第3話
  働きに見合う金



ここと思えばまたアチラ



 話を会社での私に戻そう。CADのプロジェクトがいきなり解散になって以降、残務整理を終えた私を待ち構えていたのは、山奥の現場監督に飛ばされた元プロジェクトリーダーからのSOSだった。いわく、

「一人じゃ現場が大変なんで、誰か助っ人に来てよ〜」

 その噂を聞いた私。(それ位の現場、独りでやれよ)と心で思いつつ、(もしかして自分が…)と胸騒ぎが走った。嫌な予感ほどよく当たるもの。ほどなくして入社時に社歴に残る喧嘩をやらかしたあの工事部長がうれしそうな顔でやってきて、私に一枚の辞令を手渡した。

「悪いが君が応援に行ってくれ。まあ、これもいい経験だから」

 入社二年で現場の経験もそれなりにあり、所属も中途半端だった私は、格好のえじきとなったのだ。ところがその現場というのが神奈川と山梨の県境にあるとんでもない山奥で、ほとんど陸の孤島。当時すでに現在の妻とつきあっていた私をなげかせた。
 しかし、辞令は辞令である。ここでくじけてなるものか。やる気のない所帯持ちのリーダーに代わり、私は持ち前の意地を張って、朝早くから夜遅くまで鬼のように働いた。
 独り者の私に会社が用意した下宿が、何と現場の目の前の一軒家。食事も寝床も何不自由なく、日曜以外は休暇なし。遊ぶ場所ははるか彼方の八王子の街で、当時まだ車の免許のなかった私は、ただひたすら働くしかなかったのである。

 半年後に現場はめでたく完成。私は再び設計課に戻され、汚水プラント設計のライン業務に戻ることになる。同時期に結婚したこともあって、それなりに意欲に燃えて私は働き始めた。ところが…。
 設計課に配属されて二ケ月程過ぎた頃、またまた事業部長が私を呼びつけた。

「実はね、こんど新しいプロジェクトをやることになって、君がその一人として配属されることになったんだ」

 どこまでも「プロジェクト」の好きな会社である。つい半年前に勝手に解散させておきながら、またぞろ似たようなメンバーで再編成。リーダーはまたしてもあの「お助けマン」を切望した現場監督で、プロジェクトとやらの正体は、新製品の企画開発をもくろむ「装置開発課」といういかめしい名のものだった。



アチラと思えばまたコチラ



 この課での仕事がまたまた怪しげなものだった。それまで新製品の開発など手がけたことがなく、汚水処理プラントに設置する機器はすべて他社製品に頼りきりだったのに、いきなり「新製品を考えろ」ときた。いくら受注が手詰まりだからといって、まるで無茶な話である。
 親会社から出向してきた担当部長にはこれといって具体案がなく、リーダーはリーダーで相変わらず他力本願のイエスマン。しかたなく私が現場経験で気がついていた他社機器の改良点などを提案。私の提案は何でもスイスイ通るが、その代わり仕事はお前がやれ、といった感じで、試作品からテスト、さらなる改良からライン業務乗せまで、結局一手に引き受けることになる。

 ここでも私は半ば意地だけで働いた。現場と設計の経験がそこそこにあり、コンピュータの基礎知識もある私を部長やリーダーは重宝がり、私も結果的に彼らの期待を裏切らなかった。
 この種のプロジェクトの命はスピードである。顧客〜営業〜設計〜工事というライン上での業務は、設計や工事の担当者は期日さえきっちり守れば、そう大きなトラブルは発生しない。だが、最終期日がとかく曖昧になりがちな新規開発関係のプロジェクトの場合、目に見える形での結果をいち早く出さないと、すぐに社内から突き上げが来る。CADプロジェクトでの苦い経験から、私はそのことを身に染みて悟っていた。
 そこでたとえ規模は小さくとも、具体的な成果がはっきり形で分かる開発に重点を絞った。入社三年目の私に役職はまだなかったが、同じ課にいた一年後輩の男子社員と女子の新入社員は、事実上の私の「部下」だった。
 自分で仕事の計画をたて、部長の許可を得てから二人の「部下」をうまく使って完成させる。そんな基本的な仕事の流れが自分の中で自然に出来た。たかが平社員の身、貰っている給料以上の働きなのは明らかだったが、それに対する不満はなぜかこのときは感じなかった。自分の意のままに業務を進められることが面白くてたまらず、仕事に対する確かな手応えを肌身で感じていた。この時期に身につけたものは、自分にとって実に大きなものだった。

 一年ほどが過ぎ、それなりに実績が上がり始めてきたころ、突然担当部長が私を呼び、さりげなく一枚の紙を手渡した。ご想像通り、それはまたしても「辞令」という名のサラリーマンなら泣く子も黙る恐怖の紙切れだった。
 一貫性がないといえばそれまでだが、大阪支店で大きな現場を受注し、しかもそれが中央官庁の直轄現場なので支店ではとても対処仕切れない。そこで本社からそれなりの人物を応援に出して欲しい、という都合のいい話である。

(だったら受注なんかするなよ!)

