街角100ライブ


012 百合が原 "森の七つの椅子" /2009.7.9



「インスタレーション型のライブをやれないだろうか?」と、ふと思った。

 インスタレーションとは美術、デザインのジャンルで「場所や空間全体を作品として体験させる芸術」ということ。鑑賞者は遠く離れた場所からでなく、アート作品そのものに存在しながら、空間を実体験するものだ。
 作品は展示が終わると解体撤去され、後世に残ることはない。写真や映像で残ったとしても、それは決して「体験」したものではないから、現場に足を運んで実感したものとはかけ離れており、作品が真に存続するのは、体験した人の記憶の中だけである。

 この概念を音楽に持ち込むとするなら、CDやDVDで見聞きする音楽は疑似体験に過ぎないから、インスタレーション音楽からは程遠い。ライブが最もそれに近いが、聴き手と歌い手との間に乖離感があると、それもまたインスタレーション音楽からは遠のく。
 歌い手と聴き手の距離感が物理的にも感覚的にも近いことが条件で、さまざまな制約を取り去り、その音楽空間を通して歌い手と聴き手とが一体となるのが理想。数年前からあれこれ企画し、実行しつつあるイベントは、ほぼこの「インスタレーション音楽」を目指していることに最近気づいた。

 路上ミュージシャンも路上で歌っているうちは、この「インスタレーション音楽」に非常に近い感覚だが、いざ売れ出すと次第に聴き手との空間共有感は遠のいていくだろう。それが商業主義、つまりはカネモウケの悲しき運命なのだ。

 実はこの「インスタレーション型ライブ」に近いものは、2年前にモエレ沼公園で仕掛けたことがある。公園内に合計5カ所の「ステージ」を自分で設定し、その場に相応しい歌を数曲歌うという趣向である。
 立会人は妻とその友人二人。合計4人で2時間近くかけて公園をゆっくり移動しながら歌ったが、記憶に残るライブであった。

 今回、場所を近隣の大規模公園に変え、夏の青空の下を移動しつつ、再び歌ってみようと思った。
 前回と決定的に違っているのは、立会人(引率?)の類いは一切引き連れず、完全な一人での孤独スタイルを貫くということ。つまり、歌い手が一人であることは同じだが、聴き手は限りなくゼロか、単なる通りすがりの見知らぬ人々である点。
 真の「インスタレーション音楽」を目指すなら、歌い手の周囲に「お取り巻き」の類いがいないほうが、見知らぬ聴き手としては同化しやすいのでは?と考えたのだ。

 妻や友人の付き添いは、路上系のライブに限らずとも大変心強く、ありがたいものだが、時にそれが歌い手としての「甘さ」につながりかねない。究極の孤独を突き詰めることで、それまでとは違った何かが見えてくるのでは…?という期待も一方であった。

 思い立ってから実施までの時間は、およそ2週間ほどか。2時間を越すソロライブの準備期間としてはかなり短いほうだが、過去の経験では長過ぎるよりも短いほうがかえって集中度が増し、成功する確率は高まる。
 6月下旬には準備を始め、この時点ですでにタイトルは《森の七つの椅子》と心に決めていた。
 深い森に囲まれた公園の中に点在する7つの椅子(ベンチ)をステージに見立て、その場所に相応しい歌を2曲だけ歌い、終わったら次のステージへと移動する、という趣向だ。

 これまで、ほとんどのライブは立って歌ってきたが、今年になってじょじょに座るスタイルへと変えつつある。立って歌うと声が出やすく、「さあ、歌うぞ」と自分を奮い立たせる効果もある。聴き手に対するアピール度も高い。
 反面、聴き手が見え過ぎて歌に差しさわる一面もあった。立って歌うのが聴き手に対する強いアピールなら、座って歌うのは自己との対峙により近づくはずで、姿勢によって歌への無用の力みを取り去るねらいがあった。公園の添景として自然にとけ込む自分を意識すると、こうならざるを得ないのだ。
 座って歌うには椅子が必須。そこで、椅子が数多く配置されている近隣の「百合が原公園」にターゲットを絞り、計画を進めた。

