その6 .......フォークよ、永遠に…



竹田の子守唄 /1986



 人生勝負をかけた脱サラ後の数年間、ギターや歌からはしばし遠ざかった。「苦しいときこそフォーク」のはずだったが、「苦しさを自覚する暇がないほどの緊張感と忙しさ」には、さすがにフォークが入り込む隙間もなかったとみえる。
 70年代後半から、増え続ける楽譜の山を整理整頓する画期的手段として、「B6サイズカード」による楽譜カードを使いはじめた。「整理学」という言葉が世に認知され始めた時期と一致する。サイズや体裁もまちまちだったそれまでのノート式の楽譜が、1枚ずつきれいにカードに書き写され、ジャンル別に整理整頓された。
 最近ではこのデータをもとにし、さらに近代的で場所をとらないパソコンを使った電子楽譜にまで発展させたが、当時作った手書きの楽譜カードは、いまでもかなりの数が手元に残っている。年代を調べてみると、オリジナル曲はもちろん、一般曲にも80年代に作ったカードは極めて少ない。趣味としての音楽活動が停滞していた証拠である。

 1986年冬、上の娘が通っている小学校でサケ学習を通じた国際交流の行事があり、カナダから40人の子供たちと数人の引率の大人たちが大挙やってくることになった。宿泊はすべて地域のホームスティが条件である。数年前からラジオで英会話を独学して準備していた僕は、待ちわびていたこのホームスティを受け入れた。
 上の娘は当時小4で、上の息子は小2、末っ子はまだ幼稚園児である。我が家にやってきたカナダの子供は小5の女の子が二人。たまたまその子たちのお母さんが別の家庭に引率としてそれぞれホームスティしていた。
 滞在はおよそ1週間だったが、後半になって引率のお母さんを我が家に招き、ファミリーパーティを開くことになった。料理は妻、通訳は僕という役割分担だったが、ここでちょっとしたファミリーライブを開き、遠方のお客様をギターと歌で歓迎しようと企てた。

 この日にふさわしい曲を数曲ピックアップし、簡単な英訳もつけて備えた。日本情緒の感じられる曲でギターで歌えるものというと、これまたそう候補は多くない。苦心のすえ、次の3曲に絞りこんだ。

「竹田の子守り歌」〜京都府民謡
「赤い花白い花」〜作詞作曲:中林ミエ
「ソーラン節」〜北海道民謡

 食事とデザートが無事済んでみながリラックスした頃を見計らい、仕事部屋の奥からギターを持ち出してきた。場がたちまち拍手に包まれる。

「カナダのお客様のために、親愛の情をこめて日本の歌を歌います」とかなんとか言って歌い始めた。「竹田の子守り歌」はキーを高めのCにしたが、練習のかいあってこの夜の声はよく伸びた。カナダのお母さんたちは、じっと歌声に聞き入っている。
 ところが歌い進むうち、徐々に感情が高ぶってきた。二番に差し掛かったあたりで、なぜか涙が溢れてきて止まらなくなった。だが、ここで歌をやめるわけにはいかない。
 普段とは違う僕の様子をいち早く察した妻も、一緒に涙を流している。二人の外国のお母さんの目にも、たちまち涙があふれた。周りの5人の子供たちは、そんな大人たちの様子を、きょとんとした目で不思議そうに眺めている。
 歌を途切らすことなく、僕はそのまま最後まで歌い切った。

「あなたはとても美しい声をしている」

 涙をいっぱいにためたまま、客の一人のルーツ夫人が言った。「ちょっと悲しい曲でした」と、僕は自分の涙の言い訳をするように答えた。
 この曲が果たして1曲目として場にふさわしかったのかどうか、いまだに判断に苦しむ。なぜ歌の途中から涙が流れたのか、自分でもはっきり分からない。もちろん悲しいからではない。たぶん、喜びに近い感情からだったと思う。
 ともかく、このときが僕にとって、歌っていて自然に涙が流れた最初の経験だった。しかし、結果的にこのときの歌が、異国の人々の心を強く揺さぶったことは間違いない。言葉や国境を飛び越えた一体感、音楽の持つ有無を言わせぬパワーを感じた貴重な一瞬だった。

