その5 .......プロの前座で非力を思い知る
危険な二人 /1975
結婚を機に僕は設計課に配属変えとなり、図面台の前に一日中座る身となった。工事課よりも時間には幾分余裕が出来たが、HIRO以外に一緒に人前で歌えるメンバーは社内には見当たらず、何かの催し物で依頼があると、今度は一人で歌うしかなかった。
ギターは相変わらず上達しなかったが、伴奏はほどほどにしておき、もっぱら大きな声で勝負していた。僕にとっての最大の楽器は「声」そのものであり、ギターはあくまで声の引き立役に過ぎなかった。一人で歌える歌にはそれなりに制限があり、当時よく歌っていたのは、ジュリーこと、沢田研二の歌である。フォークのジャンルではないこともあって、そう好きな歌い手ではなかったが、当時若い女性には絶大な人気を得ていた。あるとき会社の宴会で何気なくギター伴奏で「危険な二人」を歌ってみたら、これがバカ受けした。
それ以降、何かと言えば「菊地さん、ジュリーを歌ってよ」とせがまれ、やむなく、「勝手にしやがれ」「追憶」「時の過ぎゆくままに」などがフォーク風のアレンジでレパートリーに加わった。いずれも絶大な支持を得たが、なぜそんなに受けたのか、自分でもよく分からない。単にタイムリーなだけだったのかもしれない。当時、僕のことを社内では「…のジュリー」と呼ぶ人が幾人かいた。(…には会社名が入る)最近になってこのことをあるジュリーファンだった人に打ち明けたら、失笑を買ってしまったが、もちろん顔ではない。歌い方、特に高音部がちょっと本人に似ていたので、半ば揶揄する感じでそう呼ばれていただけのことだ。
ファンの人には申し訳ないが、僕自身はそう呼ばれていることが、あまり心地良くはなかった。フォーク系ではこの時期、井上陽水と及川恒平を多く歌っていた。ただし、及川恒平を歌うのはもっぱら妻の前だけで、会社で歌うときは井上陽水が多かった。この使い分けが非常に微妙なのだが、なぜそうなるかは、これまでの話からご理解いただけると思う。
一人で歌った井上陽水で記憶に残っているのは、ある社内旅行で歌った「心もよう」である。このときは幹事が気を利かせて、旅館内の一室に「ミニライブハウス」のようなものを作ってくれた。そこに集まってきた社内の音楽好きを前に何曲か歌ったのだが、最も反応が良かったのがこの「心もよう」だった。
出だしはアルペジオでぱらぱら弾いて、静かに語りかける。途中で次第に激しい曲調となり、細かいストローク奏法に変える。徐々に盛り上げて、ラストの高いスキャットで余韻を残しつつ締めくくる…。要するに、僕好みの曲だったわけだ。
向い風 /1976
結婚2年目にあたる1976年初頭に、四国高松の大きな工事現場への辞令が出た。神奈川の現場も大きかったが、立場はあくまで現場要員だった。今度は現場責任者という重い立場である。しかも発注は文部省直轄、つまりは国が相手なのだった。
会社始まって以来の大事なクライアントだったので、本社の設計要員で、ある程度工事の知識もある僕が狩り出されたらしい。工事は夏をまたいで行われたので、北国育ちの僕には四国の酷暑が堪えた。初対面の下請け業者とはソリが合わず、現場の工期は遅れに遅れた。高松まで同行した妻は折悪しく身重で、初めて東京を遠く離れて暮す不安も重なり、いわゆる「マタニティブルー」状態に陥った。まさに八方塞がりである。
ギターは持っていったかどうか、実ははっきり記憶にない。神奈川の現場と同じ考えなら、妻の実家が東京近郊だったので、そこに預けていった可能性もある。どちらにしても、現場の忙しさに追われて弾いた記憶がまるでないのだから、持っていこうが置いていこうが、同じことだった。この「仕事上の重大な責任」と、「初めて父親となる責任」とは、僕を大きなストレスへと苛んだ。しかし、よく考えてみると、父親になる責任があったからこそ、難しい現場も助手なしの一人で何とか乗り切れたのかもしれない。
このような状況で、歌やフォークが入り込む隙間など、どこにもないと思いがちだが、実際は違っていた。当時の僕は車の免許がなく、現場や役所への行き来は、すべて自転車に頼っていた。
ある初夏の昼下がり、自転車のペダルを踏みながら現場へ向かっているとき、突然頭の中に詩とメロディが閃いた。そのときの周囲の情景と空気のようなものが、いまでもはっきりと記憶の中に残っている。
