北海道神宮フォークうたごえまつり /2005.6.15
「土俵ステージでフォークを熱唱しませんか」
そんな見出しが踊っているのを新聞で見つけた。6月中旬に実施される北海道神宮例祭に協賛し、地域FM局が主催で実施されるコンテストの出場者募集告知だった。「境内にある土俵を舞台に、フォークを歌おう」という、ちょっと変わった趣向である。
そうしたアマチュアコンテストがあることは以前から知っていたが、あえて参加するつもりはなく、積極的に調べることもなかった。しかし、要項を詳しく読むと、
「岡林信康や吉田拓郎に代表される60〜70年代フォークを熱く歌おう」
「ギター等の生楽器で弾き語り可能なアマチュアのソロかデュオに限定」
とある。この2行に妙に心が動いた。20歳あたりから切れ目なく続けている生活に密着したフォークの活動、基本的に誰のサポートも得ず、たった独りで歌もギターもやってしまう演奏スタイル、そのどれもが募集要項に合致する。
しかも、ライブはコンテスト形式で、優勝者には賞品まで出るという。音楽関係のコンテストに出た経験は一度もなかったが、元来の好戦的な性癖が、ゆらゆらと気持ちを動かした。
(これは自分が参加すべきライブではないのか…)
勤めから戻った妻に相談すると、妻も反対しない。さっそく要項を取り寄せると、歌はカバーの2曲限定で、申込み時に記入する必要がある。新聞記事を読んだ瞬間にまず閃いたのは、岡林信康の「今日をこえて」、続いて井上陽水の「東へ西へ」だった。
迷わずこの2曲を記入し、2月末から本格再開したこれまでのライブ活動と、20歳からのフォークにかけてきた「熱意」をしたため、その日のうちにFAXでエントリーを済ませた。
日々の忙しさに追われ、申込んだことすら忘れかけていた頃、主催の放送局から電話があった。予備審査が通り、本選に出られるとのこと。今年は新聞での告知のせいか、申込者は予定の5〜6組を大幅に超える20組。かなりの激戦で、選考審査の結果、出場予定数を急きょ7組に増やしたのだと言う。
その場で担当者と歌う曲や演奏時間の確認をしたが、「菊地さんの選曲は大変渋い。他にはどんな歌が歌えますか」と聞いてくる。選曲の変更はまだ可能とのことで、岡林信康は歓迎するが、それに比べて井上陽水はメジャー過ぎる印象とのことで、どうも初期のフォークをもっと歌って欲しそうな口ぶりである。確かに陽水は、多少一般受けを意識した選曲だったかもしれない。
基本的に誰でも歌えますが、初期のフォークで好きなのは、加川良でしょうか、と率直に答えると、いいですね!加川良、関西フォークの代表ですし、と反応が妙に熱い。
実は記念すべき最初のライブでは、加川良の「戦争しましょう」を歌ったんです。あれは長過ぎますから、今回もし歌うとすれば、オーソドックスなところで「教訓 I」あたりでしょうか…。
電話で長々と話すうち、いつの間にか曲目が井上陽水から加川良へと変更になってしまう。岡林信康と加川良とではあまりにもマニアックで過激すぎはしないかと気になり、「こんな歌を境内で歌っても構わないのでしょうか?」と恐る恐る尋ねると、その辺は大丈夫、一向に構いません、と断言する。それでは歌わせていただきます、と私も応じた。
記憶が定かではないが、加川良の「教訓 I」は当時いわゆる放送禁止歌、岡林信康の「今日をこえて」もかなり過激な歌詞で、一般受けするような曲ではない。ましてやコンテストともなれば、選曲の時点でかなりのハンデとなりそうなのは目に見えていた。
しかし私はこのとき、なぜかこれらの歌を無性に歌いたかった。その理由をうまくは説明出来ない。強いて言うなら、「この機を逃したなら、自分の人生で、もう2度とこの歌を公衆の前で歌う機会は訪れないだろう」という、漠然とした予感である。
はっきり書く。人生の終盤を迎え、私は自分の人生に多大な影響を与えたに違いないこの2曲を、ぜひとも歌い切ってみたかったのだ。たとえその選曲が、コンテストに悪い影響を与える可能性があったとしても…。
本選の日はすぐにやってきた。ステージは札幌の西にある北海道神宮の境内。祭りの中日なので、かなりの混雑が予想された。本番は夕方6時からで、昼間の2時からリハーサルがある。平日だったが、ちょうど大きな仕事を請負っていたクライアントを拝みたおし、1日だけ臨時休業にさせてもらう。
市内では北海道神宮祭の中日を休みにする地場企業もまだ少なくなく、相手先も渋々応じてくれた。
集合時間に5分遅れてかけつけると、他の出演者はすでに土俵横の控室に集まっていた。出演者や曲目、出演順などを記した詳細なスケジュール表をもらうと、何と私の出番はラスト、いわゆる「トリ」である。
実は本番前から何となくそんな予感があって、「もしかしたらトリをやらされるかもしれない」と妻には言ってあった。自分でも覚悟していたので、まあ仕方ないかな、といった感じで受けとめた。
リストに記載された年齢をみると、私は出場7組の中の最高齢。なるほど、トリをやらされても文句は言えない。他は大半が30代後半から40代。多感な青春時代にフォークに巡り会った年代で、これはある程度納得がゆく。
驚いたのは、19歳と20歳の若い女性ユニットが出演者の中に入っていたことだった。まるで私の娘か孫の年代だ。この年で60〜70年代フォークとは恐れ入った。
すぐにリハーサルが始まったが、もちろん出演順である。私はラストなので延々と座席に座って待たねばならないが、その分、他のメンバーの歌をゆっくり楽しむことが出来た。
興味深かったのは、各出演者のリハーサルのやり方だ。多くは他の出演者の目を意識してか、手の内を見せない。ギターをポロポロつまびくだけだったり、歌の出だしワンコーラスだけを軽く歌う、といった案配なのだ。本番前からすでにコンテストは始まっているかのような、ある種油断のならない緊張感が場に漂っていた。
そんななか、若い女性二人組と、私の直前のソロの男性だけは本番と同じスタイルでほぼ完全に歌ってくれ、大いに好感を持った。コンテストなどといっても、しょせんは地元のお祭の一イベントに過ぎない。ここで勝ったからといって、何がどうなるというわけでもない。出し惜しみせず、どんどん披露すればよい。私はリハーサルをそんなふうに考えていた。
最後に舞台に上がった私はもちろん、MCから本番と全く同じスタイルで臨んだ。会場を見回すと、音につられてリハーサルを見物に来た観客が、20人くらいは軽くいる。
「いまご覧のみなさんは、夕方の本番にはいらっしゃらないかもしれませんので、私は本番と全く同じように歌わせていただきます」