 予定していた残りの2曲のうち、「赤い花白い花」を家族全員で歌ってファミリーライブはお開きとなった。
 初めてのライブで歌った「戦争しましょう」のときもそうだったが、1曲目の出来があまりに感動的だと、次の曲にも影響して歌い続けること自体が難しくなる。おそらくそこがライブの面白さであり、難しさでもあるのだ。



河のほとりに /1988



 独立して事業を始めて数年の間に、3度のコンサートに行った。井上陽水、谷山浩子、堀内孝雄の順で、このうち堀内孝雄は知人が行けなくなったチケットをもらっただけなので、積極的に行ったのは井上陽水と谷山浩子だけということになる。
 打ち明けると、僕はあまりプロ歌手のコンサートには行かない。フォーク系でも実際に観に行ったのは数えるほどで、学生時代に行った吉田拓郎、社会人になって行った泉谷しげる、銀河鉄道、たったこれだけだ。
 おそらく僕は、プロのコンサートに足しげく通うより、自分や仲間と歌って楽しむことをより好むタイプなのだ。

 6度の中の貴重な一人、谷山浩子は特に脱サラ以後によく聴いた。僕の仕事は自宅を拠点とした建築デザインの分野だったので、製作作業は深夜に及ぶことが多く、BGM代わりにラジオは欠かせなかった。よく聴いていた「オールナイトニッポン」という深夜ラジオ番組で、確か木曜明け方3時から5時までの担当が谷山浩子で、透明感のある歌声がとても好きだった。当時の放送のテープのいくつかが、まだ手元に残っている。
 たくさんの曲の中で唯一歌詞カードに写しとり、幾度も歌ったのが「河のほとりに」だった。「ずっと昔から知っていたような気がする、あなたが好き…」という下りが胸を打つ。歌いながら独り仕事部屋で涙を流すこともよくあった。人を好きになるということは、結局そうしたある種の「直感」であるような気がしてならないのだ。
 その頃、僕と妻との間は、脱サラや事業運営に伴うもろもろのストレスからいつもぎくしゃくしていて、そんな心の隙間をこの歌でなぐさめ、埋めようとしていたように思う。

 この歌を知ってから、いつか誰かの結婚披露宴でぜひ歌いたいと思った。ギターで歌えて、しかも愛の原点ともいえる強いメッセージを持つこれ以上結婚披露宴にふさわしい歌は、いまのところ見当たらない。しかし、どういうわけか、いまだにその機会が訪れない。
 この歌を本気で歌うと、もしかするとおめでたい席で聴き手の涙腺をかなり刺激するかもしれない。しかし、それ以前に、肝心の僕自身が泣かずに最後まで歌い切ることが出来るかどうかが、最大の問題なのだが。



今日の日はさようなら /1992



 ひょんなきっかけで、1990年春から地域のサッカー少年団のコーチを始めた。僕はサッカーの楽しさ、教えることの面白さにとりつかれ、のめりこんだ。サッカーは趣味としての音楽活動から遠ざかる、さらなる理由となったと思う。
 しかし、全く歌わなかったわけではない。仕事部屋の片隅にはいつもギターが置いてあり、気がむくとケースを開けて弾き、古い歌詞カードを引っ張りだしては、好きな曲を歌っていた。
 日々の手入れを怠らなかったので、ギターはいつも新品のように輝いていた。しかし、「毎日弾くとギターは喜んでいい音を出してくれる」と、いつか誰かが言っていた。それが本当だとすると、週に1回、月に数回ほどのペースに落ち込んだ僕のギターは、たぶんあまりいい音で鳴ってはくれなかったはずだ。

 1992年春、末の息子が小学校を卒業することになり、親子の卒業謝恩会がクラスで開催され、僕が参加した。時間の自由になる自宅での仕事だったので、事業運営にも余裕の出来たこの頃は、ホームスティでもサッカーコーチでも子供のクラス行事でも、その気さえあればいくらでも参加することが出来た。
 いろいろな出し物で謝恩会はトントンと進み、フィナーレに近づいた。すると進行役だった担任の女性教師が、突然とんでもない言葉を口走った。