僕の場合、まず先に詩が出来て次に曲が出来るが、詩と曲とが同時に出てきたのは初めての経験だった。自転車で走りながら曲が出来たのも、もちろん初めてだ。
向い風1976.5 作詞/作曲:菊地友則
ふるさとに似た 山に向かって 僕はペダル踏む
ふるさとに似た 山から吹く 風は向い風
街並がだんだん小さくなる
君の姿がだんだん遠くなるフィーンフィーン フィーンフィーン
ふるさとに似た 山に向かって 僕はペダル踏む
ふるさとに似た 山から吹く 風は向い風
十月に僕の子が生まれる
君が僕に小さく微笑む
目の前で白い紙切れが 風に巻かれ ちぎれ飛んだ 飛んだ…フィーンフィーン フィーンフィーン
やさしい春の 陽射しを浴び 短い影を追って
僕は走るどこまでも ペダル踏んでゆくフィーンフィーン フィーンフィーン…
いろいろと雑多な物を背負いつつも、懸命に前に進んでいこうとしている若い僕の、人生に対する気負い、迷い、不安、そのあたりを感じ取っていただけるだろうか。
ちなみに、「フィーンフィーン」という奇妙なフレーズは、そのとき僕の心の耳に聴こえてきたペダルの音なのだが、詩全体を際立たせる効果音として、欠かせないものだった。幾多の困難を乗り越え、現場はおよそ1年がかりで無事完成した。この曲が大きな心の支えになってくれたことは間違いない。苦しいときにこそ自分を励まし、救ってくれる。やはりこれが僕にとってのフォークだった。
シクラメンのかほり /1977
高松の現場が終ると僕はすぐに本社に戻され、開発設計関係の部署に配属になった。
翌年の正月に札幌の実家に帰省したが、この時妻は同行していない。10月末に生まれたばかりの娘にとって、長距離の移動と北の寒さは過酷すぎると判断したからで、それなら家族で正月を過ごせばよさそうなものだったが、それでは実家に義理を欠くと、妻が僕だけに帰省を勧めたのだ。
顔を見せるだけなので、飛行機の空いている元旦に移動し、確か2泊だけして戻ってきたはずだ。独身気分で暇を持て余していた2日目の昼、学生時代に寮の同室だった先輩から、いきなり実家に電話があった。「今夜、Mのところで一杯飲まないか。アイツ、結婚したばかりだから、おしかけてみようぜ」
雪の中、先輩が住む札幌市内の新婚家庭に、ノコノコ出掛けた。ドアを開けると、学生時代に顔見知りの懐かしい顔がいくつも並んでいて、よく見るとM先輩の奥さんも、1年上の同じ大学の先輩だった。
昔話に花が咲き、僕の妻や生まれたばかりの娘の話題で盛り上がった頃、M先輩がいきなり僕に問いかけた。「菊地、お前まだフォークをやっているのか?もしやってるなら、俺たちのために何かいっちょう歌ってくれよ」
そういって奥からギターをゴソゴソ持ち出してくる。どこかであったような展開だったが、もちろん僕が断るはずがない。ギターを受取ってしばし考え、新婚の先輩を祝う意味で、小椋佳の「シクラメンのかほり」を静かに歌い始めた。
「おい、こっちにきて一緒に聴けよ、めったに聴けないいいものなんだから」
イントロのギターの部分が始まると、M先輩は台所にいた奥さんの手をひいて居間に連れてきた。「シクラメンのかほり」は、布施明の歌で有名だが、僕がいつも歌っているのは、小椋佳バージョンだ。歌詞は同じだが、メロディとリズムが微妙に違う。そして作詞作曲が本人である小椋佳バージョンが、「フォーク」だと僕は思っていた。
楽譜を見た記憶がないから、歌詞もコードも暗譜していたのだと思う。このときは事前の準備など、まるでしていない。だが、歌っているうち、徐々に気持ちが高まってきた。先輩たちに会うのは5年ぶりだったし、懐かしい話とうまい酒で、学生時代にワープしたような気分だった。
M先輩と美人の奥さんの幸せそうな様子、そして自分の初めての子供が生まれた喜び、そんな雑多な感情がないまぜになり、極度に感情を高ぶらせていた。どのような状況下でも、フォークを歌うときはこの「気分」がとても大切だと僕は思う。「相変わらずいい声だな。こいつは俺よりずっと後からギターを始めたのに、あっと言う間に追い抜きやがったんだ」
歌い終ると、M先輩と奥さんは大変喜んでくれた。何かと世話になった先輩への、これ以上ない僕からの結婚祝いだった。
僕のそばにいなさい /1977
上の娘に続いて1年半後に、息子が生まれた。僕たち夫婦はたちまち忙しく子育てに追われる身となったが、そんな中でも、フォークは常に身近にあった。
