街角100ライブ
001 モエレ沼青空ライブ
「届け! 青空に」 /2005.5.6
介護施設訪問ライブと並んで、かねてから密かに暖めていた企画、「単独路上ライブ」がとうとう実現した。場所は自宅から車で10分ほどの距離にある「モエレ沼公園」である。名づけて、「モエレ沼青空ライブ」。
話を進める前に、なぜ「路上ライブ」なのか?という疑問がある。しかも、56歳を目前に控えたいいオジサンが…。
この問いへの答えは実に単純明解で、私のことを何も知らない通りすがりの人々に、どれだけ自分の歌が受け入れてもらえるか?それに対する強い好奇心、その一点に尽きる。自分にとって好奇心と年齢は全くの無関係で、時にそれは金銭的価値や社会的体面をも凌駕する。あくなき好奇心は、おそらく私を死ぬまで捕らえて離さないだろう。「何かのライブをやる時は応援に駆けつけますので、ぜひお知らせください」
そんな優しき声を、実は複数の方からかけられている。しかし、初めて路上ライブを実施するにあたり、聴き手として知人を招いたり、何らかの告知をサイト等でしたりする気はまるでなかった。
今回のライブは、歌好きの私が通りすがりの見知らぬ人々に仕掛ける、ある種の「勝負」である。家族以外の応援なしで、あくまで独りでやり遂げたかった。まず、やる場所を決めなくてはならない。「単独路上ライブ」なのだから、本来は繁華街の路上でやるべきなのかもしれない。だが、その種の場所は、どことなくプロを目指す若者のための場所であるような気がした。人生の終盤を迎えた男が、若者を押し退けてはいけない。もっと私の年齢に相応しい等身大の場所はないだろうか…。
去年の秋あたりからずっと具体的な場所の検討をしていたが、そんな折、たまたま共著で本を出す企画が持ち上がり、取材でモエレ沼公園を幾度か訪れた。
モエレ沼公園は世界的彫刻家、イサム・ノグチが北海道に記した最初で最大の作品であり、長年にわたる創作活動の集大成とも言えるものだ。公園全体がひとつの彫刻になっている。訪れるたび、その雄大なスケールと考え抜かれた仕掛けに魅せられ、創造力がかきたてられた。やがて、(最初の路上ライブをやるなら、ここしかない)と強く思うようになった。
趣旨は同じだが、場所は厳密には「路上」とは言えない。そこでこのライブを自ら「青空ライブ」と名づけた。さて、こうして場所は決まった。次なる検討事項はいつやるかである。モエレ沼公園は終年オープンしている。やる気になれば、冬でもやれそうだ。事実、真冬の2月に公園内にある室内施設、「ガラスのピラミッド」を訪れたとき、ちょっとだけアカペラで歌ったことがある。しかし、冬の歌う場所は室内施設に限られた。ここで許可なく歌えば、ツマミ出される心配さえある。純粋な「青空ライブ」からも限りなく遠ざかる。
前年5月に公園を訪れたとき、園内に3000本の桜が咲き乱れ、実に美しかった。気候がよくなるこの時期が、やはり最初の青空ライブに最も相応しいと考えた。
ライブの実施は5月上旬の桜の開花時期に絞り、具体的な日取りはその日の天候や、マネージャー役である妻の仕事の都合に合わせることにする。この辺の融通がいくらでもきくのが、独りでやる最大の利点だ。場所と時期が決まったので、それにむけての選曲を3月末あたりから少しずつ始めた。聴いてくれる人がいるかどうかさえ皆目分からないので、季節と場所、そして戸外に似合った曲、自分の感覚としてそこで歌いたい曲を中心に、徐々に候補を絞りこんだ。
たまたまギターのサドルというパーツの具合が悪く、部品を買ってきて自分で調整し直したら、ギターの音が格段に大きくなった。外なのでギターの音が大きいことは必須条件のひとつである。まさに青空ライブ向きの音と言えた。屋外を意識し、得意のストローク奏法でガンガン歌える曲を中心にプログラムを構成する。候補曲は合計30曲にもなった。まともに歌うと、2時間近くはかかりそうだったが、まるで検討もつかない要素ばかりの青空ライブである。仮に無駄になったとしても、多めの曲を準備しようと考えた。
この年に限って春の訪れが遅く、待っても待っても一向に桜の開花宣言はない。出来れば連休中で妻の休暇の日に、と考えていたので、週間天気予報なども参考にした結果、桜の開花の如何に関わらず、連休の谷間である5月6日に実施することに決めた。当日がやってきた。早めに起きてまずは発声練習をする。外で歌った経験はほとんどなかったが、青空の下でPA(音響装置)なしに歌うのだから、中途半端な声では通用しないのは推測がつく。幸い、この日の声はよく伸び、何とかいけそうな感じだった。
平日なので人によっては学校や勤めがある。公園の人手が気になったが、仮に人がいなければ、歌う場所の下見とリハーサルをやる気分で、ともかく数曲歌ってこようと腹をくくる。2時過ぎ、妻に急かされて車に乗り込む。PAが不要なので、機材はギターと譜面台くらいのものだ。楽譜とデジカメを妻に託す。