「それでは最後に、菊地くんのお父さんに父母代表としてギターで1曲歌っていただきたいと思います。よろしくお願いします」

 思わず我が耳を疑った。全く寝耳に水だったからだ。事前に息子が先生に何か口走ったか、それとも、妻が何か聞いていて僕に伝えるのを忘れたか…。
 戸惑う僕の意向など無視し、先生は職員室からフォークギターを引っぱり出してくる。なぜ職員室にそんなものが準備してあったのか、これまた疑問だったが、どうやらどうしても僕に歌わせるつもりらしい。
 あとで分かったことだが、どうやら「犯人」は、一緒にサッカーを指導していた別の先生らしかった。以前にグランドでたまたまギターの話題になり、その先生が学生時代にバンドを組んでいて、職員の謝恩会でよく歌うことを聞かされ、「私も以前はギターをやってまして、ライブなんかで歌ってました」などと、口を滑らしたことがある。それがたまたま職員室で話題になったらしい。

 いずれにしても、事前に電話があるなり、息子に「明日お父さんに歌ってもらうかもしれないよ」などと伝言があるのが普通だ。しかし、そんな一般常識がどうやらこの先生にはなかったらしい。
 教室の子供たちと母親(父親は僕一人だった)の全視線は僕に集中している。「何も聞いてませんし、準備もしていません」と僕は悪あがきしたが、この先生には通じそうになかった。やむなく教室のうしろから前へと進んだが、教壇に上るまでのわずかな時間の中で、歌う曲、歌える曲、場にふさわしい曲を頭をフル回転させながら素早く計算し、選んでいた。

「それではご指名なので歌います。みなさん知っている曲ですので、ご一緒にどうぞ」

 ギターの音やチューニングはまずまずだったが、ピックやカポはない。ベルトはついていたので立ったまま、(確かCで歌えたはず…)と、あいまいな記憶のままに「今日の日はさようなら」を歌い始めた。
 いま振り返ると、当時のせっぱ詰まった状況下で、よくぞこの曲を選べたと我ながら感心する。どんな状況でも簡単に引き下がりたくない、という僕の根っこにある意地のようなものが、そうさせたのかもしれない。
 ギターからは縁遠くなっていたはずなのに、この曲はなぜか歌詞もコードも暗譜していた。かって森山良子が歌ってヒットした曲で、学校で歌われることも少なくない。

 アルペジオの前奏から入って歌い始めると、教室の後列に並んだお母さんたちが、すぐにあとに続いてくれた。子供たちの数人も一緒に歌いだし、教室の中はかっての歌声喫茶のようないい雰囲気になった。
 いやいや歌った割には、声はなぜかよく伸びた。ラストをゆるやかにペースを落とし、2度繰り替えして締めくくると、教室が大きな拍手に包まれた。僕はかろうじて「フォーク好きのお父さん」の面目を保った。

 この話には後日談がある。それから6年たったある土曜の午後、小学校のグランドで子供たちにサッカーを教えていた僕のそばに、二人の若い女性が近寄ってきた。

「菊地くんのお父さんですよね?」
「そうだけど…」どうやら二人の息子のどちらかの同級生らしい。
「Mです」「Hです」

 二人の女性は、どこかで聞いたことのある名を名乗った。

「シンヤ君のお父さんでしょ?私たち、小学校で同じクラスでした」

 言われてみて、ぼんやりとした記憶がよみがえった。そうだった、同じクラスにそんな名の女の子が確かにいた。でも、その子たちがなぜ…?僕はすっかり大人になって見違えるようになった彼女たちに、素朴な疑問を浴びせた。

「私たち、謝恩会で歌ってもらったあの歌のこと、よく覚えています」

 グランドでサッカーを教えている姿をみて、すぐに分かった。懐かしくて思わず声をかけたと、彼女たちは続けた。僕はこれを聞いてとてもうれしくなった。
 おそらく彼女たちは、それまでギターを弾きながらみんなで歌う、という経験をしたことがなかったのだ。だからあの日あのとき、教室で一緒に歌ったことが忘れられない思い出となって、彼女たちの記憶に刷り込まれている。これまたフォーク、引いては音楽の持つ不思議な力、つまりパワーなのだと思った。
 僕はこのとき、いつか大勢の子供たちの前で、ギターを弾きながら歌うことの楽しさ、素晴らしさを伝えられたらどんなに素敵だろうと、ぼんやり考えていた。



