二〇〇一・春夏乃章

   つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
   なにせ『徒然雑記』なのだから。


大国の奢り/'01.3

 アメリカがついに京都会議の議定書からの離脱を世界に宣言した。京都会議についてはいまさら説明するまでもない。地球の温暖化を防ぐべく1997年に世界の先進国が京都に集結し、二酸化炭素の排出削減目標について語り合った大切な会議である。
 この会議で採択された議定書は、かけがいのない地球を守る極めて重要な意味があったはずだ。大量のエネルギーを消費し、多くの「文明」の恩恵を享受している先進各国には、それらの約束を守る義務と責任がある。その重要な約束事を、世界最大の二酸化炭素排出国であるアメリカは、あっさり一方的に反古にしてしまったのである。大国の奢り、エゴの極致だ。
 かねてからアメリカの大国主義には批判的な物の見方をしてきたが、ここにきてそれは(やっぱりそうか…)という確信に変わった。要するに彼等は自分たちさえ繁栄すればそれでいいのである。エネルギー消費を抑制し、二酸化炭素の排出を抑えたりすれば、企業活動は抑制され、自分たちの生活が脅かされる。ただそれが嫌なだけなのだ。 地球の未来など構っちゃいない。地球は人類共通の財産であるという意識ももちろんない。貧乏な国の奴等は、水の底に沈んで飢え死にしてしまえ。そんな横暴な態度が見え隠れする。

 当初からアメリカは会議そのものに批判的な態度を示していた。積極的だったのは環境先進国であるEUヨーロッパ各国で、会議での目標値を自ら大幅に上回る数値を示した国さえある。現代社会の抱える様々な問題を冷静に分析すれば、我々がいま地球に対して何をなすべきか、自然に見えてくるはずである。環境に対して積極的な態度を見せない、あるいは関心すら示さないのは、その国の文化度が低い証拠である。国を支えているのは国民に他ならないから、つまりはその国の国民の文化度も低いということになる。
 今回のアメリカの離脱宣言は、ブッシュ新大統領の就任とピタリ一致する。彼はかねてから「アメリカ国民の利益」を公約の全面に打ち出し、選挙を戦ってきたわけだから、彼を支持し、大統領に選んだアメリカ国民も地球的レベルではなく、狭い自己の利益、言葉を代えるなら「どぶ板レベル」で政治家を選択したことになる。
 ヨーロッパ諸国では「環境保護」を党規約の前面に打ち出し、議席を確保している党は少なくない。国土の大半が地続きであり、環境保護に敏感にならざるを得ないという地理的状況もあるのだろうが、歴史的にみて文化の成熟度が違うのだな、といつも思う。アメリカや日本でも環境保護を公約の一部にしている党もあるにはあるが、大きな政治力になるまでには至っていない。「環境」が票に結びつかないからだ。政治家は国民が飛びつきやすい自己利益に即したおいしい公約を掲げる。選挙ではそうした政治家が票を得て当選する。つまりは、国民がそういう政治を望んでいるのである。
 外国人、特に欧米人への知的好奇心から、かってはかなりの欧米人のホームスティを我が家では受け入れてきた。その中には都合4人のアメリカ人が含まれている。アメリカへ旅したことはないが、私のアメリカ人への知識や関心度、理解度は決して低い方ではないと思っている。だが、それでも私は今回の大統領選挙でのアメリカ国民の選択を悲しむ。

 最近、帰省した娘が「日本はもうダメ、将来は外国に住むわ」と語ったことがある。
「外国ってまさかアメリカじゃないだろうな」と懐疑的な口調で私が問いただすと、(ちなみに、娘はニューヨークでのショートスティ経験がある)
「う〜ん、そうなるかもしれないけど、アメリカじゃいけないの?」と娘は問い返してきた。私が先に書いたような理由を並べてアメリカのダメさ加減を講釈し、「日本もダメだが、アメリカも似たようなものだ。住むならヨーロッパだよ。それも、あまり大きくない国がいい」とたたみ掛けると、娘は「う〜ん」と唸ったきり黙ってしまった。

 私は決して右寄りの思想家ではないが、政治的、経済的、文化的にアメリカに従属しきっているいまの日本の大勢を憂う。このまま日本社会が迷走を続ければ、いずれ日本は国家的に財政破たんし、アメリカの一州か信託統治国に成り下がってしまうのではないか、とさえ懸念している。地球環境に無関心でどぶ板レベルの狭い利益しか望まず、文化度が同レベルの国民性であるなら、まあそれも仕方がないことである。だが、そんな日本の未来をあまりこの目で確かめたくはない。




 
叶う夢/'01.3



 長い間の夢がついに叶いそうだ。ようやくこのページでも発表出来るときがやってきたが、自分の書いたノンフィクション作品が東京の出版社から正式に全国発売されることになったのである。
 出版社からの発売といっても、当世流行の経費の一部、あるいは全部が自己負担の自費出版もどきの話ではない。費用全額出版社持ち、印税まで支払ってくださる夢のような企画出版の話なのである。事は突然舞い込んだ一通のEメールから始まった。

 以前この雑記帳にも書いたように、このページで発表したサッカーに関するノンフィクションを、昨年末に60册だけ限定自費出版した。半分意地だけでやったようなその出版は思っていたよりも好評で、インターネットだけの販売にも関わらず、2ヶ月余であっさり完売となった。
 インターネットでの販売は流れ作業のように淡々と進められたが、発売開始一週間目くらいの申込みメールの中に、雑記帳にくどくど書かれた自費出版に至るまでの経緯と悪戦苦闘ぶりに興味を持たれた方がいた。その後のパソコンハードディスクの事故のため、メールの控えが残念ながら手元に残っていない。記憶を辿ると「私は出版社の役員をやっていますが、書店流通での出版の可能性はまだありますでしょうか?」といった意味深長な書き添えがそこにはあった。それを見た瞬間、ぴんと琴線に響くものがあった。

「琴線(きんせん)」とは以前から私の好きな言葉である。学生時代に4年間住んだ蛮カラな学生寮のエールに、「君の内なる青春の琴線を奏でよ〜」という一節があり、初めて聞いたときから強く惹かれるものを感じた。以来、その言葉は私の座右にある。「自分の琴線に触れるかどうか」を基準に、人生や人間関係を取捨選択してきた節さえある。その琴線がぴんと響いたのである。
 初めてのメールに対する初めての返答。だが、迷わず私はホームページには書けなかった数々の裏話を長いメールにしたためた。それまで家族以外にはおそらく誰にも話したことのない内容である。このとき私はすでに相手のSさんに心を開いていた。
 Sさんからの返事は早かった。文章の端はしからSさんの誠意が伝わってきた。その中の一節を私は生涯忘れないだろう。

