二〇〇一・秋冬乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
デジタル納品/'01.10
例年決まって秋は暇になるはずが、なぜか今年に限って結構忙しい。と言っても、外に出歩くことは稀で、私が拘束されているのはもっぱらパソコンの前である。そう、長年めざし、準備してきたデジタル作業、デジタル納品が今月は目立って多いのだ。
おおざっぱに分けて私には三つの事業収入、すなわち仕事がある。ひとつは期間も実績も最も長い建築パース、ひとつは最近成長著しい文章書き、そしてひとつはまだ手がけて間もない住宅設計である。期せずして、そのうちの二つにデジタル納品が発生したのだ。ある広告代理店から、建築パースの仕事が舞い込んだ。下書きから途中の色チェック、そして最終納品までのすべてをEメール交換でやれないか、との打診である。タッチはもちろんCGで、しかも壁や屋根、窓枠などの色替えパターンを何点か出し、住宅メーカーと順次打ち合わせながら進めたいという。まさにデジタルむきの仕事である。かねてから3DCGパースの営業を続けていたクライアントでもあり、一も二もなく承諾した。
さすがに打ち合わせは面談だろうと覚悟していたら、図面をFAXで送るから、あとは電話とメールでやろうと言う。やや不安があったが、幾度かのメールのやり取りのすえ、6度目の作品で先方のOKが出た。「ベージュの壁なんだけど、もう少し赤を強く出来ませんか」
数時間後、修正した画像がただちにメールで先方に届けられる。こんな調子で日に何度も修正作業をすることもあったが、パソコンをグレードアップしたせいで、作業にそれほどのストレスは感じない。
最終的に仕上がった作品は4.8メガという大容量だった。私のネット環境はごく普通の内蔵56Kモデムとごく普通の回線である。恐る恐る送ってみると、何とお茶を飲んでいる間のわずか30分で送信終了。う〜ん、これなら当分ADSLなど必要なさそうだ。
この間、先方には一度も出向いていない。しかし、仕事は首尾よく終了した。さしたる投資もせず、限られた時間でよりグレードの高い作品が確実に完成するのだ。
もしもこれらすべてを従来の手描き、すなわちアナログ形態で行っていたら、どれほどの時間と経費を要したことだろう。これまでにないメリットを互いに感じたせいなのか、この代理店からはもう一点のデジタル注文が舞い込み、不況下で預金残高を危ぶんでいた私を、大いに喜ばせた。月末が迫ったころ、インターネット経由で二つの仕事が相次いで舞い込んだ。ひとつは住宅作りの連載が縁で知り合った関東在住の方からの建築パース依頼である。この方は私の住宅に対する考え方に大いに共感していただき、もしも近くならば確実に設計契約に結びついていただろう。
遠方のためにそれは不可能で、私が請負ったのは外壁や屋根、窓枠などの色替えパターンを何点か描き、外部デザインを決める材料にするという仕事で、当然お金もいただく。施主からの直接発注という珍しい形態だが、先に受注した広告代理店の仕事と非常に良く似たパターンであり、価格さえ合えばこうしたニーズが市場には相当眠っているという感慨を新たにした。
作業はトントンと進み、二つ出したパターンの両方を気に入っていただき、どちらも素敵で決めかねるというパース屋冥利につきるような評価をいただいた。納品はもちろんEメール送信である。四つめの仕事は、あるSOHO関連企業からのエッセイ依頼である。「SOHOに関して、体験的に日頃から感じていることを原稿用紙13〜14枚程度にまとめる」というまるで私のために用意されていたような仕事で、かねてから購読していたSOHO系メールマガジンでの応募の結果、採用となったものだ。
