第11話
  家を買おう!



二世帯住宅



 開業三年目にあたる1984年は、私にとって長く記憶に残る年となった。妻とのあつれきもさることながら、冬の水道管凍結騒ぎ、そして腎臓結石との闘いなど、いまだに語り草である。さらにこの年の秋、もうひとつの大イベントの幕が切って落とされようとしていた。マイホームの購入である。

 元来、私には放浪癖のようなものがあるらしく、自分の城、つまりマイホームを持つということに対して、それまで特別な執着はなかった。サラリーマン時代、同期社員の中で自分の家を持っていないのは私だけだったし、故郷に戻ってからも事業を軌道に乗せるのに忙しく、家のことなどとても構ってはいられない状態だった。
 そんなとき、私の両親から同居の話が持ち上がった。当時まだ父親は働いていたが、私自身が長男ということもあり、自分が元気なうちに息子夫婦と住める二世帯住居を建て、落ち着きたいとでも考えたのだろう。私自身も安普請のアパートでもう一冬を過ごす気はさらさらなく、自分で設計して建てたこの二世帯住居を建築家としてのデビュー作にしたい気持ちもあって、話はとんとんと進むはずだった。
 途中の経過をすっとばして書いてしまうと、この話はいろいろな事情で頓挫してしまったのである。ひとつだけ言えることは、同居の主導権は若いほうが握ってなければうまく進まないという論理である。おそらく当時の父親は、身代を譲るにはまだまだ若すぎたのだろう。

 さて、そうは言っても、使用中の水が凍ってしまうようなアパートには、もういられない。公営住宅なども探してはみたが、交通の便がいいところには全く空きがない。

「マンションでも買おうか」

 あるとき、思いつきでふと妻にそう言ってみた。口にしたとたん、急にその言葉が現実味を帯びて迫ってきた。そうだ、一戸建ては無理だが、マンションなら自分たちでも何とか買えるんじゃないか…?



石と家



「紺屋の白袴」というやつで、それまで家には全く無頓着だった私が、急に新聞の折り込みチラシやら住宅雑誌など、いそいそ集め出したのだから不思議だ。
 事業がうまく回転し始めたこともあって、二年間は無収入でも食っていけるようにと蓄えていた事業資金も、ほとんど手つかずで残っている。世間では円高不況が始まろうとしていて、経済の見通しは必ずしも明るくはなかったが、逆にそのせいでマンションには安い物件がかなり出回っていた。買うならいまだな…。持ち前のへそ曲がり的発想で、そんなふうに考えた。
 家を買うということは、たぶん一生にそう何度もない大きなイベントに違いない。だが、実際にその気分になったとき、あれよあれよという間に話はどんどん動き出す。不動産を動かすには、ある種の勢いが必要なのだろう。

 休日になると私たちは、新聞の折り込みチラシやら住宅情報誌などで目星をつけたマンションのモデルルームを見て回った。先に触れたように、このころ腹にはまだ石を抱えており、万一手術になったときのことを考えると、価格は少しでも安いほうがいい。
 だが、ピンとくる物件にはなかなか巡り会えなかった。価格が手ごろな物件には交通の便や間取りに問題があり、これらの条件を満たす物件にようやく巡り会っても、今度は売り主の信用度がいまいちだったりした。
 月日は流れ、計画そのものが暗礁に乗り上げかけていたころ、一枚の折り込みチラシが目にとまった。住んでいるアパートの目の前に完成したばかりのマンション広告である。

「おい、そこのマンションがまだ売れ残っているみたいだぞ」

 思わず妻にそう声をかけた。地下鉄駅まで徒歩九分、3LDKで1400万円台という手ごろな物件のせいか売れゆき好調で、とうに完売したと思っていたマンションが、ごくわずかだが売れ残っているらしい。
 ここなら目と鼻の先で引越しも楽だし、子供たちの学校や幼稚園も変えずに住む。実家にも近く、間取りも申し分ないし、売り主も大手で信用出来た。私たちにとっては価格がやや高い感じはしたが、とにかくマンションの一室に移動したというモデルルームに行ってみることにした。



それなりの人々



 最初は私一人で行った。家族に物件を見せてその気にさせてしまい、万一買えなかった場合のことを考えた。やはり価格のことが気がかりだった。

 モデルルームは閑散としていた。私は建築家のはしくれとしてのプロの目で、注意深く各部屋を見て回った。狙い目は子供たちの足音を気にしなくて済む一階の部屋だった。国道沿いで騒音が気になっていたが、入ってみると二重の防音窓と防音換気口で、車の音はほとんど気にならない。部屋の仕上げや材料にも手抜きがない。念のため、備付けの設計図面で壁厚や断熱材の施工状況などを確認する。(モデルルームでは設計図の具備が義務づけられている)予想以上の頑強な造りだ。

