第9話
  嵐のように過ぎた二年目



人生勝負の年



 1983年の年が明けた。とにもかくにも、開業二年目に突入である。独立開業を決意してからというもの、脱サラや独立に関する、ありとあらゆる種類の本や記事を読んだが、そのどれもに異口同音に書かれていたのが、「脱サラは最初の一年が勝負である」という言葉だった。
 私の場合、正式開業はDMを一斉配布した1982年九月ということになるから、この警句をあてはめると、この年に何らかの見通しがつかなければ、事業は実質的に失敗ということになってしまう。「人生最大の勝負の年」、そんな悲壮な決意に燃えて新年を迎えた。

 仕事はとぎれとぎれに舞い込んではいたが、とても安定した状況とは言い難い。開業前に相談に行った知人の、「得意先は六、七社あるといいよ」という言葉はいつも心に引っかかっていたが、まだまだその数には程遠い。 私としては太いパイプのような安定したクライアントが、どうしても欲しかった。

 ある日、いつものように新聞の新規求人欄に目を通していた私の目が、ひとつの大きな見出しに引きつけられた。

「札幌支店業務拡張につき、男女デザイナー急募。在宅勤務可」

「業務拡張」の部分はもちろんだが、「在宅勤務可」の記述にも大いに気を惹かれた。
(これは何かいい話があるかもしれないぞ…)
 これといった理由はないのに、そんな強い予感がした。その広告がなぜか光輝いて見えるのである。人生の岐路に立ったとき、私にはときどき不思議な感覚が閃くことがある。建築パースやエアブラシに出会ったときもそうだった。求人欄にある会社の名はおよそ広告代理店らしくない地味な名前だったが、(あまりにも地味な名前だったために、なぜかDMのリストからも外れていた)ためらわずにその会社に履歴書を送った。
 自分の経歴や独立開業して半年そこそこであること、建築パースの在宅勤務デザイナーを希望すること、建築士の有資格者であること、それらを包み隠さず書き記した。もちろん、開業時のDMを同封するのも忘れなかった。



履歴書が生んだ仕事



 履歴書のことなど忘れかけていた頃、突然その会社の人事担当者から電話がきた。結果的に私にとっては神のお告げのようになるその電話の声を、私はいまでも忘れない。

「せっかく履歴書をお送りいただきましたが、当社では建築パースのデザイナーの募集はしておりません。ですが…」

 ですが、在宅なら雇ってくれるのだろうか?私は息を飲んで次の言葉を待った。

「あいにく在宅社員も一般広告デザイナーが対象なのですが、実は当社ではいくつかの住宅展示場を運営していまして、外注としての建築パースの需要は大変多いのです。そちらのほうでならいろいろとお願いすることもあるとは思うのですが、いかがでしょう、その件で一度ご来社いただけないでしょうか?」

 その住宅展示場は、地元でも知名度の高いものだった。願ったり叶ったりの話ではないか。もちろん一も二もなく、その申し出を受諾した。

 電話のあった翌日だったか、それとも数日後だったかは定かではない。描き換えたかばかりの作品見本ファイルを抱え、高鳴る胸を抑えてその社の前に立った。電話の口調からして、仕事に結びつく可能性は高かった。あとは作品が相手に気に入って貰えるかどうかだけである。
 そして、数人の担当者に見てもらった作品の評判は上々だった。エアブラシの斬新なタッチが、やはり評価されたのである。その社が本州資本の大手広告代理店であったことも幸いした。関東では主流だったエアブラシの描き手を、どうやら地元で探していたらしい。早い時期にエアブラシを選択していてよかった…、と私は心から思った。
 さらに幸運だったのは、私の情報があらかじめ履歴書で相手に知らされていたことだった。写真や学歴、一級建築士の資格など、まさにガラス張りの情報を最初に相手に示したことで、すでに訪問前から何かしらの信用を得ていた節がある。



底を打った不況



 こうして確かな手応えを得て数日後、第一号の仕事の依頼が早くもその社からきた。大手住宅メーカーのテレビCM用の仕事である。B2版のカラーパースという、私にとっては初めての大仕事だった。
 さらにその翌日、別の担当者から、やはり某大手不動産会社マンションの室内パースの注文がきた。以来、その会社からは立て続けに仕事が舞い込んだ。
 相手の札幌での業務拡張と、こちらの新規クライアント開拓の思惑とが、ぴたり一致したという幸運もあった。 開業したてで、業界の手垢にまみれていない部分や、建築屋としての実直さが買われたこともあったかもしれない。 私はたちまち仕事に追われることとなったが、わずか数ケ月前の不安に押しつぶされそうな我が身を振り返れば、それはうれしい悲鳴そのものだった。