ホームページ等で修練を重ねてきたせいか、最近書く仕事はストレスなくこなせるようになっていて、この原稿量ならば数日で終わる。最終締切ははるか先だったが、一気に書き上げ、こちらもすでにEメールで納品を終えた。直しはなく、一発OKである。最後の二つはメール交換のみで一度も面会したことのない方が相手だったが、あっと言う間の受注と納品、そして入金である。
終わってみれば、今月の仕事はすべてデジタル作業、デジタル納品となっていた。時代は急速に変わり、そして流れている。幸いなことに、私はひとまず出遅れていない。それどころか、52歳という年齢から考えれば、一歩先を歩んでいる感さえある。残る住宅設計の初仕事も、もしかするとインターネット経由での受注が第1号になるのかもしれない。
テレビとプロレス/'01.10
世にテレビというものがはびこり始めた子供のころ、土曜日の朝はいつも憂鬱だった。当時金曜の夜にはテレビでプロレスの中継があり、翌日の土曜の教室はその話題で持ちきりだったからである。
我が家は貧乏だったから、いや正確に書くと買う金は充分あったらしいのだが、母親の教育方針からテレビを買うことはもちろん、近所の家に見に行くことさえ許されなかった。「あんなものを見るとバカになる」
まだ反抗期ではなく、自立した批判的精神も持ち合わせてはいなかった私は、そういきまく母親を見ると、(そうか…)と無理に自分を納得させるしかない。いま思い返すとまるで無茶苦茶な話で、「インターネットには猥褻で暴力的なページが野放しだから教育上よろしくない」などと堂々と公表している時代錯誤の文化人、あるいはその論理を頭から信じ込み、我が子には決してパソコンに触らせようとしないいびつな教育論に縛られている親と何ら変わることのない一面的な論理である。
確かに流血騒動や反則技をショー的に公然と行うスポーツが、まだ判断能力の弱い子供に教育上好ましいとは言えなかったかもしれない。そう考えれば、母親の頑な方針も多少はうなずける。「プロレスにはこんな悪いところがあるぞ、それでも見たいか?」
分かる言葉でそう問いかけ、最終的な判断は子供にあずけて欲しかった。もう10歳だったから、それくらいの判断力は持ち合わせていたと思う。
そのころのテレビは超ぜいたく品で、いまのお金に換算すればおそらく100万円近くしたはずである。単純にケチだから買わなかった、それを正当化させるために教育論を振りかざし、他の家に見に行くことまで禁じたのではないか?ついそう勘ぐってしまうが、そうした母親の論理はさておき、下校時間まで教室中で終日繰り広げられるプロレス談義の渦は、そうでなくとも疎外感の強かった幼き私を、とことん苦しめた。
「そしたら力道山が怒ってよぉ、もう空手チョップの連発で、シャープ兄弟はイチコロさ」
口角から泡を飛ばし、何度も何度も同じがシーンが語られ、繰り返される。女子は別にして、クラスの男子の中でテレビを持っていない、あるいは近所へも見に行っていない者はごく少数だった。それくらいテレビでプロレスを見るのが当り前の時代だった。
あるとき、声高に繰り返される声の中に、こんな強がりを言って割り込んだ。「ふん、プロレスくらいラジオでも聞けるさ」
「嘘だ、ラジオでプロレスをやるわけがないだろう」
「嘘じゃない、この前やっているのを聞いたんだ」本当はプロレスではなく、ボクシングだった。それを承知で嘘をついた。優等生を自負していた私は、たかがプロレスごときで遅れを取ってしまう自分が情けなく、腹立たしく、そんな自分の置かれた立場が我慢ならなかった。
「ふん、ラジオでプロレスか。姿が見えないんだから、アナウンサーが嘘をついても分からないだろう。嘘を信じて喜んでいるのかお前は」
「放送局のアナウンサーが嘘をつくものか、お前はそんなことも知らないのか」何とか私は問題をすりかえようとする。だが、しょせん私に勝ち目はない。
普段仲の良い友人も当然そのプロレスを見る中に入っていたが、会話の中でプロレスが話題にのぼそうになると、友人は気を遣って巧みに避けようとした。敏感な私は、その気遣いがうれしくもあったが、その一方では心の負担でもあった。
