これまで、そしてこれからの人生をウダウダと夜毎語るのはとても楽しい。酒のおかげでメシもうまい。試算すると晩酌によって月5,000円ほど出費が増大するが、夫婦とも外で飲むことは皆無に近く、ささやかな贅沢である。
 もしかすると晩酌で多少は寿命が縮むかもしれないが、この楽しみと引き換えにする気はさらさらない。ドクターストップがかからない限り、死ぬまでやめないだろう。

●入 浴
 結婚以来、毎日の入浴を欠かしたことがない。それもシャワーではなく、バスタブにお湯もはる完全なる入浴である。
 いろいろ聞くとあまり暑くない北海道の場合、入浴は週2〜3回という人が多く、どうやらこれはとんでもない贅沢のようだ。
 なぜこの習慣が我が家に定着したか、実ははっきりしない。おそらく妻が暑い東京生まれの東京育ちで、毎日の入浴が習慣としてしみついていたことが大いに関わっている。私も9年の東京暮しで、同様の習慣が身についた。
 独立して北海道暮しになっても、その習慣はなぜか変わらなかっただけの話。寒い北海道でも、毎日入浴すると身体が暖まり、健康によいことはもちろん、暖房費の節約にもなっている気がする。

 昨今は石油価格が高騰し、給湯ボイラーに石油を使っている我が家も、もろにその影響を受けている。そのせいか、最近のバスタブには、お湯の量が以前よりも少なくなった。
 夫婦二人だけなので、もう入浴は一日おきでもよいのかもしれない。妻にそれを提案しても、翌日にはちゃんと湧かし、さっさと入っている。(我が家は熱い湯が好きな妻が先に入浴する)
 試算すると、一回の入浴にかかる費用は灯油代、水道代、電気代の一切を含めて、およそ100円。入浴を一日おきに減らすと、毎月1,500円が浮く勘定になるが、はてさて…。結局のところ、この生活がいつまで続けられるかは、今後の石油価格の動向と事業収入にかかっている。

●珈 琲
 結婚以来、ずっと夫婦で飲み続けている。しかもインスタントではなく、ちゃんとしたレギュラーコーヒーだ。
 新婚当時はレギュラーコーヒーそのものがまだかなり高価で、専門店でしか手に入らなかったが、最近はスーパーで安く買える。それでも贅沢品であることに変わりはない。

 私も妻も独身時代から大の珈琲党で、そもそも妻と親しくなったきっかけが珈琲だった。その子細については、いずれ詳しくふれたい。珈琲は二人をつなぐ強い絆のようなもので、やがて還暦をむかえる年になっても、それは変わることはない。私も妻も、2杯前後の珈琲を毎日欠かさず飲む。
 珈琲にかけるお金は、光熱費まで入れて月およそ2,000円弱。晩酌と並ぶ大きな贅沢品だが、同時に私たち夫婦の人生を彩る大きな楽しみでもある。他の出費を削ってでも、きっと飲み続けるだろう。




ハグ/'07.1



 以前は起きて見ていたテレビの深夜放送を、最近はDVDレコーダーに録画しておいて翌日以降に見る。不規則な生活を避けるためと、CMカットや早送りを駆使し、効率的に見るためである。DVDレコーダーなら画質も生放送と変わらず、頭だしも一発。良い番組があると消去せずにとっておいて、あとで妻にも見せる。
 そんな番組のひとつに「探偵ナイトスクープ」がある。大阪で作られているお笑い系のバラエティだが、時に笑いの中に人間の真実を垣間見ることがあり、欠かさず見ている。

 正月の放送でとてもよいものがあり、夜半に一人涙しながら見た。翌日、妻にも見せたら、妻もポロポロ涙を流して見ている。前夜見たばかりの私も、またまた泣いてしまった。
 その内容とは、「ハグ」である。日本語に訳すと「抱擁」となるが、ちょっとニュアンスが違う。外国人が出会いや別れのときに軽く抱き合って背中を叩きあう、アレである。
 握手よりももっと親密。外国ではおそらくビジネスの場でも交されているのではないか。日本人のお辞儀にもそれなりの味はあるが、伝わるものはハグのほうが遥かに熱い。

 番組ではある若い男性が、外国のミュージシャンのビデオに感化され、大阪の繁華街で道行く見知らぬ人に突然ハグを求める、という大胆な企画であった。外国では容易に受け入れられる行動が、果たして日本でも通用するのかどうか、かなり疑問だった。
「FREE HUGS」という看板を持ち、「僕とハグしませんか?」とねばり強くパフォーマンスを続けるうち、一人の中年女性が立ち止まり、ついにハグに応じた。カメラは隠し撮りだから、テレビを意識しての行動ではない。のちのインタビューで、その女性には海外生活の経験があり、男性の行動を意気に感じたのだという。

