2002...第6回入選
 集う街 〜Commune Town



 この年のテーマは『札幌の新しいライフスタイルをデザインする』だった。テーマがあいまい過ぎて的を絞りにくく、締切が迫ってもいまひとつ応募する気がおきない。
 気が進まない理由は実は他にもあった。勘のいい方ならお気づきのように、授賞履歴の中に2000年の第5回分が欠けている。応募しなかったのではなく、ちゃんと応募したのだが落選してしまったのだ。連続授賞という心の張りが途切れたことも、応募をためらった大きな理由だった。

 ちょうど2年前に設計した自宅で建築家としての実質的デビューを果たしたばかりの私だった。それ以来、「生活デザイナー」などというあまり聞き慣れない職業を自ら名乗っている。人々の生き方、暮し方を総合的にデザインしたい、という願いと意気込みを込めた名だったが、よく考えてみれば、「ライフスタイルをデザインする」というこの年のテーマとぴたり合致する。自分のめざすデザインの方向性を世に問うには、またとない機会ではないのか?
 そう考え直すと、「生き方、暮し方をデザインする」という困難な課題にむかい、果敢に挑戦することを決意した。

 過去の例から考え、「ライフスタイル」というキーワードさえおさえていれば、何をデザインしても許されることは明らかだった。暮しに関わる具体的な物をデザインするのがごく一般的で無難なやり方だったが、私は最初からそれを排除し、目には直接見えない生き方暮し方そのものをデザインすることにあくまでこだわった。
 新居に引越して以来、私は町内会活動に深く関わっている。一方で、仕切りのほとんどない広々とした自宅のスペースを地域の人々に無償で開放したいという願望がかねてからあり、不完全だがすでに一部実行している。このふたつの活動をリンクさせ、開放者と訪問者の双方が満足できる都会のオアシスのような形での新しい人間関係を構築出来ないだろうか…?
 閃きといえば閃きに違いないのだが、前2回と違っていまひとつ(これだ!)という確信が持てない。最も不安だったのは、実体のない「生き方、暮し方そのもののデザイン」という曖昧な概念が、果たして審査委員に受け入れられるのだろうか?という強い懸念である。
 やはり目に見える物のデザインにするべきか、と一時は気が迷ったが、どう考え直しても他にいい案は思い浮かばない。締切が迫ってきたこともあり、見切り発車でプレゼンの作成にとりかかった。

 基本概念は、共通の趣味を通じて近所の家に定期的に集まり、楽しく過ごすというごく単純なものである。いわば「カルチャー教室ご近所版」「趣味のオープンハウス」とでもいうべき代物で、これを何とかデザインの質まで高めなくてはならない。
 例によってあれこれ思い悩むうち、遠くからでも目立つ認識標のようなものを作り、集まる家の玄関に取りつけてやればいいのではないか?と思い当たった。趣味の種類と開放曜日、時間によって認識標の色やデザインをそれぞれ変えてやる。人々はそれを目印に、自然に集まってくる…。
 生き方、暮し方という抽象的な概念に、デザインという具体的な光が当たった瞬間だった。よし、これで何とかなりそうだ。いや、もうこれしか手はない。
 差し迫る時間の中、下のようなプレゼンテーションがどうにか完成した。
(文章とイラストは応募時のまま)



INTRODUCTION



人が社会から孤立して生き続けることは難しい。個の世界が強くなったと言われる昨今だからこそ、人は何らかの形で他と関わることで自分の存在を確かめ、いま生きている証を求めたがるのではないだろうか。

私たちの街には町内会と呼ばれる近隣互助組織がある。行政と市民をつなぐパイプとして一定の役割は果たしているが、人と人とのつながりや生きがい面で充分に機能しているとは言い難い。近年特に若年世代の町内会離れの傾向が著しく、活動の停滞と空洞化がみられる。

一方、街には様々なカルチャー教室があり、多くの人々で溢れている。人気講座には順番待ちがあるほどで、人々の生きがい作りの場として大きな役割を果たしている。
 しかし大半の講座は都心部に集中し、行き帰りに時間がかかる。交通費や受講費の負担も馬鹿にならず、社会的弱者にとって決して優しい存在とは言えない。