一計を案じ、土曜の朝は無関心を装いながらも耳をそばだてて他のプロレス談義に集中し、試合の成りゆきと顛末を素早く頭に叩き込んだ。「きのう力道山がさ…、え〜っと知らないよな」
いつものように友人が近寄ってきて、いつものように話題をそらそうとする。「分かってるさ、シャープ兄弟の反則でやられて、両者入り乱れての場外乱闘。最後はリングアウトで引き分けで終わったんだろ?椅子でなぐりかかったシャープ兄弟への空手チョップの反撃は、すげえ迫力だったよな」
「えっ、なんで知ってるの?テレビ買ったの?それとも、どこかに見に行ったの…?」私はうんうんとあいまいに頷き、まるでプロレスの悪役みたいに、腕を組んで不敵に笑ったのだった。
Macなオフ/'01.11
かれこれ10年近くも続いているオフ会がある。ネット上の会議室やらフォーラムやら掲示板やらチャットやら、その他雑多な場を通して互いに知り合った人々が、実際に顔をつきあせて会うのがオフ会の正体だ。ネットでつながっている状態がオン(ON)で、その反対の状態で会っているのだからオフ(OFF)という訳である。
オフ会はハンドルネームと並ぶ代表的なネット用語だろう。はっきり言ってその世界でしか通用しない業界用語のようなもので、取り澄ました響きが正直あまり好きではない。だが、他に適切な言葉も見当たらない。10年前はインターネットはおろか、パソコン通信そのものさえまだまだ市民権を得てはいなかった。パソコン自体がそれほど家庭に普及してなかった時代である。Macはすでにあったと思うが、Windowsはまだ姿すら現していない。
そんな時代に私が手にしたパソコンは、MSXというレトロな機種だった。安価な割にはゲームはもちろん、音楽やCG、プログラム作りまでなんでも一通りのことは出来た。パソコン通信も例外でなく、専用モデムでつながった新しい世界に、たちまち私は夢中になった。「30歳以上限定」というあるフォーラムの常連となり、会報の作成から郵送式のディスクマガジンまで手がけた。メンバーは北海道から九州まで全国に散らばっていたが、たまたま同じ札幌に住む人が私の1年程あとに加入してきて、メール交換などで大いに盛り上がった。この人を仮にPさんと呼ぶ。
いまはそうでもないが、そのころパソコンをいじったり通信に関わったりする人には、良く言えば個性的、悪く言えばアクの強い嫌味なオタク人間というステレオタイプの性格が私も含めて多かったように思う。ところがこのPさんには他の人にはない誠実さというか、人間性のようなものを感じた。
たかがメールとはいえ、ちょっとした言葉の使い方や文章の区切り方などで、他に対する思いやりやその人が人生に求めるものまで如実に表れることがある。味気ないといわれるフォントの羅列だからこそ、逆に見えないものまでがすっかり見えてしまうから怖い。そんなPさんとは馬が合いそうだということが徐々に分かってきた。数カ月するうち、どちらからともなく直接会おうじゃないか、つまりオフ会をしようじゃないかという話がまとまった。違いに住所を教えあうと、なんと車で15分くらいの場所である。これも不思議な縁かと手土産を持ち、地図を頼りに家を訪れた。
このときの様子はフォーラムにルポ形式で記したのでよく覚えている。このあたりだろうかと車を道端に止め、歩き始めると遠くで何となく自分を見ている人がいる。
(Pさんだ…)
言葉ではうまく説明出来ないが、私はそう直感した。互いに近づき、どちからともなく声をかけた。「Pさんですか」
「TOMさんですね…」まさにあうんの呼吸である。言葉など交わす前に通じ合う確かなものがそこにあった。
それから月日が流れ、年に数回の交流が続いた。Pさんはwindows派だったが、パソコンに関しては私よりもはるかに先輩で、メールや電話、そしてオフ会で相談を持ちかけるのはもっぱら私のほうだった。インターネットは同時に始めたが、ホームページ開設はPさんのほうが少し早かった。