舞台に上がって観客をぐるり見回し、堂々とそう宣言した。
意気込んで歌い始めたが、明らかに調子が悪い。仕事に追われ、前日寝たのが明け方の5時過ぎ。起きたのが10時で、身体には倦怠感が漂っている。数日前に発病した過労からくる背筋痛も、まだ完全に癒えてはいない。私の場合、喉の調子は体調に正比例する。特に高音の伸びが悪くなるのだ。
こんなとき、訪問ライブだったら、曲にあわせてキーを微調整する。ところが悪いことに、この日選んだ2曲はいずれもカポなしのGで、カポによる転調は不可能だった。急きょFに下げる手もあったが、メッセージ性の強いこれらの曲を安易に下げて歌うと、インパクトが弱くなってしまうし、本番直前での転調はミスの元にもなる。
結局そのままのキーで歌ったが、案の定、1曲目のサビの部分で声が出ず、喉を細く絞ってごまかす。2曲目は歌自体のキーがやや低く、その分救われたが、やはりラストのサビの部分にいつもの伸びがない。
何とか歌い終えてそそくさと舞台から降りると、電話ですっかり親しくなった放送局の担当者が、「さすがですね」とねぎらってくれるが、「今日はダメ、最悪です」と、つい対応が無愛想になっていた。
リハーサルから本番までにはかなりの間があり、担当者に断って私はいったん土俵ステージを離れた。明るいうちに仕事の用事をひとつ片づけなくてはならない。
重いギターを再びかついで長い参道を歩き、都心に戻って不足している仕事用の特殊な備品を専門店で調達する。5時に妻と待ち合わせる手はずになっていたが、前夜の疲れがどっと出て、待合せ場所のベンチに座っていられなくなった。
これはイカンと、近くのコンビニに走り、栄養ドリンクを買う。食欲はないが、何か食べないともたないので、オニギリをウーロン茶で無理矢理流し込む。再びベンチに戻ってうつらうつらしていると、妻が現れた。
「顔色が悪いわ、大丈夫?」
心配そうな妻の顔。リハーサルでまるで声が出なかった、かなりヤバそう、今日はきちんと歌い終えることを目標にする、と正直に打ち明けた。
本番まではまだ少し時間があったので、近くのマグドナルドに入り、マックシェイクを飲んでしばしの休息。妻を前にあれこれ話すうち、少し元気が戻ってきた。ビルの5階に停めた駐車場に戻り、周囲に人影がないのをいいことに、ギターを引っ張り出してもう一度予定曲を1番だけ歌ってみる。
まだ普段の60%くらいの出来、という妻の評価だったが、それでもリハーサルよりは声が幾分回復した気が自分ではした。
再び神社に戻り、駐車場からの長い上り坂の参道を、延々と歩く。ギターケースにはストラップがついてなく、この日のように歩く距離が長いと、重さがこたえる。ライブでの移動が頻繁になってきつつあるので、そろそろショルダー式のギターケースをそろえる時期かもしれない。
途中から妻がギターを持ってくれて、非常に助かった。
「だって、これはマネージャーの役目でしょ」
そんな泣かせることを言う。
ステージに戻ると、進行がかなり遅れていた。私の出番は早くても7時半以降だ。待ち時間がさらに長くなり、気持ちのもっていき方が難しいが、条件は皆同じだ。
楽屋にいた他の出演者と雑談したり、最初にあるプロ歌手のステージを見物したり、司会者とインタビューの打ち合せをしたりして、時をすごす。天候に恵まれたこともあり、土俵を階段状にぐるりと取り巻む野外の客席には、スタッフや関係者を含めて200人近い人があふれていた。
6時半ころからアマチュア歌手の歌が始まったが、私は自分の体調を考え、ずっと楽屋に引きこもっていた。夕方になると急速に気温が下がってきて、ぼんやり外にいると、体調をさらに悪化させそうだった。楽屋はステージからそう遠くなく、音が何となく部屋まで聞こえてくるし、ステージ進行も窓から何となくうかがえた。
楽屋には例の若い女性二人組がいて、楽しそうにずっと歌い続けている。それも、今日の歌とは無関係な歌ばかりだ。歌うのが心底好きなんだな、と見ていて感心した。
知っている歌が多かったので、ギターのキーを合わせ、私も途中で歌に乱入したりした。いわば、突発的なセッションである。彼女たちは少しも拒まず、うれしそうに一緒に歌ってくれた。そんな様子を端で見ていた別の出演者から、(いいオヤジが何やってるの)といった顔で苦笑されてしまう。
自分の出番の二つ前には、ステージ横でスタンバイしなくてはならない。4番目だった彼女たちのステージが終わる頃、舞台横へと向かった。
私の演奏は7時40分頃から始まった。「トリですから、よろしくお願いしますよ」などと担当者からダメを押されるが、自分の体調をふまえ、とにかく最後まで歌い遂げてやるぞと、覚悟は決めていた。
司会者の誘導でステージに上がると、闇の中に複数のスポットライトが当たっていて、ステージがぽっかり浮かんだように見える。闇は客席をも深く包んでいて、後方までは見通しがきかないが、「闇の中に浮かぶ舞台」は、昔から好きなシチュエーションだった。この時点で、(何とかいけるかもしれない…)という漠然とした予感が走った。
1曲目の前のMCは自己紹介程度にとどめ、少なめにする。これはステージの常識だ。客は話を聴きに来てるわけではなく、あくまで歌を聴きに来ているのだ。その聴き手の気分を、歌う前からそいではいけない。
歌い出すと、リハーサルよりも声が出ているのがすぐに分かった。200人近い聴き手、闇に浮かぶスポット、栄養剤による調整、もって生まれたここ一番での舞台度胸、そんなものがすべてプラス側に作用したのかもしれない。
リハーサルでごまかした後半のサビの部分も、きちんと地声で乗り切った。不安が先行して客席の反応をうかがう余裕はとてもなかったが、最悪の体調下でも何とか聴かせる歌が歌えたことにひとまず安堵し、自信を持った。
2曲目の前のMCはやや長めにし、(それでも1分前後。どのようなステージでも、1分を超えるMCは要注意で、漫談でもやらない限り、その時点で聴き手は引く)今日歌う歌と自分との関わりを、簡単に説明した。
「閉じこもっていた自分を外へと誘ったのが岡林信康だったなら、虚勢を張っていた自分を内なる世界へと導いてくれたのが加川良でした」
そんな主旨のことを話した。この言葉とふたつの歌の内容とを照らし合せ、その意味を理解してくれた方が、果たして会場内にどれほどいたかは分からない。しかし、私の話と歌から、何かただならぬ気配、歌と人生にかける情念のようなものを感じ取ってくれた方は、必ずいたと信じたい。
2曲目が始まった。1曲目と違い、歌いながら客席の反応をうかがう余裕があった。曲間のMCの効果もあってか、聴き手の気持ちがステージにいる私の側一点に集まってきているのを、はっきり感じた。その高揚感は私の気分をさらに高めた。