 そう叫び出すそうになるのを、私はかろうじて堪えた。一年前のプロジェクト解散後の「行き当たりばったり辞令」と全く同じ経緯である。どうにもならないあきらめだけが虚しく胸を走った。
 要するに社の体質が現場第一主義なのだった。「現場」の名の前には、「開発」とか「プロジェクト」のすぐに金に結びつかない話は常に後回しなのである。そんな安直な論理に、出向してきたばかりで社内ではまだ力のない担当部長は、あっさり寄り切られてしまったらしい。
 中央官庁直轄の仕事は会社始まって以来の画期的なものだ。失敗は絶対に許されない。やれるのは君しかいない…。通算二度目の抜き打ち的現場辞令にさすがに負い目があったのか、会社側はそんな美辞麗句を並べた。甘い言葉に浮かれるほど単細胞ではなかったが、ならば一丁やってやろうじゃないか、という持ち前の好戦的な気持ちがむくむくと頭をもたげ、結局赴任を承諾した。



慣れぬ南国暮し



 現場は東京から遥か離れた高松市だった。私は学生時代に一度訪れたことがあったが、妻は東京より西に行ったことがほとんどがなく、もちろん故郷を離れて暮した経験もない。根っからの東京人である妻に、気候や文化の著しく異なる南国暮らしが果たして無事つとまるだろうか…。自分のことはともかく、私にはそのことがまず気がかりだった。
 会社は妻を東京に残し、私だけが現場に赴任することをまずほのめかした。当時はまだその言葉はなかったが、いまでいう単身赴任である。辞令が二月で、竣工予定は秋だったから、不可能なことではない。さまざまな経費を節約するべく、会社は臆面もなくそんな案を持ち出したのだろう。
 だが、私の気持ちとしては単身赴任は論外だった。新婚であろうがなかろうが、夫婦が離ればなれになってはいけない。そう固く信じていた。
 これは辞令が出た後に分かったことだったが、折悪しく妻は最初の子を身ごもっていた。出産予定日は十月で、現場の工期とぴたり一致する。現場が終わったあとの私の処遇はその時点では何も決まってなかったが、ひとまず私だけが高松へ赴き、住まいを整えてから妻を呼ぶという手筈がまとまった。臨月が迫れば妻だけを実家へ返すという綱渡り計画である。

 こうして二人にとって未経験の南国暮しが始まった。慣れぬ土地での言葉や習慣の違いに戸惑いながらも、私も妻も異郷の地での生活になじもうと努めた。現場の時間をうまくやり繰りして車の免許を取ったのもこの時期である。
 すでに触れたように、当時の私にはまだ車の免許がなかった。当時は免許を取って卒業する学生はおよそ半数前後だったが、現場赴任の辞令が出るたび、免許のないことが私を悩ませ、大きなコンプレックスとなって膨れ上がっていた。
 着任挨拶で私に免許がないことを知った大阪支店の上司は、「何だ、本社は免許もない奴を大事な現場によこしたのか」と、蔑む目で私を見た。本社に先駆けて中央官庁直轄工事を受注した自負と、本社に対する潜在的な対抗意識がそんな言葉に変わったに違いない。私はとんだとばっちりを受けたわけだが、挑戦的なその目を見たとき、(よし、ならばこの地で絶対免許を取ってやろう…)と、持ち前の反骨心がまたしてもめらめらと燃え上がった。
 ほどなくして私は免許を手中にしたが、結果的にこれは英断だった。その後の独立、そして事業展開となれば、車の免許は必須条件である。時間と現場手当という名の金の余裕があったこの時期をもし逸していれば、その後の脱サラ計画は軌道修正を余儀なくされていたかもしれない。

