二〇〇〇・春夏乃章
つれづれに、そして気まぐれに語ってしまうのである。
なにせ『徒然雑記』なのだから。
幸せな手紙/'00.3
横浜に住む娘から手紙がきた。といっても紙に書いたものではなく、今風にインターネット経由のEメールである。
自活してからはや3年になる娘との連絡は、手紙でも電話でもFAXでもなく、すべてEメールということに気がつけばなっていた。我が家のメールBOXは私が管理しているから、彼女からの手紙は当然のごとく、まず私が最初に読むことになる。読み終えるとパソコンの画面が苦手な妻のために、プリントアウトして見せる。手紙はしばらく居間に「掲示」しておくから、気がむけば弟たちもそれを読む。こうして自然に家族全員が娘の消息や安否のたぐいを知る手筈になっている。「亜沙子(娘の名)から手紙きてる?」
仕事が終わった夜、パソコンに向かっている私をみつけると、決まって妻が私にかける言葉だ。20歳で家を離れ、大都会の片隅にひとり暮らす娘が、やはり気がかりでならないのだ。いつも電報のような文しか書いてよこさない娘の今度の手紙は、珍しく長い。プリントアウトしようと変換してみると、いつもの文字の大きさだとA4の紙に入り切らない。やむなく文字サイズを2ポイントほど下げ、なんとかA4に収めた。
私のノンフィクション大賞受賞への祝いやら、正月に帰省したときの写真の感想など、たわいもない内容のあと、「近況報告」とサブタイトルのついた手紙の後半部に、私の目は吸い寄せられた。新しく始めた趣味のこと、会社の仕事の様子、新プロジェクトでの奮闘振り…。思いつくままに書かれた文は少々飛んでしまっているが、娘の溌剌ぶりが文章のはしはしから伝わってくる。「仕事やプライベートでも好きなことがやれて、いま私はとても幸せです…」
手紙はそう結ばれていた。娘の言う「幸せ」が、モノやお金の充足ではないことは、文を読めば容易に推測できる。どうやら娘はいま、とても満ち足りた精神生活を送っているらしい。
幸せです、幸せです…、と思わず私は娘の手紙のその部分を口の中で繰り返してみた。パラサイトシングルやフリーターの例を持ち出すまでもなく、生き方に迷い、周囲に依存し、「癒し」とやらをひたすら求め続けるだけの若者が街に溢れるなか、「幸せです」と臆面もなく親に語れる娘が、少しばかりまぶしくもあり、うらやましくもあり、そして誇らしくも思った。
自分で育つ/'00.3
娘の話が続く。跳ねっ返りで思春期には何かと親をてこずらせた娘だったが、 20歳で家を離れる前、「普通の家の子では経験できないことをいろいろやってくれて有り難いと思ってます」と、まるで嫁入り前の娘が父親に告げる別れの言葉のように真顔で私に言ってのけ、ウェットな私をホロリとさせたものだった。そのとき、「う〜ん、我が子育ても、まずまずだったんじゃないか?」としみじみ思ったりもした。
でもなあ、と三人の子育てを事実上終えてみて思う。親が子供にしてやれることって、いったいどれほどあるのだろう、と。「人間(子供)は環境に大きく影響されるのよ。『氏より育ち』『親の背中を見て子は育つ』って言うじゃない」
「いやいや、やはりDNAすなわち持って生まれた遺伝形質には勝てないね。『三つ子の魂百まで』と言うじゃないか」どちらももっともなご意見で、そういう部分もあるのかもしれない。私自身も若かりしころはいずれの考え方にも感化されたものだ。でもいまは違う。いろいろやってみて、それなりに生きてみて思う。結局人間ってのは自分で育っていくものじゃないのか?親の背中を見せるくらいで済むほど子育ては甘くはないだろうし、DNAで人生が片づけられるのなら、誰も努力などしはしない。
DNAも環境もそれなりに人に影響を与えるとは思うけれど、無理を承知で数字に表してみれば、合わせてもせいぜい50%がいいところ。残りの50%、いやおそらくそれよりはずっと多くの要素が、自分の力で切り開き、作り上げてゆけるものだと思う。「この子の〜の才能は私の血だ」
