サッカーはまるで素人だった私が、降って湧いたようなきっかけで地元サッカー少年団のコーチを引き受け、男女それぞれ4年の指導を担当し、あわせて8年が過ぎ去った。
 すでにすべての指導から引退し、いまは隠居の身だが、ここでは私のようにずぶの素人からコーチをめざそうとするお父さん、お母さん、お兄さん、お姉さんを応援するため、私自身が失敗と成功を繰り返しながら手探りで進めてきた「ベンチワーク」らしきものをつれづれに語ってみたい。



コーチの条件



 いろいろなコーナーですでに触れているように、私は運動音痴である。そんな私でもなんとか指導を続けられたのは、やはりサッカーに対する熱意が途切れることがなかったからだと思う。この「熱意」とは、単純にサッカーが好きで好きでたまらないことで、何らかの義務感とか使命感のたぐいに支えられたものではない。
 都合8年間で何十人何百人のコーチの方々と接してきたが、熱心に指導されている方に共通しているのは、皆とても楽しそうにサッカーと取り組んでいることだった。私自身もコーチ在任中は、グランドで子供たちと一緒にボールを蹴るのが楽しくて仕方がなかった。
 そこには、「ボランティアのために」とか、「子供たちのために」とかの堅苦しい理由は無用である。強いて理由づけが必要なら、単純に「自分のために」と割り切ることがもっとも分りやすい。
 本当に好きであれば、時間はなんとか都合をつけられるものだし、手弁当だって少しも苦にならない。サッカーのコーチに何か条件があるとすればただひとつ。それは、「サッカーが好きでたまらないこと」これに尽きる。

 ただ、既婚者の場合、家族特に妻(夫)との関係は非常に重要だと思う。いくら好きでたまらなくても、いざ子供のサッカー指導を担当するとなると、練習や試合に膨大な時間がとられる。コーチが複数いて、時間を分担出来るならともかく、コーチの人数が少ないと、その負担はますます増大する。
 我が子がチーム内にいて、応援や世話がすべて家族ぐるみで行える場合はあまり問題にはならない。だが、我が子がチームにいなくなった場合、あるいは最初からチームにいない場合、ひとつの「道楽」として、妻(夫)がサッカー指導を認めてくれるかが問題になる。
 どんな場合でも家庭不和とコーチとを刺し違えるほどの意味や重さはないと私は思うので、家族の了解は、ある意味で唯一のコーチの条件と言えるかもしれない。



まず自分でやってみる



 さて、ただ好きなだけでももちろんいいのだが、現実の指導となると、やはりここはある種の「カリスマ性」というか、子供に対して「さすがはコーチ」とうならせる技術がなくてはならない。
 たとえば、いくら「そこは浮き玉でサイドチェンジしろ」「いまのシュートは右足じゃなく、左足だよ」などとベンチで叫んでみても、3〜4年生レベルでは、余程うまい子でないと出来ないケースがある。そこで、口で言う前に、まずはコーチがお手本を示すのだ。ここでうまくゆけば、子供はたちまち一目置いてくれ、強い信頼を勝ち取ることが出来るだろう。

 もちろんそのためには、並々ならぬ陰の努力が必要である。私の場合、たとえば方向を変えるヘディングを教えるときは、人目につかない夕暮れなどに息子と二人で何度も練習し、完全に会得してから教えるようにした。各種キックもしかり、ワンツーパスなどの連携プレーもしかりである。こんなとき、学生時代などに豊富なサッカー経験がある方をつくづくうらやましく思ったりもした。
 こうしてひとつのプレーなり技術なりを自分で一から試してみると、そのプレーがどれくらいの難度であるかを身をもって知ることが出来、指導の目安にもなるので一挙両得だった。また、紅白戦などでコーチが新しいプレーを実際に見せてやるだけで、自分でそれを真似て会得してしまう勘のいい子もいる。こうなればまさに一石二鳥ならぬ「一石三鳥」である。

 さて、ここで大事なことがある。子供たちに何かのプレーを初めて見せる場合、やる前に必ず「コーチは一生懸命練習したプレーだけど、もしかすると失敗するかもしれないからね」と釘を差しておくことだ。もともと下手であるわけだから、何も背伸びすることはない。逆に、こうした自分の弱みをさらけ出すほうが、失敗をごまかしてしまうより、より深い信頼関係を築きやすいように思う。子供は実に大人の心をよく見ている。その場しのぎのごまかしは、すぐに化けの皮がはがれる。
 こう書くと、「じゃあ肝心のカリスマとやらはどうなるんだ?」と問われそうだ。しかし、心配ご無用。私の経験では、予め練習さえしておけば、2〜3度やればどんなプレーでもまずは確実に成功するはずだ。
 ちなみに、たとえばオーバーヘッドキックなど、練習しても出来そうにないプレーは、仮に子供たちから要求されても、「あれは難し過ぎてコーチには出来ないんだ」とはっきり断る。努力は怠ってはならないが、無理な背伸びは禁物である。

 私はこれらのことを徹底させるため、練習がはやく終わった日などは、グランドに残ってひとり新しいプレーの練習に励むことがよくあった。子供たちは片付けながら、じっとそれを見ている。ときには一緒に居残り練習を始め出す子もよくいた。
 察しのいい方はもうお分かりだろう。ときにはこうした「陰の努力」をあえて子供たちに見せつけることで、私は「うまいプレーを見せる」とは別の意味でのカリスマ性、つまり、「コツコツ努力することの大切さ」を子供たちに身をもって示そうとしたのだ。



雑談の重要性



 男女に限らず、子供たちはグランドにいろいろなものを心や身体に抱えてやって来る。単純な身体の不調は休めば治るが、心に不安を抱えてグランドにやってくる子の場合、少しやっかいだ。
 その理由は家庭の問題だったり、学校でのトラブルだったり、友人関係のこじれだったりする。こうした問題をまるで無視して練習をすすめても構わないといえば構わないのだが、「選手との固い信頼関係」という視点から見れば、やはりコーチとしては何らかの行動にでるべきであると私は思う。
 とはいえ、実の親でさえ簡単に解決出来ないような難問を、おいそれとコーチごときが解決出来るわけがない。ここで、私が自分なりに普段心がけていたことを列挙してみよう。

