二〇〇三・春夏乃章

   つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
   なにせ『徒然雑記』なのだから。


7年目の改変/'03.3

 7年ぶりにホームページメニューを全面リニューアルした。このサイトを開設したのがちょうど7年前の3月だから、開設以来かたくなに守り続けてきたメインメニューの構成を、今回初めて変えたことになる。
 小さな変更はこれまでにもあった。サブメニューの名前を変えたり、背景画像を変えたりがそれである。だが、正方形の6つの箱を展開図風に表示する手法は、これまで一度もいじったことがない。サイトのタイトルが「TomtomBox」なので、真四角な箱にあくまでこだわってきた。ここにきてついにそのコンセプトを捨てた大きな理由は、ユーザーの操作性を考慮してのことである。
 年頭のこの雑記で書いた「R計画」の一環として、2月上旬に建築デザイン専門のサイトを立ち上げた。こちらは特に「箱」にこだわる必要がなく、ほとんどゼロの状態からページを構成した。操作性を重視し、メインメニューには最初からフレームを使用した。

 実はフレームは以前からあまり好きな手法ではなかった。きっちり枠に収まらず、余分なスクロールバーがあちこちにへばりついた例がいくつもあって、デザイン上は大変見苦しい。フレーム非対応のブラウザがあるのも大きなネックだった。だが、こと操作性に限れば、大変使いやすいシステムだった。新しいサイトでは、なんとかこれを採用したい…。
 そう考えていろいろ調べてみると、フレーム境界を目立たせず、しかも余分なスクロールバーを出さない処理があることが分かった。月日は流れて、フレーム非対応のブラウザは現実では極端に少なくなっているし、それらのブラウザでも対応可能なようにページを作ることは、そう難しくない。
 こうして出来た建築デザイン専門のサイトを実際に扱ってみると、その滑らかな操作性にすっかり魅了されてしまった。いっそ、これを趣味のページである本家の「TomtomBox」でも使ってしまおうか…?
 仕事を含めた雑務に相変わらず追われてはいたが、そう思うといてもたってもいられない困った性分である。思い立って3日後には、もう「新生TomtomBox」がモニタの中で躍動していた。

 メニューは正方形をすっぱり捨て、左側のサブフレームに順に収まる小さな長方形とした。これにより、開設以来かたくなに守り続けてきた「6つの箱」という制限も事実上なくなり、今後の展開次第で、新しいジャンルを付け足したり、削除したりが自由に出来る。「新生TomtomBox」の第一の売りが操作性なら、「将来にむけての発展性」がもうひとつの売りということになる。




ユニバーサル/'03.3



 新しいメニュー画面の話が続く。

 トップ画面は開設以来使い続けているGIFアニメのメインタイトルを上部に配置し、下段の大きなスペースには、思いきって最新情報のみを掲示板状に一気に表示させるようにした。つまり、「新生TomtomBox」には通常のサイトで見られる「What's New」のコーナーが存在しないのである。
 普通、ここでは何かしらの気のきいた画像なり、アニメなりを表紙として使うのが常套手段である。それをしなかったのは、やはりユーザーの利便性を考えてのことだった。一度しか見ない重い画像のたぐいが、趣味だけのページにそれほど必要であるとは思えないし、訪問者がまず一番に知りたいのは、「このサイトで何が更新されたか?」「このサイトでは何が旬か?」ではないだろうか。一回こっきりであとは二度と訪れないサイトであればその必要性はあまりない。しかし、私のページは再訪問が格段に多いことを、多くの方々からの連絡で把握している。

 実は今年に入ってから、サイトの一日の訪問者数が一挙に200の大台を突破した。このままのペースを維持すると、夢の100万カウントが現実のものとなってきそうな勢いである。
 個人のサイトの日平均訪問者数にはまず20〜30で大きな壁があり、多くはこの数値の範囲内で留まる。次の大きな壁は100で、私の場合は長らくこの壁あたりをうろうろしていた。ところが昨年末あたりから訪問者数がぐんぐん増え始めた。多くの好評連載は終了し、特に新しい連載を始めたわけでもない。心当たりがあるのは、子育てサッカーと家作りに関する相談コーナーを本格的に始めたことくらいだ。もしもそれが大台突破の起爆剤だったとすれば、訪問者のなかで再訪問者の占める割合が急増していることは、容易に想像出来る。