 当初は実施を7月中旬の週末夕方と考えていた。ところが平日の快晴の日に会場の下調査に出向くと、予想よりもはるかに人出が多い。聴き手になる可能性が高まる多数の人出は、歌い手としては本来歓迎すべきことだが、あまりに人が多過ぎるのは、ライブの主旨から外れる。あくまでヒッソリとやりたかった。夕方にやるのも、人が帰り始める時間をねらってのことだ。
 そこで、急きょ実施を平日に変更した。「自分を独りに追い込んで、存在を確認する」というねらいが根底にあったので、聴き手はいてもいなくてもよい。
 天気予報で確かめると、その週の木曜の気温が最も高く、晴れの予報である。密かにその日を実行日と決めた。

 当日、予報通り晴れた。仕事をしながら、持参するものを最終チェック。ステージとなる百合が原公園には、車で5分ほどで着く。妻には当日まで全く話してなかったが、友人を連れて職場から戻った妻は、計画を知ると、「一緒に行こうか?」と言う。
 好意だけありがたくいただき、せっかくだから友だちとゆっくり話してなさいよ、と言い残し、一人で家を出た。

 現地到着が午後4時10分。まずは三脚にデジカメを取付け、公園を歩く自分の後姿をセルフタイマーで撮影する。今回のライブは記録もすべて自分一人の手でやる気でいたので、かなりの手間暇がかかるが、それらもぜんぶひっくるめて「インスタレーション・ライブ」なのである。

 2日前に目星をつけておいたいくつかのステージ候補のうち、第1ステージとなる《木漏れ日の森》からスタート。ここでもまずはカメラの位置を決め、セルフタイマーで撮影しつつ、そのまま1曲目を演奏。終了後、カメラで映像を確認し、スイッチを切って再び椅子に戻り、2曲目を演奏、という手順をとった。


第1ステージ・木漏れ日の森

 第1ステージの場所は、公園の中央にある広場の東に位置する森である。高い木々の間から、ゆらゆらと陽光が地面に落ちる心地よい空間だ。光の加減で、まるで中世ヨーロッパの絵画のように見えはしないか。
 ここで以下の2曲を歌った。選曲に関しては解説無用で、まさにこの場所で歌うためにあるような曲たちだった。


「にぎやかな木々」
「森の記憶」(オリジナル)


 いざ歌い始めると、いまだかって経験したことのないイメージの高揚を感じた。 「孤独の極致を自分に課す」という命題がその大きな要因であることは疑いもない。
 自分の歌声が、何の制約も反響もなく、大地の底から空の彼方に吸い込まれてゆく。しばし忘れていた開放感だった。自分が宇宙の一部であるという事実を、素直に確かめられた摩訶不思議な瞬間である。


第2ステージ・岸辺の小径

 第2ステージは当初、広場の南にある小高い丘の上にある花壇でやる気でいた。星形の花壇の中央を囲むように椅子が8脚並んでいて、気持ちよく歌えそうだった。

 だが、ギターを抱えて移動してみると、そこは大勢の人であふれていた。陽当たりがよく、花が美しく咲いていて、見晴らしもよい。当然といえば当然で、ひとつだけ空いていた椅子に場所をとり、歌ってしまおうかと一瞬迷ったが、すぐにやめた。
 先にふれたように、多過ぎる人はライブの主旨から外れる恐れがある。そこで、予備の候補としてチェックしてあった、池のほとりの椅子に移動してみると、そこは別世界のように静まり返っている。第2ステージとしては申し分なく、そこで以下の2曲を歌った。


「夏の朝」
「独 り」(オリジナル、作詞:まりりん)


