イベントライブ顛末記


篠路第三町内会夏祭り /2011.7.24



 音楽仲間のチロリンさんが所属する町内会の夏祭りイベントへの出演を依頼された。お祭り系イベントは苦手だったが、昨年から打診されており、チロリンさんと臨時ユニットを組んで出るという話だったので、承諾した。
 友人を伴って帰省した息子とぴったりスケジュールが重なり、その接待とライブへの準備とに忙殺され、4時間ほどしか眠らぬまま、午前中から慌ただしくライブ会場へと向かう。場所は徒歩20分ほどの近隣公園だが、機材の関係で車で出かけた。
 会場ではすでにチロリンさんがスタンバイして待っていてくれた。実は10日ほど前にチロリンさんが持病の腰痛を悪化させ、歩くのもやっとの状態。ギターの音合わせは不可能となり、やむなく私のソロステージとしてやることになった。
 結局、チロリンさんは今週手術をするらしい。私と同い年だが、ご両親の介護と町内会の世話役、経営する介護施設の仕事などが重なり、身体のあちこちに軋みが出ているようだ。全く人事ではない。

 繰り返すが、お祭りイベント系ライブは苦手。なにせ「叙情歌シンガー」と自らうたっているのだ。酒を伴うドンチャン系イベントは、どのような形でも気持ちが先に引いてしまう。
 しかし、非常事態なので、そんなことは言っていられない。かねてから準備したプログラムを基本に、一人で30分を歌い切る覚悟を決めた。

 11時過ぎからPAのチェックをかねてマイクテストを行う。まだ町内の人は集まっていず、回りは関係者だけだが、なぜかこのマイクテストの評判がよく、1曲毎にさざ波のような拍手をいただく。つい調子に乗って5曲ほどを歌ってしまう。
(あとで考えてみたら、準備段階なのでアルコールはなく、聴いてくれる条件が整っていた)
 12時から祭りは始まり、屋台での飲食をしつつ、12時45分からイベント開始。最初は町内の子供太鼓だったが、この種の鳴り物はお祭り系イベントには強く、音を聞きつけて集まってくる人も結構いた。聴き手はざっと150人ほど。盛況である。

 太鼓は15分間で終わり、すぐに私がステージに載る。スタンバイは完全に済ませてあったので、1時過ぎからライブは始まった。
 この日のセットリストは、好評だった先日の障がい者施設イベントでの構成を基本にし、30分で以下の8曲を歌った。


「上を向いて歩こう」
「涙そうそう」
「手のひらを太陽に」
「北の旅人」(南こうせつ)
「ソーラン節」(北海道民謡)
「さくら」(直太朗)
「ピクニック」(イギリス民謡)
「真珠貝の歌」(ハワイ民謡)


 結論から書けば、不満の残る手応えのないライブだった。子供太鼓の派手なパフォーマンスに「食われた」面もあっただろう。太鼓終了を潮に、開始1時間で飲食の終わった聴き手が、かなり席を立ってしまったこともある。そんな悪条件下でも聴き手を場に引き止める魅力が私にあればよかったが、それは無理な相談だった。
 歌っていて手応えを感じたのは、「上を向いて歩こう」「北の旅人」 「ソーラン節」くらい。特に後半が冗漫に陥ってしまった印象だ。お祭りイベントの責任者もかねていたチロリンさんの要望は30分間の演奏だったが、欲張らずに20分5曲にしておけば、うまくおさまってくれたかもしれない。
 見かねてチロリンさんが最後の3曲にアドリブでリード伴奏をつけてくれた。(予備ギターの用意はあった)おかげでいい感じで歌えたが、それが聴き手に伝わっていたかどうかは、はなはだ疑問。歌い手だけが気持ちよくなっても、ライブとしては全く意味がない。

 そんな中、叙情系フォークの「北の旅人」は本番でもマイクテストでも手応えを感じた。おそらくいまの自分に合っている歌なのだろう。反面、先日の障がい者施設で好評だった「涙そうそう」はノレンに腕押し。全く歌は場によってコロコロと評価が変わる。だからライブは面白く、そして難しいのだが。

 当てたり外したりがライブの定めだ。ずっと「当たり」のライブなど、プロでもあり得ないこと。冷静な自己分析なくして、成長など望めない。
 最近「当たり」が続き、ともすれば増長し、「勘違い」しそうになっていた自分をいましめる、よいクスリとなったステージであった。