この頃よく聴いていたのが、イルカと及川恒平だった。上の娘は音感が鋭く、イルカや及川恒平のアルバムをかけてやると、どんなに愚図っていてもたいていは機嫌がよくなった。レコードに合わせて娘が楽しそうに手を降り、リズムをとっている当時の8ミリ映像が、家族の大切な記録として残っている。「忘れたお話」のアルバムを新入社員のときに渋谷で偶然見つけて以来、及川恒平のアルバムは欠かさず買っていた。買い落としがあるといけないので、近所のレコード店に行き、「及川恒平のアルバムが発売されたら、必ず買うのでとっておいて欲しい」と強引に頼んだら、快く承知してくれた。以降、買い落としの不安からは解放された。
及川恒平の曲は、家族の8ミリ記録にも僕自身のギターでBGMに使ったことがある。「引き潮」がそれで、伊豆に海水浴に行き、静かに海が広がるシーンにあてた。僕はそのことをすっかり忘れていたが、つい先日、久し振りに8ミリ記録をながめていたとき、そのことに気づいて自分でもひどく驚いた。及川恒平の歌で当時僕が好んで歌っていたのが、「おやすみなさい」や「僕のそばにいなさい」、そして「懐かしい暮らし」だった。この3曲はセットで何度も何度も歌った記憶がある。3曲続けると、ある男女の愛のストーリーになるところがミソだった。
あまりしつこく歌うので、まだ幼かった娘は僕がギターで歌う及川恒平とレコードから流れてくる本物の及川恒平との区別がつかなくなり、しまいには「このレコードはお父さんが歌ってるんだよね」と言い出すほどだった。「おやすみなさい」は愛が成就する歌で、優しいメロディラインがとても好きだった。「階段を登り詰めた処にある…」の出だしが、新婚時代に借りていたアパートによく似ていて、歌の世界を自分と妻とに重ね合わせながら、いつも気分よく歌っていた。
「僕のそばにいなさい」も愛の歌だが、歌詞にちょっとひねりが効いている。「君は本当の僕を知らないけれど、いつか僕が豊かな女にしてあげる。だから僕のそばにいなさいよ」といった内容で、やはりこれも自分と妻の関係を代弁しているように強く感じ、毎日のように歌っていた。
僕には妻に対する理想像のようなものがいつも胸の中にあり、この歌を歌いながら、暗黙のメッセージを妻に投げかけていたような気がする。おそらくそのことは妻も感じとっていたはずだ。
年月が重なり、自分のそうした思いが妻に対するある種の思い込み、押しつけであることに気づいたとき、この歌をくり返し歌うことはしなくなった。
この歌に限らず、及川恒平の歌は自分の生き方暮し方、そして自分と妻との関係とシンクロし、重なりあうことがしばしばあった。そんな歌手とはこれまでも、そしてこれからもおそらく巡り合えない。そしてフォークだからこそ、このような歌い手と聴き手の不思議な関係が成り立つのではないだろうか。話しが少し戻るが、最初の息子が生まれたとき、名前の第一候補に「恒平」が挙がった。「恒」はヒサシイに通じ、とわに続くもの、そして「平」はまっすぐな広がりを感じた。僕の好きな宇宙的イメージにもぴったりはまる。ファンが高じて我が子に同じ名をつけてしまうというありがちなパターンだったが、妻にも異存はなかった。
ところがこの名は僕の身内の反対で、最終的に息子に名付けられることはなかった。理由は些細なことだったが、もちろん及川恒平本人とは無関係である。しかし、僕にとって些細なことであっても、おそらく身内にとっては重大なことだったのだろう。かくして息子は、「拓也」という平凡だが、無難な名に落ち着いた。
季節の中で /1978
1978年、学生時代に寮で4年間同室だったSという男が結婚することになり、名古屋での披露宴に招待された。彼とは学部も同じ機械で、札幌の実家にも数回泊まったことがあり、身内のような親しいつきあいをしていた。
現役で大学に入ってきたSはひとつ年下だったが、風貌が僕にとてもよく似ており、一緒に酒を飲みに行くと、よく本当の兄弟と間違われたものだ。「ぜひ1曲歌ってくれ」
電話でSは当然のようにそう頼んでくる。僕も快く応じたが、問題は何を歌うかだった。