そうこうするうち、Pさんの取引先の友人で古くからのMac派であるSさんがいつのまにか集まりに加わるようになった。パソコン以外に何の共通点もないちょっと変な3人の中年男による不思議な交流は、居酒屋でビールジョッキを傾けながら年に数回というスローなペースだが、細く確かに続いた。あるとき、PさんがいきなりMacを買った。娘さん用というふれこみだったが、私とSさんがMacの話に盛り上がっているのを見て、自分も欲しくなったのかもしれない。以来、その集まりは「Macなオフ」と呼ばれていまに至っている。
Pさんに限らず、これまでネット経由で知り合った人はかなりの数になるが、長く交流が続いている人はごくわずかである。オンであろうがオフであろうが、人と人とのつながりに変わりがあろうがずがない。一時的には盛り上がっても、どちらからともなく疎遠になり、いつしか切れてしまう間柄は、結局は人生にめざすものにどこかズレがあるからなのだろう。
バーチャルな窓/'01.11
長年Mac派を自認してきた私だったが、いきなりWindowsをやる羽目に陥った。忍び寄る不況風は細い身にはことさら厳しく、仕事量の落ち込みは留まるところを知らない。出来る仕事は何でも手がけないと食べることすらおぼつかないほど切羽詰まった状況なのである。
建築設計図を書くのは私の得意技のひとつだが、この業界にもIT化の波は例外なく押し寄せていて、ついひと昔前にはごく普通だった製図機による手描き図面はほとんど姿を消し、市場を席巻しているのは2D-CADによる図面である。
知り合いの設計事務所を訪れても、製図機は事務所の隅で埃をかぶったまま。図面はもっぱらパソコンで書き、出力はプリンタという世界にとって変わってしまった。調べてみると、「JW_CAD」というWindowsのフリーソフトが多くの設計事務所で使われており、今後このソフトが建築設計業界の主流となりそうなのは確実だった。
ところが私のマシンはMacである。Windowsパソコンを買ってJW_CADを習得すれば、仕事が増えるのは間違いなかったが、この不況下で10万以上もの設備投資は正直きつい。現行のMacでなんとかならないか…、と考えるうち、Macで使えるWindowsエミュレータというものの存在をふと思い出した。要するにMacの画面中でWindows環境もどきを作り出そうという、ちょっと怪しげな代物である。以前にもその種のエミュレータソフトは幾度か試したことがあったが、マシンの性能の低さのせいか特にスピード面でとても使えるものではなかった。だが、いまの私にはMacの誇るG4プロセッサと192Mのメモリ、そして20Gのハードディスクを持つ頼もしき「愛CUBE」が備わっている。
やや不安があったが、インターネットをあちこち検索の結果、その種のソフトでは最も評判の高かった「Virtual PC」という製品を買った。試してみるとWindows-Meはやや動作が鈍いが、Windows95ならばすいすい快適に動く。幸いJW_CADはWindows95でも問題なく動く賢いソフトだ。
Mac画面の中にひと回り小さくWindows画面を開き、さっそくJW_CADの修練に励む。12月はもともと仕事がほとんどない月なので、集中作業の結果、約1週間で支障なく作図をこなせるようになった。3D-CGに充分慣れていたせいか、とまどいは少なかった。こうして私はようやくバーチャルな窓を手にした。エミュレータ画面のままでインターネットにもちゃんと接続出来るが、Windowsの通信環境はウィルスの標的にされやすい。インターネットはウィルス攻撃の少ないMacに限る。かくして関連ソフトはMac環境でインターネットからダウンロードしてWindowsにインストール、Windowsで出来上がったファイルはMacで送信するという連係プレーが完成した。MacとWindows間は画面上のドラッグ&ドロップで簡単にファイルのやりとりが出来るので、便利このうえない。