●気軽に声をかける
 心に問題を抱えている子は、必ず何らかのサインを出すのでそれを見つけ、声をかけてやる。「今日は元気ないね。どこか具合悪いのか?」「この頃練習に来るのが遅いよ。練習日はちゃんと自分で時計見ておいで」「基本練習に手をぬいちゃダメだぞ。試合でいいプレーが出来なくなるよ」等々。

●もっと雑談を
 練習の前やあと、休憩時間などに、積極的に子供と話をする。「ゆうべのサッカーみたか?ナカタのボレーシュートはすごかったな」「今年の学校の運動会の種目はどんなのがあるんだ?」「コーチの子供の頃はな、どんなにひどいケンカをしても、どっちかが泣き出したらそれでおしまいだったんだ」
 話題はサッカーに限らず、かといって学校の先生ぶったお説教ばかりではつまらない。ちょっと年上の面白いお兄さん(お姉さん)といった感じがいいのではないか。

●その子の家庭環境を把握せよ
 雑談の中で、ある特定の環境の子には話してはいけない話題がある。仮にお父さんが何かの事情で家にいない家庭の子がいたとして、「家に帰ったらお父さんとどんな話をする?」といった部類の話題は禁物である。練習や試合に遅れがちな子のお母さんが、実は病弱だったりする。アンテナを張り巡らせ、選手の家庭環境を把握しよう。プライバシーには極力配慮しながら…。

●新人は最初の一ケ月が勝負
 新しい子がチームに加入してから一ケ月は、特にその子に気を遣ってやりたい。仮にその子が高学年だったとしても、最初はなかなかチームに溶け込めないもの。二人一組の練習など、やる相手がいなくて困ってしまうときがある。こんなときはコーチ自らが相手になるなり、コーチから他の子に声をかけ、同じレベルの子を見つけて組ませてやるなりの配慮が必要となる。上の3つの事項も、最初の一ケ月は特に要チェックだ。
 この「最初の一ケ月」の調整に失敗すると、結果的にチームに溶け込めず、退会に至ってしまうケースが多々ある。

●子供同士のネットワークを作る
 コーチひとりですべてをまかなうのにも限界があるので、ときには保護者の力を借りるのも一考だが、子供同士に学年を越えた横のつながりを作らせてしまうのがてっとり早くて、チームワーク作りにも有効である。
 家の近い子同士を練習の行き帰りにいっしょに行動させる、同じ年度に入った子同士を二人一組の練習でグループにする、など。



保護者とのやっかいな関係



 さて、サッカーコーチにとって、子供との関係以上に難しいのが親、保護者との関係である。私自身、非常に自分の世界が強く、気性も激しいので、ときに保護者の方々と衝突してしまって、気まずい関係に陥ってしまったことも一度だけではなかった。
 根本は親の子にかける強い思いと、コーチのサッカーやチームに対する熱い思いとがぶつかりあってしまうことにあるのだが、どちらもあい譲れぬ場合が多く、ことは非常にやっかいな問題である。
 親と指導者との間にぎくしゃくしたものがあると、子供は敏感にそれを察知し、チームワークにも悪影響を与え、チーム成績も低迷してしまうのが常である。ある特定の親ときまずい関係に陥ると、その子供との信頼関係にもヒビが入り、結果的にその子も力を発揮出来なくなってしまう。大人同士の諍いに子供は本来無関係なのだが、指導者も人間だから、トラブルのあった親の子には、どうしても深く入り込めなくなってしまう。つまり、選手はもちろん、チーム全体の成績にも、指導者と保護者との信頼関係が重要なカギを握っているのである。
 コーチの立場が学校教師ではなく、一般人の場合はサッカーを通してしか保護者との信頼関係を築くことが出来ない。その意味で、「教師と保護者」という、別の強いルートでのパイプを持っている先生コーチをときにうらやましくも思ったりもした。

 チーム内に我が子がいる場合は保護者もよく知っている人たちが多く、あまり問題にならない。妻に保護者と私のパイプ役をお願いすることも出来た。問題はチーム内に我が子がいない場合で、この場合はトラブルを回避するため、「保護者とは一線を画す」というのが究極の対策のように思える。
 コーチを始めた頃は子供と同じように、親とも親密な人間関係を築いていくのが最良の策と信じていたが、これがどうやらそうではなかった。親と必要以上に親密になると、互いに妙なもたれあい、馴れ合いに陥ることが多々あり、これが結果的に度を越えた互いの要求に発展してしまうことに気づいた。
 最後の数年間は、慣例になっていた試合時の保護者からの弁当提供を、自ら申し出てやめてしまった。理由のない飲み会や度を越えた謝礼も慎まなくてはならない。
 こうして指導者自らが「自重」を申し出て実行すれば、親も過度に指導方針などには立ち入ってこなくなるはず。(あくまで「はず」で、このあたりはいまだに確信がない)新チーム結成の場合は、出来れば最初からそういう方式にしてしまうことが望ましいと思う。
 かといって指導者が保護者の意向を全く無視した好き勝手な指導をやってしまえば、それこそチームは空中分解となる。保護者代表の方との最低限の情報交換は必要だろう。場合によっては他チームから情報を得て参考にするのもいい。



ポジションの見極め



 さて、実際に初めてチームに入ってきた子供に、どんなポジションを与え、どんなふうにチームを作ってゆけばいいのだろう。
 どの子がどのポジションに向いているかを見抜くのは、おそらく百戦錬磨のコーチでも、かなり難しい仕事だろう。キーパーにこだわっていた子に、試しにフォワードをやらせてみたら、素晴しい動きを見せてみたり、フォワードではいまひとつだった子が、ボランチに下げたとたん、見違えるような動きに変る、などということは、よくある話だ。