私の両親もよくこんなふうにDNAの手柄の取り合いを子供の前で繰り広げていたものだ。子供の陰の努力にはたいして目をむけず、都合のいいことだけは自分の血のせいにされてしまう子供もたまったものではないが、百歩譲ってその理論が正しいとしても、そのDNAとて結局ご先祖さまから受け継いだものだから、たいした自慢にもなりはしない。
「親として子供には出きるだけのことをしてやる」
そう言って様々な習い事、お稽古事に血道をあげ、十分に物をあてがってやる親も世間には少なくないが、それが子供の真の幸せにつながる確率はいったいどれほどのものなのか、私には分からない。
実は我が娘はかねてから「人間環境論者」であり、もしも我が家に十分なお金があり、望む習い事やお稽古事を十分に受けさせてもらい、十分な広さの個室をあてがってもらえば、もっと違った人生になっていたに違いない、と私に恨みがましい愚痴をこぼした一時期もかってはあった。
その論理からすれば、このご時世にそれなりの企業に就職し、それなりに充実した人生を送っているいまの現実は、多分に親が整えた数々の環境が影響していると感謝したいのかもしれない。だからと言って私は自分が娘にしてやったことに、胸を張る気などさらさらない。金はなくとも人とは違った経験をさせようと、奔走した時期も確かにあった。自分の若き日にたどった道を、飽きることなく子供たちに語った日々もあった。そんなことが仮に子供の人間形成に少しばかり役立ったとしても、ごくわずかの部分に過ぎないだろう。そうやって親が与えた小さなヒントを生かすも殺すも、結局は本人次第なのだ。
私には三人の子供がいるが、同じように育てたつもりでも、三人それぞれ生き方、考え方はガラリ違う。もちろん幸せの感じ方も違う。「自分の育ち方」が違うからである。「結局お前は自分の力で幸せを手に入れたのさ」
モニタの文字にひとりむかって、私はそう娘に語りかけた。
続ける・断ち切る/'00.4
ついこの前結婚したばかりと思っていたら、あっと言う間に銀婚式を迎えてしまった。この「ついこの前」というフレーズは私がしばしば好んで用いるフレーズで、たとえば、「ついこの前おせち料理を食べたと思ってたら、はや5月か」とか、
「ついこの前会社を辞めたと思ってたら、もう20年か」とか、はたまた
「ついこの前生まれたと思ってたら、はや50歳か」などといったふうに、日常会話の中でしばしば登場するのである。最初のふたつあたりはともかく、最後の「ついこの前生まれた…」に至るとさすがの能天気な妻も、「私の人生はそんなに軽くなかったわ」とむきになって反論してくる。その様子が可笑しくって忘れたころには、からかい半分でついまた使ってしまうのだが、まあ、そんなこんなのドタバタコンビで、25年間があっと言う間に過ぎ去ったと言えようか。
どんな夫婦でも波風ひとつたてず、平穏無事に過ぎ行くことなど稀と思うが、ご多分にもれず私たち夫婦にとってもこの25年は決して平坦なものではなかった。一触即発の危機は幾度もあったが、なんとか乗り越えてきた。ここらあたりの顛末は、例によってこのページにある連載『僕の脱サラ日誌』にも詳しく書かれているので省略する。自分の人生を振り返ってみるに、「続けること」と「断ち切ること」は、ほぼ同じような重さで問い詰め、追い込んでやってきたように思う。そして一見相反する内容に思えるこのふたつの事柄は、私にとって両刃の剣、メビウスの輪のように裏表でつながっている。
結婚を例にとると、普段のなにげない生活の中でも、常に「断ち切ること」すなわち離婚というものを視野の片隅に入れながらやってきた。だからといって針のむしろのような味気ない生活を続けてきたという意味ではもちろんなく、誰しもが自分の「生」というものの中に常に「死」がひっそりと介在しているという事実にどこか似ていて、幸せそのものと思われる毎日の中にも、うっかりするといつどこでほころびが生じるかもしれない、という軽い緊張感のようなものを漂わせ、意識しながら暮らしていく、というような意味なのです。