 

ALIVEミュージックフェスティバル/2011.7.31



「ALIVEミュージックフェスティバル」という音楽イベントに参加した。東日本大震災被災地支援系のイベントだが、参加条件が「復興に向けたオリジナルのメッセージソングを歌う」「事前の音源審査を通過した者だけが参加できる」という、私にとっては非常に難しいものだった。
 偶然だが、公募を知った直後に完成したオリジナルがあった。大震災以後に初めて出来た曲で、内容的にも公募の主旨にピッタリ合う。運命的な巡り合わせを感じ、急いで仕上げて応募。粗削りだったが、締切までの時間がなく、音源送付がエントリーの必須条件だったので、やむを得ない。

 締切をはるか過ぎても何の連絡もなく、やはり急ごしらえでは無理かと諦めかけた頃、事務局から音源審査を通過したとの連絡があった。担当の方の話だと、イベント要項が新聞掲載になった直後に応募が殺到し、けっこうな倍率だったらしい。
 過去に音源審査は何度か出したことがあるが、通ったり通らなかったり。受け入れ側の好みもあり、なかなかハードルは高いのだ。

 ともかくも予選大会に出る権利は得た。当日は妻に休暇をとってもらい、写真撮影係を強制指名。会場は札幌都心にある音楽ホールで、入ってみるとオープンスタジオのような不思議な造りだった。
 出演は17組中の3番目。リストによると、やはりここでも突出した最高齢参加者で、一番近い方でも50代前半が2名。大半が20〜40代の若手で埋まっていた。

 順番からして大して期待はされていない印象だったが、いざ舞台に上がるとけっこう緊張した。エントリー曲は「雲や風と共に」という、やや難解な切り口の内容。
 調整はうまくいったので声はまずまず出ていたが、(暗譜にすべきか、楽譜を見るか…)で最後まで迷ったすえ、念のため楽譜を置く、という中途半端な選択が裏目と出てしまった。
 かなり最初の部分で一瞬歌詞を見失ってしまう。「幸せに…」というごく短い歌詞だったが、ほぼ致命的なミスで、この瞬間に予選通過の目はなくなった。
(後の祭りだが、楽譜ナシで歌っていれば、このミスはなかったかもしれない)

 しかし気持ちはこれで逆に落ち着き、以降は普通に歌えた。終了後に合計7名の審査員のうち、2名の方から講評をいただいたが、「年齢に似合わぬ美しい声」「少し上がってましたが、完成されています。最高でした」と、おおむね好評。
 しかし、こうした場では美辞麗句が並ぶのが通例で、それを真に受けていては勘違いのドツボにはまる。失敗だったのは自分が一番よく知っている。

 心配していた妻の動画撮影は一脚固定がうまくいって手ぶれもなく、おおむね映っていた。しかし、ズームを使わなかった(使えなかった?)関係か、ライブが始まると目まぐるしく動く強烈な照明に翻弄され、カメラの露出が追いきれず、顔が白く飛んでしまっていた。
 始まりの部分だけがバランスよく写っていたので、ここを静止画として切り取り保存。音声はスレテオでクリアに録れていたが、歌詞の欠けているものをネット掲載する気にもなれず、こちらはお蔵入りである。
(気分が変わったら、応募音源をアップするかもしれない)
 細かい問題点はあるにせよ、動画、静止画像、音源の情報が一度に得られるデジカメでのハイビジョン撮影は、記録手段としては悪くないことを今回知った。

 ほぼ全部の出場者の歌を聴いたが、非常にレベルが高い。そして多くの方が暗譜して歌っていた。終了後の講評でも、「決勝大会出場者は、必ず暗譜してきてください。譜面台使用者はそれだけでマイナスポイントです」とあり、この種のイベントはオリジナルは当然として、暗譜もまた常識であるらしい。
 譜面を見て歌うことがアタリマエのようになっていた我が身にとって、非常にショッパイ場であった。

 延べ6時間に及ぶイベント終了後に発表のあった決勝大会進出者6名の中に、当然ながら私の名はなく、多くは20代の前途有望の若者だった。歌った直後の司会者インタビューでも答えたが、60代として参加できたことに意義のあるイベントだったといえよう。よくぞ音源審査が通ったものと感心する。
 しかし、チケットノルマとして負担した費用の一部が被災地に届けられるようだし、イベントそのものが完全に被災地を向いた内容だったので、(オリジナル曲はすべて直接的、間接的に被災地を歌ったもの)その点でも充分に意義があり、満足できるものだった。