声の調子を強めたり弱めたりするたび、聴き手と結んだ糸がピンと張り詰めたり、ふっと弛んだりするのが分かる。聴き手はまるで私の言いなりだ。好調のときにしばしば訪れる、独特の感覚だった。歌が進むにつれ、客席は水を打ったように静まり返った。
そして、ラストの「青くなって尻込みなさい〜」のリフレインでは、未だかって出たことのない不思議な声が出た。それがどのような声であるのか、その場に居合わせた人、そしてたとえ束の間でも、私の歌にかける何かを感じ取った人にしか、おそらく理解出来ないものだったと思う。激しく、強く、しかし確かな声である。
最悪の体調でもそんな声が出せること、そんなエネルギーがまだ残っていたことに、歌っている自分自身が舞台の上で驚き、そしてどこか戸惑っていた。この声が出せただけでも、私のこの日のライブは充分意義のあるものだった。
歌が終わった。精魂尽き果てた私は、譜面台から楽譜を外そうとしたとき、軽いめまいを感じて、へなへなとその場に倒れこみそうになった。だが、まだ歌のあとのインタビューが残っている。必死で体勢を立て直したが、後方から近寄ってきた女性司会者が、一瞬いぶかし気に私を見る。彼女には気づかれていたかもしれない。
そしらぬふりで問われるままに答える。何をどう話したか、実はあまり覚えていない。それくらい力を使い果たしていたということだ。
審査委員長でもあったプロ歌手の五十嵐浩晃さんのミニステージのあと、コンテストの結果発表があった。正直に書くと、前日までは入賞をねらっていた。コンテストである以上、参加することに意義があるという論理は、嘘っぱちのキレイ事だ。お情けで出してもらったのならいざ知らず、予備審査を経て出る以上、当然入賞はねらう。それくらいの気概がなければ、最初からエントリーなどしない。
しかし、この日の最悪のコンディションで、リハーサルの時点で入賞は難しい気がしていた。とりあえず、最悪の体調下でも自分としては最高のパフォーマンスは見せた。言葉は悪いが、「歌で客をねじ伏せる」ということも叶ったと自分では思う。しかし、そのことと入賞とは、何か別次元の問題であるような気がしていた。
結果は案の定、選外である。優勝は例の女性二人組ユニットで、「場の雰囲気をカラリと明るく変えてくれた。お祭のイベントに相応しい歌だった」という講評である。その他の賞も同様の観点から選ばれたもので、なるほど、言われてみると、私の歌は暗くて重くて反抗的で、そしてマニアック。およそ「お祭り」「楽しさ」「神社」等の視点からは、遠くかけ離れたものだった。
なぜかサバサバした気分で舞台を降りようとしたとき、新聞で顔だけは知っていたイベントの責任者の方が、舞台後方からすっとそばに近寄ってきて、私にしか聞こえない小さな声でこう声をかけてくれた。
「とっても素敵な歌でしたよ…」
私はこの言葉に救われる思いがした。この日の苦労のすべてが報われた気がし、熱い想いが胸にこみ上げた。
トリを務めた私に対する、責任者としての単なるねぎらいの言葉、そういう受けとめ方もある。だが、大手放送局を飛び出し、自分の信念に基づいて苦心して地域FM局を立ち上げたこの方こそ、私のこの日の歌の意味と意義とを、真に理解してくれた数少ない一人だったのではないか、そんな気がいましている。
表彰式が終わると、妻が見知らぬ女性と共に舞台下で待ち構えている。
「この方、連絡先が知りたいそうです」
そう言う妻の横に、同年代か少し上くらいの品のいい婦人が立っている。
素晴らしい歌でした、感激しました、などとさかんに言ってくださるが、身も心も疲れ果てていたため、話の要領がよくつかめない。
ずっとそばを離れないので、参道までの道を一緒に歩きながらさらに聞くと、どうやら自分も以前歌とギターをやっていて、同年代の私の精力的な活動を知り、カルチャーショックを受けた、いつか私も同じことをやってみたい。どうやらそのような主旨らしかった。
このような場合、ともかく名刺を渡しておくに限る、と先輩アマチュア歌手から聞かされていた。気がむいたらぜひ我が家においでください、一緒に歌いましょう。そう言って名刺を渡し、ようやく解放された。ヤレヤレである。
見知らぬ人がああして声をかけてくれるのだから、ありがたいことだよね。そんな言葉を交しながら、とっぷりと暮れた夜の参道を、妻と肩を並べて歩いた。街の灯が私たちを励ますように小さく揺らめいていた。
コンテストには負けたが、自分と聴き手には決して負けなかった。そんな評価が当てはまる、生涯の記憶に残りそうな祭りの夜だった。
歌酔倶楽部 ありがとう・MJ "ありがとうforever" /2005.6.26
遠方だが、ときどき顔を出すライブ居酒屋でのアマチュア音楽発表会に出た。昨年末に初めて実施され、以降3ヶ月に一度のペース(つまり、年4回)で定期開催されている。
私は2回目から出させてもらっているが、熱気ある会場の雰囲気と良質なライブ環境に魅せられ、今回もまた歌わせていただいた。
3月に歌ったときのテーマが「オトナの愛」で、聴き手の評判もよく、自分としての満足度も高かった。2度目となる今回も同様の路線、つまり、複数の曲を共通するテーマでつなぐ「オムニバス形式」で歌う予定でいた。前回終了直後から、季節も考慮したいくつかのテーマを考え、それに相応しい曲もピックアップしてあった。
6月は雨の季節、雨から入って明日の晴れへの予感とつながる3つの曲を、曲間の語りでシナリオ風に綴る…。いわゆる私の得意とする「歌謡劇」で、そんなイメージを徐々に固め、選曲やシナリオもほぼ完成していた。
ところが、5月末に行った同じ居酒屋店主が別に経営するアイスクリームショップ前での青空ライブで、その場の流れから突発的にオリジナル曲をいくつか歌った。その歌が本人の予想を越える評価。ぜひ、次回の発表会でも歌って下さい、ということになってしまった。
歌がその居酒屋に関わるものだったから、そういう話の方向も当然ある。ちょっと迷ったが、急きょ歌の構成を全面変更し、歌う曲もテーマもすべて変えて臨むことにした。
出演者には、「3曲15分以内」という制限がある。限られた時間のなか、10人を越える歌い手が順に発表する形式だからそれは当然だが、これだけあれば自分の世界を構築するには充分な時間ともいえた。
3曲のうち2曲は、先に書いたいきさつからすでに確定していた。それぞれに「そのお店に関わる歌」という共通点はあったが、残る1曲が埋まらない。いろいろ考えるうち、最近月に数曲の量産ペースで湧き出てくるオリジナル曲で、いっそすべてを歌ってしまおうか?と思い立った。