 いわゆる「ネット弱者」にも充分配慮したのも今回リニューアルの特徴だった。パソコン環境の急速な進歩で、ネット利用者の1/3が高速ブロードバンド環境(2003.3総務省発表)、モニタも横1000ピクセル以上が普通という昨今では、そんなネット弱者のことなど構っちゃいないサイトも巷には溢れている。だが、横800ピクセルの旧型モニタ、28800の内蔵モデムで粛々とインターネットを楽しんでいる方も、おそらくまだどこかにいるに違いない。ブラウザだって、みんながみんなExplorerを使っているわけではない。
 そんな少数派の方々にも自分のサイトがなんとか無事に閲覧出来るよう、ページの割り振りや構成には充分気配りしたつもりである。メニュー画像は以前よりもさらに軽く、800ピクセルモニタでも支障なく本文が読める。ブラウザはExplorerを中心に考えたが、もちろんNetscapeでも全ページの動作チェックをした。先に触れたように、フレーム非対応のブラウザにもとりあえず対応させた。特定のブラウザでしか反応しないタグも極力排除した。

 障害者や高齢者に配慮した「バリアフリー」という言葉が世間をにぎわしている。弱者に配慮することはもちろん大切なことだが、それによって他の健常者がとても住みにくい世の中になってしまっては本末転倒である。「ネット弱者」に配慮し過ぎる余り、他の大多数のネット環境の方々にとって使いにくいものになってしまってはいけない。両者のバランスを保つのが肝心なのである。
 障害者や高齢者ばかりでなく、老若男女、右利き左利き、背の高い人低い人等々、多様な人々に等しく優しいユニバーサルな家作りを私は建築家のはしくれとしてめざしているが、その理念は建築と同じように公共性の高いホームページ作りにおいても変わることはないし、21世紀の人類が進むべきなのはまさにその方向であると固く信じている。




やりたい事やれる事/'03.3



 出口なき不景気が続いている。働き場のない新卒者の声が、よくマスコミで取り上げられている。そんな人々のなかで、よくこんな声を耳にする。

「自分のやりたい仕事がみつからない」
「やりたい仕事がみつかるまで、フリーターで通す」云々…。

 一見、理にかなった言葉のように思える。だが、ちょっと待って欲しい。人手不足で引く手あまたの売り手市場だった高度成長期時代ならいざ知らず、いまは失業者が街に溢れるデフレ物余り人余り時代である。そんな厳しい時代に、はたしてやりたい事を探し、それを受け入れてくれる余裕が、社会にどれくらいあるだろうか。
 社会がいま求めているのは、機知に富み、なおかつ実践力のある人材である。そうした人材をそろえないと企業そのものがたちまち路頭に迷ってしまうからで、その要求は正社員のみならず、アルバイトや外部発注業者であるはずの自営業者にまで及び始めている。企業の裏側では、壮絶な生き残りゲームが繰り広げられているのだ。
 そんな時期に、「やりたい事が…」などとのんきな論理を繰り広げている何の実績もない新卒者など、誰が欲しがるだろう。そもそも、やりたい事を仕事としてやっている社会人が、この世にどれ程いるだろうか。そしてそんなあなたは、他に対していったい何が「やれる」のか…?
 この論理の根底に流れているのは、おそらく「社会は自分に何をしてくれるか」という甘美な期待と密かな依存心である。彼らは決して「自分が社会に対して何が出来るか」と考えようとはしない。常に周囲に対して受動的に何かを期待するだけなのだ。

 最近、デザイン関係の仕事を一人で続けていた友人が組織を法人化し、若い社員を一人雇い入れた。この社員がまだアルバイトの扱いなのに、くるくると実によく働く。友人の苦手なインテリア部門の仕事をパソコンを駆使しててきぱきこなし、実社会で働いた経験がないというのに、電話応対などの対外折衝にもそつがない。男性だが、私が訪れるとうまいドリップコーヒーを手際よく入れてくれる。
「いい人を見つけたね」と声をかけると、「本当に助かってるんだ」と友人も素直にそれを認めた。高度成長期なら大企業に流れてしまいそうな人材だが、こんな時代だから、小さな会社でも甘んじてくれるのだろう。

