第1話
  その時会社を辞めようと思った



モーレツ社会



 マンションの広告などによく描かれている建物の完成予想図、すなわち「建築パース」を描くのが私の主な仕事だ。九年間のサラリーマン生活の経験が私にはあるが、自宅を拠点にこの仕事を始めてから、はや二十一年になる。開業は三十二歳のときだった。
 当時はまだSOHOという言葉など、もちろん存在しない。職住一致を前提とした小売業や職人ならともかく、自宅のアパートの一室を根城に、机一台と絵筆一本で事業展開を企てる人間など、当時は稀だった。波乱に満ちた二十数年にわたる脱サラSOHO生活の日々を語るには、私が北海道のある工業大学を卒業し、東京の会社に入った三十年ほど前まで月日をさかのぼらなくてはならない。

 時は1973年、まさに高度成長期のまっただ中である。モーレツ、使い捨て、高度成長、そんな言葉が新聞や週刊誌を賑わしていた。マイペースの「東京」、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」などの東京嗜好ソングが街には流れていて、人々は大量消費ブームに乗り、「大きいことはいいことだ」と、経済大国への夢を未来に託していた。
 そんな時期に私は北海道から東京へとやってきた。就職先は北海道にもあったのに、末っ子の長男である私が、なぜ歌の主人公のように上京したのか?それはやはり、大都会で自分の力がどこまで通用するのか試してみたい、という青雲の志のようなものが胸の内にずっとあったからである。
 元来、私には臆病で神経質な内にこもる部分と、目立ちたい、人に認めてもらいたいという相反するふたつの性格があった。学生から社会人という重要な岐路で、そのうちの外へ向かう部分のほうが勝ったわけである。
 団塊の世代として生まれ育ち、受験戦争の荒波にもまれ、常に人と争い、勝ち上がっていくことを半ば義務づけられた世代としての悲しい性が、より厳しい場で他と競う道を選ばせたのかもしれない。あるいは、日本社会の高度成長期の真っただ中で就職戦線を迎え、ただ安易にその上昇気流に乗ってしまっただけだったのか。

 だが、そうして抱いた野心は、私にひとつの自己矛盾をもたらすことになった。当時、高度成長社会のひとつの歪みとも言える「公害」という言葉が大きな社会問題になっており、自分が工業を中心とした企業社会でガツガツ働くことが、必ずしも社会のためにはならないのではないか?という危惧が、私の中に沸き上がっていたのだ。
 考えたすえに私が選んだ道は、公害防止産業のひとつである「汚水処理業」というものだった。自分が働くことすなわち自分自身の幸せ追及=社会への貢献、という理念というか、いま振り返ってみれば、その考え自体に奢りの思想がちらついていて赤面ものだが、当時の私としてはとても真面目にそんなことを考えて自分の道を決めたのだ。
(ただ、当時の自分の志とその結果として選んだ道に、根本的な誤りはなかったと三十年を経たいまでも胸を張って言える。たとえ思い込みであっても、自分の進路を決定するのに、ある種の信念のようなものは必要なのだろう)



よくある挫折



 しかし、そんな私の野心はあっさりと覆えされた。意欲に燃えて入ったはずの会社が、予想をはるかに超えるひどさだった。公害防止ブームに乗って急成長したためか、会社規則すら満足に整っていない。新人研修は一応あったが、わずか一ケ月という短期間で、そのほとんどが単なる施設見学と重役の講演会に終始する。ゴールデンウィーク明けには早くも入社時の希望とは異なる工事課に、有無を言わさず強制配属されてしまう。
 私の大学での専攻は機械だった。その会社の中心事業である汚水処理プラントには、確かにさまざまな機械が据え付けられ、稼動していた。だが、その器はあくまで鉄筋コンクリート製であり、大型のものになると工期も軽く一年を越えた。土木建築の知識がないと、とても勤まるものではない。
 新入社員には数人ずつにグレープ分けされた経験豊かな先輩社員がそれぞれついていたが、なぜか私だけには「課長直属」というよく分からない配属辞令が手渡される。要はあまりに現場が多過ぎるため、各工事グレープが持て余した現場を工事課長が一人で面倒をみていて、その助手が必要になっただけ、という社内事情が背景にあったらしい。