「私は菊地さんの文章を私の手で出版したいという熱意を持っています」

 Sさんには社内稟議なしで出版を決定する権限があるという。「企画出版で本を出す」という積年の夢は、事実上このときに叶ったと言っていい。
 そこからの道は決して平坦なものではなかった。一時は出版そのものが危ぶまれる事態も持ち上がった。そのすべてはここには書けない。紆余曲折はあったが、私のSさんに対する信頼が崩れることは決してなかった。私は常に人と人との信頼関係を大切にしたいと願っている。最初のメールでの直感通り、Sさんは信頼に足りる人物だった。

 年の暮れも押し迫ったある日、Sさんは雪深い我が家にはるばるやってきた。出版に関するおおよその方向性は数度に及ぶEメールでの打ち合わせですでに決まっていたが、互いに初めての顔合わせとなる場で、より具体的な話が煮詰められた。
 Sさんからの要望はいくつかあった。前半部のストーリーをもっと書き込むこと。私自身がもっと前面に出るようにすること。しかし、心情面での嘘は取り除くこと。自慢話を押さえること。タイトルや序文をより読者に強く訴える内容に変えること、等々…。さすがプロだな、と聞いている私が唸ってしまうほどの適切な指摘である。しかも出版予定日から逆算した原稿修正締切日には、あまり余裕はない。
 すべての打ち合わせが終わったあと、家族を交えてささやかな酒宴が開かれた。盃を傾けながらも、Sさんは私の書き直しが首尾良く進むのかが気がかりな様子である。私は私で、突きつけられた多くの難題を、果たしてSさんの要望通りに解決出来るのか、言い様のない不安に襲われていた。

「父が息子に残すもの息子が父に贈るもの」という新しいタイトルが、この日の打ち合わせで割とすんなり決まった。前半部分は私の提案で、後半部分はSさんの提案である。二人の合作なのだ。タイトルを聞いただけで思わず読みたくなるような訴求力があると思う。妻などはこれを聞いただけで涙を流したほどだ。サッカーに関する本であることが分かるよう、「子育てサッカー光と影」がサブタイトルとして採用された。
 書き直しははぼこのタイトルのイメージで進められた。こんなふうに心理的に追い込まれたときの私は、自分でも驚くほどのパワーを発揮する。年末年始休暇返上で作業は続けられたが、100枚近くの修正作業はその年のうちにほぼ終わっていた。
 Sさんの会社の仕事始めである1月5日に合わせ、修正原稿をEメールで送る。きっとOKが出るはず、出て欲しい、いやそれは無理かもしれない…。Sさんからの返事がくるまでの間、胃が痛くなるような不安が交錯し、まるで試験の結果を待つ受験生のような心境だった。

「的確な修正で、私としては、原稿内容に全く異存はございません」

 Sさんからそんな内容のメールが届いたのは、4日後のことだった。思いがけない一発OKの返事に、気をもんでいた私は拍子抜けしてしまう。

 こうして私の正直な心境としては、実にあっけなく本は出来上がった。それまでの苦渋に満ちた数年間が、まるで嘘のようである。物事が成就するときというものは、案外こんなふうにあっけないものなのかもしれない。
 この後、はたしてどれくらい本が売れてくれるのか、Sさんの言葉を借りれば「神のみぞ知る」領域の話である。私自身は本の内容に自信を持ってはいるが、それと売れることとは全く別問題である。いずれにしても、私としては自身の作家デビューとなるであろう今回の出版にあたって、うかれる気持ちも奢る気持ちもない。

「いい本です。ぜひ読んでください。読んで感動してください」

 世間にそう呼び掛けたい、そんな素直な心境なのである。




無二の友/'01.5



 かけがえのない友がいる。押し付けず、立ち入らず、それでいて自分の多くを理解し、許し、受け入れてくれる。そんな生涯の友である。19歳の春、私は彼に出会った。
 地方の大学に入学が決まり、親元を離れて心機一転、かねてからの思いを胸に、私は弓道部の道場の門を叩いた。まだ入学式の二日前である。部員の勧誘すら始まっていない。新入部員の第1号は間違いなく俺だ。そんな気負いと意気込みだったが、あっさりとそれは覆された。私よりも一日早く、入部を決めていた新入生がすでにいたのである。それが彼だった。仮に名前を秋山としよう。
 浜育ちだという彼は口が重く、決して快活な印象ではなかったが、その気取らない語り口になぜか相通ずるものを感じた。現役で入った秋山は一浪の私よりもひとつ年下だったが、その表情や物腰の中に、年の差を感じさせない大人びたものを秘めていた。
 練習が終わったある日、学寮の部屋を訪れた秋山がぽつりとこう言った。

「俺ってさ、父親の顔を写真でしか知らないんだ」

 聞けば、幼いときに事故で死んだのだと悪びれもせずに彼は言う。それを聞いて腑に落ちた。幼きころより、どういうわけか私には恵まれぬ環境で育った友が多かった。家が貧しく、新聞配達で家計を支えていたのは中学校で一番仲が良かった友だった。「俺のオヤジって、本当のオヤジじゃないんだ」。高校のときに最も馬が合った友から、いきなりそんな秘密を打ち明けられたこともある。いま私の傍らにいる妻も、幼きころより極貧の環境で育っている。
 むこうが寄ってくるのでなく、どこか人生に暗い影を持つそんな相手に、どうやら私は引かれる質のようだった。挫折を知っている人間には実がある。だから引かれるのだ。秋山もその例外ではない。
 部の遠征は札幌で行われることが多く、そんなとき秋山は必ず私の実家に泊まった。「人はなぜ生きるか」「人はなぜ愛するか…」そんな出口のない哲学的議論を夜を徹して語り合ったことも、一度だけではない。
 秋山との関わりをすべて語ろうとすると、すぐに一冊の本になる。私が部の主将選挙に一票差で敗れたときは一緒にくやし涙を流してくれたし、本気だった恋に私が破れたときには、「あの女は本当のお前を理解していない」と、後で思い返してみると実に的確な助言をくれたりもした。