 仕事にあぶれ、明日をも知れぬ運命なのは我が家族とても例外ではない。今度はその我が家の例をひとつだけ挙げる。
 我が家の長男のかっての「やりたい事」は、プロのサッカー選手だった。このことはこのサイトのサッカーコーナーでも詳しく触れている。かなり幼い時期から自分のやりたい事が明確にあり、それに向かって具体的な努力を続けられたということは、そうでない人から見れば、とても幸せなことだったに違いない。
 だが、その夢に向かって様々な努力はしたものの、彼のその「やりたい事」は、結果的に社会からは受け入れられなかった。理由はいろいろあるだろうが、世の中とは得てしてそんなふうに不条理なものである。きちんとした目標があり、努力を重ねてさえも、結果は時に残酷なものなのだ。
 そんな長男も、長い時間をかけて夢と現実に折り合いをつけ、社会に対して自分がいま現在やれる事を武器に、懸命に自活の道を歩んでいる。こうして現実社会の中で揉まれれば、やがてまた別の道、別の生き方、別の夢に出会えるかもしれない。それもこれも、まず自分のやれる事に磨きをかけ続けることから始まる。

 自分が何かしないと、世の中は何も返してはくれない。厳しいが、ある意味で正当で正直な論理だと私は思う。




倒 産/'03.5



 割と長いつきあいのある建設会社が、最近相次いで倒産したらしい。「らしい」とあえて書くのは、会社の創立や転居と違い、倒産の場合は「これこれしかじかの訳あって会社をたたむことに相成りました」という連絡や案内のたぐいが一切なく、一連の状況からこちらで察するしかないからである。
 今回の場合、まず年末年始の挨拶が突然途絶えた。企業が虚礼廃止の決断をした場合、事前に連絡がくるのが普通で、それまで毎年欠かさず届いていた時候の挨拶が予告なしにこなくなるというのは、すでに会社がなくなってしまったか、あるいは緊急事態でそれどころではないかのどちらかと考えるべきだろう。

 奥様が経理事務、息子さんが工事部長と、家族経営で地道にやっていたA社には、実は以前からその兆しがあった。一昨年夏、それまで都心のビルの一角に構えていた事務所を、郊外の作業所内に移したのだ。住宅建設を事業の中心にしていた会社だったから、客の応対や会社としての体裁などを考えると、拠点は都心のほうがいいに決まっている。それでも移転に踏み切ったのは、おそらく事業の運営がおもわしくなく、経費節減のためにやむを得ずとった緊急措置だったに違いない。
 社長自ら一級建築士の資格を持ち、インターネットを駆使して北米まで安い住宅資材の買い付けに出向くという熱心さで、その時代を読んだ新しい感覚には私も大いに共感し、ときに見習っていたものだった。だが、それでも事業は頓挫した。いったい何がいけなかったのか?
 すでに電話は通じず、年賀状も宛て先不明で戻ってきたままなので、その後彼ら一家がどうなったのか知る由もない。ここからはあくまで私の推測である。
 技術屋によく見られる営業力の弱さが、いまの時代には致命傷だったのかもしれない。社長はさかんに新聞広告や折込みチラシのたぐいを作り、そこを起点に新規の客を獲得しようとしていた。私もいくつかのパースを手伝ったりしたが、もしかすると紙の広告媒体に頼るというその手法自体が、すでに時代には合わなくなっていたのではないだろうか。

 もう一方のB社の場合は予告なしだった。それまで年末には必ず立派な自社カレンダーを専務自ら持参し、たいした世話もしてないのに、律儀に「また来年もひとつお願いします」と礼をつくしてくれていたが、去年の暮れに限って一向に現れない。年始の賀状までが届かない。さてはついに愛想をつかされたかと独りひがんでいたが、先日ちょっとした工事の問い合わせで連絡したところ、いきなり「この電話はすでに使われておりません」との無愛想なアナウンス。嫌な予感が背中を走った。
 あわてて個人用の携帯電話に連絡してみるが、しばらくして応対したのは、全くの別人。携帯電話はおそらく会社契約だったはずで、これらの事実から推測される結論はただひとつ、「倒産」である。
 それでもまだ私は半信半疑だった。B社には先祖から受け継いだ土地を元手にした立派な資産があり、ちょっとやそっとではつぶれないと、紹介してくれた知人からも太鼓判を押されていた。品確法による住宅主要構造部の保証が10年と定められているから、建設業者の経営状態は設計士にとっては大変重要である。信頼していたはずの業者が何の前触れもなく倒産したという事実が、容易に受け入れ難かった。
 B社の事務所は自宅から遠く離れていたが、たまたま私用で近くにいくことがあり、こうなれば直接会社まで出向いて事実をこの目で確かめてやろうと考えた。