 仕事は大手からのものが多く、その分要求も厳しくて、手直しも多かった。生真面目だけが取り柄で、まだ仕事そのものに不慣れなせいもあったのだろう。広告業界では右も左も分からない青二才の私を、ベテランの担当者はよく我慢して使い、育ててくれたものだと感心し、感謝する。
 最初の訪問のときに渡された社歴書を見ると、(営業に行って社歴書を貰った記憶は、この社以外にない)この会社は日本の広告代理店の中でも上位にランクされる、いわゆる大手であることが分かった。月の売り上げが何百万になろうとも、支払いはすべて現金という、いまどき信じられないような好条件の会社である。一枚の履歴書という不可思議な縁で得たクライアントだったが、その後十数年に渡って年間売上高の一位を占めることになる、私にとって最大のお得意様になるのだ。

 こうして私は念願の「太いパイプ」を手に入れた。仕事は途切れなかった。この社からの仕事が呼び水のようになり、それまで地道に営業を続けていた会社や、この社からの紹介だという会社からまでも、次々と仕事が舞い込んだ。長い不況が終わりを告げたことを、私は肌身で感じとっていた。
 記録を調べると、1980年から延々と続いていた第二次オイルショックが1982年末で底を打ち、1983年初頭から上昇に転じている。ずばり私の開業した時期だ。どうやら私は、うまい具合に景気の上げ潮に乗ったらしい。
 開業前に私は、「不景気のいまこそ独立だ、やがて景気は上向くはず」などと、自分勝手な見通しを密かに立てていた。誰も見向きもしない不況のどん底で脱サラを企て、仕事に慣れてきた頃に景気は上向いて仕事は軌道に乗る、という実に虫のいい話だったが、まさにそのシナリオ通りである。
 私からすればまるきりのはったりではなく、ある程度の勝算があっての計画だったが、やはり「運」という名の目には見えない巨大な何かに、当時の私が操られていたのは否定出来ない。



人生はギャンブルだ



 話が少し横道にそれるが、私はおよそギャンブルらしきものをしない。というより、かってはやっていたのだが、すべてやめてしまったのである。
 学生時代に覚えたパチンコとマージャンには、十年以上も熱中した。パチンコはかっては煙草代をかせぐ貴重な手段だったし、マージャンは卒論の提出日当日もやっていたほどだ。パチンコに至っては、よく夫婦喧嘩のタネになったりもした。
 ではなぜこんなに好きだったギャンブルを、ぷっつりとやめてしまったのか?実は自分でもよく分からないのだが、どうやら脱サラと関係があるらしい。なぜなら、独立を機に、これらのギャンブルとぴたり縁を切ってしまったからだ。

「そりゃ小遣い銭に困ったからだろう」

 そうとがめられそうだ。そうかもしれない。だが、そうとも言いきれない。サラリーマンのときだって、金が有り余っているわけではなかった。独立後、数年たって多少は仕事が安定したあとも、ギャンブルを再開する気にはなれなかった。「煙草断ち」のように、何かの願をかけたわけでもない。それではなぜ?
 ひんしゅく覚悟で思い切り格好よく書けば、「脱サラという人生最大のギャンブルを身をもって体験してしまったから」と言う以外にない。人によって器の違いもあるだろう。「脱サラもバクチも」という並外れたパワーの持ち主もいるに違いない。だが、少なくとも私には、この人生に対する大きな賭けひとつで充分過ぎるぐらいだった。



青色か?白色か?



 二月も中旬になり、確定申告の季節がやってきた。サラリーマン時代にも、私は三度の確定申告を経験している。ちょっと税金に詳しい方ならお分かりと思うが、三人の子供が生まれた年の出産高額医療費の還付を受けるためだった。
 以前にも書いたように、こうした確定申告も、きたるべき独立の日に備えた実地訓練のひとつと私は考えていた。勤めていた会社の経理担当者に聞いたり、本で調べたり、実際に税務署におもむいて教えてもらったりして、確定申告のおおよそのことはこの時点ですでに把握していた。