 初めてチームを作る場合、または初めてチームに入ってきた子がいた場合、私はまずミニゲームや紅白戦で「好きな場所をやってごらん」「行きたい場所に動いてごらん」としばらく子供のやりたいようにやらせてみる。そしてその子がどんなイメージを持ち、どんな動きをするか、注意深く観察するのだ。そしてその子の普段の言動、家庭環境、兄弟構成なども考慮しながら、少しずつポジションを修正していく。
 これも時代の流れなのか、「どのポジションでもいいよ」と言う屈託のない子は近ごろはあまり見かけず、特にキーパー、バックスは「点を取られる」というマイナスのイメージを嫌うのか、やりたがる子はめっきり少なくなった。
 希望者が殺到するのは格好が良く、プラスイメージしかない(と思い込んでいる)フォワードばかり。嘆かわしいことだ。これは子供ばかりのせいではなく、多くは大人たちの責任と言える。「フォワード人間ばかりでは世の中は成り立たない」ということを、大人たちはもっと普段の日常生活レベルから子供たちに示唆しなくてはならない。

 子供のポジションに親が関わってくる例が、実は少なくない。ある協力的な親から、「ウチの子はいまバックスだが、フォワードのほうが向いているんじゃないか?」と直接言われたことがある。普段の練習で時折その子が、「ボクは攻めをやりたい」と私に訴えていたので、(これはもしかすると子供から頼まれたな…)と直感した。
 その子が攻めより、守りの面で優れているという確固たる自信を持っていたので、あわてず騒がず「彼は守りで一番力を発揮するタイプですよ」と、きっぱり即答した。親はそれでもまだ納得出来ない様子だった。
 しばらくたって、私は彼ら親子にダメを押すつもりで、ある練習試合の後半だけ、その子が「向いている」と信じ込んでいるトップのポジションをやらせてみた。親は当然それを見ている。そう強い相手ではなかったが、その子は強引に突破を試みてつぶされるか、はるか遠くからゴールめがけて蹴るだけで、トップとして全く機能しない。以来、その親は私の采配に口出しすることはなくなった。この種の親の場合、練習試合などでさり気なく機会を与えてやれば納得する可能性がある。

 協力的な親というのは結構曲者で、チームへの協力と引き換えに、我が子を偏重することを図々しく要求してくることが稀にある。全国大会をかけた大事な試合で、それまでMFだった子をいきなり「ウチの子をトップに使ってくれ」とその子の親から進言されたこともある。その試合は守りに重点を置く気でいたので、もちろん即座に突っぱねた。親が中途半端に采配に口を挟むことは厳に慎むべきで、それは社会人としての最低のルールだろう。



フォワードはエゴイスト?



 ちょっと刺激的なサブタイトルだが、分かりやすいように、極端な言葉でポジションを独善的にイメージしてみた。もしかしたら、子供のポジション決めの参考になるかもしれない。

●フォワードはエゴイスト/
 ここ一番の場面で決して弱気にならず、誰にもボールを渡さず、自分がヒーローになる姿だけを夢見てゴールに突進するエゴイストでなくて、どうしてフォワードが務まるだろう?

●気配りのミドフィルダー/
 一番よりは二番が好き。得点シーンでも、ガッツポーズでグランドを駆けめぐるゴールゲッターより、あとから駆け寄って抱きつくアシストが好き。そんな気配り人間にお勧め。

●自己満足のディフェンダー/
 誰も認めてくれなくたって、たとえ少しも目立たなくたっていい。私の価値は、私が一番良く知っている。このチームの土台を支えているのは、私なのだから…。そんなストイックなあなたが、組織にはぜひとも必要である。

●キーパーは変り者/
 野球なら一人だけ逆方向を向いて座っているキャッチャー、ボートなら一人だけオールを持たずに掛け声をかけるだけのコックス。そんなふうに、みんなとはちょっと違うことをやってみたい変り者むきのポジション。なんてたって11人のうち、一人だけ手を使って文句を言われないのだから。

 さて、こうして書いている私は自称マルチ人間なので、一応どのポジションでもそこそこにこなすが、どれも中途半端で三流以下だ、というもっぱらの陰の声。



コンバートの男女差



 私の場合、(あの子は…に向いている)と踏んだ場合、男子と女子とでコンバート(ポジションの変更)のやり方を変えていた。

 女子はなぜかある特定のポジションにこだわる子が多く、かなり長い時間をかけてそのポジションを納得させなくてはいけなかった。ミニゲームや紅白戦、練習試合などでいろいろなポジションを試し、(やっぱり私はここが一番いいのかな…)と本人が思えるまで、徐々に納得させるのである。
 変える場合も、あらかじめ「今日は…をやってもらうかもしれないよ」と予告しなくてはならないし、それがもとで試合を落とす可能性のあるような緊迫した場面では、間違ってもコンバートなど試してはいけない。こうした手順を踏まずにゴリ押しした場合、選手とコーチとの信頼関係を失うことにもなりかねない。

 反対に男子の場合は、コンバートは練習や紅白戦ではなく、練習試合か公式戦でいきなりやったほうが効果的だった。こうした「公式戦いきなりコンバート」が大成功し、その子が見違えるように再生した例は、過去にいくつもある。
 男子の場合、あまり事前にネチネチと予告などして妙なプレッシャーを与えてしまうより、考える時間を与えず、いきなりグランドに放り出すほうが効果的のようだ。

 コンバートに対して、なぜ微妙な男女差があるのか、実は私にもよく分からない。「子供を産む」という意味で、どこか保守的にならざるを得ない男女の性差が関係しているのかもしれない。前述の傾向はあくまで私の実感からくるものなので、個人の資質によってはそうでない場合もあると思う。