「Virtual PC」はいくつものOSを切り替えながら使える優れものである。いまはDOS、Windows95、Windows-Meの3つを載せていているが、新しいOSが出来るたびに追加していくことも可能だ。すっかり安くなったメモリをあと256Mほど増やせば、どのOSでも問題なく動きそうだ。思いがけず打ち出の小槌を手にした気分である。初めてWindowsを使っての感想だが、ソフトやファイルの操作がまだマニュアルに頼らないと満足に出来ず、感覚的に操作が出来るMacを長年使い慣れてきた身にはちと辛い。それでも漢字変換などはMac標準よりもはるかに使いやすく、優れていると思った。バルーンヘルプがポインタを当てた少しあとに遅れて出てくるのもなかなか憎い。あとは慣れの問題だけだ。
何より、「Windowsを持っていないとダメ」とあちこちで味わわされてきたある種の疎外感から、マシンを買わずに逃れることが出来たのが大きい。いや、ひとつのマシンで多くのOSを使い分け、そのOSのいいとこ取りが自在に出来るという環境こそが、このうえなくぜいたくなような気もする。
家庭内LAN/'01.12
長男がマックのノート型パソコン、iBOOKを買った。彼は来春3月には社会人となって家を出る身だが、7年前に買ってまだまだ現役のPerforma588とあわせ、これで我が家には新旧交えた都合3台のマックが一時的にそろったことになる。
春に買い替えたばかりのG4Cubeは私専用なので、二人の息子は家ではこれまでPerforma588を使ってきた。インターネットは大学でやり、家では簡単なテキストの作成とCG描きをやるくらいだから、処理速度の遅い旧機種でも充分事足りていた。迷ったすえにマックのノート型を買った長男は、それまで数年間Performa588に貯えていた数々のファイルを自分のiBOOKに移すことになった。ところが、この作業が並大抵ではなかったのだ。
Performa588にはフロッピーディスクはついているが、iBOOKにはない。インターネット環境はすでに私のG4Cubeに完全移行してしまっていて、Performa588からネット経由でファイルを転送するのは困難である。古くから持っているスカジー端子のMOはPerforma588にはつなげるが、USB端子とFirewire端子しかないiBOOKにはつなげない。USBとスカジーの変換アダプターは持っていて、これをiBOOKにつなげばMOは使えるようになるが、MO用ドライバーがフロッピーディスクに入っているので、iBOOKでは機能しない…。
まるでなぞなぞか禅問答のような話なのだが、3世代ほども隔たってしまった機種相互のデータ交換は、かくも面倒でやっかいなことなのである。考えあぐねたすえ、次のような奇策でなんとかファイルの転送をやり終えた。
●まず私のG4Cubeからインターネットの自分のHPに、圧縮したMO用ドライバーを送る。
●次にモデムを内蔵しているiBOOKを一時的にインターネットにつなぎ、HPからMO用ドライバーをダウンロード。
●Performa588のスカジー端子にMOをつなぎ、必要なファイルをMOに保存。
●USBとスカジーの変換アダプターをiBOOKをにつなぎ、MO用ドライバーでMOを使える状態にする。これで何とか全ファイルの移行に成功した。このやり方を使えばG4Cubeからも必要なファイルをiBOOKに転送可能だが、1台しかないMOのつなぎ換えがいかにも面倒だ。もっと簡単な方法はないだろうか?ファイル転送のさまざまな手段に関して、古いマニュアルやらインターネット検索なので調べてみたところ、3台のパソコンで共通で使える手法がひとつだけ見つかった。