 長くて熱いイベントライブを終えたあと、一日が過ぎて気持ちもやや落ち着き、いろいろと感じたこと、考えさせられたことがあったので追記したい。
「被災地支援」をうたいつつ、内情は上(プロかそれに近いポジション)を目指すシンガーの厳しい選抜の場であった、というのが参加しての実感である。趣味道楽としての音楽を追求するだけの還暦シンガーにとっては、やや場違いなイベントであったかもしれない。

 文句なしで勝ち抜けた(最初に発表された)4組の演奏者が、いずれも20代かそれに近い若手であったこと。5位が同点で並び、審査員の話し合いでも決着がつかず、急きょ決勝枠をひとつ増やして2人とも選抜、という結果だった。
 その後の調べで、この2人がそれぞれ45歳と47歳だった。やはり上位は若手、という審査結果はゆるがない。
(ちなみに、審査員は7人中5人がプロの音楽関係者で、残りはイベント事務局側の方。審査の最終決定権は音楽関係者側にあったことは明白である)

 好みの問題はあるが、冷静に全体を見渡して、決勝選抜者とそうでない人とに、大きな実力差はない印象だった。審査委員長の講評でも同じ言葉があった。すると選択の基準は、粗削りでも傑出した何か、たとえば抜群の声量であるとか、個性豊かな歌唱法とか、楽曲の個性的なメロディラインなどがまずあっただろう。
 このほかに大きな基準があるとすれば、それは若さ、すなわち年齢である。つまり、同程度の実力ならば、将来の可能性で若い人を選抜するという、年長者にとっては冷酷な事実である。

 この基準は音楽界に限らず、文学の世界でも同様である。たとえば芥川賞で同レベルの作品が並んだ場合、間違いなく若い方が選ばれる。理由は簡単で、若いほうがその業界に長く関わり、より貢献してくれる可能性(あくまで可能性である)があるからで、音楽でも文学でもいまや背景には商業主義が固く張りついているから、それは仕方がないことだろう。
「まだまだ若い者には負けない」などと粋がってみても、よほど抜きん出た力がない限り、年長者に勝ち目はない。

 こうした事実がイヤであれば、最初から選抜を伴うイベントには一切参加しないことだ。あるいは、「応募条件は40歳以上」などと、年齢制限が明確なイベントに絞って参加する。
 私は根が意地っ張りなので、あえて年齢制限のないフリーな選抜イベントにエントリーする傾向がある。
(一度だけNHKのオヤジバトルに応募したが、過去の大会に一度も出た例がないソロ演奏だったせいか、音源審査で落ちた)

 音楽や文学本来の姿を突き詰めてゆくなら、年齢など何の関係もないはずだ。しかし、今回も上記のような結果だった。単純な年齢以外に、年長者はおしなべて発想が固く、古いものに縛られる傾向があり、それも間違いなくマイナス側に働く。
 今回のイベントでも音楽的なスタイルが古く、「いつかどこかで聴いたサウンド」といったパターンは、たとえ演奏はうまくて歌唱が優れていても、すべてふるいにかけられてしまった感じだ。
(若手でも古いパターンを踏襲している印象の人は落ちている)
 くやしいが、私もその一人。だから痛みを伴う勝負を避け、自分を甘やかしてくれる場所に逃げ込むのか、はたまた新しいスタイルを追求しつつ、ショッパイ場所に挑み続けるのか、頭を冷やしてしばらく考えてみたい。


 

チカチカパフォーマンス公開オーディション/2011.8.27



 札幌駅地下歩行空間、北三条交差点広場にて実施された「チカチカ☆パフォーマンススポット第1期公開オーディション」に出場。札幌駅地下歩行空間で歌うことは、1ヶ月ほど前に最初にここを歩いたときから閃いていた思いだった。

 ところがいろいろ調べてみると、この空間で歌うのは容易ではないことが判明。場所自体は格安で一般提供されていたが、弾き語りに限定すると、希望する小さなスペースでは個人はもちろん、団体でも借りることは不可だった。
 理由ははっきりしないが、狭い空間なので、騒音の問題が発生するのを管理会社は恐れたのかもしれない。無許可で歌うのは通常の路上よりもはるかに難しいと思われ、状況が変化するまで歌うのは諦めざるを得ない状況だった。