 私のようにフリーランスとして事業を営む場合でも、当然確定申告はしなくてはいけない。フリーライターやデザイナー、イラストレーターなどの仕事をする場合、報酬の一割があらかじめ支払者によって源泉徴収され、差し引かれて支払われる。そういう決まりになっている。自由業などと気取ってみても、こと税金に関する限りすべてはガラス張りで、一般のサラリーマンと何ら変わることはない。確定申告によってその年の収支を決算し、払い過ぎの場合はこの源泉徴収された税金を還付してもらうわけだ。
 同じような立場の自営業だった姉の話では、税理士などに頼んだ場合、三ケ月に一度の帳簿づけに支払う金額が一回三万円。確定申告時が倍の六万円で、都合年間 15万円の経費が必要とのことだった。(1982年当時)
 やる側の立場からすれば、おそらく当然の報酬額なのだろうが、頼む側からすればかなりの負担である。医療費控除だけの申告に比べ、はるかに面倒そうだったが、常日頃から手作りや独学を信条にしていることもあり、結局確定申告もすべて自分一人でやり通すことにした。

 自由業の確定申告には、「白色申告」と「青色申告」の二種類ある。申告用紙の色から単純にこう呼ばれているらしいが、違いを簡単に書けば、現金式の簡単な帳簿をつけるだけで決算書も不要なのが白色申告で、経費帳や売掛帳などの帳簿を必要に応じて記帳し、確定申告時に決算書の添付を義務づけられるのが青色申告である。
 こう書くと、ただ面倒なだけなのが青色申告のように聞こえるが、実は青色申告には「青色専従者控除」といって、家族に従業員なみの給与を支払い、必要経費として引き落とせるという最大のメリットがある。当面は電話番やら、作品の届けを頼む予定の妻にも、ちゃんと給料が支払えるのだ。また、自宅を仕事場として使っている場合、青色申告ならば光熱費などの家事関連費を必要経費として一部繰り入れすることも出来る。
 どちらの申告でいくべきか、私は開業前にさんざ悩んだ。もし青色申告でいくなら、開業と同時に税務署に届け出を出しておく必要があるからだ。
 結局、初年度は白色申告でいくことにした。青色の場合、帳簿づけの煩雑ささえ我慢すれば、白色と比べて経費面の取扱で抜群に有利なのは事実である。だが、経費とはしょせん充分な収入があっての話。経費の扱いに困るほどの収入が得られる自信が正直いってまるでなく、しばらくは白色申告で様子をみようと思った。



一年目の決算



 白色申告なので、特に事前に開業届けも出さず、二月になっていきなり税務署に出向き、事情を話して申告書の書類をもらってきた。前年度にこなしたわずかな仕事も、あらかじめ源泉徴収されているので、一月中旬あたりに仕事をした会社から送られてくる「報酬、料金、契約金及び賞金の支払い調書」という長ったらしい名の小さな証明書(要するに、これこれしかじかの源泉税を確かに支払った、という証明書)を申告書に添付する。
(余談だが、一割の源泉徴収をしておきながら、いつまで待ってもこの書類を送ってくれないルーズな会社がときどきある。これを添付しないと還付は一切受けられないので、きちんと自分で管理記録をし、ときにはこちらから請求してでも送ってもらう必要がある。また、会社によっては、何も源泉徴収しないで全額支払ってくるケースもあるので、これまたチェックが必要である)
 あとはデザイン業の標準経費率として、収入の30%を経費として計上し、特殊事情として「1982年九月に新規開業」と書いて申告書の記入は完了した。
 このように収入に対して一定の経費率をかけ、経費を簡略計算するやり方は白色申告の特徴でもある。この数字には業種別に細かい基準があるが、税務署では公開していない。白色申告は三年でやめてしまったので最近の事情は不明だが、私の場合は当時本で知ったこの数値で申告し続け、特に修正を要求されたことはなかった。

 こうして仕事に追われつつも、無難に確定申告は終えた。控えをすでに処分してしまって正確な記録は残っていないが、四ケ月の悪戦苦闘の成果は、確か50万前後の総収入だったと記憶している。諸経費やもろもろの控除を差し引くと、もちろん大赤字であり、源泉徴収されたお金は約一ケ月後に全額戻ってきた。



開業一年目の税金



 ここまで書いてきて、突然大切なことを思い出した。それは開業一年目の税金のことである。
 会社を辞め、少しの間失業保険など貰ったとして、私のように半年後に独立開業するのはよくある話だろう。そんなときは事業の準備資金に追われ、まともな収入はなしで、金銭的には非常に苦しいことはこれまで書いてきた通りである。