公園に着くと空は穏やかに晴れ上がっていて、気温も15度前後、人出はまずまずだった。この日のために自らミシンを踏んで用意したエンジ色のバンダナを、きりりと額に締める。すると不思議なもので、「サア、やるぞ」と気分が盛上がってきた。
さて、どこで歌おうかとギターをかついでまずは場所探し。公園の東にあるサクラの森を見やると、案の定、まだツボミは固く閉じたままだ。「満開の桜の下で歌う」という企画は次回の楽しみとして残すことにし、4つの歩道が交差する最も人通りの多いモエレ山の麓の芝生をステージにすることに決めた。手早く譜面台を組み、さっさと歌い出す。時刻は14時30分、まず最初に演奏中の写真を写してもらう。今日のマネージャー役である妻の、大事な仕事だ。周囲の芝生でくつろいでいた人々が、何事かと注目し始めた。この種のライブは辺りの目を気にしだすとキリがないので、あくまで自分のペースで歌い続ける。
最初の30分のプログラムは以下の通り。
「さくら」(直太朗)
「カントリー・ロード」
「白い冬」
「東へ西へ」
「イムジン河」
「北国の春」
「翼をください」
1〜2曲目は2ヶ月前に実施した「春の介護施設訪問ライブ」と全く同じ選曲である。「春」「道」というイメージが今回の企画に合っていたし、前回のライブでの受けが良かったことも大いに影響している。
最初の「さくら」を歌っているとき、近くの芝生で犬と戯れていた30代前後の女性3人が早くも近づいてきて、歌を聴いてくれた。終わるといきなりの拍手。思わず、「ありがとうございます」と最敬礼してしまう。たとえ通りすがりの方であっても、聴き手とのコミュニケーションは欠かせない。
実は始める前には、(20曲歌って1人くらい聴いてくれたらいいかな…)と思っていた。「まずは30分歌ってみようよ」と、歌う前に妻から励まされてもいた。予想外の早い反応に自分でもちょっと当惑したが、やはり嬉しい。この1曲でこの日の目標はすでに達成、ということになる。調子に乗って「カントリー・ロード」を続けて歌い始めたら、ここで予想外のアクシデントが起きた。強い風にあおられて譜面台が倒れそうになり、楽譜のページもめくれてしまうのだ。これでは歌えない。ステージに選んだ場所は、周囲に何のしゃへい物もない360度見通しの効く平原のような場所だ。どこからでも歌を聴ける反面、風にはめっぽう弱い。
急きょ歌を中止し、譜面台を低く下げ、予備のカポを楽譜の止め金具代りにして急場を凌ぐ。何とか風に飛ばされず、歌い続けることが出来た。さい先は良かったが、芝生の前の道を通る人々は、なかなか足を止めてくれない。遠くから興味を示し、じっと見ている人はいるのだが、近づいて足を止め、聴いてくれる人がいないのだ。しかし、私が歌っている間も周りをさり気なく見回していた妻が、「遠くでちゃんと聴いている人がいるわ」と曲間にささやく。
歌いながら何となくそんな気配を私も感じていたので、あまり周囲の反応には気をとらわれず、自分のペースを守って淡々と歌い続けた。
3時になったところで水を一口飲み、妻の写したデジカメの映り具合をチェック。アップが少ないので、追加撮影を依頼する。途中、公園の管理職員らしき人が現れ、それとなく様子をうかがっている気配を感じた。作業服らしき上下にネクタイを絞めているので、雰囲気で公園利用者ではないことがすぐに分かる。
おそらく譜面台の近くに、お金を投げ込むための蓋を開けたギターケース、あるいは空き缶の類いが物欲しげに置かれていないかを確認しているに違いなかった。当然だが、ほとんどの公園では物乞い、あるいは許可のない物品販売に類する行為は禁じられている。
私は単純に歌を楽しみに来ているだけなので、空き缶の類いはもちろん置いてないし、ケースは固く蓋を閉じてはるか後ろに片づけてある。しかし、いざ公共の場である新しい公園で歌うとなると、いろいろやっかいな問題がからんでくるのだ。3時を回るとあたりの雰囲気にも慣れ、気分も次第に乗ってきた。フォークで大事なのが何といってもこの歌うときの「気分」である。この「気分」が乗ると乗らないのとでは、たとえ同じ歌い手による同じ曲でも、仕上がりに雲泥の差が生じる。そしてこの「気分」こそ、本人を含めて誰もが計算出来ないやっかいなシロモノなのだ。
3時から3時30分までのプログラムは以下の通りである。
「どうしてこんなに悲しいんだろう」
「おおスザンナ」
「突然さよなら」
「落陽」
「展開」
「りんご撫づれば」
「春のからっ風」
いわゆるMC(曲間の語り)が皆無であり、休憩らしい休憩もないので、どんどん曲ははかどる。1曲平均4分といったところか。熱を入れて歌っている本人は少しも寒さを感じないが、風に吹きさらされて見守ってくれている妻は、かなり寒そうだ。
歌ってみて初めて気づいたが、外で歌うと残響が全くないので、声が周囲の大気に吸い込まれるような錯覚に陥る。最初はこれがちょっと頼りなく感じ、不安になって妻に「ちゃんと聴こえてる?」と確かめたりもした。