自分のカラーでチームを作る



 そのチームで最も優れた選手でチームを組み立てよ、とよく言われる。確かにもっともなのだが、この「最も優れた」の内容が問題だ。
 ただ足が速いだけ、ドルブルがうまいだけ、仲間を仕切る力が強いだけで、その選手をチームの柱と決めつけてしまうのは非常に危険である。問題は指導者がどんなイメージでチームを作りたいかだ。

 あくまで私の場合だが、最初の頃ははともかく、指導の後半では、ほとんどボランチ、またはリベロを中心にチームを作っていた。その学年で誰をボランチにするかを常に考えて選手を育成していった。
 サッカーをやる子供が次第に集まりにくくなってきたので、どうしても守備とパスと攻撃のすべてのカナメと成りうるようなポジションにこだわってしまった。これまたよく言われることだが、守りは計算出来るが、攻めはなかなか計算出来ないものだ。「まず守備から入って、そこを基点にして攻める」それが引退するまでの私のスタイルだった。
 中心が決まれば、あとはそれぞれの個性を生かした幹を育ててやればいいので、比較的楽である。問題はどうしてもその年度で優秀なボランチやリベロが見つからないときで、そんなときはやむなくフォワードやキーパーを中心選手に持ってきたりしたが、こと勝ち負けに関すれば、なかなかいい結果には結びつかなかった。



練習試合は負けろ



 子供だけでなく、Jリーグや代表レベルでも練習試合は欠かせない。練習試合には大きく分けてふたつの意味があると思う。まだメンバーが固定されてないシーズン始めの時期、暫定的に決めたメンバーがチームとして機能するかどうかを試すためのものがひとつ。もうひとつが、シーズン中の大きな試合の直前における敵の戦力調査と、チーム戦力の仕上がり度をチェックするものだ。

 どの場合にもあてはまるのが、「練習試合は負けろ」というおよそ勝負事には相応しくない警句である。特に子供にはその傾向が強いが、単なる練習試合に過ぎなくとも、勝てば必ず緩みが出る。相手があきらかに戦力を落としていたり、単に調整不足だったりするのに、そんな事情はおかまいなく、「俺たちは強い」と勝手に思い込む。ときに指導者でさえ、経験の少ない時期はそう思い込みがちである。だから練習試合では負けたほうがいいのだ。
 といっても一応勝負であるので、子供たちにわざと負けさせるわけにはいかない。そこで時間を区切って細かく選手のポジションを変えたり、ときに控えの選手をレギュラーチームに入れてみたりする。もちろん思いつきではなく、日頃から実戦で試したいと考えていることをここでやってみる。
 チームとしての力は100%出ないので、たいていは負けるか僅差になるはず。でも、それでいいのだ。子供の中に緩みは出ないし、レギュラーでフルに戦っていないのだから、負けが自身喪失にはならず、あとにも引きずらない。反対に、思いがけず与えられたポジションで、予期せぬ働きをする選手が出てきたりする。

 私のコーチ初采配の公式戦で、長男のいたチームが札幌地区で3位の好成績に輝いたとき、直前の練習試合では完敗だった。転校によるレギュラー補充の見極めと、監督交代によるチームの掌握が練習試合の主な位置づけで、勝ち負けはもちろん度外視である。しかし、このときにいろいろ試した選手のデータは、1週間後の公式戦で見事に活きた。
 長男を3トップの中央ではなく、少し下げてトップ下として使っていい感触を得たのもこの練習試合だったし、Bチームのトップだった子をAチームのキーパーとしてテストし、その後レギュラーとして不動の座を確保するきっかけとなったりもした。

 反対に、女子では苦い経験を持つ。指導3年目のチームで、あと1勝すれば単独チームで全国行き、という場所まで勝ち進んだ大一番で、わずか1週間前の練習試合では完勝していた相手に、0:5で完敗してしまったのである。
 理由はいろいろ考えられたが、この練習試合での完勝がこちらにとっては緩みにつながり、相手にとっては危機感につながったと断言していい。相手は2年連続で全国大会進出の強豪で、公式戦はもちろん、練習試合でも勝ったのはこのときが初めてだったが、「あの練習試合での負けが選手に逆バネとなって働いた」と、後に懇意だった相手チーム監督から聞いた。
「練習試合で勝ったからって、絶対油断するなよ」と試合前に選手には充分言い含めていたが、やはり(もしかすると全国にいけるかも…)という色気と緊張が、結果的にマイナス要因となって働いたと言わざるを得ない。
 いま思い返せば、練習試合でまだ僅差だった段階で、レギュラー選手を下級生に代えるなり、内部でポジションを大幅に変えるなどの「対策」をあえてやっておけば…、とそのことだけが悔やまれる。



レギュラーと控え



 新チームでも既存のチームでも、レギュラーと控えの選別は、ポジション決めと同様に指導者を悩ませる大きな要因のひとつである。選手には常に保護者の影が大なり小なり寄り添っているもので、少子化が進めば進むほど、その傾向は強くなるはずだ。従って、選手が11人以上いるチームでのレギュラー決めは、親の思惑をも巻き込んだ、大問題になりかねない。
 既に触れたように、コーチも人間であるので、普段から親と一線を画したつきあいをしていないと、チーム運営に協力的な親の子を、つい偏重してしまいがちだ。誰が見てもレギュラー、誰が見てもそのポジションが相応しいと判断出来る場合はいいが、あいまいな立場の選手が、単に協力的な親の子であるだけで重要な位置に起用されるようなことは、絶対避けるべきであろう。

