家作りエッセイ


街並としての家.... 2006.11.15



 仕事柄、散歩をかねて近隣の家々をよく見て回る。新興住宅地なので、空地だった場所にいつの間にか新しい家が建っていることも多く、建築途中の家や完成した家は格好の学習素材だ。ただ見るだけでも勉強になるし、気になる箇所は写真に撮り、あとで調べてよい工法や素材であれば、自分の設計に取り入れたりもする。
 完成後の住宅で私が最も重要視するのは、その家が街並になじんでいるか否かである。建築は社会的行為であると信じているから、どんなにその家が立派で贅をつくしたものであっても、街並から浮いたものであっては、その価値は半減してしまうと私は思う。

 その家のスタイルを大きく左右するのが家本体ではなく、本来は付帯設備であるはずの物置や車庫だったりする。家そのもののデザインには、街並から突出したものは案外見かけない。
 特に北方住宅の場合、雪や寒さに対する備えからくる必然的なデザインの着地点のようなものがあるせいか、建てた時代毎にある程度の統一感はある。問題は家本体と物置や車庫等の付帯設備とのバランスである。

 家本体には誰もが力を入れ、お金もかける。ところが、いざ物置や車庫となると家本体のオマケのように考えてしまうのか、多くの人はいい加減だ。建築確認申請も家本体だけは出すが、物置や車庫は追加工事として発注され、デザイン的吟味はおろか、確認申請すらもおざなりになりがちである。
 困ってしまうのは、この物置や車庫がほとんどの場合、家の玄関近くに配置する必要があることだ。北国では玄関は普通、通りに近い場所に配置するから、物置や車庫も通りから大変目立つ位置にくる。好むと好まざるとに関わらず、物置や車庫がその家の品格やセンスに、大きく関与してくるのである。

 街を歩くと、家本体と物置や車庫における設計者、施工者、そして建築主の考え方がはっきり分かって、大変興味深い。


とりあえずありゃイイダロウ型
 タイヤや除雪用具など、北国の生活に必要なものはひとまず入りそうなスペースはあるが、いかにも間に合わせ的な既製品の物置や車庫。デザインや材質感も家本体とはまるでかけ離れていて、結果として街並を乱している。
 よく見かけるのが、窯業系サイディングの本体外壁に、金属パネル系の工場大量生産型の簡易な物置や車庫を配置した例。

それぞれ自己主張型
 家も車庫も物置も単体でみると大変立派なのだが、全体で見るとそれぞれが自己主張するばかりで、デザイン的なまとまりがない。
 最近よく見かけるのが、窯業系や金属系サイディングの本体外壁近くに、ログハウス風の物置や車庫を設置したもの。家本体の一部に木材を一部あしらうなどし、デザイン的なつながりを作ってやれば何とか見られるのだが、そんな配慮もない。計画段階で、物置や車庫のデザインを充分に検討していないからだろう。

微妙にズレテル型
 窯業系サイディングの本体外壁に、同じ材質の物置、金属系サイディングの本体外壁に、同じ材質の車庫など、明らかに材質感を統一しようという意志が感じられるタイプ。しかし、残念なことに、その色や模様、質感が家本体とは微妙に異なっている。
 想像だが、おそらく家本体と車庫や物置とを別発注しているせいではないだろうか。業者が変わると、サイディングのメーカーが本体とは変わってしまうことはよくある。
 街並として見た場合の評価は高いのだが、この「ちょっとだけ違っている」という中途半端さが、デザイン的にはいただけない。この場合、材質だけをそろえ、色は思いきって別の色にしてしまうほうがバランスがとれることもある。惜しい。

街並バランス型
 窯業系サイディングの本体外壁に、全く同じ材質と模様の物置をつけたもの。あるいは、金属系サイディングの本体外壁に、同じ材質の車庫を本工事として同時施工したものなど。
 通りから見た際に違和感が全くなく、街並に自然に溶け込んでいる。家作りにおける設計者、施工者、建築主の明確な意志を感じる。



2005.7「和む家」 設計/TOM工房

 北方住宅は「とにかく器があって住めればよい」という時代から、「より暖かく頑丈な家」という質の時代に移り変わり、いまは機能面をおさえつつ、家そのもののデザインの美しさ、そして暮しの豊かさや楽しさを追求するソフト重視時代に移行しつつある気がする。
 あくまで機能重視の流れもあるが、機能追求一点張りでは、やがて限界に達するだろう。

 近い将来それは、「地球環境保護や街並まで意識したパブリシティのある家」という時代に移行してゆくはずだし、そうあるべきだ。設計者や施工者の意識改革は当然だが、最も望まれるのは、資金を出す側である住み手の意識改革である。
 建物は個人の持ち物であると同時に、社会の持ち物でもあるはずだから。