 社会人になってから秋山は、高校時代からの彼女との7年に及ぶ恋を実らせた。入社一年目の春である。それは家庭的には恵まれなかった秋山の人生を象徴するかのような若い結婚だった。互いの勤務地が東京と北海道に離れてからも、二人の交流は続いていた。
 入社二年目の秋、私にも将来を誓いあう恋人が出来た。いまの妻である。ところが、この恋には様々な障害があった。そのすべてをここに記すことは出来ないが、要は身内の何人かがこの結婚に異議を唱えたのである。その理由は、私からすれば実にくだらない事だった。そんな輩はうっちゃっておき、賛同者だけでささやかな式を挙げてしまおうか。一時はそんな強硬案も浮上した。しかし、両親に引き合わせもせずに、一方的に入籍をすませてしまうには、さすがにためらいがあった。結果はどうあれ、顔見せだけはしておくか…。私も社会的には一応は常識人であるので、そんなふうに考え直した。

 とはいえ、場所は東京と北海道と遠く離れている。ただのセレモニーに過ぎなくとも、ほとんど逃げ腰になってしまって臆しきっている彼女を、なるべくリラックスさせた状態で両親に会わせたい。さて、どうしたものか…。考え悩むうち、頭に浮かんだのは当時、仕事の関係で千歳空港近くに住んでいた秋山の顔だった。すぐに電話をかけた。

(実は結婚しようと思う彼女がいる。次の連休に初めて実家に連れてゆくつもりなんだ…)

 反対されている、とは一言も言っていない。だが、私の声の調子で何かを察したのか、秋山は即座に空港に会いに来ることを約束してくれた。
 当日、現場の合間の時間をやりくりし、秋山は空港から近くの支笏湖まで、ドライブをかねて私と彼女とを案内してくれた。そのまま自宅まで招き入れ、得意のドリップコーヒーなどで接待してくれる。

「さて、物のついでだ。札幌のお前の家まで、送っていくとするかな」

 固辞する私たちに、「久しぶりにお前のお袋さんに会って、学生時代に世話になった礼も言わなくては」と、頓着しない。結局再び彼の車に乗り、私と彼女と秋山の三人という奇妙な組み合わせのまま、実家に乗り込む羽目となった。

 以降の子細はここでは語らない。結果から言えば、この「三人奇襲攻撃」は、大成功をおさめたのである。顔合わせは実になごやかに進み、昔話でしばしの間座を和らげてくれた秋山は、「それじゃこれで」と風のように去っていったのだった。
 人生に「たら」や「れば」はないと言われるが、もしもこのとき秋山が同席してくれてなければ、私たちの結婚はもっと険しいものになっていただろう。たとえ二人がどんなに深く結びついていたとしても、周囲から祝福されない結婚には多大な困難が伴う。その意味で秋山は、まさに救世主と言えた。
 このことに関して、その後秋山に真意を尋ねたことはないし、彼が語ることもなかった。しかし、互いに何も語らずとも分かっている。秋山は私の一本の電話だけですべてを察知し、最大限の配慮をしてくれたのだ。人生の窮地を救ってくれたのは決して身内などではなく、無二の友だった。

 あれから30年近くの月日が経つ。私は故郷北海道に移り住み、秋山は東京本社勤務と、互いの住まいは当時と逆転した。だが、いまでも出張の折に予告なしにふらりと秋山が我が家に立ち寄ることがある。
「おう、元気か」
「ああ、相変わらずだ」
 二人で妻が入れたコーヒーを静かに飲む。そして互いの近況を語り合う。二人とも白髪の数が増えた。交わす言葉は少なく、かってのように議論を戦わすこともない。だが、きっとそれでいいのだ。




吉凶交々/'01.5



 学生時代、函館にあるその秋山の実家を一度だけ訪れたことがある。いつも俺が泊めてもらうばかりだから、一度は俺の家に来い。常日頃から秋山は私にそう言っていた。義理堅い男だった。九州の会社での工場実習が終わったあと、そんな秋山の言葉をふと思い出し、青函連絡船から降り立ったその足で、彼の家に立ち寄ったのである。
 当時、秋山の自慢は女一人で三人の子供を気丈に育て上げた母親だった。秋山の会話には、よくその母親が登場した。「俺のお袋の作る汁粉は絶品だ。一度食わせてやる」甘党の秋山から、そんな自慢話を幾度も聞かされた。秋山の母親に対する思いには、尊敬と慈愛とある種の甘えの感情とがないまぜになっている印象がした。しかし、それを聞かされている私は、なぜか少しも不快な感じがしないのだった。

 秋山がその母親からいつも聞かされたという貴重な人生訓がある。

「悪いことがあると次は必ずいいことがあると自分を励まし、あまりいいことが続くと、次は悪いことが起きる番だと用心する」

 秋山の父親は、あの歴史的な「洞爺丸事件」の犠牲者の一人だった。青函連絡船の乗組員だった秋山の父は、事件の夜は非番だった。ところが当日になって同僚の一人が私事都合で急に船に乗り込めなくなり、頼み込まれて代役を引き受けたのだという。なんという運命のいたずらか。
 またしても「たら」や「れば」の話になってしまうが、もしこのとき勤務を代わってなければ、秋山の父は事件に巻き込まれてはおらず、秋山のその後の人生も大きく変わっていただろう。だが、事件は起きた。洞爺丸は嵐に切り裂かれ、津軽海峡のもくずと消え去った。

 幼き三人の乳飲み子を抱えたまま、未亡人と化した秋山の母の当時の心境を思いやると、ただ胸が締めつけられる。このときから、秋山の母は運命というものをただひたすら甘受する心境になったに違いない。それが先に書いた人生訓につながっているのだろう。
 挫折を知らない人間からすれば、「そんなものは弱者の生きる知恵さ」と一蹴されてしまうかもしれない。だが、本当にそうか。「悪いことは決して長くは続かないよ」とは、気が滅入って暗い穴に落ち込みそうになったとき自分を励まし、力づける金言だし、「いいことが続くと用心する」とは、ときに調子に乗って奢り高ぶりそうになる自分を戒め、謙虚さを忘れさせないこれまた名言である。切り詰めて書くとするなら、「吉凶交々(こもごも)」とでもなろうか。