こうしたまるで両極にあるものを意識するのは私にとってとても重要なことで、こうすることにより、自分の視野を常に広く保つことが出来、結果的に普通の姿勢では見えなかったものまでくっきり見えてくることはよくあることなのだった。
自我の強い私たち夫婦、いや私が曲がりなりにも25年間もなんとか「続けて」これたのは、こうした生きる知恵があったからに他ならない。どういうわけか若きころより、友人知人のたぐいから人生相談のたぐいを数多く受けてきた。ちょっとした片想いの悩みから始まり、進路相談、転職の相談、深刻な恋愛相談はもちろん、最近では熟年離婚の相談まで、数え上げるときりがない。
こうしたとき、私の与えるヒントにはひとつの決まったパターンがある。そう、まずは「断ち切ること」を相手に勧めるのである。
仮に「会社を辞めたいのだが…」と相談されたら、「おお、そいつはいい考えだ。こんな会社はすぐにおさらばするべきだ」と、次の会社なり、独立の方法なりを具体的に考えてやる。決して「もう少し辛抱してみろよ」などとありきたりに押しとどめたりはしない。
もしも「あの人と別れたい…」などと打ち明けられたら、待ってましたとばかりに、「そうだよな、あんな奴と何年も続けていられるほうがおかしい。奴が出ていかないのなら、お前からとっとと出ていけよ」と、けしかける。決して「相手にもいいところがあるはずだから、考え直せよ」などと甘い言葉をかけたりしない。人間とは不思議なもので、相談するときは心のどこかに(引き留めて欲しい…)という甘く、保守的な願望を宿しているものだ。そんな相手の思惑にまんまと引き込まれては、ねじれた糸は少しもほぐれない。ここは一刀両断、問題をいったん根っこからバッサリ断ち切ってみせるのである。
たいていの場合、相談相手の思わぬカウンター攻撃に相手はたじろぎ、一時的にうろたえはするものの、もろもろの膿が眼前にすっかりさらけ出されることで自分の真の願いに気づき、結局は問題の早期解決につながるのである。
どうやら「断ち切ること」いや、「断ち切ってみること」は、現代人すべてにあてはまる大切なキーワードのようだ。
自由の値段/'00.4
以前、「自由の値段」というタイトルのエッセイが家庭雑誌に掲載されたことがある。
仕事が切れると雑文を書き、投稿しては小遣い銭を稼ぎ出すのは、長年続く私の常套手段なのだが、このときの文は我ながらとても気にいっていて、十数年を経たいまでも決して色あせてなく、むしろ混沌としたいまの時代にこそ、よりふさわしい内容であるとも言え、掲載した出版社の版権もとうに切れていると思われるので、ここにその全文の再掲載を試みる。
「これ見て」と、妻が読みかけの新聞を差し出す。そこには「昭和58年の平均所得、一世帯450万」と大きな見出し。思わず「エーッ」と私。「ねェ」と笑う妻。
10年勤めた会社をエイッと辞めてはや3年。妻と二人で始めた小さなデザイン事務所もなんとか軌道にのり、まあ、食べるだけはなんとかなっているものの、○ビにもうひとつマルがつくと自他共に認める我が家では、想像もつかないような数字だ。
折しも私はコタツの上で確定申告の書類作りに悪戦苦闘中。最も収入の良かった年の資料を調べてみても、平均所得とやらには遠く及ばず、その差は百数十万。
「いったいこの差はなんなんだ?」
私は大きなため息をつく。「お父さん、あなたには自由があるじゃない」
妻が横からなぐさめの言葉。「そうか、自由か」私は少し思い直す。
確かに忙しい時は徹夜になることもあるけれど、逆に暇な時には朝寝するのも勝手。好きな日曜大工に汗を流すのも結構。もちろん通勤地獄とも無縁。なにより、目の上のタンコブの上司ドノが全くいない快適さ、仕事をすべて自分で判断し、組み立ててゆけるすばらしさは、サラリーマン時代には決して得られなかったものだ。この快適な「自由の値段」が百数十万というわけか。なるほど…。