 第1ステージでもそうだったが、歌う前に辺りを見回して誰もいないことを確かめていても、いざ歌い始めると、不思議にどこからか人影が近づく。

 数年前の夏、同じこの公園を散策していたとき、森の奥からハーモニカの音色が凛と響いてくるのを耳にしたことがある。曲は懐かしい歌ばかりで、年配の方が一人ひっそりと吹いているらしかった。
 音を探るように近づくと、ハーモニカは止む。遠ざかると再びハーモニカは鳴り出す。まるで夏のセミのようだった。悟られないよう、足音を忍ばせて再度近づき、木々の間に隠れて静かに耳を傾けた。至福の時間で、実はそのときの感動こそが、今回のライブ企画のヒントになっている。

 どうやら、同じ現象がいま私の周囲で起きているらしい。歌声を耳にした通りすがりの誰かが、その声を確かめに近づいてくるのだ。
 こんなときはどうすればよいか?簡単だ。歌うのをためらわず、ただ淡々と天に向かって歌えばよい。聴き手はきっとそれで満足する。数年前の私のように。ここでは歌い手も聴き手も、森の一部。これこそが「インスタレーション・ライブ」なのである。


第3ステージ・天の藤棚

 第3ステージは公園の南端に位置し、広い4車線通りに近い藤棚の下にある。車の騒音を意識し、どちらかといえば、「絶叫型」の歌を予め選んであった。
(実際に歌ってみると、大きな影響はなかった)
 藤が満開の時期は非常に美しい場所だが、すでに散ってしまっていて、人影は全く見えない。しかし、それこそが私の狙いで、以下の2曲をここで歌った。周囲を緑に囲まれたトンネル状の空間を、歌声が駆け抜けた。


「みどりの蝉」
「流れる」(オリジナル)


 この時点で時計は午後5時10分、開始からすでに1時間が過ぎ去っている。当初の構想では、移動を含めて2時間ほどでライブを終えるつもりで、陽が西に傾く夕方6時過ぎにはすべての歌を歌い終え、家路につく気でいた。
 ところが予定をまだ半分も消化していない。遅れた大きな原因は写真撮影で、自分のイメージに合う椅子の位置と座る方向を決め、その後カメラの位置を決めるという手順は、思いのほか手間がかかった。


第4ステージ・百合の浮島

 時間ロスを少なくするため、途中からデジカメと三脚は固定したまま、脚だけ畳んでそのまま左手に持って運ぶことにした。今回、ギターケースは背負い式でなく、セットと撤収が短い時間で済む手に持つタイプにしたので、歩くときは両手が塞がった。

 第4ステージは第2ステージのちょうど反対側にあり、周囲をぐるりと池に囲まれた、丸い浮島状の花壇の中にある。中央にはこの公園のシンボルフラワーとなっている百合の花が満開。その百合を囲むように小高い生け垣があり、生け垣の前にベンチがいくつか置いてある。


「りんご撫づれば」
「道は空へ」(オリジナル、作詞:NON)


 ベンチに人影はなく、カメラをセットして歌おうとしたが、外側を取り囲む生け垣が邪魔になって、なかなかうまいアングルが見つからず、何度も撮り直した。
 いざ歌い始めると、どこからか人が現れるのは、ここでも同じ。百合の花を写しながら、歌い終わるまでじっと耳を傾けてくれた男性がいた。聴いてくれる人は視線を合わさずとも、気配だけでちゃんと分かる。


第5ステージ・メタルな森

 第5ステージは今回の全ステージ中、最も人通りの激しい位置にある。メイン駐車場の真ん前で、管理棟である緑のセンターの真横。写真のように、金属製のパーゴラの下にかなりの数のベンチが置かれている。
 人通りを意識し、あまりにもマニアックである選曲は避け、以下の2曲をここで歌った。


「どうしてこんなに悲しいんだろう」
「夕凪わるつ」(オリジナル作詞)