(このマンションが欲しい…)

 そんな強い思いに捕われた。ここなら苦労をかけている家族にも楽をさせられる。家族の喜びは私の喜びだった。私はすぐにでも「買います」と切り出そうとした。だが、それを口にするのをぐっとこらえ、意地悪く別の質問を担当者に浴びせかけた。

「××建設のマンションはここより少し広くって、価格がかなり安いですよね?」

 いくつか見て回ったうち、安さを売り物にしている建設会社の物件があった。いかにも安普請のマンションだったが、いい物件に手がでなければ、そんなものでも視野に入れなくてはならない。その前に、いわゆる大手の担当者がそういう物件をどう見ているのかが気になった。

「そういうマンションには、それなりの方々が集まるものですよ」

 年配の担当者は無表情にそう言い放った。その言葉に、自分の心の底が見透かされたような気恥ずかしさを覚えた。
(それなりの方々か…)
 担当者のこの一言で、私はこのマンションを買う決意をした。うまく説明は出来ないが、(俺はたぶんそっち側の人間じゃない)という強い反発心が働いたからである。もしかすると、そこまで読んで担当者はそんな挑戦的な言葉を口にしたのかもしれない。だとすれば、私はまんまと担当者の罠にはまったことになるのだが。



悲しき自由業



 翌日、妻と子供たちを連れて再度モデルルームを訪れた。家族に異存があろうはずがなく、残された問題は価格だけだった。頭金は非常用資金をある程度手元に残すことを考えると、全体の二割強がいいところである。本当に買えるのだろうか…?
 だが、私たちのそんな不安を吹き飛ばすかのように、ある程度の頭金さえ準備出来れば、あとは公庫と銀行ローンとで何とかなるだろうと担当者は楽観的に言う。どのモデルルームでも業者側はなんとか売り込もうとして一時的な気休めを言うものだが、それでも担当者のそんな言葉は、私たちを結構その気にさせてしまった。

 しばらくして、モデルルームとは別の若い担当者がアパートにやってきた。いよいよ細かい金額の詰めである。大切にためた事業資金も、大半を取り崩さなくてはいけない。三十五年払い、1000万を越える途方もないローン。不動産売買というものを初めて経験する私たちには、気の遠くなるような話の連続だったが、いったん動き始めた話はそんな私たちを置き去りにするように、どんどん勝手に進んでゆく。
 ところが、ここで大問題が起きた。前年度の収入は住宅金融公庫の融資を全額受けるのに充分だったはずが、なんと確定申告が白色申告だったため、一括経費として計上していた家賃や光熱費の家事相当分が収入とはみなされない、というのだ。
 住宅金融公庫の場合、前年度収入の20%までが年間返済限度額である。自由業の場合、この「収入」とは、あくまで確定申告書に記入された金額である。したがって、数字の内訳の曖昧な白色申告は断然不利なのだ。もし私と同じような立場の方で不動産のローンを組もうとする方がいるなら、必ず青色申告にしてから話を始めることをお勧めする。青色申告は面倒でごまかしは一切きかないが、その分のメリットはちゃんとあるのだ。
(これを機に私は、翌年からさっそく青色申告に変更した)

 それでも750万はなんとか公庫で借りられることが分かった。問題は残る350万の工面である。手持ち資金はもう使えないし、親の世話には意地でもなりたくない。困り果てた私たちは、年金融資、銀行ローンなど、他のありとあらゆる融資を調べ回った。
 ところが、こうした融資は自由業という収入の不定な職業には極めて冷たかった。開業わずか二年では、堅実な金融機関はどこも金など貸してくれないのである。

「自由業でも五年やっていればお貸し出来るのですが…」

 つまりはあと三年待てということか…。要するに私はまだ社会的には信用されていない青二才ということなのだ。こうして道がひとつひとつ閉ざされていくたび、暗い穴にじわじわと落ち込んでいく惨めな自分が見えた。

 その後担当者は、年金をもらっている妻の母親を一時的に東京から移転させ、収入を合算させるという奇策まで持ち出したが、「そうまでして家なんか欲しくない」という妻の一言でこの案もあっけなくついえ、私たちの悲願ともいえるマンション購入計画は、あえなく消え果てた。
 街にはチェックの服を身にまとった若者たちの歌が流れていた。「涙のリクエスト…」と彼らは歌う。その歌声は、まるで私たちへの鎮魂歌のように遠くうつろに響いた。