どうしてこんなに悲しいんだろう /1999



 1999年春、僕は9年間続けた地域のサッカークラブの指導から完全引退した。理由はいろいろあるが、音楽とは無関係なので割愛する。
 同じ年の5月、札幌すすき野にあるフォーク居酒屋で初めて歌った。ここはマスターが吉田拓郎の大ファンで、店の名前や調度品、BGMに至るまで、すべて拓郎で統一していた。店内にステージが常設されていて、拓郎の曲をマスターが毎晩ミニライブで聴かせてくれる。噂だと、拓郎の歌はすべて完璧に歌えるそうだ。拓郎の曲であれば客もどんどん歌ってよい、という粋な店だった。

 かねてからこの店の存在は知っていたが、いくら出たがり目立ちたがりの僕でも、一人ではなかなか行く踏ん切りがつかない。人前で歌うことからしばし遠ざかっていたことも、気持ちを躊躇させた。
 子供のサッカー指導で知り合った方がたまたま拓郎の大ファンで、自らギターでも歌うことを知り、「それではご一緒しましょう」という言葉に勇気を得、ようやく行く気になった。

 最初から歌うつもりでいたので、事前に次の3曲を準備し、楽譜も持って行った。

「どうしてこんなに悲しいんだろう」〜作詞作曲:吉田拓郎
「ビートルズが教えてくれた」〜作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎
「春だったね」〜作詞:田口叔子、作曲:吉田拓郎

 9時を回るとマスターのミニライブが始まると聞いていたので、「前座」として、早めの8時頃に歌い始めた。客はたいしていなかったが、いざステージに上がると、久し振りの緊張感で喉がカラカラになっている自分に気づいた。
 最初に歌った「どうしてこんなに悲しいんだろう」はかなり好きな曲で、暗譜している拓郎の曲の中でも、代表的なものだ。「やっぱり僕は人にもまれて生きてゆく…」というフレーズに、年とともに共感を覚える。

 歌い進むうち、またしても涙が知らず知らず頬を伝った。このときは全く予期しない涙だったので、自分でも驚いた。若い頃には全くなかった「歌いながら涙が流れる」という現象が、年とともに頻発している。格好よく言うと、「年を経る毎に人生の愛おしさ、はかなさを思い知ってきたから」ということになる。しかし、ただ単に涙腺がゆるくなってきただけかもしれない。
 弁解めいてしまうが、涙を無理にとめることは、日頃からしないようにしている。自然に流れてくる涙には、おそらくそれなりの理由があるからで、それに身を任せたほうがいいような気がする。このときも涙は流れたが、歌にはほとんど影響していない。店は暗かったので、一緒に行った方も気づかなかったかもしれない。
 2曲目の「ビートルズが教えてくれた」は歌った覚えがあるが、最後の「春だったね」は歌ったかどうか、はっきり記憶にない。初めて行った店で一人で3曲も続けて歌ったとすれば、かなり図々しい客だ。ただ、一緒に行った方が、「外は白い雪の夜」を実にいい雰囲気で歌ってくれたことは覚えている。

 この店には気がむくとたまに足を運ぶ。しかし、店が常連で混んでいると、僕は歌わずに聴き手に徹する。好きな店だけど、拓郎の歌以外は歌えないところに、ちょっと遠慮がある。もっとも、誰の歌でもOKとなってしまうと、店の存在価値そのものに、意味がなくなってしまうのかもしれない。
 フォークでも、いざ商売がからんでくると、結構難しい。



雨が空から降れば〜再び /2000



 月日が流れ、1999年12月に僕たち一家は札幌郊外に戸建住宅を建て、引越した。サッカーはテレビ観戦だけとなり、週に3度の練習や日曜毎の試合指導からは完全に解放された。マンション住まいに比べて家は格段に広くなり、しかも周りには1軒の家もない「都会の中のオアシス」のような環境である。
 いわば、「長い時間」「広い場所」「静かで気ままな環境」という夢のような3つの要素を一度に手に入れたようなもので、家が出来た当初は趣味と実益を兼ねた家具作りや庭作りの作業に謀殺される毎日だったが、数年を経るとやがてそれも落ち着いた。すると人間不思議なもので、眠っていた音楽の虫、ギターの虫がうずうずと騒ぎだしたのである。