 何度か訪れたことのある社屋のタイル壁は変わらぬままだったが、壁に張りつけられた看板の文字が見知らぬものに変わっていた。窓には「テナント募集」の貼り紙が…。2〜3階の社長の自宅の窓にカーテンはなく、人の住む気配は全く感じられない。やはり倒産は確実だった。
 帰りの車の中で考えた。B社の場合は何がいけなかったのか…?実直な家族的経営、というキーワードはA社と同じだ。違っているのは客との直接契約は少なく、不動産会社からの発注によるアパート建築を得手としていたことだ。不特定多数への営業は必要なく、ある程度決まった相手へのルート営業だけで済むはずだ。それでも会社は潰れた。だとすれば、そこが命取りになったのか。
 またまた推測になるが、何らかの形でアパート1軒分の資金回収が滞った場合、10人前後の建設業者なら、まずひとたまりもなく倒産するはずだ。厳しい経済情勢のなかで、社員とその家族を養うために、普通なら請負わないリスクの多い仕事を無理して受注したのではないだろうか?ちょうど去年の私が、激減する仕事に危機感を持ち、普通なら請負わないネット関連の仕事を無理して請負い、結局は十数万の不良債権となって未回収に終わってしまったように…。




軽く低く/'03.5



 最近読んだ新聞記事に、「これからの時代にマッチするキーワード」として大変興味深い言葉が載っていた。一言で書けば、「細く長く、控えめで柔軟に」ということである。私はこれを自分なりに「軽く低く、質素でしなやかに」と置き換えてみたいと思う。

 去年の私のように、多少無理をして仕事を請負い、結果的にそれが焦げついてしまったとしても、事業規模が極めて軽く、生活レベルもこれ以上落とせないくらいのギリギリの範囲、すなわち繰り返しこの雑記帳でも触れている「縄文生活レベル」であれば、致命的なダメージになることはない。「軽く、低く」飛行を続けていれば、少々の嵐が吹き荒れても簡単に墜落はしないし、万一飛行が滞っても、軽くて低ければ簡単に地面に軟着陸出来る。しばし骨を休め、風が再び自分に吹いてきたら、また飛べばいいのだ。
 反対に、「重く高く」飛んでいる場合はどうだろう。飛行が順調な場合は多くの人員を一気に遠くまで運べる。ところがいったん低空飛行に陥り、そして万が一墜落してしまった場合は壊滅的なダメージを受ける。

 高度成長の終焉を最近肌身で感じることが多くなった。今後あらゆる分野で「細く長く、控えめで柔軟に」、そして「軽く低く、質素でしなやかに」が大切なキーワードとなっていくに違いない。だがそんな流れにはまるで無頓着で、おいしい高度成長時代の記憶が忘れられず、生活や言動に染みついて離れない人々も世間にはまだたくさんいるようだ。
 たとえばタレントやアナウンサーで、些細な事柄に対して必要以上の大袈裟な反応を疑いもなく続けている「高度成長タレント」がいまだに見受けられる。そのわざとらしさが近頃鼻につき、まるで見る気が失せる。もっと時代にあった控えめでしなやかな受け答えが出来ないのだろうか。
 たとえばプロスポーツでも、金に物を言わせてあちこちから即戦力ばかり集め、将来に対するビジョンのまるでないチームがある。こういうチームの経営者を、「高度成長オーナー」とでも呼ぼうか。こちらもスポーツ本来の面白さからは懸け離れていて、まるで見る気がしない。
 たとえば政治である。票と引き換えに何らかの利益を特定の民に供与する「高度成長型取引き政治」にはとことん嫌気がさした。政治家は民に見合ったように育つ。50年、100年後の地球環境を見据えた広い視野を持つ政治家は、当分現れそうにない。

 生き方暮し方を低成長時代に軽く低く、質素でしなやかに合わせてしまえば、多くを望まない者にとっては、これはこれで案外住みやすい世の中だったりする。無理をして身体を壊す心配もなく、高度成長時代には些細な出来事だったことが、相対的に大きな喜びに変貌していたりもする。ストレスも溜りにくいから、家族円満このうえない。
 時代は決して後戻りしているわけでも失われたわけでもない。それに気づく人はわずかだが、試練を糧にして、密かに、だが確かに前進し続けている。