これまでしばしばふれてきたように、自分のオリジナル以外で結婚披露宴であまりうまく歌えた記憶がない。場にふさわしくて気分よく歌える適当な歌が、なかなか見つからないのだ。しかも、その頃は会社での責任もじわじわと増え、連日残業に追われて、満足にギターや歌を練習する暇がない。基本的に立って歌はなくてはならない披露宴の余興の形も、僕を悩ませた。
熟慮のすえ、ギターなしのアカペラで歌うことにした。曲は当時グリコのCMで大ヒットしていた松山千春の「季節の中で」に決めた。歌詞を入念に調べたが、おめでたい席に問題になりそうなフレーズはない。「羽ばたけ高く、強く」「あなたの旅が始まる」のフレーズは、新婚の男女に対する励ましにもなる。披露宴の当日、カラオケやピアノ伴奏はいらない、と事前に言ってあったので、短い祝いの言葉のあと、いきなり歌い始めた。キーのズレが気になったが、歌ってみるとぴったり合っていた。歌う前にメロディを頭の中で何度もなぞっていたことと、最も高い音が出だしにくる、という曲の特徴にも救われた。朗々としたオペラのような曲調なので、何も伴奏がないこともそう大きなハンデにはならなかった。
客席の反応はともかく、自分としては満足のゆく出来だった。そもそも結婚披露宴の歌に対する評価は難しい。おめでたい席なので、どんな余興に対しても誰もがやんやの拍手喝采。感動で聴き手が泣き出すなどということは考えられず、客の反応をうかがうこと自体が困難なのだ。
歌い終ると、見知らぬ中年の男が不意に僕の席に近寄ってきて、酒をついでくれた。「ありがとう、いい歌だった。俺もSや君と同じ大学出身だ。同窓として誇らしかったぞ」
Sの上司だったのかもしれない。彼の言葉に、僕は自分の歌への熱い賛辞を感じた。
神無月にかこまれて /1980
1980年春、会社の常務に呼ばれ、プロの歌手の前座で歌うよう、不意に申し渡された。予期せぬ「業務命令」に、僕はうろたえた。従業員が300人弱の会社だったので、僕がギターやフォークで鳴らしていることは、社長を始めとする役員にまで知れ渡っている。それにしても、プロの前座はないだろう…。
聞けば、ある地方の有力な下請け業者の社長の息子が、プロ歌手として近々デビューするという。会社にとって大切な業者なので、出来るだけの応援をしたい。デビュー前の顔見せでやる東京でのライブの前座で、我が社の社員を二人歌わせることになった。そのトップバッターが君だ…。
重々しくそう告げる常務の話を聞いて、軽いめまいを感じた。その歌手は自分で曲を作る「シンガーソングライター」で、当時フォークという言葉は次第に一時の勢いを失いつつあり、それに変わるのがこのシンガーソングライターという耳ざわりのいい言葉だった。
演歌歌手ではないので、僕のやってきたフォークと大きな隔たりはない。しかし、いずれにしても、プロの前座などやる気はなかった。しかし、話の成りゆきから言って、その場で「出来ません」「やれません」では、どうも通りそうにない。自分の歌がそれなりに受け、感動してくれる人がいるのは分かっていた。しかし、あくまでそれは素人レベルでの話で、いわば座興や趣味のたぐいである。ノーギャラとはいえ、プロと同じ舞台に立つのはどう考えても無理があり、気がすすまなかった。
席に戻って思わず同僚に愚痴ると、「何言ってるんだお前、常務命令だろう。サラリーマンなら、黙って従えよ。それにお前なら充分やれる」と、反論された。彼は励ましのつもりだったかもしれない。
それまでの僕ならそんな彼の言葉に、(そうか…)と、あっさり納得したかもしれない。しかし、当時僕はその年か翌年中に脱サラし、独立することを密かに決意していて、そんな会社の些細な都合のために、自分の生き甲斐であるフォークを歌わされることに、強い抵抗があった。
社員旅行や宴会の場なら喜んで歌う。しかし、「業務命令」にはもう従いたくない…。そんな僕の倒錯した思いとは無関係に、ライブの当日は否応なしにやってきた。場所は六本木の大手ライブハウス。その頃僕は係長職としてたくさんの仕事を抱えていて、日曜以外にあまりギターで歌う時間はなかった。それでも何かやらねばならない。
曲は井上陽水の「神無月にかこまれて」1曲に絞った。喧噪の中でも、ストローク奏法と高音で、ある程度聞かせられるはずだった。店には歌手を担当する音楽プロデューサーも来ていて、何やかやいいつつも、「プロの前でいっちょういいところを見せてやろう」という気負いが心のどこかにあった。