「Ethernet」と呼ばれる簡単なネットワークがそれである。オフィスなどではLANと呼ばれるネットワークを社内に構築し、プリンタやソフトを共有したり、互いにメールを交換したりしている。Ethernetもその手段のひとつだ。その家庭版を作ってやればいい。
最新機種のiBOOKやG4Cubeには当然Ethernet端子が備わっている。ところが、レトロなPerforma588にはそんな近代的なものはついてなく、あるのはシリアルポートと呼ばれる古い端子だけだ。シリアルとEthernetの変換アダプターはあるが、価格が3万円近くもして、そこまでの投資はとても出来ない。
調べを進めると、「Ethernetカード」というものがあり、パソコンの蓋を開けてそのカードを差し込めば、古い機種にもたちまちのうちにEthernet端子が備わることが分かった。さあ、あとは何とか安いEthernetカードを探し当てることだ…。マックは元来拡張性が高く、古い機種でもそうしたカードをつける場所が確保してある。Performa588にもちゃんとスペースがあり、専用のEthernetカードが何種類か発売されていた。インターネットショップでは1万円前後だったが、いきつけのマックショップを探してみたら、ドライバーはついてないが、中古のカードがわずか3800円で売っている。迷わず買った。
ドライバーはインターネットで探しあて、無料でダウンロード。10メートルのEthernetケーブルを1000円で買ってきて、仕事部屋にあるG4Cubeから天井を走るむき出しの梁を伝わせて息子たちの部屋へと配線。真下に落とすとそこにはPerforma588とiBOOKがある。端子をつないでファイル共有を設定すると、互いのパソコンのディスクトップに相手のHDのアイコンが表れ、相互のパソコンが見事につながった。
(話がやや専門的になるが、Ethernetケーブルにはストレートとクロスの2種類があり、ハブを介して複数のパソコンをつなぐ場合はストレート、ハブが不要だが2台だけの接続となるのがクロスである)こうして我が家には簡単な家庭内LANが構築された。Ethernetはかなりの優れもので、700MというCD1枚分のファイルがわずか5分で転送を終えた。予想を越える速さだ。これは使える。
仕事で使うCAD図面のひな形は、ほとんどフロッピーに入って支給される。Windowsにはフロッピーが標準でついているためで、これをフロッピーのない仕事用のG4Cubeに移すには、いったんPerforma588でFDを読込み、その都度ケーブルを外してつなぎ変えたMOに転送するという面倒な手順をこれまで踏んできた。わずらわしいその作業からも解放される。
このほかにも、家庭内LANには数々のメリットがある。iBOOKにはCD-RWがついている。他の2台にはついてなく、外付CD-RWも我が家にはないが、Ethernet経由でiBOOKにファイルを転送してやれば、必要なCDを簡単に作成出来る。Performa588には他の2台にはないRGB端子がこれまたカードで差し込んであり、ビデオ映像をファイルとして取り込める。テレビやビデオから取り込んだ動画を、Ethernet経由で各パソコンに瞬時に配給出来る。唯一インターネット環境にあるG4Cubeからは、ネットから取り込んだソフト類をこれまたEthernet経由で各パソコンに配給する…。
こうして処理速度やデザイン、機能はまるでバラバラだが、それぞれに個性的な役割を持った3台のマックは、家庭内ネットを介してまるで家族のようにしっかりと支えあい、つながったのだった。
縄文元年/'02.1
結婚以来、自分の書いた年賀状はすべて保存している。たまに取り出して眺めてみると、その年その年の自分の生きざまや暮らしぶりがくっきりと浮かび上がってきて、大変興味深い。当初はゴム版の手刷りだったものが、いまや画像ツールを駆使したデジタル作品である。バブル景気の頃は忙しくて手書きが出来ず、数年間外注に出したりもした。最近の年賀状には、その年の決意とか目標のような簡単な言葉をイラストの脇に書き添えるよう心がけている。パソコンで作業する関係上、種類が多くてデザイン的にも優れている英文字を使うことが多い。必然的に文章も英語になる。