三代女形/'03.7



 年甲斐もなく、モー娘(モーニング娘。)に最近詳しい。金曜深夜に2週遅れで放送されている「ハロモニ(ハロー!モーニング。)」は毎週欠かさず見ているし、その他の歌番組でも、モー娘が出演するときは必ずチャンネルを合わせる。現メンバーはもちろん、目下研修中の3人の新メンバーまで、合計15人の顔と名前はピタリ一致する。
 単純に若い娘の色香を楽しみたいという中年オヤジのスケベ心も正直言ってあるのだが、言い訳がましく言うなら、若き頃より、西野バレエ団とかステージ101などの歌って踊れるタレントは、ずっと好きで憧れていた。NHKがステージ101の第2期生を全国公募したとき、ちょうど20歳前後で、本気で応募しようかと随分悩んだほどだ。
 子供の頃から体育は苦手だったが、徒手体操や運動会での踊りのたぐいは得意だった。音楽の成績はずっと5だったし、自分でも歌うのが大好きだった。中学校時代はブラスバンド部で鳴らし、大学時代はフォークソングの弾き語りに狂い、いくつものアマチュアステージをこなした。身体のどこかに目立ちたがりの「芸人魂」のようなものが流れていて、芸人やタレントに対する強い憧憬があるのだと思う。

 最初はモー娘にそれほどの興味はなかった。ごちゃごちゃと多人数で全体の印象がぼやけて見えたし、グループ名の最後に「。」の句点をあえてつけているのも、何となく気取った印象で好きになれなかった。
 そんなイメージが劇的に変わったのは、息子の影響である。数年前のある日、引越したばかりの我が家の2階で、当時大学生だった長男が、一人で何かドタバタやっている。何事か?と振り返ると、(新居は仕事部屋と息子の部屋とが間仕切りなしでつながっている)ラジカセの音量を小さく絞りつつ、息子は懸命に何かの踊りの練習をしている。

「何やってんだ?オマエ!」

 息子は照れくさそうに笑うだけで、何も答えない。あとで妻に聞いてみたところ、どうもサッカー部の卒業生追出しコンパで、一発芸のたぐいをやるらしい。それが当時まだまだマイナーだったモー娘の曲だったのである。しばらくすると息子は、ルーズソックスやらセーラー服、女物のカツラのたぐいをいそいそ部屋に持ち込んだ。一人で女装し、モー娘の曲をバックに踊りまくるという趣向らしい。もし何も事情を知らなければ、我が息子はいよいよ変態趣味に陥ったかと疑っただろう。
 息子の芸は大評判だったらしく、優勝の金カップを抱えて、意気揚々と一泊二日の追出しコンパから戻ってきた。その後卒業するまで、息子の「モー娘一発芸」は延々と続けられ、モー娘の人気もうなぎ上りに上昇。しまいにはDVDまで買ってきて、入念に振付けを研究するほどの懲りようである。私もそんな息子に感化され、知らず知らずモー娘に着目するようになっていた。

 息子のこの「女形芸」は、実は私の血であるかもしれない。一度だけだが、私も公衆の面前で女装した経験を持つ。
 高2のクラス対抗仮装大会のとき、実行委員から否応なしに押しつけられた私の役が、何と「かぐや姫」だった。口では、「女役なんかやってられねぇよ」などと嫌がって見せながら、その実内心では、(女形でかぐや姫をやるなら、この俺以外にいない)などという妙な自負と過信があり、指名された翌日からは、自ら進んで長い和カツラを作ったり、姉に化粧道具一式を借りて入念に化粧法を教わったりして、結構役柄を楽しんでいた。
 結果は、堂々学年優勝である。このあたりの経緯は、息子の場合と実によく似ている。ただ、卒業時の文集の中に、「ずっと気になる人だったけど、あの『かぐや姫』のイメージが引っ掛かって踏み込めなかった」との匿名記事を発見。書いたのは明らかに女生徒で、軽いショックを覚えた。女形芸は間違いなく受けるが、ほどほどにしておいたほうが身のためである。

 さらに打ち明けると、この私の見事な女形芸も、実は父から受け継いだものかもしれない。父がまだ母と一緒になる前、村芝居で女中の役をやり、やんやの喝采を浴びたという逸話を、母から幾度となく聞かされた。父に一度真偽を確かめたことがあるが、笑ってごまかすだけだった。
 嫁ぐ前のことだから、母もただ人から聞かされただけのようだが、「お玉や〜」との主人の呼び声に、「はぁ〜い」と見事なしなを作って舞台に登場し、本物の女と見まがうほどの美貌と芸だったという。
 自分でやったから断言出来るが、照れや羞恥心があっては女形は務まらない。必要なのはここ一番の度胸と開き直り、そしてやり遂げる覚悟で、その意味ではどうやら三代に渡る女形の芸は、脈々と受け継がれた、たぐい稀なDNAのなせる技なのかもしれない。