 そんなとき、「チカチカ☆パフォーマー」なるものがこの空間で公募されていることを知った。大道芸が中心だが、問い合わせてみると、音楽でもよいという。
 ただ、「地下空間を通じて街づくりに参画する」という大前提があるらしく、公開オーディションに合格すれば、管理会社の意向に沿って、決められた場所と時間に定期的にパフォーマンスをする義務が発生する。平日開催も多く、商業利用はもちろんできない。

 自由に歌うスタイルを好む私なので、応募するか否かは迷いに迷った。だが、最後は好奇心が勝った。合格しても活動期間は半年限定なので、自分に合わないと判断すれば、以降は止めてしまえばよい。そもそも、合格以前にあれこれ悩んでもしょうがない。

 公募も応募もすべてネットで、合格後のエントリーや告知もネットでやるのだという。時代はみるみる変わっている。経歴書を始めとする書類一式をメールで送り、まずは書類審査の結果待ちだ。今年はこれで3度目の公募イベントへの応募で、そういう年の巡りなのだろう。
 なかなか結果が届かず、ほぼ諦めかけた頃の公開オーディション3日前になって、ようやく書類審査通過のメールが届いた。

 私の出番は全18組中の6番目。3部に分かれたうちの第1部ラストだった。どういうわけか、弾き語りは私ただ一人で、大半がジャグリングやダンス等の大道芸だった。
 当日は妻に休暇をとってもらい、撮影係を強制指名。今年はこんなシーンがやたら多い。開始は午前10時で、私の出番は午前11時50分から。入替えを含めて20分の枠がある。考えたすえ、フォーク系の曲はあえて選ばず、「内外の叙情歌」という切り口で以下の4曲を選んだ。


「赤い花白い花」(日本叙情歌)
「夢路より」(フォスター)
「ブンガワンソロ」(インドネシア民謡)
「サンタ・ルチア」(カンツォーネ)


 地下通路なので静かな空間とばかり思い、静かな曲を並べた。事前調査でもそんな環境のはずが、いざ歌い始めてみると、まるで私の歌に合わせたように、会場の真正面にある携帯D社のブースから、騒音防止条例にふれそうなヤカマシイ呼び込みの声が響き出した。
 負けじと声を張りあげようにも、選んだのは静かな曲調の歌ばかり。それでもめげずに歌い続けたが、中高年の女性を中心に、聴いてくれる人はちゃんといた。あたりが静かであれば、この路線は間違っていないと思う。

 PAのギターのバランスがいまいちだったが、ボーカルの返りはまずまず。リハなしの一発勝負なので、ぜいたくは言えない。
 1曲目の「赤い花白い花」を終えたところで、じっと耳を傾けていた中年夫婦が、「後ろがやかましくて落ち着かんな」と、ぷいと席を立ってしまった。(それくらいウルさかった)
 こうした場で歌っていると、途中で席を立つ聴き手が非常に気になるものだが、反対に通りすがりに歌を聴きつけて近寄ってきて、最後まで聴いてくれる方もいたりし、つまりはごく普通のストリートライブの風景である。あまり神経質にならず、聴いてくれる人に向かって誠実に歌い続けることだ。

 この日は1〜3曲目までの楽譜を横に3枚並べ、曲の間をなるべく詰める工夫をした。譜面台は持ち込みで、マイクスタンドは備え付けのものを使用したが、両方のセンター軸を重ねあわせて配置した。
 譜面の角度は極力水平に近づけ、背面を譜面隠しでカバー。これらはいずれも聴き手に対してなるべく圧迫感を与えないよう配慮したもので、最近どのライブでも心がけている。

 自分の出番が終わったあと、全体の半分ほどを見届け、午後3時ころに撤収。結果はメールで連絡がくるそうで、ここでも媒体はネット。実に徹底している。どんな結果となるかは分からないが、ともかくも札幌駅地下歩行空間で歌う願いは叶ったので、よしとしたい。

 1日経って、オーディションの合格通知がメールで届いた。全員合格かと思いきや、合格率は70%前後。公的な場、しかも札幌都心に完成したばかりの晴れやかな場なので、そんなに甘くはなかったということだ。
 合格者発表の場に立ち会った方によると、「地下歩道を通り過ぎる市民がふと立ち寄り、ひと時を楽しめるパフォーマンスであること」が選択の基準だったとの総評があったそう。