「こんなに収入がないんだから、税金なんか払う必要がない」

 誰でも普通、そう考えるだろう。ところが違うのである。無収入に近い開業一年目の身にも、容赦なく税金の取り立てはやってくるのだ。
 うっかり見落としがちだが、「税金はすべて前年度の収入で計算し、支払いは翌年にする」という重要な仕組みがあることを忘れてはならない。たとえ独立一年目で満足な収入のない場合でも、前の年はサラリーマンとして人並みの収入はあっただろう。その収入に対する税金が、開業一年目のか弱い身を待ち受けているのだ。
 よく考えてみれば分かる単純なこの理屈を、税金には少しばかりうるさいはずのこの私も見逃していた。会社を辞めたあとの諸手続きにはいろいろあるが、会社の社会保険を国民健康保険に変更するのもそのひとつである。この国民健康保険の金額ひとつとってみても、算出基準はすべて前年度の収入なのである。

 このほか、市民税、都道府県税なども前年度の収入で決められるし、収入とは関係なく納付を義務づけられる国民年金というものもある。これらはサラリーマン時代にもちゃんと自分で払ってはいたのだが、すべて会社が代替わりしてくれており、社会保険や厚生年金に至っては、会社が一部負担してくれたりしていた代物なので、つい見逃しがちなのだ。
 いざ独立となれば、こうした税金類もすべて自分の収入の中から納めなくてはならない。収入とのギャップが大きい一年目は特にそれが辛い。いきなり高額の納付書が次々と送りつけられると、最初は驚き、あわてふためくだろう。だが、それが自由業、自営業の定めなのだ。

「開業したてで、法外な税金が払えない!」

 そんな悲鳴のような投稿がいまも時折新聞を賑わす。だが、国民年金以外は余程の理由がない限り、いくら申告しても軽減はされない。開業一年目にすがる思いで私も軽減を願い出たが、あっさり却下された。そんなものなのだと覚悟を決め、粛々と備えるしかない。



押し寄せる仕事の波



 話を本筋に戻そう。当初の予想を越えるペースで、仕事は波のようにやってきた。まるで押し寄せる感じなのである。見本を描くのと違い、お金をいただく仕事には当然プレッシャーがかかる。ていねいにやろうとすると、時間もかかった。駆け出しの辛さで、まだ充分に自分の仕事のペースもつかめてはいなかった。
 妻が東京出身ということもあり、夏になると多くの友人や親戚が我が家を基地にした北海道観光に訪れたが、仕事に追われていた私は、観光案内につきあってやる余裕すらなく、週末というのにもっぱら市内観光バスに乗っていただくという有様だった。
 ある独身の友人などには、現役のOLであることをいいことに、私の事務所の名を語ってもらい、体よく作品の届けを頼んだことさえある。

(くる仕事はなんでもこなしたい)

 そんな脅迫めいた思いが、いつも私を縛っていた。まだまだ不安定な開業一年目ということもあり、身体が多少きつくとも、新しい仕事の依頼がくるとついふらふらと引き受けてしまう。たとえ大のお得意様であろうとも、忙しいときには断る勇気も必要だ。いまは当然とも思えるそんなことを悟るには、もう少し時間と経験が必要だった。

 妻は以前いた会社ではトレーサーという技術職にいたので、普段の電話番や客の応対はもちろん、忙しいときはモノクロ作品のベタ塗りなどの補助作業、仕上がった作品の届けなどの雑多な仕事を、嫌な顔ひとつ見せずに手伝ってくれた。まさに「困ったときの妻頼み」である。
 しかし、当時まだ三人の子供たちは幼かった。四月になって長女は小学校へ、長男は幼稚園にそれぞれ入った直後。末の息子はまだ二歳になったばかりである。夫が家にいて、少しは育児の手助けになるはずだったのが、逆に仕事の手伝いに忙殺されるばかり。言葉にこそ出さなかったが、遠く故郷を離れた妻の精神的、肉体的な辛さは、想像するに難くない。

「自営業は女房との関係が大事なんだよ…」

 開業前にそう諭してくれた先輩の言葉が胸にちらつくこともあるにはあったが、そうした懸念も、押し寄せる仕事の前には、ついつい忘れがちになっていた。

 ふと気がつけば、訪れる観光客もまばらになり始め、北の街に再び秋が訪れていた。悲壮な決意で移り住んで以来、二度目の秋だった。私はまだしぶとく生き残っていた。自分の事業が、一年目という大きな山をいつの間にか乗り越えていたことを私は知った。
 ほっと一息つきながら胸を吹き抜ける満足感に浸っていた私と、それを傍らで眺める妻との間に微かな透き間風が忍び寄っていたこと、そして、仕事にかまけて健康管理を怠っていた私の身体に、小さな病魔が育ち始めていたことを、そのころの私がまだ気づくはずもない。