 しかし、こうした親の問題をさておいても、レギュラーと控えの選別は難しい。私の場合、いわゆるセンターライン、つまりトップ下、ボランチ、ストッパー(リベロ)、キーパーの4〜5人だけは病気や怪我など、余程のことがない限り、メンバーを固定した。逆に言うと、このメンバーがいつまでも固定されないチーム状況に陥ると、勝利はおろか、まともな戦いそのものさえおぼつかなくなる。
 さて、この4〜5人が何とか決まったとして、残るポジション6〜7人分は、あくまでフレキシブルにするのが私のやり方だった。つまり、このポジションを完全には固定せず、残った選手で競わせるのだ。チームが同学年で占められていようが、複数の学年が混在していようが、それは変わらなかった。
 場合によっては、高学年の子を押し退け、低学年が起用されるケースも出てくる。高学年の子の練習態度が悪い場合は、その傾向が強くなった。

「なぜ自分を替えて低学年を使うのか」と、選手から直接食ってかかられたこともある。その子は最上級生だったが、理由なしに練習をしばしば休み、試合になると必ず現れて、チームの和を乱していた。その日はまず前半だけスタメンで出し、動きが悪いのを見切って、後半は真面目な低学年の子に替えた。

「ちゃんと練習にこないからだよ。こなくても試合で同じくらいの力を出せばあえて替えないけど、どうみても力が落ちれば、低学年の子を使うよ。それがいやなら、ちゃんと練習においで」

 そうはっきりと答えるとその子はうつむいていたが、やがて練習には全く顔を見せなくなった。結果的に貴重な選手を一人失う形になったが、チーム全体の情操面としては、むしろこれで良かったと思っている。



選手の替えどき



 試行錯誤のすえ、とりあえずスタメンを発表して試合が始まったとする。そのまま試合が進み、そのまま誰も交代させずに試合終了、という場合もあるが、多くの場合は何らかの形で選手を替えるはずだ。(替える選手が全くいないようなケースも、昨今のチーム事情では充分考えられるが…)
 リードしているときに今後に備えて控えの選手を試したり、膠着状態の試合展開を打破するべく、新しい選手を投入するケースなど、さまざまな状況が考えられる。この選手交代に関しても、過去に多くの成功と失敗を私は繰り返している。

 長男のチームが全道でベスト8という、かってない輝かしい成績をおさめたときだった。札幌地区予選は一発トーナメントで、負ければそれで終わりだったが、一回戦の相手は創部まもないチームだった。前半を終えて5:0でリード。展開から見て、負けは考えにくい。ハーフタイムでの選手は、楽勝ムードで完全に浮かれている。後半になっても勢いは止まらず、選手のはしゃぎの虫は治まらない。6:0になった時点で私はある決断をし、監督に進言した。「選手を全員替えて、B編成でいきましょう」
 このまま浮かれた気分を二回戦以降に持ち込むと、必ずどこかで負ける、と思った。本当はハーフタイムでやるべきだったが、躊躇した。相手には少し失礼だったかもしれない。翌日の二回戦も6:0で勝ったが、今度はハーフタイムあたりから二人くらいずつ控えの選手に替えていった。
 準決勝と決勝は厳しいゲームだったが、楽勝ムードをあらかじめ断ち切っておいたせいで、僅差で勝った。

 今度は失敗例である。ある3年生男子チームを指導していたときだった。このチームにはその後札幌選抜に抜擢され、全国大会3位のメンバーにまでなった能力の高い選手がいて、息子のチームに負けない強いチームだった。初の公式戦で、トントンと勝ち進んだが、やはり二回戦あたりで二桁近い点をとった。(攻めの選手を替えようか…)と私は悩んだが、どうしてもふんぎりがつかなかった。
 結局、次の試合で僅差で負けた。前の試合で5点くらい点を取った選手が不発だったから、明らかに点を取り過ぎたことによる気の緩みである。替えるふんぎりがつかなったのは、区大会という小規模な大会だったこと、そして初の公式戦の中での選手全体のモチベーションのようなものを把握したかったことがあった。
 いずれにしても、選手の気持ちが緩んでいるとき、あまりにも点が入りすぎるときは、思い切って攻めの中心選手を替えてしまうのが、その後の試合展開に緊張感を持たせるのに、極めて有効である。

 延長戦にもつれた試合で、対照的な結果の出た忘れられないふたつの試合がある。ひとつ目は先に書いた息子のいたチームで、勝てば全道大会進出の決まる札幌予選決勝の場面だ。0:0のまま、延長戦にもつれたが、このとき、前監督が突然ベンチに現れ、いまひとつ調子の出ない左トップの子を交代するよう主張した。
 左からの攻めがもう一歩のところまできているのを知っていたし、彼を強く信頼していたので、私はそれを突っぱねた。結果はその子のアシストで息子が決勝ゴールを決め、チーム創設以来初の全道大会進出を決めた。

 数年後、やはり一から育てた4年チームが、勝てば全市大会進出となる区大会の決勝で、1:1の延長戦にもつれた。ところがその試合に限って、普段練習にも全く顔を見せない別学年担当のコーチ二人(教師)がベンチに現れ、やはり動きのいまひとつだった左トップの子を替えるよう主張した。このあたりは前例に酷似している。
(このチームを最も把握しているのは自分だ…)という強い自負が私にはあり、その子を替えたくはなかった。左利きだったその子はPKが非常にうまく、もしもPK戦にもつれたとき、切り札になるような強い予感がしていた。
 しかし、結局私は折れた。二人のうちの一人は監督で、遠慮もあった。教師の主張する選手を入れたが、精神にもろさを持つその子は、全く機能しない。予想通りのPK戦になったが、7:8で負けた。最初の5本で4:4だったから、練習でいつも2番を打たせていたその子をもし替えずにいれば、勝っていたのではないか…、と10年近くが過ぎようとしているいまも後悔が走る。
 選手の替えどきは、かくも難しいものだ。替える替えないの決断には、普段の選手を掌握していない「部外者」は、一切口を挟むべきではない。
(この試合を機に私は男子の指導をやめ、女子チームの監督に転任した)