「3曲ともオリジナル」というのは、ある意味で究極のオムニバスともいえる。何せ、すべての曲が「自分自身」という1本のナイフで切り取られた、共通の切り口を持つからだ。
問題はさしたる実績のないアマチュアの作る3曲が、果たして耳の肥えた聴き手に受け入れられるのだろうか?という懸念である。
訪問ライブや自宅ライブ等でオリジナルを歌ったことは過去に何度かあったが、あくまで他のプロの作った曲間にさり気なくはさむ、という控え目な配置である。カバー曲の助けを一切を借りず、すべてをオリジナルだけで構成するというのは、たとえ3曲15分という短い時間の中であっても、ある種の「暴挙」だった。
ライブ当日までは1ヶ月近くあったが、この間、悩みに悩んだ。しかし、結局は「安全を考えるより、より新しく、より独創性の強いものへと前進したい」という自分の内なる声が勝った。最初の自分の閃きに従い、すべてをオリジナル曲で構成することを、やがて決意した。
この日のプログラムは以下の通りである。
「四季の女(ひと)」(作詞:なんかい/オリジナル)
「愛しき日々」(オリジナル作詞)
「ありがとうforever」(オリジナル)
1曲目は作曲だけが私で、2曲目は反対に作詞だけが私、そして3曲目は作詞作曲の両方が私、というふうに曲順に工夫をこらしてある。曲調もアップテンポから入って緩やかなものに戻し、そして再びアップテンポに戻るという構成にした。
3曲とも他の小さな場で歌い、それなりの手応えを感じている曲で、その点での安心感はあった。
ライブは日曜夜だったが、数日前から練習を重ね、当日も充分に歌いこむことを忘れなかった。練習なしに、行き当たりばったりで歌うほどの自信も実績も私にはない。
最近、ライブ当日に喉の調子や気分をピークにもっていく方法を徐々に会得しつつあり、この日も調整のかいあってか、自宅で歌っていて高音がずいぶんと伸びる。試しにいつもはEのキーで歌っている「四季の女」を、Fに上げてみると、軽々と出る。この歌はもともと自分の特質である高音の伸びを充分に意識して作った曲だ。1番目の曲ということもあり、急きょキーを上げて歌うことにした。
当日の体調でキーを下げることはこれまでたびたびあったが、直前で上げた経験はあまりない。とことん、冒険含みのライブになりそうな予感が漂った。
自分のギターを積み、車で居酒屋へと向かう。この日のように重いギターを持って動く場合は、極力車を移動手段とするよう心掛けている。居酒屋でのライブなので、参加者は一律3000円の入場料を払い、時間内は飲み放題となる。車を使えば酒は飲めないが、酒なしでも歌だけで充分酔える自分を最近見つけつつあった。
人それぞれだが、少なくとも私はこの日のライブを、単なる酒宴の一部などと軽く考えてはいなかった。充分に検討吟味し、切磋琢磨した発表の場、そんなふうに位置づけていた。緊張感を維持するのに、酒はむしろ邪魔な存在となりかねない。
今回のエントリーは店のマスターを含めて12組、私は前回と同じ7番目である。出演者は増えたが、店内の客は前回よりやや少なめの30人前後。しかし、歌う順番も聴き手の数も、私にとってはそう大きな問題ではなかった。要はいかに魂をこめて歌いきることが出来るかだ。
いつものようにマスターの歌からライブは始まった。出演者には前回と同じメンバーも多いが、私の知らない顔も何人か見える。共通しているのは、この「ありがとう」という店の客であることと、音楽がとても好きであるに違いないという事実だ。
車で来ている私は当然として、他の出演者の様子を観察していると、みな一様に自分の出番が終えるまで、過度の酒を控えている。たとえ趣味で音楽を楽しんでいるアマチュアとはいえ、「よりシビアで豊かなサウンドを目指す」という明確な目標があるなら、それは当然のことだったろう。「酒を飲みながらでないと歌えない」というプロも稀にいるが、ささやかなアマチュアである我が身には、まるで夢のような話に聞こえる。
出演者の熱演が続く。汗と涙とが、舞台と客席の両方にはじける。この舞台にかける熱い思いを一様に感じた。お店のスタッフが細かい配慮でそれを支える。
やがて私の出番がきた。いつものようにMCは少なめだが、それでも曲のいきさつや、自分と店の関わりを話すと、「知ってるぞ」などと客席から声がかかる。いつもながらの暖かい反応だった。
1曲目から声がよく伸びた。この曲は店の常連の方が掲示板に記した詩に、私が歌をつけたものだ。ネット社会ならではの手法で、まだあまりないパターンの作品だと思う。会場ではそのいきさつを知っている方も多く、歌っている耳に、会場からの「いいなあ…」という声がはっきり届く。確かな手応えを感じた。
直前でキーを上げたのは結果的に正解で、メロディにうまく情感が乗った。この「旋律上にいかにして情感を漂わせるか?」が、歌を感動的に聴かせることが叶うかどうかの大きな分岐点であり、つまりは聴き手との勝負所である。以前は無意識で歌っていたが、最近は練習のかいあって、どうすればうまく運ぶか、少しずつ分かってきた。
2曲目はストローク奏法だった1曲目から一転して早いアルペジオの曲だったが、最初にあまりに走り過ぎたせいで腕がしびれ、細かい指の動きがあやしくなった。ギターの音を一段と落とし、声を中心にして歌った。はっきりいって、ごまかしなのだが、急場を凌ぐには仕方のない手段だった。
この2曲目の「愛しき日々」は、感情移入が過ぎると自ら崩れてしまう危険な曲でもあったが、充分に歌いこんだ成果か、この夜は流されずに無事に乗り切った。
さて、最後の3曲目だ。マスターの前では一度披露したことのある曲で、ずばり、この店と私との関わりを率直に歌ったものだ。前回参加したライブのことにも詳しくふれている。ぐだぐだ余計な説明はやめ、「とにかく聴いていただければ、すべて分かります」とだけ言ってさらりと歌い始めた。
曲はカーターファミリーピッキング奏法の軽いノリで、聴いているうち、何となく手拍子が出るような仕掛けになっている。いわゆる「みんなで楽しめる」曲なのである。訪問ライブなら、「よろしければ手拍子でもどうぞ」と事前に声をかけるが、ここは聴き手の耳が肥えた場、自然な流れに任せることにした。
曲が進むうち、予想通り、会場から手拍子が湧いた。「ありがとう」のリフレインを何度か繰り返すうち、途中でメロディを覚えたかなりの方が、一緒に歌ってくださった。最後のリフレインでは場内大合唱、私も予定にはなかった高音部を歌い、即興の二重唱にした。