 この女性の反応にまず打たれた。2年前、初めて私が路上ライブを決行したとき、立ち止まって最後まで聞いてくれ、拍手までくれた見知らぬ女性のことをふと思い出した。人生、そう捨てたものではない。オカネでもカケヒキでもない単純な思いからくる行動は、必ずどこかの誰かに通じるものだ。
 その後番組は多くの人とのハグの場面を写し、最後は企画した男性とその家族とのハグで締めくくられた。
 家族も男性もレポーターもコメンテーターも司会者も、みんな涙を流している。たぶんこの番組を観ていた多くの視聴者も。ただ軽く抱き合うだけの行動なのに、なぜか強く心を打たれる。ハグには不思議なパワーが秘められているのかもしれない。

 我が家では過去に外国人のホームステイを何度か経験したが、多くの場合は別れの場面で自然にハグとなった。(ならない場合もある)これは実に不思議なことで、人が見ているとか、日本人の習慣には合わないとか、そんなことは全く気にならない。
 番組の中で何人かにインタビューしていたが、家族同士でハグをたまにする人が、ごく少数だがいた。これを書くべきかどうか迷ったが、実は私たち夫婦も家の中でたまに軽いハグをする。子供たちがいた時期からそうだったし、いなくなったいまでもそうだ。
 妻に確かめたら、職場でもたまに同僚とハグをするそうだ。たとえば、長い休暇からしばらくぶりに同僚が勤務に戻ったとき、退職や移動でいなくなった同僚がたまに遊びに寄ったときなどとか。
 自宅が職場の私にはハグをする同僚などいないが、もし街で「FREE HUGS」の看板を持つ人を見かけたら、近寄ってぜひとも応じようと思う。見てるだけで泣けるのだから、やればもっと感動するに違いない。

「FREE HUGS」にかける基本的な姿勢は、私が時折仕掛ける「路上ライブ」と変わらない気がする。いや、もしかして、伝わるものはもっと熱いかもしれない。
「ハグは地球を救う」のだろうか?




ライトバン的人生/'07.1



 最近スポーツタイプの車を買った二男が、交友関係で少しばかり悩んでいるらしい。正月休みで帰省した折、この件に関して自分の体験談を交え、いろいろと話合った。
 子細は書けないが、最終的に私が彼に伝えた言葉は、次の一点である。

「スポーツ車に乗る者には、それに見合う人間が近寄ってくる」

 RV車に乗る人間にはRV車的人間が集まってきて、RV車的人間関係が構築され、いわば「RV車的人生」が待ち受けている。つまり、お前は「スポーツ車的人生」を当面は選んだのだよ、しかも自分の判断で、と。
 私のこの言葉に感じるところがあったらしく、息子はしきりにうなずいていた。

 この言葉をそっくり私自身の人生に置き換えると、25年もライトバンに乗り続けている私の人生は、紛れもなく「ライトバン的人生」である。
 見てくれはパッとしないが、実用的で燃費もよく、コストも税金も格安。縄文暮しにこれほどぴったりの車は見当たらない。見回すと、妻を含めた私の周囲の人間関係は、ほぼこの「ライトバン的人生」に沿ったものばかりと言える。

 仕事で住宅の間取り相談を受けることがときどきあるが、直接我が家を訪れる方々はもちろん、直接面談しないネット経由の依頼の場合でも、まっ先に乗っている車の車種と色を確かめる。
 車庫のスペースをチェックするという本来の目的以外に、「車種と色で、その人が人生で目指すおよその方向が推し量れる」と信じているからだ。

 服や靴の好みでも同様の傾向が当然ながら表れる。これまたあまり詳しいことは書けないが、設計を依頼された住宅の壁や屋根などの色や質感を最終決定する際に、私はその家の奥様の服や持ち物を大いに参考にする。落着いた趣味の方には、落着いた色合いを、ちょっと奇抜な趣味の方には、奇抜な色合いを…。
 まず外れがなく、この情報に基づいて提案すると、たいていは一発でOKが出る。

 二男の話に戻るが、買ったばかりのスポーツタイプの車を、手放すかどうかちょっと迷っていた。どうやら彼自身は、「スポーツ車的友人」「スポーツ車的彼女」を望んではいないようで、そこに葛藤の根源がある。
 でも、スポーツ車を選んだのは他の誰でもない、お前自身だ。目撃者はお前自身なんだと問い詰めると、次の車検まで2年あるので、しばらく考えてみる、という結論にやがて落着いた。

 家族の心のケアも楽ではないが、人間の心の奥底に潜む心理を丹念に掘り出す作業は、実はものすごく面白い。心理カウンセラーになれば良かったかな?と、ときどき思うことがある。いや、いまからでも決して遅くはない。

「漕ぎ出すなら、時はいまだ」(オリジナル曲「夕凪わるつ」より)