 2曲目の途中で視界に現れた中年の男性、横の椅子に座って聞き耳を立てている様子。夕闇が迫り、空も曇ってきたので、早々に撤収して次なるステージに向かうおうとしていたら、不意にその男性が近寄ってきて、声をかけてきた。
「素晴らしい歌声です。もっと聞きたかったのですが…」

 それまでも立ち止まってくれる人や、通りすがりに関心を示す人は多数いたが、声をかけてきたのはこの男性だけ。その意気にほれた。時間がないので、もう1曲だけ歌います。ご希望は?と問うと、井上陽水はできますか?と聞く。
 全く奇妙なことだが、出かける直前にふと思い立って、井上陽水の「紙飛行機」を練習してきたばかり。譜面もバックに入れてある。歌うと男性はとても喜び、次はいつここで歌いますか、どこに行けば聞けますかと、重ねて尋ねてくる。
 その後いろいろやりとりがあり、手持ちの弾き語り専用の名刺を渡しつつ、実は自宅を中心にいろいろなライブをやってまして、よろしければどうぞと誘うと、ぜひうかがいたいとのこと。先方の連絡先を聞くと、我が家から歩いて15分ほどの近所である。年はひとつ上の、ほぼ同年代だった。

 わずかな時間のなかでの巡り会いだったが、以前に自分のブログに書いた「窓の外をふと通りかかるチャンス」という言葉に通ずる何かを感じた。よくぞ声をかけてくれたものと、時のもたらした偶然に感謝する。


第6ステージ・白樺の小径

 第5ステージで予想外に時間を費やしてしまい、第6ステージにたどり着くと、辺りはますます暗くなり始めた。どうしても予定をこなしたかったので、手早くカメラをセットし、以下の2曲を歌う。こうした事態に備え、後半は短めの曲を用意してあった。


「星雲の群と僕等の会話と一体どっちが本当だっただろう」
「里山景色」(オリジナル)


 夕闇が迫るなか、ラストステージへと急ぐ。第7ステージは車を停めた東駐車場の近くにあり、公園を時計回りにぐるりと一周したことになる。
 このステージの中心にあるのは、バラの花だ。金属製のモニュメントを丸く囲むようにバラの花壇があり、その内側をさらにラベンダーが取り巻いている。上部には金属製のパーゴラが走り、その下にベンチが丸く置かれていた。


第7ステージ・バラの回廊

 見回すと、広いスペースには誰もいなかった。余韻に浸りながら、最後の歌をゆっくりと歌い始めると、どこからか人の声。花壇のすぐ裏側まで迫ってきて、歌声に耳を傾けている気配がする。
 ラストにふさわしく、歌った曲は以下の通り。


「惑 星」
「新しき世界」(オリジナル作詞)
「帰りたくなったよ」


 実は当初は2曲で止める気でいた。ところが、周囲のベンチにもかなりの人が集まってきて、歌い終えてもなぜか誰も動こうとしない。
 特に話しかけられたり、拍手をもらったりしたわけではなかったが、何となく終わりづらい雰囲気である。いわば「無言のアンコール」とでも言うべきか。
 そこで急きょ予備曲として持参した「帰りたくなったよ」を歌い、場をおさめた。判断としては、たぶん正解。

 時計を見ると、すでに午後6時40分。2時間30分という長い時間を費やし、数キロは軽く歩いたであろう実験的な《インスタレーション・ライブ》は、こうして無事に終わった。
 今回感じたことは、同じ手法で場所や季節を変え、違う形のライブがいつかどこかでまた出来るであろうという強い予感である。

 つい最近始めた自宅ライブ、《音の庭*歌の森》が自分の内へ内へと向かうライブなら、この《インスタレーション・ライブ》は、限りなく外へ外へと向かうライブである。その道はおそらく空まで続いているだろう。そして共通するのは誰にも束縛されず、金をかけず、ごくプライベートに、自由な発想と手法でやれるということ。
 そんな対極的なライブ、果たしてどこまでやれるか、見極めてみたい。命ある限り。