私はさらに考えた。さて、これはいったい高すぎるのだろうか、それとも、むしろ安すぎるのか?私の問いに妻はさらりと答えた。「何言ってるのよ、自由に値段なんかつけられっこないじゃないの」
(日経ホーム出版社『パーソナル』1985.6月号より転載)
妻をダシに使い、会話文をキャッチボールのようにして構成するのは私が得意とする文章手法だが、このころすでに原形が確立していたようだ。ちなみに文中の「○ビ」という言葉はいまは死語と化した当時の流行語である。
15年の時を経たいま、文中の具体的な数字をもし読み替えるとすれば、平均所得とやらは500万円台に乗っているはずである。比べて私の収入のほうはどうか?バブルの一時期は別にして、不況の嵐が一向に吹き止む気配を見せないここ数年に限れば、15年前とさほど変わらぬ数字である。
つまりは、この15年の間に私にとっての「自由の値段」はますます値上がりしてしまったとも言え、こと稼ぐ、儲けるということに関してはまるでふがいなく、才気のない自分にふと気づき、「いったいオイラはどうなっちゃってるんだろう?」と、思わず途方に暮れそうになる。
(誤解なきよう書いておきますが、私は独立以来、収入のごまかしは一切やったことがありません。→いざローンを組むとき、あわてふためかないですむし、後ろめたさに苛まれることもありません)しかしだよ、と強がりではなく私は言いたい。海外旅行には無縁、外食など年に数度、服はすべてバーゲン品、散髪は家族全員自前で処理、車は12年前のオンボロライトバンのまま、等など、世間並みの生活は一切出来ないけれど、その反面、有り余る「自由な時間」を使った趣味実益ざんまい、手作りの暮らしぶりは、私にとってこのうえなく豊かで光に満ちている。
結局のところ、たとえ自分の「自由の値段」はいかほどになろうとも、私はとりあえず食べてゆける以外の稼ぎを今後もしないだろし、余分な金を稼ぎ出すことには相も変わらず無頓着であろうと漠然と思ってしまうのだ。
ザンパノ/'00.7
我が家、いや私たち夫婦には二人の間だけに通ずる、ある特定の意味を持つ言葉、会話のたぐいが割に多い。最近、二人の間でもっぱら飛び交っているのが「ザンパノ」なのである。使用例を書こう。
「ねェねェ、もうひとつダイヤの指輪を買ってよぉ」
「毎日のメシ代にも事欠いてるつぅのに、なぁ〜にがダイヤだ、このザンパノ!」
(妻の名誉のために書き添えると、この会話はあくまで例であり、事実とは著しく異なる)
「わるいんだけど、草むしりで出たザンパノを庭にまとめてあるから、次のゴミの日に出しておいてくれない?」
「ホイきた」
(この会話は限りなく実話に近い)このほかにも、バックで思い切り車庫にぶつけ、大損害をもたらした息子に、
「どぉこを見て運転してるんだよ、このザンパノ息子!」などと怒鳴ったりもする。
カンのいい方はすでに気づかれただろう。簡単に言うと「 バカタレ」に代表される、ある種の侮蔑的意味と、「ゴミ、芥」の意味のふたつを含んだ、便利この上ない言葉なのだ。この数カ月、私も妻も好んでこの言葉を使っている。意味のよく理解出来ない二人の息子は、私たちが使うたびにけげんな顔を見せるが、かまっちゃいない。
この言葉、辞書には当然載ってないし、ニューヨークで仕入れてきたわけでももちろんない。ではいったい語源は何か?映画に詳しい方なら、またまた鋭く気づかれたかもしれない。そう、あのイタリア映画の名作「道」に登場する大道芸人の大男の名前が「ザンパノ」なのである。
(余談だが、私はフランス映画とイタリア映画の字幕ものを好んで観る)映画好きの妻に感化され、BS放送の映画を見るようになったのは、ここ10年くらいのことだ。「道」もそんな中のひとつだったが、正直言って見る前は何の知識もなく、それ程の興味もなかった。「ナバロンの要塞」で名演技を見せてくれたアンソニークインの名前に引かれ、チャンネルを合わせてみると、モノクロの地味な作りながら、ストーリーの面白さにぐいぐい引きつけられた。