打ち明けると、「みんなで楽しく盛上がる」というシチュエーションは、あまり得手ではない。涙をこらえ、暗い歌をしんみりしみじみ切なく歌うのが、本当は大好きなのである。しかし、なぜかこの夜は大いに盛上がってしまった。仕掛けた張本人は他でもないこの私で、こんなこともたまにはある。
この歌のことは、のちにお店の掲示板でも少し話題になった。「みんなで歌える歌は楽しくていいですね、毎回みんなで歌いたいですね」と。この夜の私のテーマがこの歌のタイトルそのものだったのだから、きっとそれで良かったのだ。
11時過ぎにすべての演奏が終わった。前回は終電の時間に終われ、最後の演奏まで聴くことが出来なかったが、今回はそんな心配はいらない。噂では、ライブの「第2部」があると聞いていたので、そのまま帰らずに残った。
店には半分以上の人が残っていたが、親しく言葉を交す人もいないので、カウンター席にぼんやり座っていると、マスターが近寄ってきた。
「菊地さん、確か前回、
『メガネを買う』というオリジナルを歌っていましたよね」
はい、確かに、と応えると、あちらの方がその曲をぜひもう一度聞きたいとおっしゃっているので、歌っていただけないかと、我が耳を疑うようなことを言う。同時にかなり若い男性が近寄ってきて、前回あの曲を聴かせていただいて、非常に心に残り、すっかりファンになってしまった。ぜひ、もう一度歌ってくださいと重ねて言った。
「あの曲をですか?本当ですか?」
見知らぬ男性の言葉がにわかには信じ難く、二度も念を押した。確かにその曲は同じこの店で前回歌っている。しかし、その時はそうそうたるプロの曲の間に、ひっそりと穴埋めのように入れたものだった。前後のプロの曲ならいざ知らず、なぜよりによってオリジナルのほうを?しかも、それを聴いてファンになってしまったとは…。
正直に書くと、うれしさよりもむしろ戸惑いの感情が先行した。なんだか話が出来過ぎていて、からかわれているような気もした。だが、当の男性は大真面目である。当惑しつつマスターの顔を見ると、せっかくだから歌ってあげてよ、と目が語っている。やむなく楽譜とギターを準備し、再びステージに座った。
実は前回歌ったプロの2曲は自分でも手応えを感じたので、ひょっとしてリクエストがあるかもしれないと前日に何度か練習し、楽譜も用意していた。問題のオリジナル、「メガネを買う」の楽譜は用意がないのでは?と不安が走ったが、ファイルの奥から何とか見つかる。
しばらく歌ってませんので間違うかもしれません、と前置きして歌い始めたが、歌いながらも、(なぜこの曲が…)と戸惑いの気持ちが拭い切れない。
この歌は女性の立場で感情の微妙な移ろいを描いたシャンソン風の曲調である。妻にはとても評判が良かったのだが、かなりマニアックな曲とも言え、一般の受けは難しいと考えていた。それを女性ではなく、若い男性が支持してくれる。本当に不思議でならなかった。
当惑しつつも、ともかく歌い終えると、その男性は大変喜んでくださり、私の戸惑いに追い打ちをかけるように、再び「アンコール!」のかけ声。え〜、と私は思わずよろめいて頭を抱えた。
他に歌う人もいますからと逃げようとしたが、いいじゃないですか、あと1曲歌ってあげてくださいよとマスターの声。ままよと再びステージに上がり、出来たてのこれまたオリジナル、「初恋の来た道」を一気に歌った。
オリジナルに徹底したのは、最初のリクエストのいきさつから考え、この男性が私の独自の世界を最も喜んでくれそうな予感がしたからで、事実その通りだった。
予期せぬリクエストに何とか応え、席に戻ると、3〜4人の見知らぬ女性が順に近づいてきて、次々と声をかけてくれた。大半の方が前回のライブから私を知っている方だそうで、「とても良かったです」「素敵でした」「ぜひ有線に登録してください、リクエストしますから」等、これまた涙が出るような言葉をかけてくださる。
ちょっと出来過ぎだよな〜と、またまた戸惑いと当惑の気持ちが走った。なぜそんなに受けるのか、実は自分でもよく分かっていない。しかし、理由はともかく、本当にありがたいことだった。
「3曲すべてがオリジナル」という大胆な構成で臨んだが、全く予想外のおまけの評価までいただき、収穫多いライブだった。「オリジナル曲で勝負する」という今後の自分の方向性が、ほぼ固まった感じもする。
この夜の結果に奢らず、気取らず、媚びず、本当にいま自分が歌いたい世界だけをただ粛々と歌っていけば、それでいいのかもしれない。だんだんそんな気になってきた。
2005北海道パフォーマー見本市 /2005.7.23
ふとしたきっかけで、観光名所としても名高い旧北海道庁(通称「赤レンガ」)の前庭で歌わせてもらうことになった。広々とした公園で歌うのもいいが、歴史的建造物の前で歌う気分はまた格別のものだ。
「赤レンガの前で歌ってみたい」という気持ちは、かねてからあった。しかし、公園や街角と違い、許可なしで歌うと確実にツマみ出される。なにしろ、国の重要文化財なのだ。そもそも、一介の青空シンガーがやみくもに許可を求めたところで、許されるはずもなかった。
ほとんどあきらめていたところに、赤レンガ前で何かのイベントをやっているらしい、という情報をつかんだ。調べてみたら、「北海道パフォーマー見本市」と称し、街の大道芸人を対象に、夏だけ前庭が公開されている。
ストリート系の歌も立派な「大道芸」には違いない。オーディションにエントリーすれば、ともかく一度は歌えそうだった。締切直前の滑り込みだったが、何とかエントリーには間に合った。
オーディションは赤レンガ前庭で公開で実施される。時間は一人15分厳守で、通過者には10月まで同じ赤レンガ前広場での活動が許される「登録カード」が贈られるという。
気持ちとしては一度歌えば満足出来そうだったが、「オーディション通過」という響きも悪くなかった。前月に参加した別の公開フォークコンテストでは、最終審査であえなく選外にもれている。そのときの教訓らしきものを活かし、ここはひとつ「通過」をねらってみようか…、そんな気になった。
オリジナルだけで臨んだライブ居酒屋での発表会の評価が高く、今回も自分の特質を最大限に活かせるオリジナル曲でプログラムを構成することを、すぐに決めた。
この種のイベントは誰が主催し、誰が審査するかが重要である。調べると主催は北海道、後援が札幌市、運営は依託されたNPO法人で、審査員もそれらの組織から選ばれた人々で構成されている。「パフォーマンスを活用した街おこし、街の活性化」そんな位置づけかな、と考えた。