 妻は当初懸念した通り、軽いホームシック状態に陥った。妊娠による精神のアンバランスのせいもあったのだろう。かといって気軽に実家に帰れる距離と身体でもなく、勢い実家や姉たちにかける月々の電話代が一万円近くにも跳ね上がった。
 私のほうはといえば、現場の工程が思うように進まぬいら立ちと焦りの中で、やり切れない毎日が続いていた。管轄する大阪支店からも遠く離れた現場で、相談出来る上司やサポートする部下ももちろんいない。妻がそういう状態だったから、慰めを彼女に求めるわけにもゆかず、ひたすら我慢と忍耐の日々を重ねていた。
 灼熱の夏が訪れた頃、事態は一変した。それまでの地道な努力が実ったのか、膠着していた現場がトントンと思い通りに動き始め、それに歩調を合わせるかのように妻の気鬱も、薄皮がむけるように解消していった。



課長いずとも支障ナシ



 着任から八ケ月が経ち、現場もようやく完成に近づいた。臨月の迫った妻を無事東京の実家に送り届けてほっと一息ついた頃、本社の部長から突然現場事務所に電話があった。

「実はこんど新しい部署が出来るんで、君に戻ってきてもらうことになった…」

 あまりの節操のなさに、さすがの私もただあきれるばかりだった。入社以来、わずか四年足らずで七度目の配置転換である。これでは「思いつき」「行き当たりばったり」と言われても仕方のない人事ではないか。
 これはあとで聞いた話だが、新部署の発足にあたって部長は、そのまま大阪支店に配属代えの話もでていた私を、部下として戻すことを担当役員に懇願したらしい。

 その部署の使命は、当時多様化しつつあった汚水プラントのニーズに幅広く対応するため、設計課を二部門に分け、それまで手を出してなかった小規模プラント、特殊プラントを重点的に攻めることだった。
 具体的なターゲットがあり、ライン業務という流れが確立されていたせいもあって、新部署の仕事は比較的早く軌道に乗った。私は初めて主任の肩書きを貰い、最盛期には女性二人、男性四人の部下を正式にあてがわれる。
 それまでも実質的に自分より若い社員の指導は私の仕事だったし、肩書きがつこうが、指導する社員が六人に増えようが、実践面での仕事にたいして変わりはなかった。だが、たとえ主任という小さなものでも、具体的な責任を与えられれば人間はそれなりに働くものらしい。自分でも驚きだったが、私も決してその例外ではなかった。

 一年ほどたったころ、課長(例の「お助けマン」を切望した元プロジェクトリーダー。この人とはかなりの腐れ縁だった)が胆石で三ケ月ほど入院することになった。
「誰か応援を頼もうか?」との部長の言葉を「大丈夫、やれます」ときっぱり断わった私。いつもの意地だけで課長不在の半年を乗り切り、「あいつは課長なしでもやれるのか」と社内外から一目置かれることになる。
 事実、このあと退院した課長は別部署の「プロジェクト」に出向の身となり、私はほどなく係長に格上げとなった。上に課長の席はなく、指示は部長から直だったので、実質的には課長職ということになる。
 そのころの私は、それなりに充実した日々を送っていた。「会社は自分を評価している」、そんな確かな手応えに酔っていた。もしもその出来事がなかったなら、数年前の決意はどこへやら、私はもう少し長くその会社に留まる気になっていたかもしれない。



働きに見合う金



 ある年の冬のこと。その会社の先代会長の孫、とかいう強力なコネで入社してきた私より年下の営業社員が、何気なく私にボーナス明細書を見せた。
(なぜ彼がそんなものを私に見せつけるようにしたのか、ある種の「デモンストレーション」のようなものだったのか、いまとなっては定かではない)
 私はそれを見て愕然として言葉を失った。学歴は同じ大卒、年齢も三つ年下で役職は何もない彼の明細と私の明細とに、ほとんど差がなかったのだ。
「係長」だとか、「部下」だとかのおいしい言葉に少しばかり有頂天になっていた私の胸を、再び苦い思いが駆け抜けた。

(何のことはない。会社は私に「係長」というアメ玉をしゃぶらせて都合よくあしらうだけで、本当に評価などしてくれてはいないのだ…)

 私は自分の甘さを思い知らされていた。日頃の働きに応じて社員を評価をするのは、決して役職とか部下とかの形骸的なものではなく、結局のところは基本給やボーナスの額なのではあるまいか。
 当時の私は少なくともその「コネ社員」を遥かに越える働きと貢献をしてきた自負がある。私は決してボランティアをやっているわけではない。私はこの仕事の「プロ」なのだ…。

 私は自分の意思と目標とを、自らに向かって再確認した。古くさい言葉だが、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、あのときの屈辱を決して忘れるな。
 街にはチャゲ&飛鳥の「万里の河」のメロディーがうねるように流れていた。私は遠い河のむこうに広がる遥かな目標に向かい、強いムチを再び自分に入れ直したのだった。