ジェルソミーナという貧しい家の娘が、金と引き換えに大道芸人のザンパノに身売り同然に引き取られる。ザンパノの芸は胸に巻いた鉄の鎖を深呼吸で一息に切るという荒芸だ。
旅を続けるうち、娘は次第に男に惹かれてゆく。だが、男はその純な愛に応えようとせず、娘をただ奴隷のように邪険に扱う。(ちなみに、娘の器量は非常に悪い)それでも食べるため、男に気に入られるために娘はトランペットを覚え、道化役としてザンパノの片腕となってけなげに働く。
あるとき、ほんの行き掛りで男は旅芸人仲間の男を殺してしまう。死体は事故を装って男が始末してしまうが、その一部始終を目撃した娘は、その日以来気がふれてしまう。お荷物になった娘の処置に困った男は、眠ったすきに娘を置き去りにし、ひとり旅立つ。数年後、娘を置き去りにした村を再び訪れた男。それとなく村を探るが、娘の行方は知れない。通りかかったある家の前で、聞き覚えのあるメロディの鼻歌を歌う若い女。それはジェルソミーナの得意としたトランペットの曲だった。
「その曲をどこで覚えた?!」せき込んで女を詰問する男。男はジェルソミーナの死を知る。その夜、酒場で荒れ狂う男。泥酔した男がたどりついた夜の海岸。波打ち際にうつぶし、号泣する男。男は娘が自分にとってかけがえのないものだったことにそのとき気づくが、時は還らない。そこで映画は終わる。
真実の愛、本当の幸せをテーマにしている点では日本映画の名作「幸福の黄色いハンカチ」と同じだが、ラストが破壊的に終わっている点が違う。だが、フランス映画やイタリア映画にしばしば見られる観客に媚びない、この不条理な終わり方が個人的には好きだ。なぜなら、現実はしばしば不条理で救いのないものだからである。その現実から目をそむけず、凝視していたい。
ここ10年くらいの間に3〜4度は放送されていると思うが、その都度必ず見る。見るたびに美しくはかない物語に、強く心を揺さぶられ、涙するのだ。
「ザンパノ」という言葉自体にも男の人生を象徴する強い響きがあるが、私たちが使うときには、「禍根をあとに残すな」という警句が含まれている。そしていつしか「ザンパノ」は私たち夫婦の間だけに通ずる、大切な合い言葉となったのだ。
すい坊/'00.7
名前ネタが続く。
最近、妻を呼ぶときはもっぱら「すい坊」である。ちなみに妻の名は「すい子」というかぐわしき名なのだが、本人はこの名をあまり気に入っていなかったようだ。問題はどうやらこの名がつけられた経緯にあるらしい。
5人姉妹の4番目という、割といいかげんな立場に生まれた妻は、もう女の子には辟易していた父親からは名づけの権利をあっさり放棄され、「自分の仲のいい友人に同じ名の人がいるから」という母親の安直な考えから、本人の好むと好まざるとにかかわらず、こう名づけられた。
物心ついてからこのことを聞かされた妻は、(随分いい加減な理由で名づけたものだ)と、親に反感を感じたという。時代がかった響きも好きになれなかったらしい。
子供の数が多かった昔は、こうした安易な名づけは決して珍しくはなかったはずだが、ともかく本人はそう感じたというのだから、親というもの、やはり子供の名づけにはある程度こだわったほうがいい。時を経ても妻の自分の名前に対するコンプレックスはぬぐいきれず、小学校時代は独断で学校に「末子」と改名して届けを出し、いまでも当時の通信簿には「末子」の名が証拠として残っているから驚く。
結婚後、そのことを知った私があるとき、
「いっそ改名したらどう?『推子』か『彗子』、いっそ小学校のときの『末子』でもいい。確か10年か20年使い続けると戸籍の変更が認められるはずだよ」と水をむけると、「う〜ん、やっぱりいまのままでいいわ」とあっさり拒否され、結婚と出産という女としての大きなイベントをこなしたことにより、ようやく妻もあるがままの自分を受け入れる心境になったのかと、妙に感慨を深くしたものだった。恋人時代と結婚直後の私が妻を呼ぶときは、「君」もしくは「あなた」。子供がゾロゾロ生まれてからはお決まりのように「母さん」と呼び名は変わっていったが、子育ても一段落したある日、仕事の打合せの都合でどうしても早く起きなくてはいけないことがあり、すでに寝てしまった妻への伝言として台所のカウンターの上に、