曲の構成や内容に、ここから大きく外れるものは相応しくないし、引いてはオーディションの不合格につながりかねない。熟慮のすえ、以下の3曲を歌うことにした。
「里山景色」(オリジナル)
「展 開」(オリジナル)
「ありがとう・北海道」(オリジナル)
いずれも別の場で歌った経緯があり、それなりの評価を得ていたが、当日までの2週間、内容の充分な吟味と検討を重ねた。
「里山景色」は昨年充分に推考を加えたあとなのでいじり様がなかったが、「展開」はAメロの繰り返しの単調さが気になり、細かい変化をつけた。併せて詩もかなり変える。
「ありがとう・北海道」は、昨年末から作っている「ありがとうシリーズ」のひとつだ。同じメロディに、様々な感謝のシーンで異なる歌詞をつけている。今回は主催や後援、運営者や参加者にも充分気配りし、イベントに相応しい内容に全面的に書き換えた。
当日、私の割り当て時間は15時30分からで、1時間前に会場に入った。土曜だったが、勤めのある妻は直前にならないと来られない。
会場に一歩足を踏み入れてみて、驚いた。人や騒音、熱気がすごい。まずは受付と音響の打合せを済ませたが、リハーサルやマイクテストは一切ない。いわゆるぶっつけ一発勝負だ。しかし、自分でやる青空ライブはいつもぶっつけだから、これ自体はどうということもない。マイクが駄目なら、いつものように肉声で歌うだけだった。
舞台の前に立ち、自分の歌うイメージを作ったみたが、何となく胸がドキドキする。こんな体験は久々だ。天下の「赤レンガ」に気後れし、どこか舞い上がっている自分を感じた。
これではイカン、落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせ、場内5ケ所のスポットで繰り広げられている様々なパフォーマンスを、時間まで見物させてもらうことにした。
あちこちの色々な芸を見て歩くうち、次第に場の雰囲気に馴染んできた。古典芸や動きの激しいダンス芸には人だかりが出来ているが、私のように歌1本で勝負している方々は、おしなべて苦戦している。見物人は数えるほどで、いったん座るとなかなか立ちにくい雰囲気。同じ歌い手仲間として、ぎりぎりまでそんな孤独なシンガーたちにつきあった。
やがて私の出番がくる。公開オーディションの舞台は正門を入ったすぐ前で、審査員や関係者の数はかなりのものだが、見物人自体はそう多くない。観光客の大半は門を入ってきてチラリと舞台を見、そのまま通り過ぎる、といった具合だ。
厳しいと言えば厳しいが、ストリート系のライブとは、およそこのようなものだ。こんなことにめげていては、青空の下では歌えない。
演奏開始5分前に妻が青ざめた顔で現れる。仕事の予定が大幅に伸び、昼食もとらずに駆けつけたそうだ。デジカメを渡しつつなだめ、「まだ時間はあるから」と落着かせる。これではどちらが出演者だか分からないが、来てくれただけでよしとしよう。
マイクは2本しかなく、司会者と兼用。セットや調整もその場で急きょやったものだが、音はまずまずだった。簡単な自己紹介のあと、まずは1曲目。今回はMCにも充分気を配った。
「故郷の歌を最初に歌います。私の故郷は空知管内の幌加内という町です。いま、ソバ作りで町おこしをやっています」と冒頭に紹介した。「北海道」→「故郷」→「町おこし」という筋書きである。
この歌は完全に暗譜していて、歌いながら会場を順に見回す余裕があった。視線が合った人には目で話し掛けるようにして歌う。施設訪問ライブで培った技だ。
1週間前から充分調整した喉の調子は絶好調に近い。数日前に再発した持病の腰痛がまだ幾分残っていたが、いざ舞台に立ってシャンと腰を伸ばすと、痛みはどこかに吹き飛んだ。
歌う前には気になった他のスポットの和太鼓の大きな響きや、上空をバタバタと飛行するヘリの騒音も、気合いを入れて歌い始めるとなぜか気にならなくなる。これまた不思議。
2曲目、「30年前に作った、人を愛する喜びを歌った曲を歌います。人を愛する喜びとは、すなわち生きる喜びだと私は思っています。歌詞の中に『好き』だとか『愛してる』だとかの生の言葉はひとつもありませんが、全部聴いていただくと、何となくそのことが伝わるはずです」
そんなことを話した。こちらは「愛」→「人生」→「生きる喜び」という、癒しや励ましを意識したシナリオだ。
1、2曲目とも演奏時間は2分ちょっと。MCやカポの交換、楽譜のセットを含めても、3分で終わっている。これは自宅でのリハで何度も確かめた。
最初にあまり長い曲は禁物で、いわゆる場の雰囲気をつかみ、会場を徐々に自分の世界に引込むために、短かめの曲を選ぶよう最近は努めている。
会場を見渡すと、炎天下の広場に人はあまりいないが、周辺の木陰でかなりの人々が聴いてくれている。関係者を含めた人数は、およそ20〜30人といったところだろうか。1曲終えるたびにかなりの拍手がきて、よい励みになった。
3曲目、いよいよこの日の目玉の登場だ。この曲の出来がオーディションを左右すると言ってもよい。演奏時間もこの日最長の4分強。全体の進行がやや遅れていたので、MCを短かめにし、すぐに歌い始めた。
この歌の歌詞は数日前に完成したばかりだったため、歌いながら会場を見回していて、一瞬どこを歌っているか分からなくなった。ときどき出てくる私の悪い癖だが、この日はトチることなく、うまくさばいた。
終了後、さっさと機材を撤収していると、目の前でずっと聴いていた審査員の方の一人から呼び止められた。実はこの方が、今回のイベントを運営するNPO法人の代表の方で、司会者がマイクを差し出し、「講評」のような形式のインタビューがその場で始まる。
「いまの歌、CDに焼いてありませんか?」
「え?まだ数日前に出来たばかりですので、録音はしてませんが…」
「ぜひ、このイベントのテーマソングにしたいんですが」
「えっ!本当ですか?」(うれしさ半分、戸惑い半分)
最初は審査員としての外交辞令のようなものかと思っていた。だがその後、イベント全体を紹介する公式サイトのBBSでも、同様のやり取りがあった。
どのような形であれ、イベントを盛り上げる何かしらの話題にはなるかもしれないと思い、翌日に急きょ録音し、ひとまず自分のサイトにアップした。
肝心のオーディションの結果は、これを書いている時点ではまだ分からない。しかし、現時点での自分はすべて出し、それなりの手応えも感じた。「テーマソング」のことも含め、今後何らかの動きがあった場合、この場で改めて発表したい。