 このところライブの浮き沈みが激しく、 「引率」してくれた妻からは、終了後に「難しいかも…」と言われていただけに、合格を知ってパッと気持ちが明るくなった。
「にぎわい」という面ではパフォーマーの多数を占めるジャグリングやダンスに劣るとしても、「ふと立ち止まる」という点では何とかやれそうな気もするし、そこが選ばれた理由だったかもしれない。

 来月早々に最初の打合せがあるが、当面はターゲットを中高年女性に絞り、平日午後の早い時間にパフォーマンスしようかと思案中である。だいたい月一回程度出演の予定で、場所と時間は前日未明にツイッターで告知します。
 ツイッター告知は事務局側の方針で、実はツイッターを始めた大きな理由がこれだった。無駄にならずによかった…。


 

歌酔倶楽部ありがとう・MJ50 "流れゆく人生"/2011.9.25



 たまに顔を出す居酒屋ライブハウス「歌謡倶楽部ありがとう」の定例イベント「ミュージックジャンボリー・MJ」に参加した。今回は数えて50回の記念すべき節目である。2004.12の初回から丸7年、よくぞ続いた。
 事前情報では、出演者は過去最高の19組。開始は午後8時なので、イベント終了は深夜になることは確実。昼間にDIY作業をやったせいか夕方に疲れを感じ、パワーを温存するべく少し眠って備えた。

 時間ぴったりにライブ開始。今回は見学者や団体参加者が少なめで、参加数の多い割に店内はゆったりしていた。まずは古株のSさんのリードで「あの素晴しい愛をもう一度」をオープニングとして全員で歌う。以降、店内に貼り出されたエントリー表に従って各自の演奏が繰り広げられた。

 私の出番は程よい中程の9番目。「ありがとうforever」というこのイベント用に作ったオリジナル曲があり、数年前の20回記念イベントではトリを務めさせていただいた。
 今回もその流れで同じような話があったが、最近は施設訪問ライブ等に忙しく、このイベントからも足が遠のいている。謹んでご辞退し、還暦シンガーにとって無理のない順序にしていただいた。

 入替え時間を短縮するべく、「MCは簡潔に」「次の出演者は前者が演奏中にそっとスタンバイ」を徹底させた関係で、ライブはトントンと進んだ。
 普通のライブハウスでは考えられないような50回という長寿記念イベントなので、出演者の層も多彩。完全皆勤のマスターは別格として、「ほぼ皆勤」の49回出場者が2名もいて驚かされた。
 私はちょうど1/3となる17回の参加。第2回目からの参加だが、この間途切れそうで途切れず、細々と顔を出していた。

 お店で最初に歌ったのがちょうど7年前。長い中断期間のあとなので、場のさばきも怪しげなヒヨッコの私を成長させてくれたのも、このお店の存在が大きい。
 7年の間にいろいろな人が消え、そして新たに加わった。人の流れを振り返るとまるで人生そのものを見るようで、非常に感慨深い。

 9時50分くらいから私のステージ開始。今回は「50回にふさわしい選曲」という申し合せがあったので、割当て分2曲のうち、前述のオリジナル曲「ありがとうforever」は必須。残る1曲はかなり迷った。
 お店で最初に歌った「雨が空から降れば」にするのが順当だったが、そうなると2曲とも「懐かしく過去を振り返る」という切り口になってしまう。記念イベントなのでそれでも構わなかったが、持ち前の偏屈心が頭をもたげ、何か新しい曲に挑戦してみたくなった。

 いろいろ調べるうち、お店にたまに顔を見せる女性が以前に歌った坂庭省悟の「別れのうた」が気になり始めた。女性は道北在住なので今回のイベントへの出場は難しく、重複の心配はない。
 内容はまさにこの種のイベントそのものを歌っていて、「過去を懐かしく振り返りつつ、そして新たなるスタートへ」という主旨にふさわしい。これでいこうと決め、何ヶ月も前から練習に励んだ。