「すいちゃんへ、明朝は必ず8時に起こしてくだされ!/Tom」
と何気なく書き置きしたところ、翌朝妻は上機嫌であり、初めて私にそんなふうに呼ばれたことをいたく気に入っている様子だった。(ちなみに、妻の姉妹は皆そう呼んでいる)以来、私が妻を呼ぶときはある種の親しみと愛情ををこめて「すいちゃん」、最近では「すい坊」でもっぱら通している。
「坊」は「うり坊」(イノシシの子供)にも通ずる可愛らしい響きがあり、私は気に入っているが、妻もこの呼び方に別段拒否反応はなく、こうして私の妻に対する呼び名は、そのときそれぞれに市民権を確保している。夫婦の互いの呼び方は、年月とともに変化してゆくのが普通と思う。とうに子育ては終わってしまった白髪の老夫婦がいつまでも「父さん」「母さん」と互いに呼びあうのは何だか不自然だ。
しかし、そんなふうにいつまでも人生に夢や理想を思い描いているのはどうやら私のほうだけらしく、妻は子供たちが外出してしまって二人きりのときでも、相も変わらず「父さん、父さん」と甘えるように私を呼び、「俺はすい坊の父さんじゃないぜ」とその都度反発する言葉にも、何となく迫力がない自分を感じてしまうのである。
しゃべり/'00.8
5月の末あたりから、延々歯医者にかかっている。いつも仕事のたてこむ春先には必ずといっていいほど、歯茎がやられる。どうも先天的に歯槽膿漏の質らしく、疲労の蓄積がいつも痛みの引き金になる。
今年も仕事が一段落したGW過ぎにそれはやってきた。じくじく脳天に突き抜けるような特有の傷みに数日間耐えたが、我慢ならずに歯科の門をたたいた。
引っ越して困るのは、かかりつけの医者を一から開拓しなくてはならないことだ。今度の治療は長引きそうな予感がしたので、ハローページを繰って慎重に歯科を探した。白羽の矢がたったのは、車で5〜6分のところにある私大の付属病院である。長年の経験で、町医者には漠然とした不信感があり、近所にわんさとある個人病院には全く食指が動かなかった。
初日は特に痛みのない箇所も含め、さまざまな検査が1時間以上もかけて入念に行われた。数日たっての医者の弁はこうだった。「菊地さんはかなりの重症患者です。痛みの自覚のある箇所はもちろん、それ以外の箇所もいつ爆発してもおかしくない状態です。いわば、口の中にバクダンを抱えているようなもので…」
ちょっと待ってください。思わず気色ばんで私は医者の言葉をさえぎった。私の歯のほとんどは3年前に16万もかけて治療したんです。そのとき、医者は確か「10年は持ちますよ」と保証してくれたんです…。
「でも、現実にこうして根っこの部分が炎症を起こしている。ほら、ここもここも黒くなっていて、爆発寸前です」
医者が指し示すレントゲンには、確かに黒い影が映っている。私はまだ納得がいかなかった。「結局、医者が10年もつと言っても、現実には3年で駄目になってしまうこともあるってことですか。すると、もしここですべてをやり直したとして、また3年で駄目になってしまう可能性もあるというわけですね」
大学付属病院ということで、その日はインターンらしき若い医者が担当だった。医者は困った顔で、しかしていねいな物腰は決して失うことなく、言葉を続けた。「その可能性はゼロとは言いません。でも、もともと根っこの治療ってのは難しいものなんです。あなたのかかった医者も決してその時点で嘘を言ったとは思えません。もしおまかせいただけるなら、最善の治療はさせていただきますが、最終的な選択は患者さんにおまかせします」
自分が随分意地悪でわがままな患者になり始めていることに私は気づいた。しばらく考えたあと、結局私は「ではおまかせします」と頭を下げた。