オーディションを受けてからおよそ1ケ月たって、ようやく結果が出た。無事、「合格」である。「赤れんがアーティスト」として今後3年間、赤レンガ前広場での活動を正式に許される「登録カード」が、北海道庁の担当部署から送られてきた。
審査自体が、ある種の危険分子や、極端に質の劣るパフォーマ−を排除する目的のようだったから、通過自体に小躍りして喜ぶほどの特別な意味はないと思っている。
しかし、充分に準備したかいあって、同封されていた審査講評には「曲も含めた全体イメージがとても爽やかで、なじみやすい」との好意的な評価。併せて、「今後の街頭活動では、カバー曲のリクエスト等を受けつつ、オリジナル曲を織り交ぜる構成にすると、より聴き手とのコミュニケーションがとりやすいでしょう」との指摘もあった。
さすがに多くのパフォーマ−を見ている人の視点は鋭い、と感心させられた。「もしオーディションが通ったら、こんなふうに場を組み立てよう…」と、ぼんやり考えていたことと、ほぼ同じ内容である。
とかく独り相撲の自己満足に陥りがちなライブ活動のなかで、やはりこうした第三者からの冷静な評価の目はありがたく、大切なものだと実感した。これだけでもオーディションを受けた意味が充分にあった。
ともかく、まず今年度の第一ピリオドとして、来月から2ケ月間、日曜毎に各パフォーマ−の活動が始まる。具体的な日時はまだ調整中だが、形としてはこれまでやってきた「青空ライブ」に限りなく近いものになると思う。つまり、基本的に大々的な事前告知はせず、あくまで通りすがりの人々を対象にしたいと目下考えている。
ちなみに、審査時に話題になった、「ありがとう・北海道」のテーマソング化は、その後話が具体的になり、1枚だけCDに焼いて実行委員会に送付。深夜に至った委員会の準備作業中、ずっと流してくださったそうである。
2週目の本番でも始めと終わりにテーマとして流す予定だったのが、なぜかCDと会場内のPAとの相性が悪く、音が出なかったとのこと。パソコンで焼いた音楽CDにはありがちなトラブルで少し残念だったが、そこまで評価していただいたことは大変ありがたく、大きな励みとなった。
来月以降の「赤レンガ前広場・青空ライブ」でも、きっと歌わせていただく。
しのろビアガーデン2005 /2005.8.21
夏も終わりに近いある土曜の午後、高校野球も見終わってボ〜としていたら電話が鳴った。
「明日のお昼、もし時間が空いていたら、駅前のビアガーデン特設ステージに出ていただけませんか?」
なんと、1週間前にデモ音源を送っておいた地元FM局イベント担当者からの、突然のライブ出演依頼なのだった。
担当者とは一度も面談していないし、夏のライブはしばしの休息モードのつもりでいた。だが、仕掛けたのは他ならぬ私だったし、自宅から徒歩15分の場所で開催される地元のイベントでもあるしで、すぐにお受けした。
主催はJR駅前の商店街組合で、割当ては正味30分。当然ながらリハーサルのたぐいは一切ない一発勝負である。電話を切ると直ちに候補曲を7〜8曲に絞り、練習開始。ビアガーデンのイベントはその日が初日で、夕方に現地に出向き、担当者と会う。どうやら2日目のプログラムに空きが出来たらしく、いわば飛入りの穴埋め要員のようなものらしかった。
しかし、穴埋めであろうがピンチヒッターであろうが、公衆の前で歌うことに変わりはない。休息モードから瞬時にライブモードに気分を切り替え、会場とPA、客層の調査をして明日に備える。ビアガーデンという場である関係か、客層の年齢層が比較的高く、子供はほとんど見かけない。ここで選曲の微調整をする。
翌日、あいにくの雨模様のなか会場に向かう。普段の散歩コースの駅前通りが会場で、妻の働くスーパーとも目と鼻の先。だが、妻は仕事があってこられない。
私の出番は12時半から1時までの30分だった。受けてから半日後にはもう本番で、これほど調整時間の短いライブは初体験である。だが、どのような状況でもそれなりにこなせなくては進歩はない。当分はチャレンジャーの気持ちで、何でもこなす気だった。
問題はジトジトといつまでも降り止まない雨で、通りを完全に遮断した会場に着くと、真っ昼間ということもあってか人影はまばら。雰囲気としては大半の人が通りすぎてゆく青空ライブに近かったが、この種のライブには充分慣れている。何しろ過去には文字どおり、青空だけを相手に歌ったことさえあるのだ。
ステージには仮設の屋根があり、雨でもギターを弾くには支障ない。12時15分に直前のイベントである「子供ラムネ早飲み大会」が終わり、すぐに準備に入る。と言っても、舞台前室や幕はないので、装備が雨に濡れないようにするには、舞台に上がって隅のほうでギターや譜面台を組立てるしかない。
ギターは前日にエレアコが使えることを確認済みだった。マイクテストで「カントリーロード」「どうしてこんなに悲しいんだろう」をワンフレーズだけ歌う。2曲ともこの日歌う予定のない曲だったが、通りすがりの子供たちの受けがよく、結構注目してくれる。
準備は10分弱ですべて終わり、予定より早い12時25分過ぎからステージは始まった。
実はこの日声をかけてくれたSさんは、地元のFM局でインディーズ系の音楽番組を持っている方だ。どういう経緯で私のデモ音源が回ったかは知らないが、自身もシンガーであり、多くのオリジナル曲を持っているというSさんは、ただ地元の歌い手であるということだけで、私との面談なしに出演を依頼する気になったらしい。
当日の朝、新聞に折り込まれてきたイベントの広報チラシには、多数のセミプロ級の歌い手の名があり、最初に電話を受けたときには、「私などが出て歌ってもいいのでしょうか…?」と、まっ先に確認したりもした。
「大丈夫です。あの歌なら、問題なくやれます」
Sさんは受話器のむこうで、そう太鼓判を押す。デモ音源には各種訪問ライブの音源もダビングしてあり、場のこなし等も含めて、それなりに評価してくれたのだろう。
ともかくも、突発的ライブは始まった。青空系ライブには定番のバンダナを締めようか直前までかなり迷ったが、家からかぶってきたハンチングをそのままかぶって舞台に立つ。
急きょ構成したこの日のプログラムは、以下の通り。
「上を向いて歩こう」
「北の旅人」
「しあわせになろうよ」
「北酒場」
「さくら」(直太朗)
舞台の上から客席を見渡すと、並べられたテーブルには数組の客しかいない。割合にすると10%以下は確実で、客より道路の両側に並ぶ屋台の数のほうがはるかに多いのだ。その屋台にも人影はまばらである。
(雨でも働かなくてはいけない関係者の慰労会と思って歌おう…)
そんなふうに気持ちを切り換えて歌い始めた。