 先にもふれたが、古い楽譜や歌詞カードを引っぱりだし、少しずつパソコンに入力し始めたのもこの頃からだ。整理をするうち、むかし歌った懐かしい曲の記憶が次々とよみがえり、ついギターを引っぱりだしては歌い始める。住宅密集地にあったマンションと違って、夜中に歌っても、家族以外には一切迷惑はかからなかった。
 相前後して、家具作りで余った木材で、マイクスタンドやギタースタンドを作った。これらを譜面台と共に仕事部屋の片隅に並べ、「いつでもギター、いつでもフォーク」という環境を作り上げた。手持ちのマイクをステレオにつなぎ、スポットライトをあてると、部屋の一角が立派なライブコーナーに変身した。試しにマイクを前に1曲歌ってみると、内装にすべて無垢の木材を使った我が家の音響効果は、抜群にいい感じだ。

「いつか趣味の音楽仲間を集めて、ミニライブでもやってみるか」

 そんな途方もない僕の言葉に、妻もまんざらでもない様子だ。ほどなくしてその言葉は、あっさり実現することになった。

 妻の職場仲間に、同年代で無類の音楽好きの女性がいて、子供も音楽大学に通わせている。ある雨の日の休日、いつもの調子でギター片手に歌っていると、その女性から電話があり、いまから我が家に遊びにやってくるという。
「いまならTOMさんのギターライブが聴けるわよ」などと、妻が電話で調子のいいことを言っている。ほどなくしてインタホンが鳴った。
 事前の心の準備は全くなかったが、たった一人のその女性の前で、いきなりミニライブをやる羽目になった。

 数えてみると、フォーク居酒屋で歌って以来、5年近く人前で歌う機会から遠ざかっている。いざ歌い出そうとすると、緊張で膝ががくがく震えた。しかも、このときは自分と聴き手との距離がわずか1メートルくらいで、あまりに近すぎた。
(歌い手と聴き手の間には、ある程度の距離が必要だと僕は考えている)

 このときはパソコンの「電子譜面台」の検索機能を駆使し、その日の天候にあわせて雨にちなんだ3曲を、素早くその場で選んだ。

「雨が空から降れば」〜作詞:別役実、作曲:小室等
「雨」〜作詞:千家和也、作曲:浜圭介
「長い髪の少女」〜作詞:橋本淳、作曲:鈴木邦彦

 僕のライブでの定番とも言える1曲目は別にして、2曲目は三善英史が歌った演歌、3曲目はザ・ゴールデン・カップスが歌ったGSである。女性の趣味のひとつがカラオケだと事前に聞いていたので、選曲にも気配りしたつもりなのに、結果として最も受けたのは、やはり得意としている「雨が空から降れば」だった。
 僕の場合、この曲はいつも原曲よりキーをふたつ上げて歌う。しかも、休符のとりかたや細部のメロディやリズム、ラストのスキャットの作りが原曲とは微妙に違っている。30年歌い続けているうちに自然にそうなってしまったもので、いわば僕だけの「雨が空から降れば」である。

「5年ぶりのライブ」「聴き手との距離が異常に近い」「事前準備なしの突発ライブ」という悪条件の割には、自分としてはまずまず満足出来る演奏だった。
「たった一人の聴き手」というのも、よく考えると家族以外では初めてだった。僕の場合、「自分の歌をそれほど積極的に聴く気のない100人の聴き手」というライブにもかなりヤル気をかきたてられる変な質だが、自分の歌を本気で聴いてくれるなら、聴き手はたった一人でも充分満足する。「歌ってくれ」と頼まれれば、たとえ10曲でもその人のために歌い続けるだろう。

「せっかく招待されて、本心ではないお世辞を言わなくちゃいけない歌だったらどうしようかと思ってたけど、本当に上手でよかったわ」などと、女性は回りくどい感想を並べたが、かみ砕くとほめ言葉であることに違いはない。
 このときの手応えから、「自宅を会場にした仲間内でのミニライブ」というささやかな夢が、いよいよ現実味を帯びてくる。それはフォークが僕の生活の中でより豊かで確かなものとして定着する、大いなるプロローグとも言えた。