それから数カ月が過ぎた。歯の治療は延々と続いている。その大半は治療が面倒な割に診療ポイントの低い(つまり、治療費の安い)歯の根っこの治療である。時には1本の歯に4〜5回もの治療を費やす。
「ここの治療に手を抜くと、結局また再発するんです」と、医者は決して妥協しない。一時は互いに不信感と嫌悪感に苛まれた患者と医者との関係も、からんだ糸がゆっくりとほぐれるように改善されている。
初夏のころ、ある有能な歯科衛生師とかわしたとても印象的な会話がある。
「歯医者や歯科衛生師の資質ってあるんですか?」
「やっぱり手先が器用ってことが第一じゃないですか」
「図工が得意とか?」
「そうそう、数学とかはたいしたことなくてもいいんですよ。あとはそう、『しゃべり』かな…」
「しゃべり?」
「そう、患者とのコミュニケーション。これをおろそかにすると、結局いい治療は出来ません」
「それって、『インフォームドコンセント』っていう奴ですね」
「菊地さん、良く知ってるじゃないですか!」
確かに、ここの医者や衛生師のしゃべりなくして私の医療に対する信頼回復はなかっただろう。この病院を選択して良かったと、つくづく私は思った。
ローソクだせ!/'00.8
北海道の七夕には、実に不思議な習慣がある。月遅れの七夕である八月七日の夕方、それはやってくる。おおむね小学生以下の子供たちが徒党を組んで町内を練り歩き、「ローソクだせだせよ、ださぬとカッチャク(引っかく)ぞ、おまけに食いつくぞ」
とぶっそうな歌を家の玄関先で歌い始める。すると家の中から心得た大人たちが現れ、「ハイハイごくろうさま」などとねぎらいの言葉とともに、駄菓子、ときにはお小遣いなどを子供たちに配るというものだ。
お化けの仮装をして家々を回り、キャンデーなどを貰って歩くハロウィンにどこか似ているこの不思議な習慣は、その名もずばり「ローソクだせ!」と呼ばれているが、そのルーツは定かではない。
かって会津地方(福島)にあった習慣で、移住者が北海道に持ち込んだという有力な説があったが、先日NHKのクイズ番組「日本人の質問」で、青森のねぶた祭りの「らっせーらっせー」というかけ声は「ローソクだせ!」がなまったものである、などとやっていたので、案外このへんがルーツなのかもしれない。
ともかく、この不可思議な習慣は私の幼少の頃から間違いなくあった。もっとも、誰もが貧しかったそのころ、家々から配られるのはお菓子や現金ではなく、言葉通りのローソク、それもごく細いものが大半だった。日本人の中に中流意識が育ち始めたころあたりから、いつしかそれはお菓子とお金に変わり果てたのである。この「ローソクだせ!」には、さまざまな思い出がある。厳格な教育方針を貫いた私の母は、「あれは乞食のやることだ」と、「ローソクだせ!」への参加を決して許さなかった。毎年八月七日のラジオ体操は私にとって地獄で、いつも寂しく切ない思いで友人の誘いを断ったものだった。理由はそのものずばりで、「家で行ってはいけないと言うから」である。こうした場面でその場逃れの嘘はつかなかったし、友人はそれを深く追及することもしなかった。その家その家にはさまざまな事情があり、子供には介入出来ない世界があるということを、当時の子供は本能的に悟っていたのだと思う。
時は流れて私は父親になり、脱サラで北海道にUターンし、そして子供たちが「ローソクだせ!」に参加する年頃になった。東京生まれの妻はこの習慣を知らなかったが、普段からよく話していたので、すでに夫婦で対応の準備は出来ている。と書くと大げさだが、行きたい子には自由に行かせたというのが結論だった。
社会的不道徳とは言いきれない風習を、親の一言で結論を出してしまわず、まずは子供に経験させてみてその上で子供自身にその是非を判断させようと考えたのだ。結果はこうだった。長女、小5のときだけ回る。長男、小4小5と回る。二男、誘われたが自分で断った。いずれの場合も親は一切関知していない。
「『ローソクだせ!』に誘われたんだけど…」
「行きたいの?」
「うん…」
「じゃあ行ってくれば?」
「うん!」
