その3 .......フォークで五月病を克服



雨が空から降れば /1973



 1973年4月、僕は北海道から上京し、汚水処理プラントの工事技術者として働くことになった。フォークとは縁もゆかりもない生活のはずだったが、入った社員寮の食堂の片隅に、持ち主のないフォークギターが、まるで僕を誘うようにぽつりと置いてある。
 僕が学生時代に弾きまくっていたギターは2台あって、どちらも借り物だった。最初はクラシックギター、次はフォークギターだったが、2台目のフォークギターはネックが大きく曲っていて、太い弦をまともに張るとハイコードが全く押えられない。やむなく、4〜6弦だけは張力の弱いガット弦を張ってしのぐという情けない状態だった。
(しかし、ギターがお粗末でも人を泣かせる歌は歌えるんだ、と思いきり強がってみよう)
 当然、荷物の中にギターはない。社員寮にあるギターを手にとって見ると、僕が使っていたものより、はるかに立派で弾きやすい。新入社員なので時間はたっぷりあり、暇にまかせてポロポロやっていると、めざとい寮母のおばさんに見つかってしまう。

 1週間たって、社員寮での新入社員歓迎会が開かれた。自己紹介のあと、いきなり新入社員で何か余興をやれ、と寮長から命令された。社員寮に入った新人は3人だったが、僕以外の二人は高卒でまだ場慣れしていないのか、モジモジしてうつむいたままだ。
 すかさず寮母のおばさんが、「菊地さんは、ギターが弾けるわよ」とそそのかす。このときは、(もしかしたら何かやらされるかも…)という心の準備があり、事前にギターのチューニングだけは済ませてあった。
 そこで六文銭の「雨が空から降れば」を歌った。15人前後の小さな寮の食堂で、皆静かに聴いてくれ、歌い終ると寮長がしきりにうなずきながら、「うまい」と、ビールを注いでねぎらってくれた。

「フォーク部長だったマツダさんより、ずっと上手よ」と寮母さんが持ち上げ、そうだ、ずっと開店休業状態のフォーク部を、あなたが立て直しなさいよ、などと話が妙な方向に発展する。
 このとき、社内にかっては「フォーク部」なるものが存在していたことを知り、右も左も分からない東京で不安に苛まれていた心が、ぱっと明るくなった。

「雨が空から降れば」はとても好きな曲で、「しょうがない…」とリフレインするフレーズが何とも言えずよい。「10年に一度出るかでないかの名曲」と公言している人さえいる。
 僕も学生時代からずっと歌っていて、これまでライブで最も数多く歌っている曲だ。学生時代に入っていたフォークサークルのライブでも確か歌っている。会社の社内旅行でも1回、つい最近の5年ぶりのミニライブでも歌った。
 社内旅行で歌ったときは新婚ホヤホヤで、ある女子社員から、「この歌を歌える菊地さんの奥さんは、とても幸せな人よ」と、真顔で言われたことがある。一瞬戸惑ってしまい、彼女の真意は尋ねなかったが、この曲にある茫漠としたロマンを愛し、座右の曲としている僕への賛辞だったのだろうかと、いまになって思う。

 六文銭の曲は「面影橋から」もよく歌っていて、2曲とも暗譜していた。透明感のあるボーカルの及川恒平の声がとても好きだった。キーや声質などが自分に合っていたし、声から広がるひとつの世界が歌の中で構築されていて、そこに大きな魅力を感じた。



傘がない /1973



 新入社員の歓迎会のあと、ある先輩から部屋に誘われた。聞かせたい曲があるという。暗い部屋の中で赤く光るステレオから、ずしりとしたいイントロが響く。井上陽水の「傘がない」だった。
 名前だけは知っていたが、曲を聴くのは始めてだった。衝撃が胸を走った。社会の現象に耳を傾けつつも、「だけど僕の問題は、今日の雨なんだ」というフレーズに、気持ちが揺れ動いた。

 部屋にはその先輩のほか、僕と一緒に入った新人二人も呼ばれていた。実は二人ともギターが弾けて、フォークが好きだということがこのとき分かった。先輩もかってはフォーク部に所属していたという。