 数ヶ月ぶりの参加なので、1曲目はちょっと上がった。ギターのピッキングが一部怪しいのはそのせいか。モニターが少し聞き取りにくかったが、いつものように勘で歌う。ギターはともかく、ボーカルの出来はまずまず。
 最近よくやる手法だが、ところどころテンポを無視し、揺らぐようにあえて歌った。曲の持つメッセージを的確に伝えようとすると、どうしてもこうなる。シャンソンではごく普通の歌唱法だが、フォーク系の曲や唱歌などでは、もしかすると邪道かもしれない。しかし、これが目下の自分流。聴き手に寄り添いやすいことも実証済みで、しばらくは続けるつもり。

 2曲目のオリジナル曲「ありがとうforever」は過去に何度も歌っている定番曲なので、古株のメンバーはサビの部分をいっしょに歌ってくれて、大いに盛り上がった。50回記念にふさわしい楽曲であった。
 その後、新旧のメンバーがそれぞれの想いをこめて楽曲を披露。あっという間に時は過ぎ去り、全員で「翼をください」をシングアウトし終えたときには深夜0時半を回っていた。

 MJ50、単なる記念イベントにとどまらず、 流れゆく人生を感じた貴重なひとときであった。また新しい一歩を踏み出せそうな予感がする。参加されたすべてのみなさまに感謝いたします。


 

星の還る場所 〜いつか慈みの雨が/2011.11.6



 都心のカフェで今年2度目となる自主企画ソロライブを実施。今回のライブはいろいろな意味でエキセントリック、つまりはちょっと毛色の変わった内容だった。
 お店の内装が自然素材系で統一されていて、梁材がむき出しの傾斜天井が非常に高く、我が家に似たコンセプトで造られている。市内のあちこちのカフェを散策するうちにたどり着いた店だが、どことなく居心地がよく、だいたい月に一度は顔を出す。
 客が少ないときは店主の女性と趣味や生き方などのヨタ話にふけり、混んでいるときは店主が毎週手書きで発行しているカフェ新聞をひと月分まとめて読んで時間を過ごす。

 通い始めて3年目になるが、雑談の中で「一度ウチの店で歌いませんか?」といった話になった。このあたりの会話の流れは実に自然で、長い月日の積み重ねに裏打ちされた信頼関係に基づくものだろう。
 過去にはいきなり訪れて「こちらの店でライブをやらせてください」といった無理難題を突きつけて当惑された苦い経験もあるが、何も下心がないほど、不思議にこうしたありがたい話が飛び込むもの。人と人とのつながりとはそういうものではないか。

 こうした経緯でライブをさせていただくことになったが、あいにく今年は5月に自主企画のソロライブをやったばかり。続けざまに実施するには集客面で不安があった。
 そこで半年の間をあけ、構成も春とはガラリ変えてしばらく遠ざかっているフォーク系オリジナルを中心にやることにした。

 歌の準備は着々整ったが、集客面では予期せぬ事態が続けざまに起こり、かなりの苦労を強いられた。一介のアマチュアが年に2度もソロライブを仕掛けること事態に無理があったということだ。
 とはいいつつ、当日になると長年の友人の好意にも助けられ、有料入場11名、さらにはお店のオーナー夫妻もライブ中は客席に座っていただき、こじんまりとした暖かい雰囲気の中でライブをやることができた。

 カフェの片側全面が吹抜け天井の上まで届く豪快なガラス張りで、そこから星のきらめきや街灯の光、車のヘッドライト等が室内にゆらゆら差し込むという、独特の雰囲気である。その空気感だけで明らかに歌が変わる。
 PAは持参したが、自らもオリジナルをギターで弾き語るというマスターに客席で事前チェックしてもらった結果、普段の50%ほどのボリュームが最適、との結論。ナチュラルリバーブがかかるので、PAなしの生音でも充分歌える環境だった。

 予定よりかなり早くお客様が全員集まってしまい、時間までを本番とは別な歌であれこれつなぐ。こんなに余裕のあるライブも珍しい。
 19時30分ぴったりに開始。35分で8曲を歌い、5分休んで20時10分から35分で8曲を歌う。事前に配ったプログラムにも記したが、ここから「EXTRA(おまけ)」と称し、さらに3曲を歌う。つまりは自主的アンコールのことで、聴き手に無用な気遣いをさせぬよう、考えぬいた構成である。
 前半は「雨」を、後半は「還る」をキーワードに構成した。MCでは具体的にふれなかったが、全体として震災以降の個々人の精神の在り方、落ち着き場所をイメージさせる内容になっている。

