家作りエッセイ


収納に応じてモノは増える.... 2006.5.11



「世界各地の家庭におけるモノ調査」といった主旨のNHKテレビ番組を以前に見た。世界の地域別に国と、そこに住む特定の平均的な家庭を選び、何年か毎に家中にある「モノ」をすべて外に持出し、その総数をひとつひとつ数えて調べるという遠大なプロジェクトである。
 この番組でいつの調査でもダントツのモノの数を誇るのは、日本の家庭である。対象の家庭はどこにでもいるごく普通の40代サラリーマン4人家族。だが、その家にある「モノ」の数は、アジアやアフリカの後進国はもちろん、南米やヨーロッパ、オーストラリア、アメリカなど、世界中のあらゆる国の家庭より、はるかに抜きん出ている。
 調査は大型自動車1台でもエンピツ1本でも「1」とカウントする決まりだから、狭い家でも数はいくらでも増えることになる。

 さて、ここからが本題である。住宅の設計を直接手掛けるようになってから、「収納はあまりなくても結構です」という依頼はもちろん皆無で、「収納はなるべく多く」あるいは、もっと具体的で詳細な注文が出ることが全ての物件に共通していた。
 つまり、テレビの調査を見るまでもなく、日本人にとって「収納」は、生活における重大事項なのである。

 私の父はかって大工の棟梁だった。ハウスメーカーや設計士による家作りがまだ一般化してなかった父の現役時代、家の設計はすべて大工の棟梁によるものだった。当時、私たち一家が住んでいた地域にある家の多くは父の手によるもので、間取りや外観がどの家も似通っていたのを覚えている。
 さて、その父の「設計」による家には、極めて収納が少なかった。私の記憶にある田舎の自宅は、もちろん父自らが建てたものだったが、押入れや棚の全く存在しない、畳だけの部屋(6畳間)が存在した。子供たちはいつもそこで寝る決まりになっていて、襖をへだてた隣室の6畳間に床の間と仏壇、そして押入れがひとつだけ存在した。すべての布団はその中に納めてあった。
 記憶にある家の中の固定された収納は、その幅1820の押入れだけである。衣類はこれまたひとつだけあったタンスにすべてしまってあった。台所や居間にも収納の類いは一切なく、父が作った小さな食器棚がひとつだけあった。鍋やザル類は流しの下と台所の隅に積んであった。

 こんな貧弱な収納でも、これといって困った記憶はない。ちなみに、当時の家に蔵や納戸はなく、農作業用の納屋があっただけである。冬を乗り切る大量の薪は、この納屋の一隅にびっしり積んであった。
 一度だけ母が父に、「古新聞をしまう棚を作って欲しい」と頼んでいたことがある。父は非常に不満そうで、「棚があるからモノを載せる。だからダメなんだ」と、意味不明なことを言った。
「モノを載せるのが棚の役目でしょう」と母も負けずに言い返した。すると父はブツブツ言いながらも、居間の欄間の上に、小さな吊り棚を作った。
 私は父と母のやり取りから、棚がその後どうなっていくのか、非常に興味深く見守っていた。やがて棚は古新聞や古雑誌が捨てられないまま、雑然とした雰囲気に変貌していった。

「棚があるからモノを載せる」と、一見矛盾する論理を苦々しく言い放った父の言わんとすることを私が理解したのは、実はごく最近である。

 当時の田舎の家の貧しい収納空間でも事足りていたのは、日本がまだあまり豊かではなく、家の中のモノ自体が、家の広さと比較してごく少なかったことがまず挙げられる。
 次に、仮にモノが余ってもしまう場所がないので、燃やすなり捨てるなり埋めるなり、その都度処分していたのではないか。(当時、ゴミ収集のシステムはまだない)父が居間に棚を作ったとたん、古新聞古雑誌が処分されず、積み重なっていったことでもそれは裏づけられる。
 推測だが、棚がなかったからやむを得ず不要なモノは処分していたが、棚が出来たのでついそのまま、さして必要でもないモノが累々と放置されていったのではないか。


自宅2階にひとつだけある手作り収納


 家のモノが片づかないのは、収納が少ないから…、と思いこんでいるふしが日本人には根強くあって、それが家の新築という場面で、ある意味では「爆発」する。「とにかく収納をなるべく多く!」という、時に悲痛とも思える叫びが依頼者から上がる背景は、おそらくそのあたりにある。
 しかし、冷静に考えてみると、暮しにどうしても必要なモノは、実はごくわずかであることが分かる。基本的に資本主義社会には、「新しいモノを次々と作り、庶民に売りつけては、その利ザヤで食べる」という宿命的ルールがある。この出口のない循環スパイラルにまんまとハマってしまうと、モノは際限なく増え続け、それに応じて収納も増え続けなくてはならない。

 困ってしまうのは、利ザヤで食べている中に当の庶民も多く含まれていることだ。だが、このトラップから逃れる手段も決してなくはない。

「不要なモノは買わない」「不要なモノを定期的に捨てる」「ひとつ買ったら、ひとつ捨てる」「やたらと収納を増やさない」等々、自分たちの暮しに合ったモノ管理スタイルを、生活の中で毅然と構築することだ。つまりは、世界に誇る「モノ」の絶対数を家庭内から減らす、そのことに尽きる。私たちにはモノを「買う自由」と同時に、「買わない自由」も保証されているのだから。
 日本の老若男女が家の収納力も顧みずに際限なくモノを買い集める(あるいは人から貰う)のは、生活がいくら豊かになっても、どこか満たされない部分を精神に抱えているせいかもしれない。
 もしそうだとすれば、モノと収納のイタチごっこを繰り返すより、まずは精神の確かな置場を探すことが第一である。家作りに限定するなら、それは家に無闇やたらと収納を作るより、暮しそのものが豊かになる工夫を、家そのものにこらすことだろう。

 仕事や趣味のかねあいで予告なしに客がやってくることが我が家ではしばしばあるが、家に入るなり、「どうしてこんなにモノが少ないのですか?!」と驚かれることが多い。予め準備したのならともかく、予告なしに訪問したにしては、家が片づき過ぎているというのだ。
 いちおうは家作りのプロであるので、モノと収納に関しては前述のポイントをおさえつつ、日々シンプルな生活を心掛けている。厳密に調べたわけではないが、たぶんモノの総数が一般の家庭よりも、格段に少ないのだろう。
 モノの総数がそもそも少ないので、床面積を占有する割には有効な居住空間とはならない無用な収納スペースを増やす必要がなく、結果的にローコストでシンプルな生活を続けることが可能になる。
(参考までに、我が家には独立した外物置や納戸、食品庫の類いは一切なく、合計幅3640、奥行き910の押入収納、そして高さ500ほどの床下空間があるだけである)

「いつも片づいている」のでは決してなく、「片づけるモノそのものが、あまりない」。つまりはそういうことなのだろう。
 モノからの誘惑に勝つのは並大抵のことではないが、新築や転居、子供の独立などを機に生活全般を見直し、その呪縛から逃れることは充分可能なのである。