 この課長、専攻は一応土木で、「汚水処理産業の経験が十五年ある」と私の前で胸を張ってみせたが、どうひいき目に見ても上司としては失格だった。直接の部下である私の指導を、まるでしようとしないのである。この課長から受けた「指導」として記憶にあるのは、数ケ所ある現場を車で回り、現場の状況をざっと見て、ゼネコンの担当者に紹介されたこと、ただそれだけだ。
 大学出とはいえ、しょせんは右も左も分からぬ入社したての新入である。ましてや私には土木建築の知識は皆無だ。「さあ、打ち合わせしてこい」と図面一式を握らされ、たった一人で工事現場に放り出されてみても、満足な対応など出来るはずがない。
 それでも仕事である以上、気性の荒い職人たちを何とか取り仕切り、手探りでも現場を進めなくてはならなかった。特にコンクリートに関する知識欠落は、私をとことん苦しめた。職人は監督の未熟さをすぐに見抜く。そんな若造の監督を馬鹿にし、時には意地悪く無視する。現場はたちまちあちこちで混乱し始めた。

 これまた信じられないことに、現場は小規模ながら都合五ケ所ほどもあり、しかも都内のあちこちに点在していた。当時私にはまだ車の免許がなく、仕方なく電車とバスを乗り継いでの辛い現場通いが続くことになる。慣れぬ食事や暑さのせいもあって、梅雨の時期には早くも軽いノイローゼ状態、いわゆる「五月病」に陥った。

(このままではいけない。かといって、辞めて故郷に帰ってみたところでどうなる…)

 辞めるのは簡単だった。入社して一ケ月余で辞表を出すような人間を誰も引き止めはしないだろう。だが、どうしてもふんぎりがつかない。ここで辞めてしまうと、自分がどこへ行って何をやっても通用しない無能人間の烙印を永久に押されてしまいそうな気がし、それがたまらなく怖かった。
 同期で入った新入社員は二十人ほどだったが、この時期に早くも数人が退社している。大いなる志を抱いて上京したはずの私でさえこんな状態だったから、辞めていく同僚の心境が私には痛いほど分かったし、さっさと見切りをつけられる仲間が、ときにはうらやましくさえ思われた。
 ほどなく訪れた夏の灼熱地獄が、暗い穴に落ち込んでいる私に追い打ちをかけた。夏のさわやかな北海道で生まれ育った私には、湿度の高い東京の夏がことさらこたえた。希望は何もなく、絶望だけが際限なく取り巻いた。都会のジャングルの狭間で、私はいまにも押しつぶされそうになっていた。



社歴に残る反抗



 この時期の私を象徴するひとつの事件がある。入社したての五月に催された新入社員歓迎会で、私は所属の工事部長と社歴に残る大喧嘩をしてしまったのだ。
 当時、同期で入社した仲間の一人に学生結婚した奴がいて、その相手が飛び切りの美人だった。自慢の新妻の写真をいつも持ち歩いているのを、偶然宴会の席で見つけた工事部長、いきなりその写真を取り上げるなり、酔った勢いで写真に熱烈なキスをかまし始めた。
 部長のその度を超えた熱烈さ加減に、夫である当人はもちろん、周囲もただあっけにとられるばかり。だが、そこは泣く子も黙る鬼部長のなさること。いさめる者など、誰一人としているはずもなかった。
 事の一部始終を目の前で見ていた私。夫でありながら何も言い出せずにモジモジするばかりの当人にも腹が立ったが、いくら宴の席とはいえ、いい年をして破廉恥行為に及ぶ部長のスケベ面に、もちまえの正義心がむくむくと沸き起こった。