 終了は予定ぴったりの21時ちょうど。後半に喉が一部かすれ、ギターのタッチミスも少しあったが、妻のトータル評価は悪くなかった。何より、機会を作ってくださった店主の女性に喜んでいただけたのが幸い。最も不安だった集客面でも最低限のノルマは果たせた。

 一日経って音源をざっとチェックしてみると、思っていたよりも音はまとも。ボリュームを絞ったせいで歌っている間は自分の声があまり聞こえず、不安を抱えながらの進行だったが、出来としてはそう悪くない。
 とはいえ、年に2度の自主企画ライブ、しかもそれがソロとなると、集客面や気力体力面で相当きついことは確かである。当分は身の程をわきまえ、介護施設や地区センター、そして通りすがりを中心とした活動に専念したいと思う。
 活動を細く長く続けるには、何ごとも程々が肝心である。

 数日経ってカフェのオーナー夫妻から、素晴らしいライブ写真集が送られてきた。何も話を聞いていなかったので、びっくりした。小型の上質なアルバムに、当日のお店の玄関風景から始まり、ライブの進行に合わせた写真が順に20枚並んでいる。
 ライブ中に夫妻が交代でデジカメを操作しているのは気づいていたが、背景スクリーンの裏から撮った影絵のような写真や、お店の外からガラス越しに店内を写した写真など、視点が非常にユニークである。

 見開きには「菊地さんに感謝の気持ちをこめて」と自筆の添え書きもあり、作成には大変な手間がかかっている。ライブの出来はともかく、その心遣いがありがたくて非常にうれしい気持ちになった。いい記念になりそうだ。


 

ライブ酒場Life・おんはつvol.4/2011.11.26



 近所のライブ酒場での弾き語りイベント「おんはつ」に参加。今春から始まって都合4度目だが、前回は超多忙の9月に実施されたため、スケジュールが合わずに不参加だった。
 今回はマスターから直接参加の打診メールがあったが、うまい具合に実施日がぽっかり予定の空いた11月末。しばしご無沙汰していることもあり、忘れられないうちにと参加を決めた。

 ライブの予定はなかったが、同じ日の夜に町内の役員会がある。要職ではないが、街灯担当部長を仰せつかっており、この日は町内街灯のLED化という、重要な案件があった。
 しばし迷ったが、事情を話して15分早く実施される町内役員会にまず参加。LED街灯の議案は優先して取り扱っていただき、ライブにはこれまた事情を話して遅れて参加することにした。

 この夜はアルコールは断念し、なるべく早く着くようにと車で出かけた。ところが40分遅れでお店に着いてみると、なぜかライブはまだ始まっていない。偶然だが事情で遅れる人が相次いで、やむなく開始を遅らせるという。
 拍子抜けしつつ集合を待ち、1時間遅れの20時からようやく開始。この夜は全体的に集まりが悪く、参加は4組だけだった。出演はマスターとママのギター&琴ユニット、ギターインスト2人組、ピアノソロ弾き語り、そして私である。参加数は少ないが、バラエティには富んでいた。

 聴き手は合計11名とまずまずだったが、とにかく歌い手が不足している。通常は1組2曲10分以内という取決めだが、この夜に限っては各自が歌いだけ歌ってよいという、非常にゆる〜いライブとなった。

 2組終了後の21時少し前に私の出番となったが、用意した2曲はオリジナルの「誰も知らない夜」とカバーの「帰れない二人」(井上陽水)。とにかくゆる〜いライブだったので、特にあがることもなく、ほぼ自宅練習モードで歌い終える。
 スピーカーの数を最近増やしたとかで、ステージ上では抜群に音が聴きやすくなっていて、いい感じで歌えた。

 楽譜を2曲分しか用意してなかったので、さっさと撤収しようとしたら、もう少し何か歌って欲しいようなことをマスターが言う。歌うとすれば、楽譜なしで歌える曲しかない。
 暗譜している曲は数少ないが、その少ない中から咄嗟に「どうしてこんなに悲しいんだろう」(吉田拓郎)を選んで歌う。唱歌ならけっこう暗譜しているが、場の気分を考えるなら、ここはやはりフォークだろう。1年近く歌っていない曲だったが、大きなミスなく何とか歌えた。

 参加自体が綱渡りだったが、何があるか分からないのがライブというもの。不測の事態に備え、余分な楽譜くらいは持ってゆくものだと改めて学んだ。歌自体の出来はまずまずだったことが救いではあったが。