「もう一度フォークをやらないか」
 その場で自然にそんな話になった。頭の中をぐるぐると陽水の金属的な声とメロディが走り抜け、身体がしびれるような感覚に陥った。

 2週間後の給料日、渋谷の楽器店に走ってギターを買った。初めての給料の中から、学生時代に親から借りていた金を返すと、手元には2万円しか残らない。全部をはたいて、モーリスのフォークギターを買った。僕が初めて手にする自分だけの新品のギターで、30年たったいまでも大切に弾いている。
 当時のカタログがまだ手元にあるが、価格は上から2番目で、当時としては決して安い物ではない。(ちなみに、僕の初任給は税込み6万円だった)本当はもう一月我慢して、5万円くらいの高級ギターを買えばよかったかな、といまでもときどき思う。でも、あのときは一刻も早く自分のギターが欲しかったのだ。

 ほどなくして同期のHIROもフォークギターを買った。仕事が終ったあとの夜や休日には、このHIROを始めとする寮内のフォーク好きの連中が僕の部屋にたむろし、僕の部屋が自然にフォーク部の活動の場となり、毎日がライブルームとなった。



雨が降っても /1973



 当時僕は慣れぬ東京の暑さと、学生時代に抱いていた理想と社会人としての現実とのギャップからくるジレンマに陥り、入社一月後には、いわゆる「五月病」にやられていた。まだ親しい友人もいない孤独な都会の狭間で、崩れ落ちそうになる僕を救ってくれたのが、間違いなくフォークだ。
 偶然同じ北海道出身だった同期のHIROも、おそらく同じ心境だったのだと思う。最も足しげく僕の部屋に通ってきたのが彼で、やがてどちらからともなく、二人でユニットを組もう、という話になった。その後2年近くにわたって長く社内で活動することになるフォークデュオ、「TOM&HIRO」の誕生である。

 僕よりも5歳年下だったが、HIROの音楽センスは非常によかった。歌もギターもうまく、それまで出会った仲間とはひと味違う何かがあった。
 ひとつだけ問題だったのは、僕がサイドギターしか出来ず、HIROもどちらかといえばサイドギターが得手だったことである。フォークデュオにサイドギター2台はいらない。歌は僕がリードボーカルで、HIROがサイドボーカルにすぐ決まったが、ギターの役割分担だけはいつまでもはっきりせず、僕たちを悩ませた。

 最初はフォークノートにストックのあるコピー曲をもっぱら歌っていた。発表の場は会社の宴会などをひとまず想定していたので、まるで誰も知らないマニアックな曲は外し、耳障りのいい曲をフォークにこだわらず、ピックアップした。
 しかし、何か物足りない。HIROも同じ気持ちだったようで、「コピーはいつでも出来るから、オリジナルをやろうよ」と、HIROが言い出した。確かにコピー曲にはある程度自信があり、社内フォーク部としての要請があれば、いつでも対応可能なのは間違いない。しばし考え、HIROの要望を受け入れた。

 まず、HIROが春休みに作ったばかりというオリジナルを歌った。詩が観念に走り過ぎている気がしたが、曲は悪くない。それなら僕が得意の詩を書き、HIROに曲をつけてもらおう、ということになった。
 実はオリジナル曲は学生時代に2曲作ったことがある。2曲ともコンテストに応募したが、選外だった。以来、オリジナルにあまり自信はない。しかし、詩だけなら何とかなりそうだった。曲をつける前提で書いたことはあまりなかったが、単純に詩だけに限れば、何作か第三者の評価も得ていた。
 工事現場の行き帰りに閃いた詩を書き取り、社員寮の自室でHIROに見せると、一日で曲がついた。記念すべき二人の初作品である。



 雨が降っても

            1973.5  作詞:菊地友則/作曲:HIRO

 雨が降っても カサをささずに
 君と歩いた あの街角を 歩く僕はひとり
 こどえた両手はポケットの中に
 こどえた心もポケットの中 雨が頬にポツリ

 濡れたコートもぬぎすてられず 道ゆく人は幸せのパラソル
 そんな人にも 気づかないフリして

 雨が降っても カサをささずに
 君と歩いた あの街角を 歩き続ける僕はひとり


 どうってこともない感傷だけの曲だが、テーマに「雨」をもってきたあたり、明らかに「雨が空から降れば」や「傘がない」の影響がみられる。曲調はあくまでアップテンポで、僕の持っていたイメージとはかなり違っていた。しかし、実際に歌ってみるとなじむ。
 驚いたのは、サビの部分のA♭〜Gのコード進行だった。うまい味つけだな、と思った。僕ならまず絶対やらないし、やれない。このとき、HIROに自分にはない才気を感じた。以降、連日の室内ミニライブから、数々の名曲が生み出されてゆく。