「止めてくださいよ、ブチョー。いくらなんでも そりゃ『下品』ですよ…」

 そんな言葉が見境もなく、スラスラと口をついていた。座が一瞬静まりかえる。内心(しまった!)と思っても時すでに遅し。ふと気がつけば、目尻をさげた部長のスケベ顔はどこへやら。そこには会社でさえ見たこともない、まさに鬼か蛇のような部長のエンマ顔がぶら下がっている。

「どうやら俺はお前を買いかぶっていたようだ。お前がそんな奴だったとはな」

 エンマ様の顔のままで部長が言った。どうやら私は、不始末とやらをしでかしたらしい…。

 それからの私の社内での立場は想像に難くない。宴会の場では、とりあえず私は自分の「失言」を詫びはしたものの、部長の烈火のごとき怒りはむろん治まるはずもない。
 だが、冷静になって事の顛末を振り返ってみても、自分は何も悪いことはしていないのだ、という結論にしかどうしてもたどりつかない。いくら相手が部長とはいえ、ここで卑屈になることはない。だが、さすがにこれ以上、面と向かって刃向かうわけにもいかぬ…。
 そこでそれ以降、部長の前では決して目を合わさず、ひたすらだんまりを決め込んだ。部長もそんな私の頑なな態度にすぐに気づいたようだが、自分の行為に何かしらの後ろめたさがあったせいなのか、上司としての強権を振りかざすことはなぜかなく、気がつくと部長が私に用のあるときは、すべて課長を通して指示してくるようになっていた。五十近い工事部長と新入りの若造との、まさに意地の張り合いである。

 この部長との冷戦は、時が二人の関係を自然に癒してくれるまでおよそ一年近くも延々と続いたのだから、その執念に我ながら感心し、そして呆れてしまう。



未来の妻との出会い



 私と工事部長とのそんな「歴史的大喧嘩」の噂は、狭い会社中に人から人へとたちまちのうちに伝わった。評価は人によってさまざまで、ある者は、「出る杭は打たれるんだぜ…」とやんわり諭し、ある者は、「あの部長に真っ向から刃向かった奴は初めてだ。お前はなかなか骨がある」ともてはやす、といった具合だった。その中の一人に、将来私の妻となる先輩OLがいた。
 これはずっと後になって知ったことだが、彼女は私と部長との顛末を人づてに聞き、「よくぞ言ってくれた」と私の言動に心で喝采を送り、それまでどこか頼りなげな印象しかなかった無印の私を、気に止めるようになったという。
 だとすれば、私と彼女とを近づけたのは、他ならぬ私の反骨心である。嫌われもののスケベ部長は、実は私たちの仲を取り持つ、幸せの青い鳥だったというわけだ。

 都会の狭間で空中分解寸前だった私が、かろうじて持ちこたえた要因として、彼女の存在を抜きにして語ることは出来ない。
 当時、彼女は四つに分けられていた工事課グループのひとつで、トレーサー(製図職)をやっていた。いまでこそ電算化の波に飲まれ、風前の灯となってしまった技能だが、その頃は技術さえあれば引っ張りだこの専門職である。
 入社三年目だった彼女の仕事は、図面のトレースや作図の他、課員のお茶汲みなども当然含まれている。入社したての私には所属するグループがなかったが、席がたまたま近かったというだけの理由で、彼女は私にも当然のように毎日お茶を入れてくれていた。自分の所属グループの人間ではないので、本来ならそんな義務などない。いわば担当外のサービス業務のようなものだが、およそ組織というものは、こうした末端の小さな善意で支えられているのではないか。