家を新築した2000年は、「We've been creating a new architectural SPACE.」(私たちは新しい建築空間を創造し続けます)という甘い夢と期待に満ちたものだったし、新築2年目の2001年は、「An ecological century has come!」(環境世紀がやってきた!)というもので、まだまだ地球環境に目を向ける心の余裕があった。ところが今年の賀状となると、「Let's take simple & easy life!」(簡素で気楽な暮らしをしようぜ!)とやや開き直ったもの。とりようによってはかなり追い込まれた内容にとって変わってしまった。
またまた愚痴っぽい話になってしまうが、未曾有の不況が吹き荒れる世情となれば、いかに好戦的な気質の私とはいえ、どうしても守りに入った生き方をとらざるを得ない。収入は頭打ちどころか底なしに下がる一方だし、人様にはもちろん、政治にもあまり期待出来そうにない。結局のところ頼りになりそうなのは、細きこの我が身と愛すべき家族だけなのだった。前回書いたように、春から私の扶養家族は妻だけとなる。父親のスネがあまり頼りに出来そうにないとなると、子供はそれを素早く見抜いてそれぞれ勝手に巣立っていく。世の中とはうまくしたもので、凸と凹の帳尻とがちゃんと合うように出来ているものらしい。
さて、そうは言っても、妻と私が最低限食べ、残された住宅ローンと何がしかの教育ローンだけは粛々と払ってゆかなければならぬ。そこで縄文生活なのである。
NHKの「日本人の起源」のような特集番組で、この縄文人の暮らしぶりが詳しく紹介されていて、いたく興味を持った。モノやカネはないが、人々が支えあい、自然を慈しみ、簡素だが平和にそして豊かに暮していた時代だったらしい。いま私がめざそうとしている生き方暮し方と、そう大きな違いはない。何とかこの暮しぶりを現代にも取り入れられないか。新居に引越してから2年たち、自分なりにいろいろ試してだいたいの目処はすでについている。まずは夫婦二人で年間200万円で生活することを目標にしたい。(ちなみに、年間66万の住宅ローンこみ)これくらい目標を低く設定すると、不況もデフレスパイラルもそう恐れることはないような気になってくる。いろいろな人の田舎暮しの本を最近まとめて読んだが、ローンなしで定年後の夫婦が年間150万前後で暮している例が多い。私の弾き出した数値が、決して無謀なものではないことが分かる。
具体的には、エネルギーロスの少ないシンプルな暮しをめざす。環境と省エネに充分配慮した新しい住まいは、これまでのマンション暮しに比べて床面積は30%以上増えたが、総エネルギー消費量は逆に25%近くも大幅にダウンした。駐車場代や管理費もかからず、修繕費もほとんど気にしなくてすむ。実にローコストでシンプルな暮しなのである。
自宅の空き地では無農薬野菜作りに励み、周辺の雑木林や土手からはたくさんの野草がとれ、それぞれつくだ煮や漬物に加工したりして、一年中食卓をにぎわす。ゴミや雨水も無駄にせずに、少しでも生活に役立てる工夫をしている。外食や旅行は基本的にせず、たまに近郊の日帰り温泉にでかける程度。散髪は妻も私もすべて自前だし、車は13年前に買った燃費のいいライトバンを自分で修理しながら延々使い続けている。家の修繕や家具作りも、もちろんすべて自前だ。
これでも縄文人に比べたらまだまだぜいたくざんまいでモノやカネにしばられた暮しだが、気持ちだけは少しでもあやかりたい。シンプルな暮しを提唱する人は数多くいるが、はたしてどれだけ実践を伴っているだろうか。必要に迫られてだが、それに挑戦してみたいと思う。2002年は私にとって「縄文元年」なのである。