熱く語れ



 いきなりの選手交代などで強い姿勢を無言で示すのと同時に、言葉で粘り強く子供たちを導くのもまた指導者の大切な仕事である。どちらか一方だけでは片手落ちで、両者のバランスが大事なのだと思う。
 勝利に重きを置くか、情操面に重きを置くかで言葉の使い方は微妙に変わってくる。しかし、サッカーがスポーツである以上、勝つことを無視してチーム作りを進めるのは無意味であると私は思う。
「勝ちを追求しつつも、その過程で人間として生きるうえで大切なものを養う」
 それが理想で、指導者だった頃はあくまでその視点を崩さなかった。おそらくはそのどちらが欠けても、アンバランスな活動になってしまうだろう。

 言葉での啓発には、集団に対するものと、個人に対するものとがある。これまたどちらか一方だけでは駄目で、両者のバランスが問題である。いざ本気でチームの指導をするとなれば、指導者はまるで映画監督やオーケストラの指揮者のように、全体を見渡したり、細部にこだわったりしなくてはならない。そんなことまでしなくても形としてのコーチは務まるが、結果にはおのずと差が出る。
 集団に対する啓発は、日々のミーティングや試合前や後のミーティング、ハーフタイムの一言などがある。個人に対してもほぼ同じだが、私の場合は集団に対しては特に試合中に重きを置き、個人に対しては日々の練習時に重きを置いた。
 共通しているのは、相手を子供だと見下さず、同じ人間として対等な視線で、熱く語りかけることだ。本気で語れば、理屈では理解出来なくても、熱意だけは確実に子供に伝わる。そしてそれは何らかの形で結実する。熱く語るには、指導者の中にサッカーや指導にかける燃えるものが当然必要で、単に「暇だからコーチでもやるか〜」では、なかなかうまく運ばない。

 もうひとつのポイントは月並みだが、チームや選手が落ち込んでいるときは励まし、増長しているときはいさめる、といったさじ加減である。言葉にすると簡単だが、現実にそれを冷静に判断し、時期を逃さず伝えるのは意外に難しい。ここで見逃してならないのは、子供は大変暗示にかかりやすいという特質だ。
 たとえば過去に一度も勝っていない相手に、公式戦の大事な場面でぶつかったとする。
「相手は必ず勝てると油断してくるはずだ。そこにつけこもう。実力でそんなに差はないよ」と暗示をかけ、結果的に勝ちにもっていったことが幾度もあった。もちろんただ暗示だけでなく、具体的な分析と対策は不可欠だ。
 反対に過去に一度も負けてはいないが、実力に大きな差がないチームとぶつかるときは非常にやりにくい。いくら試合前に、「油断するとやられるぞ」と諭しても、さっぱり効き目がないことがある。こんなときはハーフタイムでの一言が重要なカギを握っている。「だから言ったじゃないか」と、選手に活を入れ直すのだ。

 実はコーチ1年目の全道大会準々決勝で、このハーフタイムの使い方をミスし、前半まで2:1で勝っていた試合をひっくり返された苦い経験がある。いわゆる「ふんどしの締めなおし」を怠ったツケだった。
 数年後、女子チームの監督として全国大会をかけた同じシーン、やはりハーフタイムで「もうすぐ全国大会だ」とはしゃぎまわる選手を集め、「そんな浮かれた気持ちだと、後半で一発で逆転されるぞ。実力は相手のほうが上なんだ」と諭し、頭を冷やさせて落ち着かせた。結果は初の全国大会進出だった。コーチにもやはり修羅場での経験の積み重ねが、ある程度は必要のようである。



負けてもいいよ



 極度に緊張した場面で、子供から重しをとってリラックスさせてやるのも指導者としての重要な役目である。ときには「負けてもいいよ」と、およそ勝負事には似つかわしくない言葉をかける場合もあった。
 先に書いたコーチとしての初采配、札幌地区で3位の好成績に輝いたトーナメント3回戦の相手が、全国大会も経験している札幌地区の超強豪チームだった。各学年を通して一度も勝ったことがない。周囲の誰もが、勝つのは難しいと考えていたはずだ。
 このとき、試合前でのミーティングでは、「ここをなんとか乗り切れ。そうすれば道は必ず開ける!」と選手に熱い激を飛ばした。その結果は奇跡とも思える1:1の健闘で、なんとPK戦にまでもつれこんだ。

 主審の指示で、キャプテンである息子がベンチにPKの蹴り順を聞きにやってきた。その顔はこわばり、緊張の色がありありと見て取れる。隣に座っている新任の監督も緊張で青ざめ、声もない。唯一落ち着き払っていたのが、私だった。(このままではいけない…)そう思った私は、自分でも思ってもなかった言葉を息子にかけた。

「ここまでやったんだから、もう負けたっていい。その代わり、PKは失敗を恐れずに思いきって蹴れ。みんなにもそう伝えるんだ」
「えっ、負けてもいいの?」

 ほっと安堵する息子の顔を、いまも忘れない。グランドに戻った息子は、私の言葉をそのままチームメイトに伝えた。メンバーの緊張感がふっとほぐれたのがベンチからもはっきり見て取れた。
 PK戦の結果は4:3で勝った。大方の下馬評をひっくり返しての勝利は、その大会の好成績ばかりでなく、その年の破竹の快進撃につながった。

 私の場合、「やれ!勝て!」と激しく激を飛ばす場合と、「よしよし、よくやった。もう充分だ。もう負けたっていいぞ」と、相反するふたつの態度を巧みに使い分ける。このときは同じ試合で、両方を使い分けた。使い方はその場の雰囲気で瞬時に判断する。チームの実力が拮抗している場合、この指導者の態度ひとつで、結果ががらり変わってくる。そこが指導の面白さであり、同時に怖さでもある。
 この「なだめたりおだてたり、ときには怒ったり」の使い分けは、子育てにおいて親が子供に接する態度と、よく似ている。私が指導者としてまずまずの成績だったのは、もしかすると自宅で長い間仕事を続け、否応なしに我が子と向き合う生活を強いられたこととも、何か関係があるのかもしれない。