春の風が吹いていたら /1973



 6月に学生時代の友人の結婚式が札幌があり、招かれたので帰省をかねて出席した。かなり早くから友人の出演要請を受けていて、学生時代に絶賛を浴びたあの「歌謡劇」を再びやろうと思った。この日のために5月の給料でギターのハードケースを1万5千円も出して買い、飛行機での移動に備えた。
 電話で二人のなれそめを取材し、適当な曲をピックアップする。しかし、あくまで披露宴の余興なので、時間は10分以内という制限つきだった。語りを入れると、2曲までが限界だ。

 このときはシナリオ作りや曲の選択に相当迷った。おめでたい結婚式の場なので、僕の得意とする別離の歌などもってのほか。聴き手の涙腺を刺激する、ある意味で姑息な手は使えない。しかし、「ハッピー」の連発でもつまらない。何とか二人の戸惑いやつまづきの部分を聞き出し、それを克服してゆく過程をシナリオに仕立てあげた。
 結婚式にふさわしいフォークで気のきいた曲となると、意外に候補は少ない。2曲目は、吉田拓郎と四角佳子が当時デュエットで歌っていた、「春の風が吹いていたら」にすぐ決まったが、1曲目がどうしても決まらない。ありきたりの曲は歌いたくなく、苦心のすえ、以下のような2曲に落着いた。

《歌謡劇・K君とMさんのなれ初め》
1曲目「愛の賛歌」〜訳詞:岩谷時子/アルペジオ奏法
2曲目「春の風が吹いていたら」〜吉田拓郎/ストローク奏法

 このときの客は70人くらいで、みな静かに聴いてくれた。2曲とも愛の成就を歓ぶ歌で、もちろん客席の涙などない。苦手なベルトを使い、立って歌ったが、新しいギターの音色に随分助けられたような気がする。

 友人はとても喜んでくれ、仲人さんや他の出席者からも、「すごく良かったよ」と持ち上げられたが、僕自身は不満が残った。全体の構成にいまひとつ納得出来なかったからだ。聴き手の心を揺さぶるという点でも、物足りなさを感じた。いっそ彼等をテーマにしたオリジナル曲で勝負すればよかったかなと、いま振り返って思う。
 以来、歌謡劇からはしばらく遠ざかった。僕のライブでも「外れ」はいくつかあるが、これはその代表例かもしれない。



何もしてあげられないよ /1973



 当時社員寮は大田区の洗足池の近くにあり、電車で30分ほどの渋谷の歓楽街にHIROと二人でよく行った。札幌にはない巨大なレコードショップや楽器店があり、金さえあれば欲しいものは何でも手に入る街だった。
「渋谷ジャンジャン」というフォーク系の歌手が出没するライブハウスにも何度か行った記憶がある。道玄坂で無名時代の武田鉄矢の路上コンサートを聴き、通りすがりに「カレーライス」で有名なフォーク歌手、遠藤賢司に偶然出会ったこともある。(サインは貰わなかった)ともかく、フォーク狂いの僕やHIROにはピッタリの、刺激に満ちた街だった。

 あるとき、渋谷の一番大きなレコード店でフォークのアルバムを見ていると、鮮やかな緑色で両開きの変わったジャケットが目についた。思わず取り出してみたが、写真も何もないイラストだけの絵本のようなレコードだ。表紙には、「及川恒平氈E忘れたお話」とある。

(六文銭の及川恒平だ!)
 思わず叫びだしそうになるのをぐっとこらえ、即座にレジへとむかった。

「雨が空から降れば」「面影橋から」「出発の歌」以降の六文銭の行方ははっきり知らなかった。だが、こうして目の前にリードボーカルだった及川恒平のアルバムがあるということは、彼が何らかの理由でソロ活動を始めたと考えてよかった。
 そそくさと寮に戻り、何度も何度も聴いた。僕の頭の中で、ある種の「憧れ」のようになっていた及川恒平の世界に酔い、どっぷりと浸った。レコードにキズをつけぬよう、テープにダビングしたものをなるべく聴くようにした。ジャケットが汚れるのを恐れ、当時まだ高価だった図書館専用のラバー式のビニールカバーを買ってきて全体をおおった。
 ジャケットに歌詞はついていたが、コードはない。やむなく耳コピーでつけようとしたが、このアルバムの曲はいずれもコードが難解で、聴き取りは困難を極めた。よく歌ったのは、「糸が切れてしまった」で、男女の別離の曲であるという僕の好みのほか、コード進行が簡単だったというのも大きな理由だ。