 彼女の人柄を一言でいうなら、人生にかける姿勢があらゆる局面で真面目であることだった。入社三年目ともなれば仕事にも慣れ、気持ちにも緩みが出てくる時期である。だが、仕事中に彼女が私語にふける場面など、ついぞ見たことがない。
 通りすがりの男子社員から浴びせかけられる、時には卑猥なからかいの言葉にも、毅然として真正面から応対する彼女の姿があった。まだまだ男性優位の社会で、セクハラという言葉など影も形もなかった時代だった。私には女子社員をからかう趣味などなく、そもそも仕事を覚えるのに精一杯で、そんな余裕などあるはずもない。それでも彼女の断固とした態度には、端で見ていてもある種小気味良い感情さえ覚えた。

 真面目であること、物事にかける姿勢がひたむきであることは、ともすれば野暮ったさにも通ずる。融通のきかぬ人柄、直球真っ向勝負の性質は、そうでない人間にとっては、時に疎ましいものとして映る。世情がいまほど刹那的で快楽的ではなかった当時でも、そうしたまっすぐな生き方を選択する人間に対する世の評価は、変わることはなかったように思う。だが、元来が偏屈でへそ曲がりな私は、逆に彼女のその野暮ったい生真面目さに惹かれた。
 先に触れたように、そもそも私がその会社に入った理由が、とてつもなく真面目なものだった。あまりにも真っ正直過ぎるのがはばかられ、入社して数年たつまでは、その真意を誰にも打ち明けなかったほどだ。彼女の生真面目さの中に、私は自分の奥底を脈々と流れるひとつの河に相通ずるものを感じた。



自分流立ち直り術



 未来の妻となる彼女との出会いは、私に大いなる勇気と生きがいをもたらした。異性への思いは、落ち込んでいる人間にとって、どんなカンフル剤よりも確かな効き目がある。私は人生や生活に対し、少しずつ前向きな姿勢を持てるようになっていた。

 まず手始めに、自分の苦手な土木や建築の勉強を独自にやることを決意した。暇をみては図書館や本屋に通い、コンクリートや鉄筋関係の資料を中心に徹底的に読破した。学生時代と違い、はっきりとした目的意識があるので、吸収は早かった。私は徐々に土木建築の苦手意識を克服していった。
(思い返すと、このとき身についた独学で知識を身につけるという基本姿勢は、その後の私の脱サラSOHO生活のさまざまな場面において、非常に貴重な経験となって活き、実を結んだ)

 一方では仕事から離れたあとの趣味に没頭した。元来私は多趣味なほうで、それまでも幾度か趣味で窮地から立ち直った経験を持つ。どうにも気分が滅入ったとき、私にはいつも趣味という頼もしい味方があった。
 といっても、連日の残業に追われて時間をとられる趣味は無理である。そこで学生時代に一時期のめり込んだフォークソングをもう一度やることにした。ギターなら思いついたときにいつでも一人で弾ける。遊ぶ暇もなく、ただひたすら働くだけだったので、金だけは充分にあった。そこで学生時代には手が出なかった高いフォークギターを買った。
 うまい具合に社内に同じ趣味の仲間を見つけ、バンドもどきを組んで社員寮の一室でオリジナルの曲作りにふけった。こうした創作の趣味に打ち込むことで、会社での押しつまった気分の転換をはかろうとした。
 この試みは大成功だった。大声で歌を弾き語れば、小さなストレスなど一気に解消してしまう。噂を聞きつけた先輩や上司からは、酒席になると決まって「菊地、一曲やれよ」と声がかかった。いつの時代にも酒席には歌がつきものだが、まだカラオケのない時代である。ギターが手元にないときは、構わず無伴奏で歌った。評判はよかった。私の中にある「出たがり、目立ちたがり」の一面が思わぬところで活きた。

 こうして私は徐々に自分のペースを取り戻し始めた。気分が前向きになれば、仕事に対しても前向きになれる。苦手だった土木の知識もそれなりに身につき、秋ごろには一人で十ケ所程の現場を受け持ち、うまく切り盛り出来るようになっていた。

(なんとかやれるかな…)