「そのうちまたいい出物があるさ」

 夢をまだあきらめきれない私は、家のことが話題に上るたび、そう言って妻と自分とをなぐさめようとした。



決め手は一級建築士の看板



 数週間が過ぎたある日、不動産会社のSさんが突然私たちのアパートを訪れた。

「菊地さん、確か一級建築士の資格をお持ちでしたよね。建築士事務所の登録はなさってますか?」
「ええ、してますけど、それが何か…」

 いぶかしげな私に、畳み掛けるように彼は言った。

「建築士事務所は法人と同じとみなされて、社会的信用度が高いんですよ。それで資金が借りられるかもしれません。もしまだマンション購入をお考えなら、建築士の免状と事務所の登録書を一時お貸し願えませんか。あとはこちらで何とかしますので…」

 完全に消滅し、あきらめきっていたはずの話が、思いがけない方向から復活したのだ。人間、何が幸いするか分からない。独立前に保険のつもりで取得しておいた一級建築士の資格と、開業時に何気なくしておいた設計事務所登録が、まさかこんな場面で活きようとは…。私はさっそく書類を彼に託した。
 しばらくしてSさんから、融資の目途がついたとの連絡があった。指定された金融機関に面談に行って欲しいという。どうやら民間の住宅ローン専門会社(いわゆる住専)で、残りの資金が借りられるらしい。形式的とは聞いていたが、緊張した面持ちで面談におもむいた。何しろ免状一枚で350万の大金を借りるのだ。
 結論から書けば、面談は大成功だった。わずか二年の事業期間が唯一の問題点らしかったが、前年から仕事を貰い始めた大手広告代理店の名がここで効いた。面接担当者の友人が偶然、その代理店に勤務しているという。

「そうですか、あそこがメインの取引先なら安心ですね」

 物事の流れとは恐ろしいもので、駄目なときは何をやっても駄目で、うまくいくときはこんなふうにいとも簡単に事が運ぶ。こうして産みの苦しみだった最後の関門は、あっけなくクリアされた。



神様っているんだ…



 3LDK、68平方メートルのマンションはこうしてようやく私たちの物となった。
 新居での生活は多くの変化を私たち一家にもたらした。陽当たりのいい暖かな環境に移ったことで、呼吸器系の弱かった子供たちの病院通いがめっきり減ったし、新しい環境に変わったことで妻の表情も明るくなった。
 創作を生業とするデザイナーや作家が新しいイメージに行き詰まったとき、よく引っ越しをするという。引越しは人生における大いなる気分転換なのだ。
 私の引越しはそうした創作上の行き詰まりではなく、単なる成り行きだったかもしれない。だが結果的にそれは、膠着していた妻との関係を修復する一打撃と成り得たのである。私たち夫婦は、家を買うという大イベントを介してそれまでの生活を見直し、将来を見据え、一致団結していった。

 さて、こうしてめでたく引越しはしたものの、次に私たちを不安に陥れたのは、ローン地獄への恐怖だった。
 それまで入っていたアパートの家賃は月額45,000円、年額では54万円だった。これが一気に月額6万円、年額72万円に増える。さらに、アパート暮らしのときには不要だった管理費、修繕費、駐車料、固定資産税等が年額30万円近くも重くのしかかる。差引くと年額にして48万円、月に換算して4万円もの支出増だった。いくら事業が軌道に乗ったとはいえ、これほどの額をはたして滞りなく支払ってゆけるのだろうか…?
 記録によれば、この年の企業倒産数は二万八百件強で、戦後最悪を記録したとある。近来のバブル不況、構造不況に勝るとも劣らない暗い時代だった。

「もしかしてローンが焦げついて、すぐ出るようなことになると困るから」

 当時、妻は真顔でよくそう言って、建物や設備を汚さないように気を配っていたものだ。

 新居に移って一ケ月後、不動産会社のSさんから再び電話がきた。会社で売り出している戸建住宅の仕事を紹介するので、系列の広告代理店に挨拶に行ってくれという。マンションを購入するとき、ほんの冗談のつもりで、

「支払いが苦しくなるんで、今度ぜひお宅の仕事をやらせてください」と頼んでおいたのを、律儀なSさんはどうやら真に受けてくれていたらしい。

「誰にも頼らずに自分たちだけの力で家を買いたい」

 Sさんを困らせたそんな私たちの頑なな生き方を、もしかして意気に感じてくれていたのだろうか。ともかく、彼の気遣いがただうれしく、そして有り難かった。
 やがて営業資料を抱えて出向いた広告代理店では、Sさんの口添えがあったこともあり、話はスムーズに進んですぐに仕事が貰えることになった。かなりの無理をして買ったはずの家だったが、こうして新しい取引先も増え、円高不況も何のその、仕事はローン支払いを上回る順調なペースで舞い込んだ。
 引越しに至るまでの細かい事情をよく知っており、私たちの支払いを気遣ってくれていた近所に住む友人は、半年ほどたってからこうした仕事の活況ぶりを私たちから聞き、しみじみとした口調でこうつぶやいた。

「神様っているんだね…」