ってな感じである。
さらに時は流れ、私たちは念願の一戸建てを手にいれた。マンション時代は無縁だった「ローソクだせ!」のお菓子準備も、一戸建てだと知らぬ顔も出来ない。(マンションにはなぜか「ローソクだせ!」は回ってこない)しかも、今年は町内会の役員など引き受けてしまった。子供たちは間違いなく我が家の門戸に立つだろう。いったいどれくらいの値段の、どれくらいの量のお菓子を準備したらいいのか…。
あれこれ思い悩んでいると、折りよく町内会の回覧板が回ってきた。
「本年度の子供七夕祭りの企画として『ローソクだせ!』を執り行いますので、各家庭でお菓子などご準備ください」とある。はてさて、「ローソクだせ!」も随分と社会権を得たものだと感心していると、「これじゃお菓子の袋をいくつ準備すればいいのか分からない」と妻が異議をとなえる。「この町内会の子供の数だと、2〜3袋で充分じゃないか?」となだめたが、私にも回覧の内容がいまひとつふに落ちない。
一番気になったのは、「集めたお菓子はひとまとめにし、女性部の役員が『平等に』子供たちに分配します」の下りだった。本来、子供たちの自由意思で執り行われてきたはずの行事に大人たちが関与すること自体にも問題があるのに、加えてこの的外れの平等意識である。こんなことで子供たちに『平等』を強いて、いったいなんの得策があるのやら…。何やかや言いつつも、八月七日はぬかりなくやってきた。町内から回覧に対して問い合わせが殺到したとみえ、当日の朝に町内会長名の「緊急回覧」が再度回ってくる。
「回る子供たちは1〜2グループで流動的です。お菓子の数や袋も、多少の変動に対応できるようご準備ください」ときた。やれやれ…。
前日に妻とふたりで安くてきれいでかさの張る駄菓子の袋を3つ準備し、大人たちに滞りなくレールを敷かれた子供たちが、 いったいどんな顔をして門戸を叩くのか、興味津々でいまや遅しと待ちかまえた。しかし、折悪しく緊急の仕事の呼び出し。お気軽なその日暮らしの自由業者といえど、泣く子とクライアントには勝てない。まさか「今晩は『ローソクだせ!』 がありますんで…」と断るわけにもゆかぬ。あとの首尾を妻にまかせ、渋々打ち合わせへと出向いた。
帰宅後に妻から聞いた話によれば、結局子供たちのグループはひとつ。6〜7人の小学生の後ろには、乳母車を押す数人の「引率」のお母さんがいたとか…。ううむ、甘やかしもここまできたか。さもありなん。
しかも、インタホンを鳴らした子供の代表者は、歌も歌わずにいきなり「お菓子くださ〜い」と言ってのけたという。もちろんこれは重大なるルール違反で、行列はインタホンなど鳴らさず、家人がドアを開けるまで大声で例の強迫めいた歌を歌い続けなければならないのだ。(実際には、3回くらい歌ってドアの開かない家は脈なしとあきらめる)「で、どうしたの?」と妻に尋ねると、「もちろん歌ってもらったわよ。『あら、お菓子の前に何か歌うんじゃなかったけ?』って言ってね」
よしよし、と私は満足げにうなずいた。どんなことにも仁義とか筋ってものがある。それがたとえ子供の遊び事だったとしても。思えばこの「ローソクだせ! 」の不可思議な因習にしても、それなりの意味があったことにいまになって気づく。親に「行くな」と言われてほろ苦い思いをかみしめたことしかり。我が家の長男のように、他人の家から意味もなくお菓子やお金をちょうだいすることに罪悪感を覚え、自ら止めてしまった子もいるし、二男のように回ること自体が嫌で、友だちの誘いを自ら断ってしまった子だっているのだ。その子の要領の良さで、貰うお菓子やお金の量も当然違ってくるだろう。回る家によっては、お菓子の準備がなかったりもするだろう。ドアの開かない家だってあるに違いない。
こうやってさまざまな思いを噛みしめ、繰り返しながら世の中のしくみを知り、人は少しずつ大人になってゆくのではないか。大人たちの書いたシナリオを、ただ言われるままに演ずるだけの子供たちが得るものに、果たしてどれほどのものがあるのだろう。