 秋山の母が悟り、そして子供たちに語り継いだというこの言葉は、30年経ったいまでも決して色あせてはいない。日々この言葉を聞かされた秋山はもちろん、いつしかこの私もそれを座右に置くようになった。言わば時と空間を超越した警句なのである。




 
こもる部屋/'01.5



 部屋、得に個室のあり方について、いろいろと考えることがある。実はつい最近、我が家ではかなり大幅な部屋の改造を行った。一言で書くと、部屋をすべて用途別のゾーンで分けたのである。本当ならこのページの別の連載で語るべきなのだが、それまで待てそうにない。私の考えとはこうだ。

「家に個室はいらない」

 多くの日本人の家の概念に、個室というものが暗黙の了解のもとに形成されている。注文住宅でも建売住宅でも1億の分譲マンションでも月5万円の賃貸住宅でも、ある条件下の個室が必ず存在する。
 住宅展示場を賑わす絢爛豪華なモデルルームを見渡しても、トイレや居間、台所などに代表される生活に必要な部屋のほかに、収納と鍵つきのドアが装備された個室群が、さあどうぞとばかりに用意されている。買い手はほとんど何の疑問もなしにそれらの個室群つきの住宅を受け入れる。めでたし、めでたし…、と果たして終わってしまっていいのだろうか。

 私が初めて個室を与えられたのは、父が一戸建て住宅を建てた中学2年の夏、いまから40年近く前のことである。「子供には独立した部屋を与える」という考えが、徐々に庶民に浸透し始めたころだった。それまで、居間の一角に置かれた学習机周辺が唯一の自分のテリトリーらしきものだった私にとって、わずか3畳とはいえ、誰にも邪魔されない自分だけの部屋はまるで夢のような空間だった。
 おそらくは両親も、「息子が勉強に集中出来る場を与えたんだ」と胸を張っていただろう。それはすなわち、いい学校、いい会社に入るという、かって、いや未だに日本人の意識下深く宿っている「寄らば大樹思想」へと、どこかでつながっている。

 さて、こうして受験期に個室を与えられた結果はどうだったか?両親の期待通り、私は首尾よく難関高に合格した。その後、難易度ではまずまずの国立大学にも合格を果たしたから、結果的に親の思惑は裏切らなかったことになる。
 だが、個室を与えられたことによる弊害もゼロではなかった。食事や風呂、洗面以外の身の回りのすべてが閉じられた狭い空間で事足りる生活になったため、部屋に引きこもることが多くなったのだ。こもることにより、エロ本を読みふけったり、シンナー遊びに興じたりの悪い遊びも覚えた。家族からの孤立化というさらなる弊害も生まれた。個室により得たものもあるにはあったが、失ったものも少なくなかったのである。

 当時はまだいまほど誘惑の多くない時代だった。個室といっても、私の場合は狭い3畳間。場所も居間のすぐ隣で、鍵もついていない。テレビゲームもなく、アダルトビデオもまだない。しかも私は成績はまずまずで、比較的品行方正な子供だった。両親も人並み以上に厳格である。それでも、こもることにより、これだけの悪事を働ける。部屋が人の性格を造るのである。
 もしも時代がいまで、親の締めつけがそう厳しくなく、本人の自制心もいまひとつ、部屋は玄関から直接上がってゆける2階の鍵つき個室、電話とテレビ、ビデオ、ゲーム機完備…、という環境となれば、そこでどんな悪事が働かれるか、容易に想像がつく。「ウチの子に限って」ではなく、「おそらくウチの子も…」と考えたほうが賢明だろう。

 そこで前言に戻る。家族で生活している限り、基本的に個室はいらない。すなわち、プライバシーなど無用なのである。
 私が学生時代に4年間を過ごした寮には、個室というものがなかった。引戸を開けると20畳ほどの広間があり、冬はそこにストーブが置かれる。酒盛りが繰り広げられるのもそこだ。個人の空間といえば、部屋の左右にある「ボックス」と呼んでいた畳1枚半ほどの押入れに似た造りの木製ベットだけだった。木製ベットの端に座り机があり、昼間は布団をふたつ折にしてそこで勉強する。製図などの作業は、20畳の共有空間でやった。ベットにはカーテンがあったが、基本的にプライバシーはなく、こもる隙は与えられなかった。
 1年生から4年生までが集まる8人の大部屋、アウシュビッツの捕虜収容所のような空間、プライバシーのない世界…、しかし、それでも私は当時の生活をいまでもいとおしく思い出す。そこは、喜び、悲しみ、怒り、それらの雑多な感情の一切を、他人である8人が違いに共有しあっていた異空間だった。異様な部屋の造りと雰囲気に、最初は目をむいていまにも逃げ出しそうなそぶりを見せる新入生も、やがて数か月後には「この部屋に入って良かった」と一様に目を輝かせるのである。もちろん私もその例外ではなかった。
 4年間とはいえ、家族でもない赤の他人がこんな世界を構築出来るのだ。利害関係がなく、遺伝子を共有している家族が、同じことを出来ないはずがない。

 私が家で仕事をし、一室を占拠してきたせいで、我が家の子供たちは個室を与えられずに成長した。鍵つきの個室を与えられている他の「恵まれた」友人たちと比べ、そのことを引目に感じていた子もいたかもしれない。しかし、強がりでなく言うが、逆にそのことで、私たちは強い家族の絆を築くことが出来たように思う。
 パラサイトシングルにでもならない限り、健やかに育った子供が家にいるのは、せいぜい20数年である。子供が個室を欲しがる、いや、親が与えたがる思春期、受験期だけを考えると、10年にも満たないわずかな期間だ。人生の中でも特に大切なその期間を、親の目が届かない「子供部屋」という名の空間に閉じ込めてしまっていいのか。

 最初にも少し書いたが、最近新築した我が家には、個室の概念がない。あるのは、「生活する空間」「創造する空間」「休息する空間」などのゾーンに分けた用途別空間だけである。このように空間を分けるにあたり、家族とは事前に充分話し合った。そのせいか、いまのところ家族からの不満はない。