時間的制約と経済的負担が少ない町内会と、生きがいやコミュニケーション作りの場として優れているカルチャー教室の両方の長所を合わせ持った組織を構築出来ないだろうか?
 社会に開かれたコミュニケーション形態、集う街を21世紀の新しい人間関係の場として提唱したい。



CONCEPT



「集う街」は新たな場所や人材を必要としない。私たちの街にいまある個人の趣味空間を人々が集う場として提供し、互いに共有しようというのである。

たとえば読書好きの人がいる。家にある本を図書館のように人々に閲覧開放する。
 たとえばパソコン好きな人がいる。自分の持つパソコンの知識を人々に分け与える。
 たとえば漬物作りの名人がいる。四季折々のオリジナル漬物を囲んで情報交換し、技を高めあう。
 たとえば日曜大工の達人がいる。自宅のガレージを使って、手作り品の実地指導を行う。
 共通の趣味というキーワードを通じて人々が触れあい、互いに参加することで、都会では失われつつある滑らかで開放的な人間関係の形成をめざす。



DETAIL



「集う街」はおおむね百戸前後の近隣街区単位で協議採択し、宣言される。
 セキュリティの観点から、参加対象者は不特定多数ではなく、地域の人々を原則とする。
 場の運営はすべて個々の開放者に任されるが、参加者の利便を考え、特別な事情がない限り開放日は毎週決まった曜日と時間に定める。開放者には人々に奉仕し、場を自由に運営管理することによる大きな喜びと生きがいが得られる。

技術と場の提供は無償であることが大前提である。参加者に負担を強いないことで、一般のカルチャー教室とは一線を画する。

町内会回覧板や地区広報、小中学校の学校便りなどを利用して広報活動を行う。
 古くからあるこうした地縁の再利用を図る一方で、インターネットを利用した広報活動も並行して行い、新たな人間関係、すなわち知縁の構築も同時に図る。新しい縁を随時注入することは、集いが慢性化、画一化するのを防ぐ重要な意味を持つ。

場を提供する家には、「リング・タグ」と呼ばれる認識標を配付し、玄関や門周辺の公衆の見やすい場所に掲示する。認識標には、趣味空間の種類、開放曜日、開放時間などが一目で確認出来るデザイン的工夫をこらす。


 内容からして、中途半端な評価はなく、結果は○か×かのいずれかであろうと予想していたが、意に反して結果は△とでもいうべき、玉虫色の「入選」だった。正直に書くと、電話で最初に授賞の知らせを受けたときは、やや拍子抜けの感は否めなかった。もしかすると審査委員の評価が別れたのだろうか。
余談だが、今回の全28名の授賞者の中で50歳代は私ただひとり、もちろん最高齢授賞者だった。

「人が社会から孤立して生き続けることは難しい」などと、冒頭からいきなり真っ向勝負の豪速球を投げ込んでみたのは、この提案の意気込みをまずアピールしたかったからだ。あちこちにちりばめたおよそデザインという概念には似つかわしくないくだりは、早い話、このページの連載エッセイ「徒然雑記」を抜粋したような内容で、昨今の私の人生観そのものである。
 公的な第三者の評価を今回得て、こうしたことが広い意味での「デザイン」として受け入れられたこと自体、大いに喜ぶべきことに違いない。

 何より大切なのは、今回の提案が私のめざす生き方、いま実践中の私の暮し方そのものであるという事実だ。プレゼンに使った街並の写真は私の住む近隣地域のものだし、玄関の写真はズバリ私の家そのものである。
 こうなれば目下進行中のさまざまな個人的プロジェクト、たとえば大がかりな手作り家具であるとか、風と光の吹き抜けるローコスト住宅であるとか、大地に根ざしたエコロジーな縄文生活であるとか、そんなもろもろの事柄が、やり方次第ではすべてデザインとして評価されそうな気もしてくる。
 自分の生きる道、目指すものに(それでいいんだ、その道をまっすぐ行きなさい)という大きな励ましと勇気を得た、そんな価値ある今回の授賞だった。