幸福の尺度/'02.1
テレビはNHKをよく見るが、とりわけ衛星放送でよくやっている「地球…」と名のつく辺境のルポ番組を好んで見る。いながらにして世界中の自然と人間をほぼリアルタイムで見られる境遇を、本当にありがたいと思う。
以前東南アジアの辺地に暮す「水の民」という人々を取材した番組があった。人々はその名の通り、大きな湖からすべての恵みを受けて暮している。乾季と雨季には湖の大きさが変わるが、それに合わせて人々は丸太と草で出来た簡素な高床式住居を分解組立てし、岸辺にその都度移動する。電気やガスはもちろん、およそ文明らしきものは粗末な衣類以外に何ひとつない。縄文人に極めて近い暮らし方である。
人々の主食は湖で採れる魚だ。住居を自在に分解組立て出来ること、そして食料となる魚をひとりで捕まえられることが、彼らが「大人」である証しなのだ。
番組の終わりに、ひとりの少女に取材班がインタビューを試みた。「あなたの将来の夢は?」
意地悪な質問だな、と一瞬思った。原始に近い生活に、いったいどんな夢があるというのだろう。取材班はいったい何を少女に答えさせたいのか。だがそんな疑問は、澄んだ瞳をキラキラさせて屈託なく応えた少女の一言で消し飛んだ。
「早く大人になって、ひとりで魚が捕まえられるようになることよ」
虚をつかれた気分だった。カネでもモノでも地位でも名誉でもなく、ただ一人前の大人になることが夢だと、何の気負いやてらいもなくすらりと答える少女の顔がまぶしく見えた。
幸せについて妻とよく議論を闘わせる。もちろん結論など出るはずもないが、いつもたどり着くのは、カネやモノには決して恵まれてないけれど、我々は少しも不幸せではないという実感だった。
たとえば私がたまに車で仕事に出かけるとき、妻の勤めがたまたま休みだったりし、特に意味なく妻が助手席に乗り込んでくることがある。そして帰り道にコーヒーのうまい石造りの喫茶店に寄ったり、釧路に本店のあるうまい回転寿司の店で寿司をつまんだりする。金額にして2000円足らず、年に数回あるかないかのぜいたくなのだが、そんなささやかな時間がこのうえなく幸福感に満ちていることに気づく。
幸せとは結局相対的な感覚なのだろう。水の民の少女の幸福感に満ちた瞳は、カネやモノの価値を未だ知らないという前提の上に成り立っているのは間違いない。文明が進み、国が富めば貧富の差が生じ、不公平感が増大する。以前よりも暮らしは豊かになっても、心は次第に満たされなくなってゆく…。
文明、すなわち物質的豊かさは、人々の心に必ずしも幸福感、すなわち精神的豊かさをもたらさないのだ。その意味で、有り余る文明の恩恵をすでに受けてしまった私たち日本人が、幸福感と折り合いをつけるのは至難の技である。先に書いた年間200万円生活は、おそらく多くの年金生活者と比べてもかなり低いレベルの数値に違いない。たまに顔を見せる父親にそれとなく年金収入を尋ねてみたところ、この数値よりもやはり多かった。両親には住宅ローンも教育ローンもないから、こと経済面に限れば、私たちに比べてはるかに裕福な生活だと言える。だが、だからといって両親の精神世界が豊かであるとは限らない。
一昨年暮から近くのスーパーの惣菜部で働く妻は、いまの仕事と職場環境をたいそう気にいっていて、充実した日々を送っているのがはた目でもわかる。私は私でほとんど仕事がない日々を、家の雑事をこなしてすごす。たとえば夏、庭の菜園で大根菜にむらがる害虫を一匹ずつ指でつぶしながら、ふと見上げた太陽がそれまで見た事もないような輝きを放っていたりする。我が身が縄文世界に立ち戻ったような爽快な気分に陥るのは、決まってそんなときだ。土は人間を変えるものなのかもしれない。
幸福の感覚はその人その人の心の有り様にあるのだな、とぼんやり思う。私と妻は水の民の少女に、少しでも近づけただろうか。