 半年前とはまるで異質の、仕事に対する小さな手ごたえと自信を私は感じ始めていた。



その時会社を辞めようと思った



 一年後、そうした地道な努力と仕事に対する前向きな姿勢が評価されたのか、あるいは最初から会社側がそういうつもりだったのか、私は当初からの希望だった設計課へ配属された。もともとデスクワークや図面引きは好きだったし、一年間現場を仕切った経験と自信はあるしで、まさに水を得た魚だった。
 数ケ月後、これもそうなることが決まっていたのか、私は設計課のメンバーで新たに構成される「CADプロジェクト」なるものに配属換えになった。CAD(コンピューターによる自動製図システム)どころか、コンピューターそのものさえ、まだごく一部の会社にしか導入されてなかった時代である。
(偶然だが、同じプロジェクトメンバーの中に、あの先輩OLの彼女がいた。結ばれる運命にある男女とは、どこかでこうした深い縁で結ばれているものなのだろう)
 私は自分がそうした最先端のセクションに配属されたことを素直に喜び、一層意欲に燃えて働いた。この時期の一年間が、私の最も充実していたサラリーマン時代だったかもしれない。
 もしそのままプロジェクトがトントンと進行し、首尾よく完成さえしていれば、もしかすると私はいまでもその会社にいて、めでたくCADか社内LANの責任者にでもなっていたかもしれない。もしそうだったら、ここでこうしてモニタに向かって愚痴をこぼしていることも、おそらくなかっただろう。

 さて、いよいよ今回の話の核心に触れよう。1973年の秋、予期せぬ出来事が日本、いや世界中を揺るがした。若い人でもおそらくその言葉だけは聞いたことがあるはずだ。そう、あの「オイルショック」である。
 とにかくアラブの国々から石油がまるで入ってこなくなり、現場で使う鉄筋を始めとする資材のほとんどが、毎月何割も値上がりするというすさまじさ。生活用品も例外ではなく、スーパーの店頭からトイレットペーパーと砂糖がすっかり消えてしまうという騒ぎだった。
 このときの日本中の狂乱ぶりはいま思い返してみても、ただおぞましいだけである。最近でも「米騒動」などが記憶に新しいところだが、あれなどはまだ可愛いものだ。
 私は「カミがなきゃ手でふきゃいいさ」「コメがなきゃウドンがあるさ」といった具合で、もちろん買い占めなどには一切走らなかったが、「恋人のプレゼントにはぜひ砂糖とトイレットペーパーを」などと、真面目に実行している人が現実に私の身近にもいたくらいだから、その騒ぎの大きさを想像してみて欲しい。

 話を本筋に戻そう。読みの鋭い方はもうお気づきのはず。プロジェクトの進行がまさにピークに差しかかっていたころ、総額ン億円近くかかると噂されていたプロジェクトが何の前触れもなく、いきなり中止になってしまったのだ。世間がそんな状況だったので、すでに社内では中止の噂が流れ始めていたが、私は継続を信じていた。
 会社に資金の蓄積は充分あることは分かっていたし、こうした時期だからこそ、長い視点で見れば必ず合理化につながるCADシステムが必要になる。だからトップは必ず継続の結論を出すはずだ…、と。
 ある晩秋の日の朝のことを、私は決して忘れることが出来ない。プロジェクトルームにいきなり担当常務と例の工事部長が入ってきた。彼等が部屋に姿をみせたことはそれまで一度もない。私たちプロジェクトメンバーは、すぐにただならぬ気配を感じとった。
 椅子に腰をおろした担当常務は、重々しい口調でプロジェクトの解散を告げた。派遣社員を入れて八人いたメンバーのうち、リーダーは現場に配属変え。派遣社員は契約解除。女子社員はライン業務に戻り、残された私ともう一人の男子社員は残務整理。これは重役会議での結論なので、くつがえることはない…。

 私は入社のときに味わったものとは全く異質の絶望感にうちのめされていた。私はそのとき、「この会社は自分のいるべき会社ではない」とはっきり悟っていた。