開演が迫ると、がぜん気持ちが落ち着かなくなった。弱気の虫が湧いてくるのが自分でも分かった。事前に満足出来る練習を重ねていれば、こんなことはなかったかもしれない。直属の部長が音楽プロデューサーをつかまえ、「彼は社内ナンバーワンの歌い手なんです。なかなかやりますよ」などと、余計な口添えをしている。
「ほう、それは楽しみだ」プロデューサーが応じた。気持ちがますます縮んでゆく自分を感じた。ライブが始まった。たぶん何もしゃべらずに、いきなり歌い始めたはずだ。ところが、声がまるで出ない。得意の高音が伸びないのだ。客席の最前列には同じ会社の社員が「動員」されていたので、歌い出すと同時に盛大な拍手が起きたが、それはいわば儀式のようなものに過ぎない。舞台の上で僕は自分の不調を瞬時に察知し、凍りついた。
懸命に立て直そうとしたが、どうにもならなかった。それが幸いだったのか不幸だったのか分からないが、この曲はとても短い。おそらく「立て直す暇なく終ってしまった」というのが、本当のところだ。
ともかくも僕は舞台から解放された。歌詞もコードも間違えず、一番バッターとして最後まで歌い終えたのだから、サラリーマンとしては立派に業務を遂行したと言えるだろう。しかし、単なる一歌い手としての僕はみじめそのものだった。僕のあとに歌ったKという新入社員が、カントリーを見事に歌い終えたことが、僕のみじめさに追い打ちをかけた。真打ちとして最後に登場したプロの歌手の歌は、さすがに見事なものだった。僕が最も違いを感じたのは、声量の差である。その夜の僕がその面で特に劣っていたので、なおさらだった。
その後彼は、「5枚同時シングル発売」という話題と共にプロとして華々しくデビューし、大手タイヤメーカーのCMにも曲が使われたりした。しかし、最近ではとんと名前を聞かない。プロでも長くその世界に留まっていくのは、おそらく至難の技なのだろう。
ライブからしばらくたって、「お前なら充分やれる」と僕を励ましたはずの同僚が、「菊地は歌がうまいと思っていたが、やっぱりプロは全然違うな」と妙にしみじみとした口調で言った。
そう、その通りだ、当然だよ。僕は何のけれんみもなく応じた。僕はそのとき、仕事として音楽を選ばなかった若き日の自分の判断が正しかったことを、自ら悟った。これが記憶に残る僕の最大の失敗ライブの一部始終である。
なごり雪 /1982
1981年12月、僕は32才で会社を辞め、故郷北海道に戻って建築デザインの会社を設立することになった。いわゆる「脱サラ」というヤツで、そのてん末はこのサイトの別のコーナーにも詳しい。
引越しは翌年の2月末で、直前になって妻の兄弟姉妹が全員集まって、盛大な送別会を開いてくれた。身内の間でも僕の歌とギターは知れ渡っている。主賓でもあり、何か歌わせられるのは目に見えていた。
送別会の場所は妻の実家で、自宅から歩いて15分ほどの距離だった。
「ギターを持っていこうかな…」妻にそう相談すると、「重くで邪魔よ。頼まれたら、無伴奏で歌えば?」とつれない。東京生まれで東京育ちの妻にとって、身内との別れはやはり辛いのだ。そう思いやると、素直に妻の言葉に従うことにした。宴が進んで、当然のように「菊地さん、お別れに何か歌ってよ」と、声がかかった。歌はかぐや姫の「なごり雪」に決めていた。「別れ」そして「雪」、冬の送別の場に、これ以上ふさわしい曲はない。この曲はイルカも歌って大ヒットし、誰もが知っている歌だった。
アカペラで歌い出した。僕は歌いながら自分が泣き出すのがとても恐かった。それまで東京で積み重ねてきたさまざまな時間や多くの人との出会い、そして別れを考えると気持ちがゆるゆると流れ出しそうで、涙を抑える自信がない。
そこであらかじめ予防線を自分で張った。歌詞は全部覚えているのに、わざわざ歌詞カードを持ち出して、それを見ながら歌ったのである。妻やその姉妹たちは歌が始まると、なぜかそそくさと階下に消えていった。おそらく自分たちの涙で場が湿っぽい雰囲気になるのが、堪えられなかったのだろう。
何とか僕は最後まで歌い切った。「披露宴のときはたいしたことないと思っていたけど、今日の歌は気持ちが入っていて、さすがにうまいと思ったよ」
いつも歯に衣きせぬ口調の義兄の一人が、そう言って珍しくほめてくれた。しみじみとした心に残る送別会だった。
僕たち一家はこうして住み慣れた東京を離れ、北の街へと旅立った。(次回で一段落します)