「生活する空間」は1階にあり、ここで食事を作り、食べ、排泄し、身体を清潔に保つ。家族間で最も白熱した議論や会話が展開されるのもここだ。
 この空間、いや、家中を含めても唯一鍵がついていて「こもる」ことが可能なのは、トイレと浴室などがあるユーティリティだけである。(現実には、誰も鍵などかけないが…)
「創造する空間」は2階の南西側のゾーンにあり、ここで図面を引き、絵を描き、本を読み、ワープロを打つ。8つある机や2台あるパソコンは私や息子たちの共有物である。作業時間が重なるとき、息子たちが私のところにやってきて、いろいろ疑問点を尋ねたりする。寝る前の妻をつかまえ、閃いた新しい小説の構想を私がとくとくと語ったりもする。
 この空間は1階の「生活する空間」とふたつの吹抜けでつながっており、1階での母と息子の会話に、2階で仕事をしている私が声だけで「乱入」したりもする。
「休息する空間」は家の2階北東側のゾーンにあり、のれんや腰壁、本棚などで曖昧に仕切られてはいるが、音や光は筒抜けで、基本的にプライバシーはない。誰かが寝ているときには、起きてる人間は音や光を絞るという暗黙のルールが家族間ですでに出来ている。やはり部屋は人を造るのだ。
 手作りのベットは二人の息子たちが使い、私たち夫婦は床に布団を敷いて寝る。ここだけで都合6人の大人が寝られるようになっているので、来客時にはお仲間になって眠っていただく。当然のことだが、我が家には「客間」という概念もない。それでも結構な宿泊客があるから不思議だ。ベットを増やさないのは、床を空けておいたほうがこうした色々な生活の変化に、容易に対応出来るからである。

 私は一応、建築に関わりを持つ仕事についているが、こんな猥雑な暮らしぶりを、そっくりそのまま人様の家にまで押しつけようとは思わない。あくまで自分たちの生き方、暮らし方を問いつめた結果生まれた私的空間である。だが最近、ある人の設計に関わることになり、打合せを始めた結果、とんでもない要求が出された。それは子供はおろか、夫婦までもが鍵つきの完全独立個室に分ける、という代物だった。
 子供はいずれ家を出る。どう育とうが、構わないという考えもあろう。だが、仮にも同じ屋根の下に暮らす夫婦が、互いにこもる部屋に暮らしていていいものか。燃える愛はとうにさめているのかもしれない。それはいい。しかし、もしも年老いて、どちらか一方が就寝中に発作でも起こし、誰も気づかずに死にでもしたら、いったいどうするつもりなのだろう?ひょっとして、「これで厄介払いが出来た」と心中手をはたいたりするのかもしれないが、想像するのもおぞましい話だ。
 幸いなことに、この話はいろいろな事情で立消えとなったが、この不況下でいざ建築設計で生計を建てるとなれば、このような自分の生き方にそぐわない仕事でも、場合によってはこなさなくてはいけないのだろう。時代は民の小さな暮らし方から、徐々に崩壊を始めているのかもしれない。




無返答/'01.7



 出した手紙、問い合わせ、メールのたぐいに対し、何の返答もないケースが多々ある。つい最近まで就職活動に励んでいた我が家の長男が、このことに関して大いに憤慨していた。
 あるIT関連企業A社の内々定を貰った彼が、この会社への返答を保留しつつ、別の薬関連企業B社も受けた。彼としてはB社のほうが本命だったらしいが、自分の力から考えて難しいと思っていたらしい。ところが意に反して、B社のほうも最終面接までいってしまった。新聞やテレビにもときどき登場する社長と直接話をしてきた息子は、もうすっかりその気である。合格はほぼ間違いないものと思い込んだらしい。

「合格の場合は2週間以内に電話でご連絡します」

 不合格の場合はあえて連絡しません。つまりはそういう話だった。最初の1週間は穏やかだった息子の様子が、2週間目に入ってからがぜん落ち着きがなくなった。鳴るはずの電話が鳴らない。来るはずの内定通知が、待てど暮せどこないのである。
「果報は寝て待て」などと呑気に構えていられないのは、すでに内々定を貰っているA社の返答リミットが迫っているからである。そうこうするうち、約束の2週間目の当日がやってきた。息子はひたすら電話を待ち続けている。このままだと、A社B社両方とも駄目になってしまう怖れもある。危険を察知した私は、息子にこう忠告した。

「A社もB社も同じような規模の会社だろ。A社に決めろよ。最初からITか金融を希望してたじゃないか。そもそも、宮仕えでいる限り、会社なんかどこ入ってもたいして変わらんよ」

 いつもの理不尽なオヤジのたわ言である。息子は意を決したようにB社人事部に直接電話をかけて合否を確かめた。回答はもちろん、不合格である。これでようやく息子もあきらめがついたようだ。A社への受諾の連絡はなんとか間に合った。

 すべてが終わったあと、息子は、「不合格でも返事くらいくれたってよさそうなもんだ」と息巻いていたが、それじゃあ平気で二またをかけているお前のほうに非は全くないのか?と問いただすと、それきり黙ってしまった。
 こちらからの何らかの働きかけに対し何も連絡がないのは、昨今では無言の拒絶を意味するものらしい。現代社会という名の修羅場では、"No news is bad news."なのである。
 昔の就職試験では落ちてもちゃんと連絡がきた。そもそも私が就職試験に奔走していた30年前には、二またや三またをかける学生など皆無だった。企業側にも試験を何度も行うとかの配慮があったものだ。社会全体がそれなりの節度を保っていたように思う。世の中がこんなふうに無節操になってしまったのは、いったいいつのころからなのか。

 雑多なコンテンツで満たされた私のようなホームページを開設していると、いろいろな人たちからさまざまな問い合わせ、お願い、依頼のたぐいのメールが毎日のように飛び込んでくる。企業関連の単なるDMのたぐいはさすがにうっちゃっておくが、個人のメールには99%近く何らかの返信を送っている。
(ちなみに、残る1%は無署名のいやがらせのたぐいと思ってください)

「あなたのページの中にあるGIFアニメはどうやって作るんですか?」
「あなたの小説の解説にウソが書いてありますよ」
「サッカーのクライフターンについてもっと詳しく教えてください」
「手作り家具を本で勉強したとありますが、本のタイトルは?」
「僕に…の曲をMIDIで作ってください」
「あなたはテレビに出ている…の方ですか?」