 あるとき、営業の先輩がいきなりドアをノックし、最近お前が頻繁に聴いているレコードのことで話があるという。さてはあまりに同じ曲ばかりうるさく何度もかけるので、いい加減にしろというお叱りかと思ったが、話しは全く反対で、実はそのレコードを俺も聴きたいのだが、しばらく貸してくれないか?との要望である。
 う〜んと思わずうなった。及川恒平を気に入ってくれたのはうれしいが、キズのことが心配で、正直に言えば貸すのは嫌だった。しかし、先輩を邪険に扱う勇気もなく、少しだけの条件で貸した。

 先輩は毎日のように聴いている様子だった。特に気に入っていたらしいのが、「何もしてあげられないよ」で、食堂でも鼻歌が出るほどである。
 数日たって、こちらから返してくれるよう頼んだ。「まだ借りたばかり」と先輩は不満そうだったが、あれこれ理由をつけて半ば強引に返してもらった。
 またまた数日後の日曜日、その先輩から僕を名指して電話があった。

「菊地、あのレコードの名前と歌手をもう一度教えてくれないか」
 レコード店からの電話だという。とうとう自分で買う気になったようだ。小さな社員寮で、あの「忘れたお話」が、都合2枚も売れたのである。



九月の風 /1973



 季節が流れ、僕も次第に仕事や都会での生活に慣れてきた。僕の部屋を起点とするHIROとのセッションは連日続いていて、録音の機材やマイク、そしてレコード代など、月々の給料の大半が音楽に消えていったが、連日の残業で金だけは充分にあり、自転車放浪旅行や弓道の趣味もすでにやめていたので、何も支障はなかった。
 この時期、月に数曲の量産ペースでオリジナル曲が生まれていた。詩の大半は僕、そして曲の大半はHIROの担当だった。

 当時僕は季節にエラくこだわっていて、月に関係のある曲を順に作ろうとHIROにけしかけ、せっせと詩を書いていた。
 最初に出来たのが「六月の空」で、以来「昭和46年7月…」(このサイトの「詩」のコーナーに掲載)、「八月の宵」「九月の風」と続けざまに4作作った。いわゆるシリーズ物の連作だったが、特に出来がよかったのが「九月の風」で、一年後に作った「TOM&HIRO」としての自主制作アルバムのタイトルを飾ったほどだ。



 九月の風

            1973.8  作詞:菊地友則/作曲:HIRO

 風が吹き抜けてきたよ 白いビルの隙間から
 ああ秋の風 冷たい九月の風
 ぼくの身体 吹き抜けていった
 薄いぼくの胸 風穴があいたよ
 ほら君との思い出 みんなこぼれてしまった

 風が吹き抜けてきたよ 街の枯葉を追いかけて
 ああ秋の風 やさしい九月の風
 ぼくの身体 満たしておくれ
 やさしくぼくの胸 洗っておくれ
 ほら君との思い出 みんな消えてしまうまで
 みんな消えてしまうまで


 風を感じさせるように、イントロでまず6弦だけを低くうなるように何度か震わせ、その後に続く激しいストロークで入るアップテンポの曲だ。社内のごく内輪なライブで何度か披露したことがある。キーは当時Eで非常に高いが、割に軽々と歌っていた。
(いまはCに下げて歌っている)
「ちょっとメロディがビートルズっぽい」と言われたこともあるが、評判はとても良かった。詩はおそらく及川恒平の強い影響を受けている。HIROが札幌の友人に送ったデモテープがきっかけで、あるバンドがこの曲をライブで歌っているという話を聞いたが、そこから全国にヒットしたという話はもちろんない。あくまで素人のノリである。

 この曲のコード進行が「ECECE」と始まって、「G#mC#mEDE」とくる変則的なもの。しかし、これが詩にピタッとはまっていた。
 7行目の「やさしい九月の風」の箇所は、最初は2行目の「冷たい九月の風」と同じメロディだった。しかし、歌ってみるとどうもしっくりこない。ラストに向けての盛り上がりに欠けるのだ。そこでここの部分だけを上にあおって歌うことを僕が提案した。
 ほら、こんなふうにと、自分の感覚で変えて歌ってみると、しっくりなじむ。「そうだね、そっちのほうがいい」と、HIROもそれを受け入れた。
 すると今度はHIROが、5行目と10行目の「ほら君との思い出」がメロディに乗らないから、「ああ君との思い出」に変えろと主張する。歌ってみると確かにそうだ。今度は僕がそれを受け入れた。

 こんなふうに、実際に歌いながら互いに評価しあい、詩やメロディはコロコロとその場で変わっていった。だからこの当時作った曲には、一応便宜的に作詩と作曲の担当が分かれてはいるが、すべて二人の合作と言い換えてもよいほどだ。