準備期間がほとんどなかった割には、1曲目から調子がよかった。「上を向いて歩こう」を歌い終えると、関係者も含めてかなりの拍手がきた。
フォークはやはり気分だ。飛入りとはいえ、デモ音源を送ってすぐに声をかけてくれたことを私自身が大いに意気に感じていて、それが気分を高揚させていた。
問題は次の2曲目だった。「北の旅人」は週末に放送される地方探訪テレビ番組のテーマで、北海道のNHKでしか流れない曲だ。売れた曲ではないが地方色が強くて穏やかな旋律、万人受けするはずだった。詩の内容も好きだったが、構成上どうしてもアルペジオで歌わなくてはならない。直前まで歌うのをためらっていた理由がこれだ。
青空系ライブでギターの音が小さいアルペジオ奏法は大きなハンデだった。これまで外では、基本的にストローク奏法でしか歌っていない。だが、エレアコなら何とかなるかもしれない…。そう思い直し、直前で歌うことを決めた。
たいしたMCもなしに歌い始めたが、この歌は別の意味で「危ない」曲である。詩のシチュエーションが、私が16歳のときに企てた放浪旅行と酷似しているのだ。ライブで一度も歌ったことがないもうひとつの理由がこれで、家で練習しているときでも、よく涙が流れる。
しかし、この日は事前に充分歌いこんでいたこともあり、ぎりぎりの分水嶺でこらえた。声がかなり震えたが、マイクをうまく使って凌ぐ。
すると、舞台の一番近くにいる老婦人と親子連れとが、身動きひとつせずにじっと聴いてくれている。この種のイベント系ライブで初めて、(つかんだ…)と実感した瞬間だった。
歌い終えると、わずかの沈黙があってから拍手がきた。聴き手の心に余韻が残ったときにしばしば表れる現象である。曲調が雨の情景に合っていたという幸運もあったが、思いきって歌ってみてよかった。
リハひとつしなかった割にはこの日のPAはなかなか具合がよく、特にモニタースピーカーでのバランスがとてもとりやすい。リバーブ(反響音)も程よく、ステージを終えたあとに音響の方に「いい感じのPAでした。おかげで気分よく歌えました」と感謝の声をかけると、担当の方が、「そう言っていただけると、大変うれしいです」と喜んでいた。
3曲目の「しあわせになろうよ」では、客席に長渕剛のファンの方がいて、「長渕剛を歌います」と言うと、「いよっ!」と声がかかる。いろいろな場で歌ってみて実感するのは、かぐや姫と長渕剛の強さだ。ファン層が広く、それだけ反応もいい。聴き手の対象幅が広く、しかも不特定の場合、大いに考慮すべきだろう。
この曲の前、私にしてはかなり長めのMCを入れた。この春に妻との結婚30年を迎え、その記念の「真珠婚ライブ」としてある居酒屋で歌ったこと。なぜか妻よりも他の客に受けがよかったことなどを話した。
歌い始めると、私と同年代とおぼしき女性司会者の方が、じっと聴いている。この種の舞台では、聴いてくれている人の目を見て歌うように努めている。それが一番気分が乗り、歌の出来にも反映されるからだ。
3曲歌って時計を見ると、まだ12時40分。「準備と後片付けを入れて正味30分」と事前に聞いていたが、ラムネ早飲み大会が予定よりも早く終わった関係で、時間は充分にある。当初、演奏時間は4曲20分の予定だったが、明らかに時間に余裕がある。そこで、予定外の「北酒場」をここで歌ったが、これが結果的に誤算だった。
駅前商店街主催のイベントだし、演歌はうってつけだろう、しかも歌の舞台は北海道だ。前日からそう考え、普通はグループホームでしかやらない演歌を、時間があればここで歌おうと考えた。2曲目の「北の旅人」よりもはるかにリスクは少ないはずだった。
ところが、歌い始めても反応がぱっとしない。「北酒場」は3分強で終わる短い曲だったが、生煮えのまま終わった印象で、結果的にこの日最悪の選曲となった。
「北酒場」が受けなかった理由をその後、自分なりに分析してみた。ライブで歌ったことはなかったが、カラオケでは私の定番のひとつだったし、家族の評価も高かった。この日の出来も決して悪くはなかったと自分では思う。
すると問題は歌自体の「新鮮度」と「歴史度」あたりか。発売が1982年でかなりの枚数を売り、レコード大賞までとった曲だが、「しあわせになろうよ」や「さくら」等と比べると、新鮮さで勝負するにはやや色褪せすぎていたし、「上を向いて歩こう」のように、歌謡界の歴史に残るほどの評価も得ていない曲だったかもしれない。
一番問題だったのは、この日の雨空にこのアップテンポの曲がしっくり馴染まなかったことで、あれこれ言いつつも、結局は私の判断ミス、選曲ミスということに落着く。
その場ではなぜか思いつかなかったが、楽譜なしで歌える得意の「雨が空から降れば」をもしここで選んでいれば、自然が恵んでくれた最高の舞台装置の中で歌うことがきっと出来ただろう。これはいまだに悔やまれる失敗だった。まだまだ修行が足りない。
すべてを無事時間内で歌い終えると、客席の端でずっと立って見ていた女性司会者がまっ先に駆け寄ってきた。
「素晴らしい歌でした」
そうねぎらってくれ、名刺を渡された。みると、イベント会社の社長の肩書き。今回のイベント運営を請負い、社長自らが司会進行をしつつ、すべてを取り仕切っているとのことだった。どうも雰囲気がただの司会者とは違うと感じてはいたが、やはり…。
「しあわせになろうよ」のMCは人柄が伝わってきて、とてもよかった、そのあとの歌がいっそう映えた、とおほめの言葉をいただく。プロの司会者につたないMCをほめられ、まんざらでもない。
これまで「長いMCはダメ」と決め込んでいたが、状況と内容如何では歌を引き立てる場合もあることを再認識する。ライブは本当に難しいと改めて思う。
来年は正式メンバーとして出てください。都合がつくなら、我が社の担当する他のイベントでもぜひ歌ってください。社長からそんな言葉まで最後にかけられ、すっかりうれしくなる。
その後、雑談を交しつつ時間をつぶし、3時半からのSさんのソロステージも見た。雨はいっそう強くなったが、それを吹き飛ばすような美声である。特に高音がきれいに伸びる。聞けば、プロのボイストレーニングを定期的に受けているそうだ。たかがアマチュアだが、そうした向上心も忘れてはいけないのだなと、感心させられる。
6曲のうち、オリジナルも1曲あって、それがいわゆる大人のラブソングで心に残った。世の中広い、とまたまた再認識。日々努力しなくては、すぐに置いていかれる。
「いつかまたご一緒しましょう」
そう約束して別れた。いくつかの収穫と反省、そして新たな出合いと発見のあった雨中のライブだった。