 この数年間に舞い込んだ雑多な問合せメールのほんの一部である。「ご質問がありましたら何でもお問い合わせください」と書いてある箇所も確かにある。でも、大半はそんな箇所とは無関係の問い合わせである。別に無視してもいいのだが、それでも私は暇を見てはせっせと返事を書く。
 受け取った人なら分かるはずだが、返答は懇切丁寧である。ひとつに30分近く、場合によっては1時間もかける。修羅場から一段降りた場所でひっそりと棲息している私のような偏屈人間にとっては、現代社会の法則は必ずしも当てはまらないのである。世の中にはこんなふうに、一見何の得にもならないことを粛々と続けている甘い人間も確かに存在するのだ。
 返事を書くことにかくたる理由はないが、要は暇だからだろう。つまりは道楽のようなものか。格好よく書くとすれば、ホームページを発信しているという行為に社会性のような意味を認めているから、ということになる。
 しかし、何やかやいいながら、返事を書くことで私にもちゃんと得るものはある。それが何であるかはあえて書かないが、いろいろな事情で無返答を決め込む人は、もしかすると目には見えない何かを、知らず知らずのうちに失っているのかもしれない。

 ひとつ心配なのは、私の返答を受け取る特に若い人にとって、世の中が常にこう甘いものだという誤解を抱いてしまわないか?ということだ。「インターネットにはいい人ばかりが住んでいる」なんて思い込まれるとすごく困る。ネット社会に限らず、現実の社会は嫉妬や欺瞞に満ち満ちていて、これほど優しくも親切でもない。その用心だけは充分心得ておいて欲しい。




暇と金/'01.7



 基本的に私は暇である。たまに忙しいこともなくはないが、まあ年に数度という頻度である。年間の実労働時間は、おそらく1000時間以下、日本人の平均値の半分くらいだろう。趣味や町内会の仕事に勤しんでいる年金生活者のほうが、私なんぞよりも余程忙しそうに立ち振舞っている。
 その暇を有効に使い、自分の家をコツコツ補修したり、新しい家具を作ったり、ホームページの更新に頭をひねったり、新しい小説の構想を練ったりする。
 春は畑を耕し、夏は草刈りに励み、秋は漬物作りに腐心し、冬は雪掻きに勤しみ、まるでミヤザワケンジのようにそんな雑事を気ままにこなして一年を過ごす。私にとって「暇である」ということは、何かに追われている時間が少ないということで、何もせずにボ〜としている時間が多いということではない。
 暇な理由は結局仕事がないからで、これすなわち金がないことを意味する。暇すなわち時間と、金すなわち収入はおおむね反比例する。「おおむね」とわざわざつけ加えたのは、暇だけど金もある人も広い世の中にはきっといるんじゃないか?と思ったからである。

 10年以上前のバブル景気のころには収入は倍以上もあったが、休暇は半年に一回くらいしかなく、そんな状態が3年近くも続いた。これでよく身体を壊さなかったものだと感心するが、その分銀行口座の預金残高は増え続けた。つまりは収入、すなわち金と忙しさはおおむね比例するわけである。
 天国と地獄の両極端を体験したわけだが、はてさてどっちが天国でどっちが地獄かの判断は、結構難しい。

「そりゃ忙しくて金のいっぱいあるほうが天国でしょ」

 以前は私も確かにそんなふうに思っていたと思う。でも、そうあっさりと片づけていいんだろうか?
 つい最近、私は自分たち夫婦の歩んできた26年の愛憎劇を一編の作品に書き上げた。ひとつひとつの出来事を振り返りつつキーを叩くうち、ある大切なキーワードにたどりついた。それは私たちの場合、「金がある時期は不幸せだった」という一見不条理な事実である。子細は省くが、要は金があるときには暇が全くなく、常に仕事に追われ、休日もなく、それに伴って夫婦関係が次第に悪化していったという悲しい法則である。
 一時は破たんしかけた私たち夫婦の関係が改善にむかいだしたのは、振り返るとバブル景気が崩壊して仕事が激減してからだった。金はいつも人生に幸せをもたらすとは限らないのだ。

 世間では不況だ、金がない、生活が苦しいなどといいながら、海外旅行者は増え続けているというし、高い進学率も一向に減る気配がない。居酒屋は深夜までにぎわい、食べ物は食べられぬまま、ゴミ箱に捨てられてゆく…。金やモノはいまでも充分過ぎるくらいだ。それでも社会が閉塞感に満ち、人々がどこか満たされないのは、本当は不況のせいなんかじゃないような気がしてくる。
 私は1950年代に子供時代を過ごしたが、そのころの生活は現代にくらべると格段に貧しかった。しかし、それでも私は当時を振り返ってみて、自分が不幸せだなんて感じたことはない。金はなかったが、追い立てられない時間だけは充分にあったし、何よりその膨大な時間を埋め合わせる、どん欲な好奇心が私には備わっていた。
 あれから40年がたち、やがて私は52歳になろうとしている。あのころと同じように相も変わらず金はないが、追い立てられない暇だけは充分にある。そして幸いなことに、子供時代と変わらぬ旺盛な好奇心がまだ私には残っている。
 先に書いた「暇と金の両方を持っている人」は結構世間にいるような気がするが、汲んでも汲んでもつきることのない、あくなき好奇心を合わせ持っている人は、それほどいないような気が漠然とだがする。好奇心がなければどんなに金があろうが暇があろうが、私にとってはしょせん虚しい。そんな大切なものを自分の人生に残してくれたことを、とりあえず神に感謝することにしよう。




自由研究/'01.8



 夏が終わると、いつも思い出すことがある。小学生時代、夏休みや冬休みが終わると、始業式には自由研究を提出する決まりがあった。正確に書くと、それを義務づけられたのは札幌に引越してきてからだ。
 それまで生まれ育った田舎の僻地校にはそんな決まりはなく、新しい学期が始まって学校に持ってゆくものといえば、夏休み帳と呼ばれた書き込み式の勉強ノートくらいのものである。昆虫採集や工作のたぐいを気紛れに持参することもたまにはあったが、それは決して全員に課せられたものではなく、大半は私のような優等生指向の子、あるいはその親が子供の尻をはたいて点数稼ぎのためにする抜け駆け行為のたぐいだった。
 私が札幌の小学校に転校してきたのは6年生の夏で、二学期の始業式からの登校である。不本意だったが、引越しのどさくさで、夏休み帳くらいしか持ってゆくものがなかった。周りを見ると、工作はもちろん、読書感想文や何かの調べもののような様々な作品をめいめいが持ち寄っている。それらが「自由研究」と呼ばれる代物であることを、やがて私は知る。