真横や後ろからだと音量は落ちるが、前方左右45度以内だと、とてもよく響いていると妻は言う。室内でいうと、モニタースピーカーなしでライブをやっている感じだろうか。
以降、自分の声量を信じ、気にせずに思いきり歌った。すると、歌によっては、実に声が気持ちよく空に抜けてゆくことに気づいた。まるで自分の声が天まで届くようなイメージである。あまり楽譜に目をやらず、胸を張って顔を上げて歌うとその傾向は一層顕著になった。こんな気分は、室内ではまず味わえない。実に新鮮な体験だった。「突然さよなら」、「りんご撫づれば」、オリジナルの「展開」は、この「いい気分」で歌えた代表曲である。「突然さよなら」では妻が、「いい曲ね、外だとまるで違ったように聞こえる」と涙ぐんでいる。
まだ確信はないが、自分にとっての「外向きの曲」というのがあるような気がする。今回の選曲はおそらく大きく的を外してはいないが、機会を重ねればもっとはっきりしてくるだろう。最初はどうなるやらと思って歌い始めたが、ふと気づくと時計は15時30分を回っている。北の春の陽射しはまだ頼りなく、気温も次第に下がってきた。まだいくらでも歌えそうな感じがしたが、そろそろライブの終い方を考えなくてはならなかった。歌い残した曲、ぜひとも歌っておきたい曲を見繕い、ラストステージとした。
最後のプログラムは以下の通り。
「バンダナを巻く」(オリジナル)
「大空と大地の中で」
「花〜すべての人の心に花を」
「風」
「生活の柄」
〜アンコール
「さくら」(直太朗)
ラスト20分では大きな反響があった。まずオリジナルの「バンダナを巻く」で、通りすがりの40代前後の男女がぴたりと私の前で立ち止まり、熱心に歌に聞き入ってくれた。実はこの曲は、この日のライブのために作った新曲である。もちろん人前で披露するのはこの日が初めてだった。
自分がモエレ沼公園で歌っているイメージをそのまま歌にしたので、気分は乗った。歌いながら反応をうかがっていると、何か二人でささやき合っているが、私の耳には届かない。歌い終わると、大きな拍手を二人はくれた。「どうもありがとう」と、すかさずお礼をした。
二人のそばにいた妻にあとで確かめると、「きれいな声だね」「ええ、とてもいい声」と二人は話していたそうである。嬉しくてありがたかった。この曲が終わったとき、後ろからも小さな拍手が聞こえた気がした。数曲前からその気配はずっと感じていたが、あえて振向かないでいた。ところが次の「大空と大地の中で」を、これまた青空に向かって気分よく歌い終えると、今度ははっきり聞き取れる盛大な拍手がきた。
振り返ると、私と同世代の中年女性が少し離れた場所に座っている。ずっと私の歌を聴いていてくれたのだった。その女性にも改めて「ありがとうございます」と頭を下げた。
結局、その女性は最後の歌である「生活の柄」が終わるまで、ずっと座って拍手をくれた。もちろん見ず知らずの方だが、一期一会の深い心のつながりを感じた。もうひとつ特筆すべきことがある。「大空と大地の中で」を歌っているとき、5、6歳の男の子がそばにきて私をじっと見つめ、歌が終わるまで聴いていた。歌いながらその子の眼を見つめ返し、微笑んであげた。手にフリスビーなど持ち、いかにもそれで遊んでいる素振りをしていたが、私の歌に関心があるのは明らかだった。
幾度かの介護施設訪問で、高齢者に歌やギターが何らかの癒し効果があるのは、すでに分かっている。同様に小さな子供にとっても、歌やギターは豊かな心の糧となるような気がしてならない。このことはいずれ確かめる機会がくると思う。アンコールの「さくら」は観客ではなく、「もう一度ここで聴きたい」という妻からのリクエストに応えたものだ。このとき、周囲には誰も人がいなかった。無理を聞いてつき合ってくれた妻への感謝の気持ちこめて歌った。実に自分に合った曲だと思う。いいフィナーレだった。
この日、「拍手」という形ではっきり意思表示し、聴いてくださった見知らぬ方々は、都合6人である。(「大空と大地の中で」の男の子を含めると7人)
合計20曲、延べ80分の演奏時間の中で、1曲の演奏中におよそ2〜3人の人が目の前を通り過ぎたと思う。延べにすると50〜60人ほどだろうか。単純計算すると、通りすがりの人のおよそ1割が僕の歌に耳を傾けてくれたことになる。この数値は当初の予想をはるかに超えていた。帰りの車の中で妻も言った。「まさかあんなに多くの人が聴いてくれるとは思ってなかった」
歌った本人も全く同じ感覚なのだが、もっと暖かくなってもっと多くの人々が公園に溢れだすと、もっと多くの人が聴いてくれそうな予感はする。
何より、「青空に向かって伸びやかに歌う」という得難い快感を知ってしまった僕は、この「青空ライブ」が当分病みつきになりそうな気がしてならないのだ。