名前のない金/'03.7



 我が家ではお金に名前がない。いや、厳密に言えば、故あって目下同居中の二男がバイトで稼いでくる金だけは二男個人の所有物で、親も手出しが出来ないから、いわば「息子」という名前のついた金ということになる。
 世間一般では、大半の家庭でこの名前のついた金があちこちに散らばっているはずだ。夫が外で働き、妻が家でそれを支える典型例では、夫が給与として得た稼ぎは、夫婦共同の金として名前がついてない場合も多い。
 しかし、妻が結婚時に実家から手渡された「持参金」のたぐい、夫が出張費を浮かしたり、ギャンブルでたまたま勝ったりして得たいわゆる「へそくり」のたぐい、はたまた妻が家事の合間に得たささやかなパート代、あるいは遺産として分配された財産等々、それらのお金にはそれぞれ「妻」とか「夫」とかの立派な名前がついていて、相当の理由があっても、互いが勝手に持ち出したり、あてにしたりするのはタブーのはずだ。「夫婦は一心同体」などと言ってみても、こと金に関する限り、実体はそんなものである。

 私たち夫婦の場合、必要な結婚資金は婚約時代から共通の銀行口座を作ってプール制にし、私が管理していた。給料の一部を互いに出し合い、結婚に備えて共同貯蓄をしていたわけである。
 結婚をどんな形にするかは、私たちにとって重要な意味を持っていた。二人で独立した新しい家庭を築くという観点からすれば、結婚のスタートである式やその準備にどのような形式が望ましいかは、おのずと答が出る。ただの結婚の準備とはいえ、共同生活のスタートはこの時点ですでに切られている。結婚前から私たち夫婦には、互いのお金に名前がついてなかったことになる。

 この概念は結婚後も当然のようにそのまま二人の間で引き継がれた。経済的な事情で妻は現金での持参金はなかったが、妻の母が掛けてくれていた貯蓄型の生命保険があった。最初の家を買うとき、資金不足に追い込まれたが、妻は迷いなくこの保険を差し出した。
 サラリーマン時代に私が得た出張費やパチンコで勝った金のたぐいは、大半が生活費や子供のおやつ代に消えた。脱サラ後は雑文書きなどで予期せぬ金が時折入ってくるが、不景気風が吹き荒れる昨今、それらの金は子供の教育費に消えたり、家の修繕費に化けたりしている。
 極めつけは最近建てた戸建住宅の資金である。土地代の大半は妻の母親が残してくれた遺産でまかなったし、新居のブラインド類はすべて妻の貯えたパート代から調達した。

 この雑記帳でもすでに触れたが、昨年から私は「縄文元年」を自ら宣言し、妻にも協力を仰いでいる。縄文時代に習って、エコロジーでエネルギーロスの少ないシンプルな手作り生活を可能な限り追求しようという試みだが、その一環として家計費の支出項目を、妻と夫である私の担当とにそれぞれ完全に分担しようと提案した。
 おおざっぱに言うと、食費関係は妻の担当範囲で、住宅光熱費が私の責任分担である。こんな奇策を取らざるを得ない背景は、もちろんひっ迫した私の経済事情にあったのだが、一年余を経たあとの家計を検証してみると、互いのやり繰りに適度な緊張感が保たれ、結果的により一層の生活費節減へとつながっている。
 もし妻が自分のパートの稼ぎに、個人的な所有権を強く主張していたなら、こんな奇想天外な策はとてもとれなかっただろう。努力の甲斐あって今年は去年よりも私の稼ぎがいい。そこで少し余裕の出た資金を食費に回すことを妻に再提案した。すると妻は、当分は現状のままのほうがやりやすくていいと言う。
 そこで余裕の出た事業収入の一部を、自主的に「非常用口座」に月々入金することにした。吹き止まぬ不況風のせいで、我が家の三人の子供たちを取り巻く環境はとても安定したものとは言い難く、不意の出費に備えての予備資金の備蓄は不可欠である。パート代が余ったときは、同じ口座に妻も入金している。いわば結婚前のプール制共同貯蓄の復活とも言え、おそらくこの手法は、資金が互いの葬儀費用として有効に使われるまで、延々続くことになりそうな気配である。