 数日後、「自由研究発表会」なるものがクラス内で開かれた。生徒ひとりひとりが次々と壇上に立ち、皆の前で自分のやった課題の発表をやるのである。「自由研究」というアカデミックな響きを初めて耳にした時点で私の気持ちはすでに臆していたが、この発表会で完全にとどめを刺されていた。
「やっぱり都会の学校はすごい…」
 何も出す作品がない私は、クラスメイトが自信たっぷりな顔で次々と発表するのを、ただ呆然と見ているだけだった。田舎の学校では押しも押されぬ優等生と自他共に認めていた私のちっぽけな自負心は、もろくも崩れ去っていた。

 当時、クラス代表を務めていたカサイという男の自由研究を、私は生涯忘れることが出来ない。彼はスポーツ万能で成績も良く、クラスの信望も厚かった。ルックスも抜群で、地元の有名国立大学に勤める職員を父に持つという、それまで私が出会ったこともない、まるで劇画の主人公のようなタイプの優等生だった。
 普通、優等生であっても、何かひとつくらいは欠けているものだ。成績は良くても運動音痴だったり、スポーツ万能でも家が貧しかったりする。そうした何らかの「欠け」があることで、優等生は皆の中での身の置場を許されるようなところがあった。ところが、そのカサイという男には、まるで欠点がない。
 彼の自由研究は「家の中の電気器具の消費電力調査」というもので、タイトルの持つまばゆいほどの輝きが、田舎育ちの私を圧倒した。さまざまな電気器具の消費電力をメーターの回転数から比較検討してグラフにまとめ、ちゃんと考察まで加えてある。メーターの回転数をいったんゼロにしてから1台だけを運転させ、同じ時間内での回転数を比較するというやり方が実に独創的に思えた。
 発想もさることながら、最も私を驚かせたのは、そのグラフに書き込まれた電気器具の種類の多さである。テレビはもちろん、電気釜、洗濯機、掃除機、扇風機、アイロンに至るまで、当時発売されていた大半の家庭用電気製品がずらりと並んでいる。私の家にはわびしい裸電球があるだけである。私は彼の才能や彼を取り巻く恵まれた家庭環境に、到底太刀打ち出来ないものを感じていた。

 時は流れて冬になった。冬休みにはまた自由研究の課題がある。今度は私も何かを提出しなくてはならない。サカイに負けないものがどうしても作りたかった。私は彼と彼の持つ豊かな環境の両方に、強く嫉妬していた。しかし、自分の家は裕福ではない。金をかけず、ユニークな発想だけで勝負せねばならない。いったい何をやればいいのか…。
 考えながら、ふらふらと道を歩いていたとき、ふと見知らぬ道路標識が目に止まった。田舎では道路標識などひとつもなかったから、かねてから道路標識には興味があった。街中を歩き回れば、かなりの種類の道路標識が見つかるだろう。これを集めて絵にし、何らかの手法で分類してはどうだろう…。
 いま振り返ると、この私のアイディアはなかなかのものだったと思う。さっそく近所を歩き回り、様々な種類の道路標識を収集した。詳しくスケッチし、見つけた場所もメモする。都心に出ると珍しい標識が数多くあり、買い物に出たときなどはメモ帳を離さなかった。
 こうして集めた道路標識は、かなりの数になった。これらを単純に画用紙に書き写すだけでは駄目なことは分かっていた。それでは「研究」にならない。メモの山をじっと見つめるうち、ふとあることに思い当たった。色と形に一定のルールがあることに気づいたのである。
 たとえば黄色の菱形は注意をうながし、青と赤の丸形は禁止、赤い丸型は強い禁止、青の角形は単純な案内などである。これらを分類して大きな画用紙に色鉛筆で描いた。カメラなどないので、ひとつひとつ手描きである。そして下段に発見場所と気づいたことを書き添えた。

 提出した課題は、先生やクラスメイトから高い評価を受けた。発表会でも一躍ヒーローである。足を徹底的に使った細かい調査と、独自の考察が効いた。このときの自由研究には最高評価であるAのマルがつき、3学期が終わるまで、教室の壁に長く貼り出された。その作品は40年たったいまでも捨てられず、タンスの奥底に大切にしまわれている。
 嫉妬や反骨心は時に強いバネになり、それまで自分でも気づかなかった資質を掘り起こすことがある。カサイに対する身の程知らずのライバル心が、どうやら私に思いがけないパワーをもたらしたらしい。




蜘蛛/'01.8



 いま住んでいる家には、内外に多数の蜘蛛が生息している。体長数ミリの小型のものから、5センチを超える大形の鬼蜘蛛まで、種類は雑多である。その蜘蛛たちが床下で、あるいはテラスで、あるいは窓の枠で、季節と天候にあわせてさまざまな巣を張り巡らす。
 日本では割と嫌われる傾向にある存在の蜘蛛だが、西洋では幸運の象徴として大切にされていると聞く。建築学上から、あるいは環境学上から考えてみても、室内外に蜘蛛がいること自体、決して悪いことではない。
 たとえば床下に一年中蜘蛛が生息しているということは、床下空間が蜘蛛にとって安全な環境である証拠である。すなわちそれは、人間にとっても安全である証拠である。私の家のように床下を居住空間の一部とみなす設計では、このことが重要な意味を持つ。また、吸気口や土間コンクリートの隙間から入り込む小さな昆虫を蜘蛛はしっかり退治してもくれる。家にとっては有り難い益虫なのである。
 外部に巣を張り巡らす大形の蜘蛛は、蚊や蠅の害虫を捕獲してくれる。我が家の周囲は二本の川と深い薮に囲まれた都会の中の田舎だが、蜘蛛たちのおかげで夏でも蚊や蠅に悩まされることはほとんどない。
 こんなわけで、我が家では人間と蜘蛛とが見事に共存している。家の中で蜘蛛に遭遇しても、決して踏みつけたりつぶしたりはしない。外でもしかり。テラスや玄関のすぐ前に大きな巣を張られてしまったり、机の上に天井からすーっと降りてきたりすると少し迷惑だが、こんなときだけはそっとホウキなどで払って、場所を移動していただく。