練習は論理的に試合は直感で



 私の場合、練習は基本から実戦、そして紅白戦まで綿密に計画をたて、少しの時間も無駄にしないよう、論理的に組立てた。そのために数多くの本を読み、ビデオを見、プロから子供までたくさんの試合を見て、自分なりに多くのものを吸収した。
 そのときに確立した練習方法は、このホームページでも一部を紹介している。初心者にとっての基本と指導者のとるべき態度はほぼ網羅しているはずなので、いまこの練習方法でチームを作っていっても、それなりの成果は出せると思う。

 ところで、試合における私の采配は、実はあまり論理的とは言えない。試合は常に動いており、相手チームや自分のチームの個々の選手の調子にもむらがあるものなので、「こうなったらこう」といった絶対的なセオリーは存在しない。では、試合において私が重要視したものは何か?それは直感である。
 プロの監督でも試合において采配がずばり的中することもあったり、まるで大外れだったりする。彼らが何を規準にベンチ入りの選手を決め、スタメンを決めるのか、本当のところは企業秘密のはずで、手の内はあまり明かしたがらない。だが、おそらく多くの監督が同様に自分独特の勘、嗅覚のようなものを重要視しているはずだ。

 レギュラーが急病で、その子がいわゆるセンターラインの選手だったりすると、ベンチは大慌てでパニック状態に陥ったりする。私も過去に何度かそんな目にあった。誰を代役にたてるべきか…、いろいろ悩むが、最終的に従うのは自分の勘である。この場合、「ストッパーが急病だから、Bチームのストッパーを代役に」といった安直な方法はほとんどとらず、セオリーは無視する。そして、不思議なことにこの動物的な「勘」が外れた記憶は一度もない。
 息子のチームが全道大会進出を決めた札幌地区予選の3回戦、強力なストッパーの子が突然39度の熱で休んだ。ふたつ勝てば全道大会決定となる大事な日で、このとき、代役には左サイドバックの子を使った。空いた左サイドバックにはBチームのMFを入れた。二人とも初めてのポジションだったが、この策が的中し、この日2試合を僅差で勝った。

 女子チームを全国大会に導いた北海道地区予選最終戦の舞台、相手は数度の練習試合で一度も勝っていない強豪である。しかし、その試合をもし引き分ければ、得失点差で全国行きが決まる。
 いま初めて明かすが、実はこの試合は最初から引き分けねらいでいった。実力差はかなりあり、まともに戦っては勝ち目はないが、引き分けなら何とかなりそうだった。相手の(練習試合ですべて勝っている)という油断にもつけこみたかった。
 そこで、秘策をたてた。守備のセンスに乏しい左MFの6年生の子に替え、控えの4年生をスタメンで使ったのである。過去の敗戦は大半が右から崩されている。その4年の子のねばり強さに賭けた。
 そのときは近隣3チームの合同チームとして参加していて、レギュラーの左MFの子は他チームだった。そこであらかじめ所属チームの監督に話し、了解をもらった。女子なので、6年生と4年生とでは体格的にかなりの差がある。常識では考えられない起用で、失敗すれば他チームを巻き込んだ責任問題になりかねない。しかし、そのときも自分の強い勘を信じた。替えた4年生の子は気分にむらのある子だったが、前日の試合でいい動きを見せていて、集中力が高いと見た。
 試合は0:0で引き分け、思惑通りの結果となった。私は代表監督としての面目をかろうじて保った。

 選手起用に関する試合での直感を養うには、普段の練習での選手の動き、練習態度、家庭環境、それまでの試合での動きなどを総合的にデータとして頭に入れておくことが不可欠だ。たとえば普段の練習を別のコーチに任せっぱなしで、試合になっていきなり現れてみても、的確な判断は下せない。
 試合の流れを見極めるのもこれまた至難の業だが、こちらは数多くの実戦を積み、数多くの試合を見て、さまざまなケースで試合がどんなふうに動いていくものなのかを、これまた総合的に頭にインプットしておく必要がある。
(この試合はPK戦にまでもつれる)(この試合はエースがマークされる)(この試合は僅差で勝てる)等々、試合の展開が先まですっかり読めてしまうことは結構多い。
 こうして論理的に組立てた練習方法で選手が技術戦術を充分に発揮し、自ら培った勘で采配がズバズバ決まりだすと、面白くてもうやめられない。コーチの職務がときに人を虜にする所以である。



作戦は墓場まで



 これまで書いてきたように、チーム作りにおいて指導者が考え、そして実践すべき要素は、非常に広範囲で雑多である。映画監督の黒澤明氏がシナリオからキャスト、絵コンテに至るまで、事細かに自分一人で計画をたて、実践していった過程とどこか似ている。
 チームの総合責任を持つ指導者の仕事は本来非常に孤独なもので、ときには責任を背負って自分が悪者になる覚悟も必要になる。これを怖れて、意欲や熱意はあるのに指導を引き受けようとしない人をたまに見かけるが、そこを乗り越えてこそ多くの喜びと生きがいが得られるものであることを、よく考えて欲しい。

 自分の管轄下にあるチームの指導方針などで迷ったとき、誰かに相談したりすることは考えにくく、あくまで自分一人で決断を下すべきだと私は思う。そもそも、指導上の重要事項を第三者に相談すること自体が、責任所在が不明瞭になることにつながり、ある種の逃げの姿勢と考えるべきだろう。
 そして最も重要なのは、自分の責任で決めた決定事項は、選手や保護者はもちろん、たとえ身内といえども、絶対に事前に情報を漏らさないことだ。これに関して、私は一度だけ手痛い失敗をしている。