 子供のころ、蜘蛛が見事な巣を張るのを飽きもせずにながめていた記憶がある。夕焼けが美しい夏の軒先や縁側などが彼らの大好きな場所と時刻だ。翌日が晴れだと、雨の心配のない風通しのよい場所を彼らは選ぶ。エサとなる虫たちがそこを通り過ぎることをちゃんと知っている。翌日が雨の日は、雨にやられない窓ガラス近くか軒下を選ぶ。もちろんそこにも虫たちが避難してくる。その虫たちをそこで待ち受ける。蜘蛛は偉大な天気予報官でもあるのだ。
 彼らの巣を張る手順は、ひとつの芸術に近い。一度でもその過程を目にしたものは、その見事さに感嘆するだろう。高い場所から糸を引きながら真直ぐに降りてきて、風をうまく利用しながら縦糸を対角状にまず張る。次に外側から中心に向かって、放射状に順に横糸を張ってゆく。こうして30分足らずで巣は完成する。風などで部分的に壊れた巣は、放棄せずにちゃんと自分で繕って再利用している。蜘蛛は偉大なるエコロジストでもある。

 近未来を予測しつつ、骨身を削って粛々と芸術作品を作り上げ、引っ掛かった最低限のターゲットだけを食い、命をつなげてゆく野のエコロジスト。日本ではあまり相手にされないが、西洋ではあがめられ珍重されている理由が、なんとなく分かるような気がする。




エセ/'01.8



 似て非なること、すなわち本物にとてもよく似ているが、本当は違うもの、まがい物、そんなものを「えせ」と呼ぶ。えせなるものは今も昔も枚挙にいとまがないが、私の専門分野である建築業界でも、それは例外ではない。
 たとえばいま大人気の外装材、サイディングである。一口にサイディングといっても、その材質は多様であるが、細かく砕いた木片にセメントなどを混ぜて固めたものが主流である。安く、作りやすく、防火性に優れている。それが市場で多用されている大きな理由である。液状にした材料を固めて作る関係で、色や表面加工も極めて容易だ。実はここが曲者なのである。
 流し込む型と色付けを工夫すれば、たいていのまがい物を作り出すことが可能なのだ。レンガ風外観はもちろん、石張り風、木目風にいたるまで、なんでもござれである。だが、まがい物の悲しさで、どんなにレンガや石を装ったとしても、月日がたてば壁は間違いなく風化してゆき、まがい物の本質をさらけ出す。10年もたたぬうち、劣化による塗装や吹付けのやり直しを強いられる。基本的にメンテナンスフリーであり、年月がたてばたつほど風格を増す本物のレンガや石の風合いは、望むべくもない。
 木目風サイディングもしかりである。本物の木の外壁は、強度や防火性ではサイディングよりも劣る場合が大半である。表面塗装の頻度もサイディングよりはいくらか多いだろう。しかし、本物としての味はやはり比較にならない。
 サイディング自体が材料として劣っているとは決して思わない。比較的安価で施工性もよく、優れた防火性を持つその特質は、なかなか魅力的でさえある。私が嫌うのは、エセ加工して本物に見せかけるそのさもしさである。変に取り繕ったりせず、機能的な素のままの単純形状で市場に出し、使い方はユーザーにゆだねる。もしもそんな潔さがサイディングにあったなら、少しは使ってみたい気もするのだが。

 たとえばビニルクロスである。この言葉自体が実に矛盾した意味を持つ言葉である。化学樹脂である「ビニル」と、有機繊維である「クロス」すなわち布をいっしょくたにしてしまったことに、そもそも無理がある。
 元来、壁に貼るクロスは、その言葉通り、布製品であった。コスト面などで紙に代行させるまでは許せる気がする。そもそも紙と布は同じ植物を原料とした仲間のようなものだ。共に自然に還る素材なので、環境にも優しい。だが、化学樹脂がクロスではちと無理がありはしないか。
 最近は通気性に配慮した製品もあるにはあるが、基本的には水分や空気を通さない化学樹脂である。そんな性質のものを、「クロス」と呼ぶこと自体に、強い抵抗を感じる。ご多分にもれず、こちらにも表面形状や模様を本物の布に模した製品が市場に溢れている。いっそのこと、「壁用ビニルシート」と潔く呼称を変えてはどうか。ダイオキシンを発生させる可能性のある塩ビ製品は論外としても、価格が安く、汚れには強いという特質は材料として活躍する場はまだまだあるはずだ。

 たとえばろうそく型の電球である。以前に短期間住んでいたアパートで、玄関ホールの照明にこれが使われていた。個人的に電球はやはり丸いものだと思っている。その形状が最も機能的で美しい。しかし、このアパートはドアのデザインひとつ、壁紙の模様ひとつとっても極めて悪趣味であり、その典型がこの照明だった。そもそも、賃貸アパートの照明にわざわざろうそく型の電球を使った訳が分からなかった。あるとすれば見せかけの豪華さで本質を取り繕うこと、それしかない。
 あるとき、この電球が切れた。普通の電球ではないので外して電器店にゆき、同じ物を買おうとした。だが、どこにもない。別の電球では口金が合わず、役に立たない。やむなく都心の大型店まで出向き、わざわざ問屋から取り寄せてもらった。価格は同程度の丸型電球と比べて、何倍も高かった。無駄の極致である。
 外国のドラマなどでも、豪華なシャンデリアなどにこのろうそく型電球が使われているのをときどき目にする。電気照明という文明の利器に、なぜいにしえのろうそくなどを模したいのかいまひとつ理解出来ないが、ろうそくの持つ独特のゆらめきと安らぎをせめて形だけでも味わいたい、というせつない庶民感情と、それに抜け目なくつけいる業者側の思惑とが一致するからなのだろう。しかし、私はこのろうそく型電球にわびしさこそ感ずるが、美しさや安らぎを感じたことはない。

 自分で設計したいまの住まいでは、これらのエセ部材はすべて排除した。外壁は機能的で丈夫なアルミ合金鉄板のナマコ板と本物の木材、内壁はクロスすら貼らない素地のままだし、電球はシンプルな形状のものばかりだ。みかけの豪華さは望むべくもないが、時と共ににじみ出る質素で機能的な美しさでは、高価な部材に一歩もひけをとらないと思っている。
 世にエセがはびこるのは、結局は表面だけの豪華さ、美しさを取り繕い、競いたがる末端のユーザーの根強い需要があるかに他ならず、その意味ではエセの天下はまだまだ続くと言わざるを得ない。