 ある学年を担当していたときだ。いい資質を持つ選手がそろっているのに、なかなか勝てない。その大きな原因がキャプテンにあるらしいことに気づいた。キャプテンの才覚はときにチーム全体の浮沈を左右する。当時の監督(教師)からキャプテンに指名されたその子は、大人の前ではそつなく行動するいわゆる「よい子」だったが、指導者に接する態度とチームメイトに対する態度とに、微妙な差がある。チーム内の信望が薄いことに士気が上がらない遠因があるように思えた。
 その学年が最上級学年に移行するとき、コーチ会議でキャプテンと副キャプテンとを入れ替えることを進言した。こればかりは勝手に決めるわけにはいかない。副キャプテンの子は寡黙で仲間を仕切る面では遅れをとったが、言葉ではなく、プレーで全体を引っ張るタイプだった。意見が別れたが、最後に私の考えが通った。しかし、その結果は新学期が始まるまでの重要機密である。
 家に帰ってそのことをチラリと妻にもらした。「キャプテンを替えるかもしれない…」と。妻と二人だけの場で話したはずだったが、狭い家の悲しさで、そのことを下の息子が小耳にはさんだらしい。息子経由で選手の一部に情報が漏れ、当のその子の耳にも入った。危機感を持った私は、発表を急きょ早めた。しかし、指導者としてあってはならないことで、大きな失態を演じたと思う。
 キャプテン交代のカンフル剤が効いたのか、その年のチーム成績は飛躍的に上がった。だが、事件が私にとって大きな汚点であることに変わりはない。

 このことで懲りた私は、以降、チームの重要な決定事項や作戦の一切を、他人にはもちろん、家族にさえも一切明かさないことを固く心に誓った。言葉は悪いが、まさに「墓場まで持ってゆく」覚悟である。
 特に初期の私のように、家族ぐるみでチームに関わっているときが要注意で、何気なく家族に語ったことが、いつの間にかチーム中に知れ渡ることがある。普段指導を陰で支えてくれているのだから、チーム内の愚痴のひとつもこぼしたくなるのが凡人の悲しさなのだが、責任を伴う指導者を引き受けた以上、時には家族にさえも気を許さない覚悟が必要だ。



一緒に泣こう



「泣くチームは強くなる」と、ある先輩コーチから言われたことがあるが、これは当たっていると思う。チームの歴史に残る数々の好成績を築いた長男のチームは、5年生のときから実によく泣くチームだった。真っ先に泣き出すのは我が息子で、それが連鎖反応でチームメイトに伝わってゆく。
 長男が最初に泣いたのは、4年の新人戦で全市大会に進出し、1回戦で2:2の接戦からPK戦負けを喫したときだった。このときは校内マラソンと日程が重なっていて、午前がマラソンで午後がサッカーという強行スケジュール。体力を温存するため、マラソンは下位に甘んじてまでサッカーに賭けていたのに、結果が伴わなかったことへの無念だったのだろう。ただし、このとき泣いたのは息子一人で、周囲からは「まだ泣くほどの試合ではないだろう?」としきりにいぶかられた。
 以降、この試合も含めて、息子のチームは3年間で都合5度大泣きしている。よくぞまあ泣いてくれたと半ば感心し、半ばあきれてしまうが、泣くことは悔しさと勝負にかける執着心の表れに他ならず、だから泣くチームはそれが逆バネとなって働き、強くなるのだろう。

 反対に、4年間活動を続けてきて、一度も泣かない、そして泣けないチームも確かに存在する。私が指導した数多くの男女のチームで、何らかの形で泣いたチームは、合計3チームだから、割合としてはむしろ少ない。
 泣くことはある種の癒しにもなり、ストレス解消の有効な手段でもあるから、私は泣くことを無理に止めさせたりはせず、心ではむしろどんどん泣けと奨励すらしている。殺伐とした世の中で、10歳前後の子供たちがスポーツという共通目標を通して、感激や悔しさの涙を肩を抱き合って共に流せることは、お金では絶対買えない貴重な体験なのだと思う。その意味では、一度も泣けなかったチームは、ちょっと気の毒に思う。

 8年間の指導の中で、実は私も二度泣かされている。一度目は長男のチームが多くの困難を排して、チーム創設以来の全道大会進出を決めたときだった。選手や保護者の多くも涙を流したが、このときばかりは悔し涙ではなく、うれし涙だった。うれしくて泣いたのは、このときが最初だったが、残念ながらその後二度とない。
 二度目は3年目の女子チームを指導していたときだった。勝てば単独チームで全国大会進出決定という修羅場で、先に書いたように、直前の練習試合では勝っていた相手に、本番では0:5で負けた。このときのチームは指導した女子の中では最強で、ボランチに育てたキャプテンの子は非常に責任感が強く、ハーフタイムの時点ですでに涙を流していた。思いがけず劣勢の試合展開に、どうしていいのか分からなかったのだろう。
(前半ですでに0:5だった)
「もう負けてもいいから、せめて1点でもとろう」と声をかけるのが精一杯だったが、後半はやや落ち着いて両チーム無得点。切羽詰まったときの息子もそうだったが、キャプテンの子はずっと泣きながらプレーを続けていた。責任感の強い子は、概してそういうものだと思う。
 試合後は控えの選手も含めて全員が悔し涙に暮れた。選手をねぎらったあと、私も物陰に隠れて一人ひそかに泣いた。誰にも見られていないはずだったが、保護者の一人に目ざとく見つけられていたらしく、「コーチ、あのとき泣いてたでしょ」と後でこっそり打ち明けられた。

 男女それぞれのチームで仲良く一度ずつ、うれし涙と悔し涙を流したことになるが、この年齢で痛みや悲しみからではなく、そんな動機で泣けたり泣かされたりするのも、指導者を粛々と続けてきたお陰だ。その一点に限っても、サッカーの指導は充分にやる意味と価値があるものだと思う。
 だから私のようにコーチをめざそうとする未来の素人指導者にも、声を大にして呼びかけたい。

「一緒に泣こう、そして悔しさと喜びとを共に分かちあおう」と。